2020年2月24日月曜日

表象文化研究 第13回「表象メディア論(I):テレビを考える」

「表象メディア論(I):テレビを考える」(pp.193-208)、『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日 第13章

テレビを考える


2001.9.11. グラウンド・ゼロからの「問い」

 皆さんは、2001年9月11日を憶えているでしょうか。
 ニューヨーク貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込み、事故であろうかと現場映像が映し出されている最中に二機目の飛行機が突っ込んでテロ攻撃であることが判明、さらにツインタワーの崩壊の大惨事へといたるという、まるでハリウッド映画を見ているようだと多くの人が喩えた、世界に同時中継されたテレビ映像のシークエンスを見た瞬間から、<世界史>がリアルタイムで世紀を転換させ、世界がもう全く別の世界に突入していたのです。そして、この事件につづくアフガン戦争、そしてイラク戦争へという経緯は、みなさんご存知のとおりです。 <9.11>は21世紀がその日から「新たな戦争の世紀」として始まった日付として記憶されることになってしまいました。
 1991年の湾岸戦争の際に、CNNのようなグローバルメディアが配信するテレビ映像だけとなってしまった現代の戦争の「現実」について、「湾岸戦争は起こらなかった」と書いたのは、フランスの思想家のジャン・ボードリヤールでした。現在の世界では、「私たちの現実」は、多く「テレビ」をとおして作り出されている。「テレビ」の「表象再現」作用は、「すでにある現実」を「再現」して「伝える」のではなく、「現実を産み出す」効果を持っているわけです。
 「テロ攻撃」さえもが、全世界にリアルタイムで映像を配信するテレビを念頭にした、地球規模のシニカルでニヒリスティックな「リアリティー・ショー」として生み出されてしまっているのではないか。この章では、「テレビ的表象」の仕組みを考えてみましょう。それは、メディア化した世界における「現実」とは何かを、「テレビ的表象」の問題として考えることです。

I マクルーハンの問い:「メディアはメッセージ」

 ここで召還したい一人の思想家がいます。カナダのメディア思想家マーシャル・マクルーハン (Marshall McLuhan 1911-1980) です。マクルーハンは、前章で取り上げたウォーホルにおとらぬ、メディア・アクターであり、1950年―60年代のテレビ時代の幕開けの時期に、「メディア時代の教祖」としてもてはやされた人物です。もともとは中世文学の研究から出発した注目すべき文学理論家で、メディア文明を論じるときにも該博な人文主義的知識にもとづき警句にみちたアフォリズムを駆使した文体で書かれた彼のエッセーは一躍脚光を浴びることになりました。またテレビにもしばしば登場し機知にとんだ発言で名声を博しましたが、それだけに、メディア・アクターとしてのブームが去ると驚くほど早く忘れ去られていきました。しかし、マクルーハンの思想は、イデオロギー的にもてはやされブームとなった「メディアはメッセージ」、「クールかホットか」などの標語だけでなく、創意にあふれた明察を多く含んでいて、とくにインターネットに見られるようなメディア環境の世界的な展開を人類文明が経験した1990年以降、新しい興味からの読み直しが進められています。
 マクルーハンによると、そもそも人間が使う技術というものは、人間の身体の活動の延長と考えられる。メディアとは身体の延長としての技術が、特に表象活動を行う感覚器官を延長することにあり、その意味でメディアとは「人間拡張」であるという考えです。確かにメディアは、人間の表象活動の範囲を拡張します。映画やテレビは、視る、聞く、話すといった活動が、通信技術によって拡張されていると考えることができます。メディアは、人間の五感の活動を延長し、それにともなって人間の表象活動を拡張するということを可能にしたのです。これがメディアの「人間拡張」説です。
 メディアの発達によって、人間の表象活動の範囲は拡大していきます。生身の人間が視る活動を行うための眼(ルビ:め)は、例えば写真や映画やテレビなどの視覚メディアによって拡張され、肉眼では見られなかった、飛躍的に大きな規模、あるいはより高い精度において視るという活動を成立させることになります。じっさい、わたしたちはテレビの画面を通して、何万キロも離れた地点で起こっている出来事を即座に視ることができます。電話というメディア技術は、話す活動の範囲を飛躍的に拡大し、対面や声の届く範囲内で成立していた、話すという活動の条件を全面的に変えてしまいました。
 マクルーハンの文化理解の基本にあるのは、それぞれの文明を特徴づけている「感覚比率 ratio sensorium」という考え方です。人間は五感を通して経験を構成し世界の意味づけを行っているわけですが、どのようなメディアを通して人間が自分の表象活動を拡張するかに応じて、拡張される感覚経験の配分が異なってくる。口承メディアに多くを負っている文化においては聴覚表象に重きが置かれるのに対して、活版印刷技術が発達させた黙読の文化においては視覚表象に重点が置かれるようになる。どの感覚が重要性を帯びるかは、どのようなメディアが発達しているかに応じて変化するものであり、文化を特徴づけている感覚モード間の比率も変化して文化の経験が異なってくるというわけです。マクルーハン理論の基本にあるのは、「世界の表象」を構成する「人間」の「尺度」の変化の問題なのです ― 

