2014年11月10日月曜日
「溶解するメディア公共圏と『朝日新聞』問題」『世界』2014年11月No.862, pp.114-121
1「理性の危機」
ドイツのフランクフルト学派の泰斗テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは、ナチスの台頭で亡命したアメリカ合衆国での映画、ラジオ、そしてのちのテレビなどの文化産業の発達を目の当たりにして、メディア社会批判の古典『啓蒙の弁証法』(一九四七年)を著した。十八世紀の「公共圏」が生み出した「啓蒙」は、二十世紀には大衆社会のメディアによる「大衆欺瞞」に転化する。近代の理性を生み出したジャーナリズムの公共圏が、メディア産業社会の広報活動に頽落していく過程をペシミスティックに描き出したのだった。
大新聞やテレビ放送局や娯楽産業が人々の生活様式を決定していく私たちのメディア社会のジャーナリズム的理性は、確かに、啓蒙と大衆欺瞞との間の危ういバランスのうえに成り立ってきた。真理追求の仕事でもあり、産業経済活動でもある、近代以降のメディア公共圏は、いま再び大きな転換期を迎えているように思われる。それは、現在の世界情勢とも相まって、二十世紀前半が経験した巨大な危機にも比すべき大きな転機をもたらしかねない。漠然とであれ人々が、いまや平和は自明ではなく、ややもとすると世界が理性を次第に失い、戦争に近づきつつあるのではないか、と不安に感じ始めていることには、確かな理由があるのかもしれない。
*
本年八月に朝日新聞が行った「従軍慰安婦を考える」特集、また同紙が同じく本年五月に特ダネとして報じた福島原発事故「吉田調書」報道に関して、この一か月ほどの間に起こってきた一連の出来事は、この国のジャーナリズムの危機を際立たせている。
すでに本稿を読む読者には既知の出来事であろうから、事実経緯についての詳細は省く。正確な検証は今後に待ちたいが、この一連の出来事は、将来、歴史のターニング・ポイントとなったと、記憶されることになる可能性さえあると思われる。
現時点で判明した事実についての筆者の評価をまず述べておけば次のようになる。
朝日新聞の従軍慰安婦報道の「吉田証言」取り消しは遅きに失し、同紙が九七年に従軍慰安婦問題で特集を組んだときに検証を徹底して記事を明示的に取り消す措置をとっていれば、今日なほどの信頼失墜に追い込まれることはなかっただろう。
福島原発事故「吉田調書」のスクープに関しては、掲載の発言内容と見出しとの齟齬は五月から疑問を抱かせる部分であったし、すぐに精査点検し訂正すべきであった。この二つの報道に関しては今後検証が進められていくのだろうから、今後を見守りたい。
その後のコラムニストの掲載拒否などは論外の失態であるし、「謝罪」云々に関するドタバタは、情報を小出しにする、後手に回る、対応がブレる、など、一企業としてのリスク管理としてまったく落第ものだった。
私企業のコミュニケーションが社会に一般化した現在のメディア社会においては、事の詳細を正確に述べるという事実確認的コミュニケーションだけでなく、誠実さを示し、責任を果たし、謝罪をするといった、行為遂行的なコミュニケーションが何よりも重視される。こうしたメディア状況下のリスクを最大限回避して、信頼の毀損を防ぐリスクマネージメントのノウハウを実業界が貯えてきたのに対し、メディア産業である新聞社の対応のまずさが、浮き彫りになったのは皮肉である。
そこから噴出してきた数々の問題群については、個別、朝日新聞社の問題を超えて、現在のメディア社会のはらむ危機の兆候として、私たちは重大な関心を払い、市民社会は十分にメディア界の動きを監視する必要がある。
「従軍慰安婦」問題は、この国の戦争責任、歴史の記憶、女性の人権侵害に関わる、もっとも論争的な事案であり、いま猖獗をきわめつつあるナショナリズム、東アジア隣国との和解をめぐる、主たる火薬的論争点として位置付いている。今回の出来事は、この問題をめぐる、異国内国際世論の布置、各国政治関係、イデオロギー的な力関係に影響を及ぼさずにはいない。
