2020年2月24日月曜日

表象文化研究 第12回 「表象の舞台(IV):摩天楼の文化、表面の美学と文化産業批判 : III ポップ・アートと文化産業批判」

『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日,  第12章「表象の舞台(IV):摩天楼の文化、表面の美学と文化産業批判」(pp.185-192)


III ポップ・アートと文化産業批判

 ウォーホルのポップ・アートの戦略が、大量生産される記号化された「商品」を「作品」として引用すると同時に、芸術家がオリジナルに産み出すとされてきた「作品」をむしろ大量に複製され消費されるべき「商品」と化すという二重のオペレーションで成り立っていたことに注目しましょう。しかも、このオペレーションを成立させる場が、「メディア」という記号テクノロジーの表面であったことにも注意しましょう。「メディア」の表層において、「作品」が「オリジナリティー」を失って無限定に増殖していく「コピー」となり、「キャンベル・スープ缶」や「コカコーラ」のような「商品」も実体を失って記号化した「モノ」としての姿を露呈する。「マリリン」や、「エルビス」他のスターたち、あるいは、メディアに登場する「有名人」たちもまた、すべてメディアの表層に転位され記号と化した存在です。「メディア」において浮かび上がる「記号化」のオペレーションに寄り添い反復することによってその操作を指さし、私たちを取り巻く存在の「記号性」を浮かび上がらせて見せるという微妙なしぐさがそこには働いているのです。そして、それこそ、「ポップ・アート」が、メディアが媒介する消費型資本主義の運動に対して行使しているクリティカルな身ぶりなのです。
 消費社会を論じたフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、「物が消費されるためには物は記号にならねばならない」[1]と述べました。「記号消費」を産み出す社会は、人びとの「欲望」を産み出すことによって成り立つ社会でもあります。 そして、欲望を産み出し、ひとびとの意識を「市場」化し、消費へと差し向ける産業、それが「文化産業」です。

「文化産業」

 「文化産業 (英 culture industry)」とは、映画やレコード、ラジオやテレビ、大衆紙や雑記や広告など、あるいはコンピュータゲームやアニメ、マンガなど文化内容を商品として成り立つメディア産業のことです。「文化産業」が産み出すのは、「イメージ」や「記号」そして「社会的ステレオタイプ」であり、それを通して、ひとびとの「意識」や「想像力」に働きかけ、「欲望」を産み出すという効果を持っている。人びとの、無意識に働きかけ、人びとの欲望を誘発し、リビドーを大衆社会の表象の回路に導き入れ、「欲望の主体」を生産する機能を果たしている。資本主義が産業品の生産をはなれ、消費の欲望を生産する新たな段階として、文化産業が支配する時代が20世紀には到来することになったのです。
 ハリウッド映画や商業ラジオ放送に典型的にみられる文化産業の発達と、それがもたらす「生活様式(ルビ:ライフスタイル)」の画一化を目の当たりにして、「文化産業」の支配をいちはやく問題視したのは、ドイツのフランクフルト学派の二人の哲学者テオドール・アドルノ(Theodor Adorno 1903-1969)とマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer 1895-1973)でした。第二次大戦中ナチスを逃れてアメリカに亡命した二人のマルクス主義哲学者が見いだしたのは、オートメーションの大量生産資本主義と同時に、文化産業が流布させる大衆文化に従えられていくアメリカ人たちの姿でした。二人は1944年に『啓蒙の弁証法』[2]を書き上げて、西欧的理性の歴史を人間の解放へといたる「啓蒙」のプロセスととらえ、その「啓蒙」がテクノロジーや官僚機構の道具的理性へと転化し、大衆社会の疑似「文化」がひとびとを画一的な支配へと従属させるプロセスが働き始めていることを告発しました。「労働」における搾取だけではなく、「余暇」や「消費」においても働いている文化産業による、ひとびとの意識や欲望に及ぶ支配の原理を問題にしようという提起でした。
 「産業社会の持つ暴力は、常に人間の心の奥底まで力を及ぼしている。文化産業の諸製品は、人が気を散らしている時でさえ、さかんに消費されることを当てにすることができる。しかし、一つ一つの製品をとって見れば、それはすべての人を、労働している時も、それと代わり映えしない余暇の間にも、息つく間もなく駆り立てている経済的巨大機械装置のモデルなのである。()文化産業が提供する製品の一つ一つは、否応なしに全文化産業が当てはめようとしてきた型通りの人間を再生産する。」(邦訳 195頁)
 ヨーロッパの古典的な教養に支えられたアドルノとホルクハイマーによる批判には、知識人にありがちな大衆文化に対する高踏的な態度もたしかに認められます。しかし、「表象文化」の観点から見れば、産業的に大量に産み出されて流通し消費される「表象」によって、ひとびとの意識が均質化し、欲望が整形されていくという、表象にもとづく支配を問う視点がそこにはあることが分かります。フロイトの甥のエドワード・バーネーズ(Edward Barneys  1891-1995)が発明したマーケティングの手法が一般化し、消費者の意識を市場と化すことによって資本主義が成立する段階に入った時代であることにも注目しましょう。
 アメリカ文化と思われていたものは実は、戦後には世界中に拡がった消費社会の文化であり、それはまた「ポップ・カルチャー」や「サブ・カルチャー」とも呼ばれるようになりました。ウォーホルが作品化した「コカコーラ瓶」シリーズのように、消費されるモノたちは、記号としての配置をメディアが流通させる文化のなかにイメージ化され、モノの消費の欲望のシナリオに人びとのリビドーを組み入れていくのです。文化産業はひとびとの生活世界全体を包囲するにいたるまで発達し、広告、娯楽映画、テレビ番組、ポップ音楽が大量に流通する世界に人びとが住まうようになる。人びとが消費者としてメディアを行きうそれらの大量の記号を共有し、そこから自分たちの生を意味づけるためのイメージを取り込み、欲望のシナリオを組み立てていく。ウォーホルが登場する1960年代以降は、アドルノやホルクハイマーの予想をはるかに超えて、文化産業が世界化していく時代でもあります。とくに20世紀後半以降は、テレビという強力なメディア・テクノロジーが、ひとびと日常生活の隅々にまで及び、テレビ放送をとおして記号やイメージの流れが社会全体をシンクロナイズしていくことになったのです。(「テレビ」については、次章を参照してください。)