「いかなるメディア(すなわちわれわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する。」(マクルーハン、「メディアはメッセージである」)。

 メディアが人間の文明にとって、決定的に重要な意味を持つことを指摘したマクルーハンですが、「活字人間の形成」という副題を持つ主著『グーテンベルクの銀河系』において、グーテンベルクの活版印刷術が作り出した活字文化圏(=「グーテンベルグの銀河系」)、それ以前にあった口承と写本に基づいた「声の文化圏」、そして活字文明を今や過去のものにしつつある「電子メディア」の文化圏という、三つの時期を「galaxy星雲、銀河」という喩えで語り、メディア技術の変化に基づいた人間の文明の変容を説明しようとしました。これは「メディア成層」という考え方で、1990年代にフランスの哲学者レジス・ドゥブレなどが提唱した「メディオロジー」における「メディア圏」論などに受け継がれていく文明理解です
 マクルーハンによれば、活版印刷術が作り出した文化圏としての「グーテンベルグの銀河系」は視覚を優位に成立した文化なのですが、その世界が、19世紀末から20世紀の電子メディアの発達によって別の文化の圏域――これが「電子メディアの星雲」(あるいは「マルコーニの銀河系」)と呼ばれるものですが――に移行しつつある。ラジオやテレビに見られるように口承性を回復させより全体的な身体性の回復を伴った、別の「感覚比率」にもとづいて人間の経験が組織される新たな文化圏に突入しつつあるというのです。一つの文化圏は、一つのメディア技術一対一の関係で結ばれているというわけではなくて、いわば層が重なり合うように、一つのメディア圏はそれ以前のメディア圏の上に折り重なって成層していく。一つの星雲に別の星雲が覆いかぶさるように、メディアの文化圏は相互貫入しつつ、新たなに相互の関係を作り出していく。例えば、テレビという電子メディアの登場によって活字本は消え去るわけではないのですが、活字本や新聞は、テレビという新しいメディアが導入する新しい感覚比率に基づく経験との相互関係の中に位置づくようになる、というわけです。