福島原発事故の分析と責任追及の問題は、この国のエネルギー政策、さらには三・一一以後のこの国の選択について、これまた大きな論争点を構成しきている。現在の政府が原発の再稼働に向けて着々と準備を進め、一部メディアが、世論的動向を誘導しようとしているとき、「プロメテウスの罠」など原発事故についての報道を重ねてきた報道機関の今回の躓きは、これまた、重要な転機をもたらしかねない。「吉田調書」の入手と報道は、福島原発事故の解明のための画期的なスクープであったのであり、その記事の取り消しは、事故の真相解明から目をそらさせ、世論動向を逆転させる効果をもつともいえるのである。
期せずして、時を経ず問題化した、今回の「誤報」問題は、この国の過去および未来をめぐる、イデオロギー的、政治的な係争点に大きな影響を与えずにはおかないのである。
戦時における性暴力というこの国の過去と、原子力過酷事故とエネルギー政策という未来にかかわる重要案件において、この国の「日本の最も代表的なリベラル紙」(NewYork Times 2014.9.11)、「中道左派紙」(Le Monde 2014.9.12)が未曾有の危機に陥ることは、一新聞社の不祥事や信用喪失、あるいは経営的危機を超えて、我が国の政治と社会世論の全般に影響を与えずにはいない。
二十世紀末以後のネットの発達によるメディア基盤の変質、マスメディアの脆弱化によって、世界のメディア状況は不安定化している。こうした状況に、現下の猖獗をきわめるナショナリズムやポピュリズムの動向が加わり、歴史の記憶をめぐる修正主義や否定主義が増幅されるとすれば、市民社会の「理性」の均衡が揺らぐことになる。
2 漂流する「ジャーナリズム場」
一世紀前に起こった、映画、レコード、電話、ラジオ(その後はテレビ)のアナログ・メディアの革命による情報秩序の大変化が、ファシズムやナチズムを生み出したのと同じような危険が今の世界には伏在している。
永らく民主主義国の「ジャーナリズム場」は、「クオリティー・ペーパー」と呼ばれる高級紙(米ニューヨーク・タイムズや仏ル・モンドなど)を準拠軸に構造化されてきた(ここで「ジャーナリズム場」というのは、社会学の概念で、社会文化領域を構成する価値序列と自律的規則の社会システムのことである)。
部数的には必ずしも巨大でなくとも、情報の信頼性が高いと評価され、ジャーナリズムの理念を体現するそうした日刊紙が中心の位置を占め、それを大衆紙や週刊誌などが取り囲むような構造である。
私たちの国の活字ジャーナリズム場もまた、基本的には古典的なモデルに似た構造をもち、全国紙、地方紙、スポーツ芸能(タブロイド)紙といった、週刊誌等々という編成をもっている。
全国紙に関して、特徴的なのは、宅配制度によって囲いこまれた巨大な読者人口を持ち、その巨大部数に比して、決して安いとは言えない価格設定、紙面数に対して大量な広告を掲載し、伝統的には記者による匿名記事が多く、事実報道中心の短い記事から成り立っていることなどである。
高級紙と呼ぶには、やや物足りない内容だが、その分、巨大な講読層を抱え、分厚い読者大衆のリテラシーを担ってきたといえるだろう。新聞各社は、さらに、系列化されたテレビ局とも結び付き、巨大なメディア・コンツェルンが出来上がっている。
こうしたメディアの世界は、あらゆる社会場の必然で、価値序列(この場合は、経済的、および文化的)の首位を占めようとする競争により、究極的には、場の二元的な結晶化に辿り着く。
ジャーナリズム場は、政治場との「逆立関係」によって定義される傾向があるから、(ジャーナリズムは、権力にチェックをかけ、権力から情報を引き出し、開示させ、有益な情報を社会にもたらすことによって、価値を主張できる)、中心には、政治権力に対して、適度で批判的であり、穏健的に理想主義的な距離をもつ、リベラル・中道左派な価値観を基本とする傾向が生まれる。それに対して、より現実主義的で、やはり穏健に保守的で、政治権力と近い距離をとる現実主義の中道保守的な傾向により退行軸が構成されるようになる。さらに、そのサブに第二グループが構造化されて配置される。
我が国の新聞もそのような布置を繰り返して更新してきた。現在の全国紙市場では、朝日対読売、その下に毎日・東京(中日)対 産経、経済紙として日経、という構造化、日刊紙場に従属する週刊誌場においても、新潮対文春、現代対ポストなどなど、基本構造は同じだろう。