「時間対象」

 ここで強調しておきたいのは、二十世紀以後の文化産業の中心にあるメディア・テクノロジーが、映画やテレビ、あるいはレコード、CDといった、フッサールのいう「時間対象」を商品として産業化するテクノロジーである点です[3]。じっさい、現在わたしたちの生活世界を包囲している音楽CDや映像DVD、テレビ番組といった「メディア・コンテンツ」は、フッサールが「時間的対象」と呼んだような、対象そのものの中に時間性が備わっている商品です。音楽や映像のような時間性において成立する現象は、意識がその時間性を内在的に構成することによってのみ経験しうるものです。そのとき、意識はそれらの現象を時間のなかに捉えることによってのみ自らを意識として構成する。例えば、音楽という「時間的対象」を「コンテンツ」として収めた商品が音楽CDであるとすると、それを聞く人はその音楽を聴く「意識」と化すのです。つまり、その人の「意識」とは、消費者の「意識」として自己を構成することになる。あるいは、テレビ番組を考えると、番組を見て「想像力」を働かせる「意識」として、視聴者は自らの「意識」を生み出していきます。彼/彼女の「意識」は、視聴者の「意識」として、番組を通して「産み出される」ことになるのです。これが、商品化された「時間的対象」を通した、消費者の意識の市場化のプロセスです。
 このように「時間対象」が商品になっていく。時間がパッケージ化され、商品化され、いつでも「再生」できる「記憶」として売られていく。あるいは電話のように、だれもが消費者として「同時」につながって、人々の意識が「同じ現在」の中に、消費の「時間」によって結びつけられていく。これがメディア産業によって支配されたわたしたちの社会の姿です。メディアが流通させるイメージや記号によって、私たちの意識は「消費者の意識」として産み出され共時態化(ルビ:シンクロナイズ)されていくのです。
 現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952- )は、文化産業の支配がもたらす「象徴的貧困」について警告を発しています。人びとの象徴世界がメディア社会の共時態のなかに呼び込まれ同じような記号化のプロセスに同期させられていくと、人びとはそれぞれの固有の生の通時的時間から切り離され、自らの特異性を消去させていく。人びとはだれでもない「みんな(仏語on 英語 man 独語 das Man)」となってしまう。そのことによってリビドーを搾取され、自分自身に固有な欲望のシナリオを組み立てるベースである「自己愛」の契機をも喪失する危険に見舞われるというのです。

   「コミュニケーション・テクノロジーは消費行動の画一化という変化を生みだし個人の「非特異化を引き起こします。個人が次第にそれぞれ個人としての過去の特異性を失い、隣人と非常に似通った過去と生活様式を共有するようになり、そのことによって、個人の特異性を主張する力がどんどん減少していきます。個人の特異性こそフロイト以後、原初的ナルシシズムとよぶものの条件だったのです。原初的ナルシシズムは、自己の尊厳、自らに対する尊敬のことであって、フロイトは、この自らを尊敬する力こそが、他者に向けられる尊敬の念の必要条件であると言っています。ですから、個人のリビドーを取り込もうとして、肯定的なイメージ、いわゆる個人が自分自身について持つ「自我理想」が、産業的に徐々に清算されてしますことで、個人は次第に自分自身を愛さなくなっていく。また自分自身を愛さなくなることで、他者をも愛せなくなるのです。そして、ついには欲望自体が消滅してしまいます。この事態こそ私たちが生きている現代の大きな危険であるのです。情報コミュニケーション・テクノロジーを介してあまりに管理されてしまったために、リビドーのエネルギーが不均衡になっているのです。」[4]