 メディアはメッセージ

 マクルーハンがテレビ時代の幕開けを告げた有名な定式があります。それは、「メディアはメッセージ」(“The Medium is the Message”)という言葉です。これは電子メディアの時代、テレビ時代の幕開けを告げる標語として有名になったのですが、この多義的な定式が意味しているのは、第一義的には、メディアというのは、決してメッセージを運ぶニュートラルな乗り物であるというわけではない、メディアは単なる道具ではないということです。メディアはメッセージの単なる伝達手段ではなく、メディアこそ、むしろ文化におけるメッセージの成立の条件および組織のされ方そのものを変化させる、あるいは決定する力を持っているのだ。そこから人間の感覚や経験の成立の仕方を変容させる可能性をメディアが持っている。メディアの変化に伴って、人と人との結びつき、人と技術との結びつき、さらには社会の在り方、文明の在り方全般をも変わりうるということを述べた標語だったのです。この観点から、『グーテンベルクの銀河系』では、活字メディアが生み出した「活字人間」という近代的な人間の尺度がもうすぐ終焉するだろう、テレビに見られるような電子メディア圏の到来によって、人類の文化に大きな転換が準備されているという文明診断が述べられたのでした。
 「メディアはメッセージ」を定式化した論集『メディアの理解』(1964)では、この標語のほか、当時発達しつつあったシャノンらの情報理論における熱力学のエントロピー概念を援用して、情報媒体の精度(“definition”)をめぐって、「クールなメディア、ホットなメディア」という有名な区別を行うなど、マクルーハンは刺激的な命題を次々と打ち出し、にわかに世界の脚光を浴び、新メディアの時代の予言者としてもてはやされました。これは日本でも1960年代に「マクルーハン旋風」と呼ばれた流行を引き起こしました。
 マクルーハンの思想は、テレビに代表される新しいメディアの時代について楽観的な見通しを与えるものであると受け取られました。活字メディアの時代が作り出した視覚優位の文化に対して、テレビのような電子メディアは口承的なもの、人間の聴覚に基づくような身体的な感覚を復活させて、活字文化が抑圧していた五感の比率を回復させ、個人の中に閉じ込められていた人間たちに、相互の連帯のきずなを取り戻させることができるのではないか、メディアの発達によって人びとの間の距離は縮まり経験を分かち合う「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」が実現するだろうと受け止められたからです。たしかに、マクルーハンにも、そのような理解を助長した側面があります。しかし、彼の著作を丹念に読むと彼のいう「グローバル・ヴィレッジ」の内実については、複雑で両義的でより複雑な理解を持っていたことが分かります。例えば、すでにマクルーハン・ブームの出発点となった『メディアの理解』の序文は、次のように始まっていたのです ― 

「西欧世界は、三〇〇〇年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発(explosion)」を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発(implosion)」を起こしている。機械の時代に、われわれは身体を空間に拡張していた。現在、1世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれは自分たちの中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、私たちの地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に私たちは人間拡張の最終相に近づいている。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という想像的なプロセスも集合的、集団的に人間全体に拡張される。さまざまなメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。」

 身体と技術をつねに重ね合わせるメタファーによって成り立つマクルーハン的思考をとおしてここに述べられているのは、感覚的経験を含めた、人間の表象世界の全面的な変容のプロセスであるのです。しかも、情報コミュニケーション技術の革命という人類文明の「内爆発」が20世紀後半には、じっさいにテレビやインターネットを通して起こったことを考えれば、マクルーハンの「預言」はかなりの確度をもって実現したともいえます。
 マクルーハンの問いは、テレビ時代の幕開けとともに提起されたものでしたが、その後半世紀をへて、その問題提起を捉え直し、電子メディアと私たちの世界の現実との関係を全体的に問い直そうという「マクルーハン再読」の気運は近年盛んです。

II テレビ記号論からの接近

 そこで、ひとつの仮説的な理論枠組みとして私が提示してみたいのが「テレビ記号論」です。テレビは、他の視聴覚メディアと同様に表象装置です。そこで、テレビ的表象を産み出す要素単位を「テレビ記号」と定義し、その特徴を定義するところから、世界の<現在>をつくる社会的表象装置であるテレビの表象作用を分析的に理解する方法を探ろうという研究動向です。

 テレビ記号

 私たちはテレビを視ているとき、テレビカメラで撮影され、放送局から電波や光ケーブルをとおして送られてきた画像と音声を視聴しています。カメラに入力された経験は画像と音声として、機械信号に換えられて送信され、伝達回路をへたのち、電気信号が、テレビ画面の走査線上に出力され復号化されることによって、私たちのもとにとどけられます(図1参照)。この入力から出力までの工学的プロセスは、「シャノン・モデル」によって示されるような技術的回路に相当しますが、そこをとおして送られてくる画像と音声は「記号」であると考えることができます。じっさい、私たちはテレビ受像機のモニターをとおして毎秒約30画面(フレーム)分ものの画像を受けとっています。その画面に映し出される映像と音声は、テレビカメラが写し出す対象である被写体の経験(風景やスタジオ、人物や事物、言葉や文字など、テレビカメラが映し出したりマイクが採音している全ての事象の経験)の代わりをしているものですから、映像と音声は被写体の経験を表象(represent)している「記号」であるということができるのです。これが「テレビ記号」の基本的な定義です。