ジャーナリズム場の存立は、その価値の自律によって成り立っている。権力場からの自立、経済場からの自立、および他の文化領域からの自立である。そこにジャーナリズムの規則 ――公開性と言論の自由―― が成立する。ところが、近年ではこのジャーナリズム場の自律はかつてなく危うくなっている。インターネットとソーシャルメディアの急速な発達により、「情報はタダ」の時代となりジャーナリズムは経済的に成り立ちにくい。さらに公権力や私企業も独自の広報コミュニケーションを進化させ、マスメディアの情報経路の独占が崩れている。
今回の「朝日問題」は、このジャーナリズム場の準拠点を占めてきた中心紙の信頼が揺らいでいるのだから、ジャーナリズム全体の基本構図に動揺が起こっても不思議ではない。じっさい、競争相手のY紙は、市場獲得競争を仕掛け、朝日の問題記事を別刷りで配布して読者を乗り換えさせる販売合戦を仕掛けたりしていると聞く。保守イデオロギーに依拠するS紙は、ここぞとばかりに、従軍慰安婦問題に対する否定派の論調を強めている。
週刊誌場はさらに扇情的で、『新潮』『文春』以下、目を覆うようなえげつない「朝日」批判の見出しを並べて「下克上」の観を呈している。露骨に攻撃している当の相手の新聞に自誌の広告を載せようとは一見矛盾した行動だが、それこそが、主要日刊紙と週刊誌とが取り持つ寄生の関係である。巨人の肩に小うるさく毒づく小人が載っているようなものである。
どの世界でもエスタブリッシュメントに対する反発の捌け口は求められ、ルサンチマンのためのメディアは、ジャーナリズム場の「必要制度」であるとさえいえる。こうした光景も、大小メディアの依存関係を考えれば、眉をひそめることはないのかもしれない。
しかし、それだけだろうか。
こうしたセンセーショナリズムの蜂起は、ジャーナリズム的な理性の全般的な「脱-昇華」化へとメディア界全体を向かわせているのではないか。現下の雑誌や出版における「反知性主義」の氾濫がそれを示している。最近の週刊誌の見出しに踊る、「売国」や「国賊」呼ばわり、「反中・嫌韓」ブーム、こうした、従来の政治的自己規制の一線を越えるような攻撃性の競り上げ現象は、社会の理性の機関としてのメディア全体への信頼を引き下げることにつながるのではないのだろうか。
こうした傾向は、全国メディアにとくに顕著であり、地方紙がむしろ冷静な距離をとっていることと対照的である。
3 情動化するメディア空間
ますます液状化していくように見えるジャーナリズム場の危機の根底にはマスメディア界全体の危機がある。トップダウン型コミュニケーションによる「マスメディア」というメディア文化全体が、ボトムアップ型コミュニケーションのネット(ソーシャル・メディア)によって徐々に呑み込まれようとしている、二十世紀末からのネット時代の大がかりなメディア変動が根底にはある。
じっさい二十世紀の半ば以降、テレビ時代に大新聞単位の系列化によって適応した日本のマスメディア産業は、いま大きな危機に陥っている。新聞は部数を減らしつづけ、総合週刊誌もまた部数を激減させ、団塊の世代の退場とともに退潮著しい。(地下鉄でスポーツ芸能紙や週刊誌を読むおじさんたちを最近は見かけなくなった、乗客は、ひたすらスマホとにらめっこしている)。私たちは、マスメディアの時代の末期に位置していると考えるべきなのである。
この国のメディアは視聴者・読者の視角をナショナルな閉域に制約して世界を見えなくする傾向を持つことを「メディア・ウオール」と呼んだことがある。じっさい、テレビのバラエティー化は、「話題消費」によって、人々を「近視眼」化し、「歴史」と「世界」を見えなくしてしまう効果をもたらしてきた。とくに私たちの国の標準メディアは、人々の注意をドメスティックな情報空間のなかに閉塞させる傾向をもつといえる。
インターネットの発達とソーシャルメディアは、技術基盤としては、こうしたマスメディアのメディア・ウオールを乗り越える可能性をもたらしたはずである。いまでは一人一人が端末をもち相互につながっている。ツイッターやフェイスブック、ブログ、だれもが世界のどこからも情報を発信することができるという画期的な時代になった。ひとびとは、トップダウンのマスメディアのコミュニケーションに対して、ボトムアップの対抗回路を持つようになったと思われた。じっさい、それによって可能になったのが、「オバマ旋風」や「ジャスミン革命」のような市民革命だったといえる。たしかに、「ブログ圏」のような新たな公共圏がネットのなかに発達して、正確な情報を提供したり、有効な論議を興すことに貢献してきている。我が国でも、とくに、東日本大震災、そして、3/11以後の原発事故や放射能についての情報などで、ネットはマスメディアをしのぐ力を発揮したことは記憶に新しい。