 すでにウォーホルの作品に現れるスターや有名人たちの記号化した存在を映し出すスクリーンの裏側にはネガのように「死」の影が差していましたが、情報テクノロジーがさらに生活世界の深部にまで及ぶようになった21世紀のメディア社会では、イメージの受け手である消費者までもが、欲望の崩壊やリビドーの不均衡に脅かされることになったというのです。


「オタク」

 さて、ここで、現在の私たちの社会の具体的コンテクストに以上の問題を引きつけて考えてみましょう。私たちが、ポップ・カルチャーやサブ・カルチャーと呼んでいる文化の大部分は、以上のように20世紀のメディア・テクノロジーの発達に伴って巨大化した文化産業によって産み出された文化です。現代日本の社会は、最も全面的に文化産業が支配する社会の様相を呈しているともいえます。「オタク」という言葉が現在では世界的に流通していますが、日本のアニメやマンガなども特にアメリカからもたらされたハリウッド映画、ポップ音楽、テレビ番組、ディズニー映画、スポーツイヴェントなどは、アジアや日本の基層文化と干渉しあって、独自の表現様式をうみだし、例えば、マンガやアニメやテレビ・ゲームに見られるような「オタク・カルチャー」とも呼ばれる、独特のポップ・カルチャーを形成するようになりました。それらはまた文化産業のグローバル化の動きと結びついて文化商品化され、「コンテンツ」として世界市場に輸出されるようにもなってきています。そこであらためて問われることになるのは文化産業とアートとの関係です。
 試みに、ウォーホルの「ミッキー・マウス」シリーズを見てみましょう。すべてのウォーホル作品の神話的存在と同じく、アーティストはここでも、映画的スクリーンをおもわせる記号の表層に、ディズニーという文化産業のキャラクタであるミッキーの姿を投射し浮かび上がらせています。スクリーン上に投射されたミッキーのアナログ的イメージの運動が、プロジェクタの光を思わせる背景色のずれた組み合わせと、ドローイングのずれをおもわせるなぞりの線によって強調されている。ミッキーを映画スクリーン上のアナログな記号存在として、シルクスクリーン上に解体して見せているのです。それが、すでに見たウォーホル特有のクリティカルなポップ・アートの身ぶりです。
  他方、現代日本のオタク・アートの代表的存在である村上隆による「たんたん坊DOBシリーズを見てみましょう。たんたん坊DOBはたしかにミッキーを連想させるキャラクタです。あるいは、たんたん坊DOBはミッキーを「脱構築」した姿であるともいえる。しかし、その脱構築の手法はウォーホルとはまったく異質です。オタク・アートにおいて批評性の基礎にあるメディア面は、グラフィックなものであり、ポップ・アートの「スクリーン面」に対してマンガのような書写面がベースとして使われています。また形象の生成原理もここではデジタル的であって、コンピュータ・グラフィクスを思わせるカオスや自己組織化による形態発生の技法がとられていることを見て取ることができます。このことは、オタク・アートが、マンガやアニメ、コンピュータ・ゲームのようなメディアにもとづくサブ・カルチャーを基盤としていることと無関係ではないのです。
 文化産業が流通させる表象文化に寄り添いつつ、その記号の働きを両義的なやり方で乗っ取り、批判し、脱構築していくアートの鋭く妙なる身ぶりを、これらの作品に私たちは見てとることができるのではないでしょうか。









参考文献
マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法:哲学的断章』、徳永惇訳、岩波書店、1990年刊
ジャン・ボードリヤール『物の体系:記号の消費』宇波彰訳、法政大学出版局、1980



[1] ジャン・ボードリヤール『物の体系:記号の消費』宇波彰訳、法政大学出版局、1980(原著出版は、1968年)。
[2] マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法:哲学的断章』、徳永惇訳、岩波書店、1990年刊(原著出版は1947年)
[3]エドムントフッサール 『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、1967(原典出版は1928年)
[4] 放送大学特別講義『知の記憶・知の未来』第1回「文化の記憶を求めて」(講師 渡辺守章、石田英敬)のために2003年2月にパリ、IRCAM行ったインタビューより抜粋。当該インタビューの抜粋は、ベルナール・スティグレール「記憶産業/記憶のテクノロジー:「象徴的貧困」を超えて」、聞き手 石田英敬 訳 西兼志『InterCommunication』 No.55 2006.winter, pp.90-100としても刊行されている。この他、「象徴的貧困」については、Bernard Stiegler La misère symbolique, tomes 1 et 2 éd: Galilée, 2003, 2004があるが、未邦訳。

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