 テレビ的経験

 テレビカメラをとおして被写体がテレビ画面に映し出されているという状況を考えてみましょう。この場合、テレビカメラの向こう側にある<経験>と、テレビ画面に映し出されている<画像>、再生される<音声>とのあいだには、原因・結果の経験的連続性が存在しています。被写体の形や色を視聴者の私がテレビ画面をとおして視ることができるのは、被写体を照らし出している光がテレビカメラに入力され、上述したような符号化と復号化をへて私の眼の網膜へと届いているからです。被写体の音や言葉を私が聞くことができるのも、その音声の音波がおなじような機械処理の回路を経たのちに私のもとに届いているからです。ですからテレビのモニター画面上の画像とスピーカーから流れる音声からなるテレビ記号は、光源・音源としての被写体を「指示」しているということになります。その意味するところは、画面上に写し出された被写体の像(イメージ)はここでは被写体の経験と物理的に連続しているということです。これがテレビ記号の指標的な特性です。テレビ画面は、人差し指が事物を指すように、被写体を指し示すのです。このとき、私たちはテレビ記号の指示作用にしたがって対象を現実に経験しつつ視ている、あるいは対象と物理的(=光学的・音響学的)に「接触」しているのだと言った方が正確かもしれません。

 社会的ダイクシス装置

 テレビ記号において際だっているのは、指示対象の経験と記号の成立とが同時であることです。テレビ記号は、今まさに起こりつつある接触の記号であるという特徴をもっています。これは、例え、録画したテレビの画像ということを問題とするときにも原理は同じです。写真や映画の記号は、かつて起こったことを指示する痕跡として成立するのに対して、テレビの場合は記号の成立と、指示の<現在>とが完全に一致した指標記号という特性をもっているのです。指標としてのテレビ記号の特性とは、現在において対象を指さすということにあるのです。テレビ記号は、<いま・ここ>における<これ>を次々に指さしつつ、刻々と映し出される現実の経験と視聴者を結びつけていくのです。そして、テレビ画面による<あなた/わたし>のコミュニケーションをとおして、視聴者は映像・音声の<いま・ここ・わたし>のなかに引き込まれていきます。これが、指示詞についてヤコブソンが述べた「シフター」に似た、テレビ記号がもつ<いま>・<ここ>・<わたしたち>を生み出すメカニズムです。これをテレビの「ダイクシス(指示装置)」といいます。テレビは、私たちの世界の<いま・ここ・わたしたち>を刻々と産み出し更新している、社会的な「ダイクシス」なのです。マクルーハンは、「メディアはメッセージ」といいましたが、その意味は、メディアはコミュニケーションの枠組み(フレーム)自体をまず指示するものだと解釈できます。これはとくに「テレビ」についてよくあてはまる考え方です。

 テレビ映像の「貧しさ」

 テレビ記号の映像としての特徴は、おもにその「貧しさ」にあるといえます。それはテレビ画面の小ささと、指標機能に対する図像機能の従属という二つの要因からなる二重の貧しさである。映画と比較すると明かですが、テレビの画面は小さいという特徴をもっています (最近のテレビ受像機はたしかに大きな画面のものがあるが、それでも映画の画面に比べれば小さいし、テレビ映像は小さな画面で見られることを前提に視野が作られている)。例えば、人物の映像を写すという場合、原寸大の人間に対してテレビ画面はその6分の1とか7分の1の大きさの画像を与えることができるにすぎません。人物像においてさえそのような制約があるくらいだから、ましてや風景や背景、複数の人物間の連動といった場面に関しては、さらに大きな限界をテレビ画像はもつことになります。マクルーハンはテレビを「クールなメディア」としたが、こうした技術的制約は、テレビ記号に独自の表現体系を与えることになります。
 テレビ映像のもう一つの特徴は、それが刻々と更新される<いま>への指示に従属している点にあります。映画の映像が、かつてあった被写体の経験の残像として指標性をむしろ消すことによって図像性を掬い取ろうとする傾向が強いのに対して、テレビ的コミュニケーションにおいては刻々と更新され続ける指標の働きは、画像の図像性を享受する時間を与えません。テレビにおいては指標性が図像性を圧倒しているということができるのです。私たちはカメラの<いま・ここ>において対象を視ることをつねに求め続けられる。それは、かつてあったものが残した残像を像として眺めるという映画の時間経験が可能にする像に対する接し方とまったくことなった態度を私たちに求めることになります。テレビの画像はつねにいつでも<アド・ホックな>(ad hoc, ココデノ、つまり「間に合わせの」)映像としいう性格を持つことになるのです。スポーツ中継などの未だ完結していない時間性においてあらわれる「つねに間に合わせ」の映像使用こそテレビ的図像の正当な使い方なのです。写真や映画がかつてあった現在の経験の喪によって図像となることができるのに対してテレビの画像は、つねに図像になる前の図像、未生の図像であるということができます。テレビの画像は、そういう意味では図像的な芸術として、写し出される現実から自立して芸術として聖別化されることがありません。テレビの画像はその意味で徹底的に世俗的なイメージなのです。