だが、他方で、ネットやソーシャル・メディアには、負の側面も多くある。誰でもがどこからも発信でき、無数の人々が相互に結びついたネットワークは、二次的、三次的な情報の伝達量が飛躍的に増大することを意味している。伝聞が巨大な渦になり、他人から送られた情報を、増幅して返す共鳴箱の役割を果たす。
メッセージは断片化して、ツイッターでの「呟き」は「内言」に近くなる。人々が仲間内でつぶやいていた言葉や内部に秘めていた言葉の切れ端が他者とのコミュニケーションへ流入するようになった。知りたいことだけを知ろうとし仲間内で増幅されるコミュニケーションでは、つながっているという「実感」のみが重要視され、即座に感応し合う、巨大な「感染型」コミュニケーションが生み出されている。
そこでは、「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような集団的分極化、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」のネット・ポピュリズムを生み出してきた。ネットには、情報空間を歪め、理性的な議論する公共圏の成立を脅かす傾向もまた顕著なのである。
ネット空間では、膨大な情報が流れていながら、人々の意識は非線形的に離合集散を急速に繰り返し、熱狂と失望が短期的に錯綜する非連続なコミュニケーション空間が一般化していくのである。 二十世紀の前半にマスメディアが登場させた大衆とは異なるタイプの新しい大衆が登場している。リアルタイムの結び付きが、コミュニケーションのメディア空間を「情動化」へと向かわせ、おなじルートを均質に流れる情報ではなく。不均質で非連続な盛り上がりと終局を繰り返す情動的コミュニケーションが結節し、変動を繰り返すようになるのである。
現在のグローバル化した世界では、あらゆる地域・階層に不満が鬱積し、ストレスやフラストレーションが溜まっている。ネットはボトムアップのメディアである分、よりいっそう社会的なルサンチマンを吸収して、草の根ファッシズムの温床ともなりうると考えるべきである。
4 「退行」する政治
我が国の政治状況もまたこのような時代のメディア変容と緊密に共鳴し合っている。
かつては、はるかに後進国であった中国が大国となり、GDPの経済規模でも追い越され、韓国とはテクノロジー産業競争や文化戦略で競り合い、それらの国とは、地政学的な歴史的係争としての領土問題も浮上するというなかで、「失われた二十年」を経てきた、国民の自尊心には、フラストレーションがたまっている。その捌け口が、現在猖獗をきわめるナショナリズムであり、じつに嘆かわしい表現が、週刊誌や出版広告に踊る「嫌中・嫌韓」の見出しである。
しかも、リーマンショックや3/11を経験した現在の世界は、人心安定からはほど遠いカタストロフィー後の世界である。我が国では、「政権交代の失敗」以後、ますますオールタナティブの見えない、希望のない社会へと進んでいるようにみえる。我が国にかぎらず、世界の多くの国で、処方箋なき世界における政治不信、これまでにない極右や非伝統右派の台頭現象が見られる。とくに若者たちに希望がない。グローバル資本主義の進行による。雇用の不正規化により生活は不安定であり、老齢化する社会では、かつての安定雇用に守られた定職者や年金生活者は保護された特権階級に見える。
未来に希望の持てない世の中では、人々は過去に理想の自己像を投影し「退行」する。自分たちこそ今の世界の不条理の被害者であり、現在の寄る辺なさの原因を自分たちの外に、投影して、スケープ・ゴートを求める傾向が生まれる。その外とは、中国であり、韓国であり、在日であり、云々 ・・・あらゆることがら、その口実になる。
外の世界や将来への不安に動機づけられ、既存のエスタブリッシュメントへのルサンチマンや被害感情に突き動かされた人々に生まれるのが情動の政治 – 気分の政治 -- である。不安やルサンチマン、被害感情は、政治を突き動かす情動エネルギーの源泉となりうる。情動の政治、気分の政治が支配的になる。目下の状況において、時代の気分をつかもうとする政治家にとって、もっとも安定的な心的エネルギーの動員を見込めるテーマは、「ナショナリズム」である。