 テレビ視聴する身体

 「映画」において、観客の「身体」は、暗室のなかで半ば「催眠」状態におかれ「外界」との「コンタクト」(=指標性)の契機を「オフ」にされています。そのとき、観客の身体は、「かつてあったもの」の「残像」の「投影」に「図像的」に立ち会う「ポジション」におかれている。これが、「映画を視る身体の配置」です。それに比して、「テレビ」を視聴する「身体」は、現実世界の活動のなかに位置づけられ、「ながら視聴」といわれるように日常的な所作の経験的連関との連続性のなかにおかれています。それ自体が家電として発光するテレビ画面は、生活空間の延長のなかで「指さされる」限定された場所であり、そこを通して「外界」との同時的コンタクトへと開かれた「窓」でもあります。空間-身体の「配置(ディスポジティフ)」こそが、「テレビ」を「指標的記号」にするのです。

 テレビ的リアリティ

 テレビは映画とちがって、特別な時間・空間において視聴されるわけではありません。
 例えば、テレビ記号の指標性は、<いま・ここ>に基づいた意味活動に好んで焦点を当てることになります。ニュース番組、野球やサッカーなどの実況中継、さまざまな即興的なバラエティやおしゃべり、さまざまなイベント中継など、テレビは<いま・ここ>を原理として人々の記号活動に関する表象の体系を編成することになります。テレビはまた、次々と新しく提示される<いま・ここ>を通して<わたしたち>をつくり出すコミュニケーション活動ですから、いつも新しい<いま・ここ>において視聴者に語りかけています。テレビ記号の指標性にもとづいて、視聴者はテレビの向こう側に写し出された世界と経験的に結びつくことになります。マクルーハンの「人間拡張論」 はまさにテレビにおいて文字通りの適用を見いだすことになります。さらにまたテレビ記号の図像的な特性について上に見たように、そうした世界との身体的接触は、ステレオタイプ化された図像記号の体系をとおして行われます。世俗的なメディアであるテレビは、したがってステレオタイプの映像をとおして世界の<いま・ここ>の経験を与えるということができます。