最初は、限られたネット内のヘイト・グループのテーマであった排外主義は、実際に町に繰り出すようになる。それらは次第に週刊誌の見出しになり、「反中」本や「嫌韓」本がジャンルとしても定着して、書店の店頭に並べられる。
「反知性主義」もおなじ情動の政治の基調である。
ネットやソーシャルメディアをボトムに、その勢いに足場を揺るがせられながら不安な足取りで歩むマスメディア。週刊誌が、そちらの話題へと降りて「ネタ」を掴もうとする。
現在の右派政権は、このような情動の政治の流れを巧みにつかんで、メディアと世論の誘導技術は、相当に巧妙である。ネットを基盤とする。下からの草の根ファッシズムと呼応できるからである。
「朝日新聞問題」は、こうした勢力にとって、このうえない僥倖である。戦争をめぐる加害責任に関わる議論を、「虚報」による「一億報道被害」の物語に転換するきっかけが簡単に見つかる。外国からの批判が高まるのは、「内なる敵」(「売国」勢力)が存在するからであって、その最たるものが、「朝日」だ、というストーリーが拡がる。
原子力行政にかかわる責任追及の報道が、「誤報による誘導」であるとして、反原発の動きにチェックをかけられる。 報道不信や、反知性主義をうまく操作していけば、世論をうまく誘導していくことも不可能ではないと思えてくる。
「朝日新聞問題」で、新聞ジャーナリズムへの主導権を握ってコントロール可能性を手にいれ、テレビ界に対しては、NHKの経営陣人事に思うような人物を送り込むことが可能となれば、この国の情報体制は、かなり「統制」できる可能性が見えてくる。気分の政治、情動の政治は、じつはそうとうにしたたかな、情報統御の手段を手に入れつつあるように思われるのである。
5 「理性の開かれた行使」とジャーナリズム
第一次世界大戦百年後の本年、世界情勢はかつてなく不透明であり、世界の不安定化をまえに、私たちは不安な眼差しを将来に向け、歴史は繰り返すのかと自問している。
じっさい、歴史は反復を始めているようにも見えてきている。一九二九年の世界大恐慌と二〇〇八年のリーマンショック、一九二三年の関東大震災と二〇一一年の三・一一の東日本大震災、世界諸地域に拡がりゆく紛争と戦争、領土紛争・・・。
メディアの仕事に従事する人々もまた、今、歴史を振り返りつつ、もう一度考えて直してみるべきなのではないだろうか。今日のメディア技術によって、情動や気分が、瞬時にどこにでも伝えられ拡散していく世界は、ジャーナリズムの良識や理性の更新を可能にするだろうか。
かつて、二十世紀初頭の大衆メディア社会を到来させた映画、ラジオ、レコードのアナログ革命は、大衆操作による、ナチズムやファッシズムをもたらすことになった。メディア革命による「理性の危機」は、一世紀後の、今日のデジタル革命とともに、コミュニケーション文明を発達させるとともに、次の危機として反復する危険はないのか。
今回の出来事で、「朝日新聞」には、厳格な検証と再発防止が求められるのはもちろんである。しかし、この新聞が現在の状況を前に萎縮し沈黙するなら、デモクラシーの自殺行為である。たとえば、「従軍慰安婦問題」で、現在何を知りうるのか、逆にもっと掘り下げて報道を深化させてみたらどうか。日本の戦後処理や戦争責任についても、もっと系統的に扱ってみたらどうか。原発問題についても同様である。「吉田調書」に語られているような原発事故後の混乱の全体とはどのようなものなのか。他の責任者の証言はどうなのか。いかなる責任体制の不備があの甚大事故を招いたのか。
一新聞社の問題の次元を超えて、ジャーナリズムに従事する人々には、今こそ自覚が求められ、私たち読者公衆もこの国のメディア状況をいっそう注意深く監視していく必要がある。
カントは『啓蒙とは何か』(一七八四年)のなかで、「理性の開かれた(=公的(パブリック)な)行使」を説いた。「理性の公的な行使とは、全ての読む公衆を前にした知る人としての自分自身の理性の行使である」、と。現在の状況に照らせば、「知る人=ジャーナリスト」には、「すべての読む公衆(=読者)」を前にした、よりいっそう敢然とした、自分自身の「理性」の行使が求められている。
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