III 日常世界の「いま」をつくる「表象装置」としてのテレビ

 さて、「テレビ記号」がどのように日常生活の「いま」の表象を作り出すのかを考えてみることにしましょう。

 ニュース番組

 まず、「ニュース」や「報道番組」が、私たちの日常世界をつくるやり方を考えてみましょう。ヘーゲルは、「近代人は朝の礼拝の代わりに新聞を読む」といいましたが、ニュースは、その日その日の「世界の物語」を「媒介」することによって、「世界の<今>」を生み出す「社会的ダイクシス装置」そのものです。その媒介システムは、図(t1)のようになっています。ひとびとはテレビの同時的コミュニケーションをとおして、スタジオのダイクシス空間に接続する。視聴者はスタジオの<いま・ここ>において発話するキャスターやアナウンサーとの擬似的な「対話関係(interlocution)」によって二人称複数の「私たち」の関係のなかに記入され、スタジオと視聴者の「今・個々・私たち」は、ニュースが伝える「三人称」の世界の出来事へと媒介されていくのです。ニュース番組のスタジオの背後に開かれた画面は、その三人称の「世界」への窓となっています(NHKニュース番組のスチール写真参照)。参照されるべき三人称の世界には、報道のためにさらに、特派員のレポートやルポルタージュによる証言などさまざまな「ニュースの話法」を組み合わせた「発話の配置」がとられてもいます。ニュースは、さらに、世界の出来事の「トピック地図」でもあります。キャスターやアナウンサーの「語り」をよく聞いてみましょう。ニュースにはつねに「話題(トピック)」の文脈があります。「大きなニュース」は、文脈構成が複層的な配置をもつ語りが選ばれ、幾つもの観点から「話題」を照らし出すという大規模な語りが採用されています(「イラク戦争」報道のトピック文脈の図t-2参照)。そしてそれらの複層的な「トピック文脈」の構成が、さまざまな「発話の配置」を駆使して報道されるのです。さらにアナウンサーやキャスターが一人だけでなく、複数のキャスターによって報道が行われる報道番組や情報バラエティーにおいては、キャスター間で発話行為のパートが決められ、複数の声のフォーメーションをとおして世界の出来事と視聴者を「媒介」するシステムが成立しています(図 t-3参照)。このように、ニュース番組とは、「今の世界」の「表象」を刻々と生み出している「媒介のシステム」なのです。

 テレビ・ドラマ

「今の世界」の表象装置としてテレビが昨日するのは、ニュースや報道番組だけではありません。例えば、テレビ・ドラマのように、コンテンツとしての自律性が強いとおもわれているテレビ番組のジャンルにも、人びとの日常生活をつくり出し、社会生活をレギュレートする機能が認められます。
 「お茶の間のテレビ」といわれるように、テレビは、家庭の生活空間と社会や共同体の空間とを媒介する環の役割を担っています。「テレビ番組表」を見れば明らかですが、テレビ的指標性は、社会的時間の流れのなかに埋め込まれ、それを組織化する重要な一部となっているのです。一例を挙げれば、NHKの「朝ドラマ」(「朝の連続テレビ小説」)は、多く女性の主人公のライフストーリーを題材として取り上げ、家庭内の生活と多くは地方に設定された地域的共同体、多くは首都東京に象徴された国民生活とを説話的に媒介していく物語を繰り返すことによって成立しているジャンルです。生産や労働へと向かう「朝の時間」に、国民的表象空間を立ち上げ分節化する時間帯として番組が機能していることが分かるのです。他方、しばしば「トレンディー・ドラマ」と呼ばれ夜の9時代に設定された民放のドラマは、都市生活者の恋愛や人間模様を描くことによって消費の時間を方向付ける役割を果たしてきたといえます。このようにテレビ・ドラマは、視聴の時間を起点として表象の世界を繰り広げることが基軸となった表象ジャンルであって、作品としての自立的価値を主張する映画作品などとは根本的に異なった表象文化のジャンルなのです。

 バラエティー

 さて、<今>のダイクシスを基本とするテレビ的コミュニケーションにとって、もっとも基軸的なメタ・ジャンルともいえる、番組ジャンルがあります。それが、「バラエティー」です。テレビでは、スタジオのダイクシスにおける一・二人称のコミュニケーションが基軸となって同時的コミュニケーションが成立することが基本であるとすれば、バラエティはこのコミュニケーション基軸を使って成立する最も基本的な番組形式であるといえます。いまスタジオのダイクシスにおけるコミュニケーションをC、三人称世界への参照をRで示して略号化するとすれば、TV的コミュニケーションにおいてはCの部分が基軸となって、同時的コミュニケーションが成立しますが、CとRとの絶えざる往還のゲームが<おしゃべり>というコミュニケーションであり、Cをいかに活性化し続けるか、Cを活性化して1・2人称的コミュニケーションを維持し続ける「共通の話題」(thema: common places)をどのように配置するか、どのように気の利いた「話題転換」によって話を「転調」するか、等を、即興的コミュニケーション・ゲームとして向自化すると「バラエティ」がジャンルとして生まれることになります。

「 Communication (1・2人称) /  Reportage* (3人称)」
        (* Information やStory でもありうる)

 イベントと実況

 バラエティとならんで、テレビが、もっとも効果を発揮するのは、スポーツ番組のようなイベントの実況中継です。テレビは<いま・ここ>を焦点化する(ということは「同時」で「ライブ」の)メディアですから、テレビ映像の<いま・ここ>において、刻々と起きつつある出来事を伝えることがテレビ的コミュニケーションの真骨頂です。実況中継は、結末の分からない「偶然性」に向かって開かれています。と、同時に、テレビはアナウンサーや解説者の「語り」をとおして、そしてまた複数のカメラを切り換えて映像をコントロールすることにより伝えるべき出来事を「解釈」しつつ、その「筋(プロット)」を「即興的」に組み立てていきます。記号学者のウンベルト・エーコは、このメカニズムを「偶然性と筋」という概念で説明しています。「ディレクターはある意味において、出来事が現実に生起する瞬間に同時に出来事を創り出さねばならないのであり、しかもその出来事を現実に起こる出来事と一致させなければならない。」と実況放送におけるテレビ・ディレクターの役割をエーコは分析しています。このように、実況放送は「出来事」を伝えると同時に「出来事」を作り出している。テレビが「イベント」を生み出す仕組みとはこのようなところにあるのです。

IV「テレビ化する世界」とテレビ批判

 テレビがイベントを伝えると同時に創り出すものだ、というエーコの主張をさらに突きつめてみましょう。そこにあるのは、テレビは出来事を伝えるとまったく同時に出来事を不可避的に創り出してしまう、テレビにおいては偶然性に開かれた事象をリアルタイムで指し示すことと、即興的に構成される語りと映像を通して、社会的イベントとして事件を生み出すこととが同時であるという認識です。そこにテレビ的コミュニケーションの自己言及性の核心があります。私たちはテレビを通して出来事を視ているのではなく、テレビを通してテレビが出来事を生み出す出来事を視ているのです。マクルーハンによる「メディアはメッセージ」という定式の深い意味がここにあります。
 ウンベルト・エーコは1980年代初頭に民営化されたイタリアのテレビ放送に関して「パレオ・テレビ (旧-テレビ)」から「ネオ・テレビ(新-テレビ)」への移行を語りました。「ネオ・テレビの主たる特徴は、外部世界について語ることがますます少なくなることにある(パレオ・テレビは外部世界を語っていた、あるいは語るふりをしていた)。ネオ・テレビはテレビ自身のことを、そしてテレビ自身が観客と結びつつあるコンタクトを語る。」と述べています。これは、テレビ放送が、報道やドキュメンタリや教養番組のような外部の世界の現実を伝えるという公共放送時代の「透明性」の原則を消失させ、民営化、複数チャンネル化によって、スタジオのダイクシスへとテレビ的コミュニケーションを焦点化させ、それに伴う番組のバラエティ化、テレビ・アクターたちのタレント化、ジャンル・ミックスなどが進行する事態を表したもので、世界中のテレビ放送に共通した現象です。
 「ネオ・テレビ」は、リアリティー・ショーの世界的流行にみられるように、テレビが現実をつくりだすという方向へと向かいます。もはやテレビの外に現実世界があるのではなく、テレビのなかで自己言及的に現実が創られる。以上で見たように、日常生活の細部にいたるまで私たちの生活世界にテレビ的コミュニケーションが埋め込まれるようになると、私たちの「現実」全体がテレビによって生み出されるようになるのです。これが「世界のテレビ化」です。「湾岸戦争」にせよ、「9.11」にせよ、世界的な戦争までもがテレビを通して行われるようになるのです。テレビという電子技術によって「世界史」が「内爆発」を起こす、「部族的な地球村は、いかなるナショナリズムに比べても、はるかに分裂的です。紛争に満ちています。村の本質は分裂であって、融合ではない。…地球村は理想的な平和や調和を見いだすための場所ではない。その正反対です。」と「グローバル・ヴィレッジ」についてマクルーハンが警告を発したとき、今日の私たちの「テレビ化された世界」は預言されていたとさえ思われてくるのです。


 そこで重要なのが「テレビ批判」です。テレビの表象作用を認識することは、私たちの世界の「現実」が、日常生活の小さな出来事から戦争のような大きな出来事にいたるまでどのようにテレビ的表象として作り出されているのか、その仕組みを理解することです。「テレビ的表象」の批判は、21世紀のメディア社会を生きる人びとの「メディア・リテラシー」にとって必須の課題となっているのです。

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