2020年2月23日日曜日

表象文化研究 第4回  「詩と記号 : マラルメからソシュールへ」

表象文化研究 第4回 
『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日、第4章「詩と記号:マラルメからソシュールへ」(pp.53-76)


詩と記号 : マラルメからソシュールへ」


 「表象文化研究」は、人間の「文化」が、言語やイメージさらには身体の活動としての「表象」から成り立つことの研究ですが、「表象」を生み出す要素一般を、「記号(sign, signe)」と捉えることができます。「記号」とは、この場合、「意味を生み出すもの」のことですが、具体的には、言語、音声、文字、イメージやシンボル、身体動作やしぐさなど、意味活動を担う要素一般のことです。例えば、「文学」とは、言語を要素として成り立つ表象文化であり、「舞踏」は身体所作を要素として、「絵画」は図像を要素として、それぞれ成り立つ表象文化であると考えることができる。したがって、「表象」には、つねに「記号」の活動の次元が関与していると考えられます。
 意味を生み出すあらゆる種類の活動を「記号」ととらえて「表象」を論ずること自体が、20世紀とともに現れた新しい知の方法でした。映画や建築に関して、「映像言語」や「建築言語」を論じたり、「身体記号」を語ったりする認識の態度は、ほぼ20世紀と同時に始まった新しい態度であると考えてよいのです。そして、そのような「記号の知」と「表象文化」とがどのような関係で結ばれているのかを考えることも重要なポイントなのです。
 この章では、マラルメの「詩」とソシュールの「言語と記号の知」を題材に扱います。一方は「詩人」、他方は「言語学者」と考えられている両者ですが、 「文学」という表象文化の近代的枠組が、「ことば」や「文字・記号」の「問い」として浮上したのがマラルメにおける「文学の問い」であり、メディア化する二十世紀社会の表象文化を「言語と記号の知」を通して捉えようとしたのが、ソシュールによる「記号学」の構想です。
 マラルメやソシュールの出現には、「表象文化」の成立条件の大転換が掛けられていたことが分かってくるはずです。十九世紀末から二十世紀への転換点で、「文学」、「詩」、「芸術」と、「ことば」、「記号」、「メディア」が、どのような新しい関係性の布置を作り出したのか、なぜ「表象文化」の研究が「記号学」や「詩学」、「精神分析や「メディア論」と結びつくのかが明らにされます。



I.  マラルメ:グーテンベルク銀河系の「極北」としての「詩」
 そもそも「文学」とはどのような表象文化なのでしょうか。私たちは、「文学( literature  la littérature)」について、歴史を貫通して、例えば、ホメロスや万葉集の昔から存在しているものと考えがちです。しかし、それは、「近代」になって初めて成立した「文学」という表象文化を、過去に向けて投影したアナクロニックな見方にすぎません。「文学」とは、「近代」が生み出した、ラディカルに歴史的な「表象」の文化経験であって、「文学」を自明視したり永遠化するほど、じつは「文学」から遠い態度はないのです。
 ヨーロッパの「近代」に先行する「古典主義」の時代には、「文芸(英 letters  les lettres)」という表象文化が存在します。「文芸」においては、主題についての明確な規範(カノン)とジャンルが存在し、聴衆の指定があり、創作と鑑賞の「良き趣味」の規則が決められています。「文芸」という表象文化は、「古典的秩序」を映し出す「表象」の制度であったのです。ところが、古典主義的な表象の秩序が崩れて、「文芸=文字」による表象が「歴史」の奥行きのなかに引き込まれたときに「近代」とともに生み出されたのが「文学」という表象文化なのです。「文学」は模倣すべき古典的規範や固定的なジャンル規則をもちません。文学は、受け手・公衆を自ら作りだすものです。文学が描き出す「世界」はすでに存在している「永遠」の不動の秩序の再現ではなく、「歴史」の生成のなかで生み出されていく「現実」の「現在」です。「文学」の「作者」においては、今までに存在しない世界を想像しうる表現しうる「天才」と「霊感」が必要です。
 フランスの「文学」を例にとるなら、ヴィクトル・ユーゴーに代表される1830年代のロマン派の詩が、「世紀」を導く「歴史の見張り番」、「幻視者」としての「詩人」が霊感によって「超越の声」を聞き取り書き下す「詩」は、「読み手」としての「民衆」を生み出すものでした。「詩」のことばは、「世紀」を導くものであったのです。「文学」という表象文化は、「歴史」をとおした「世俗化」のなかに導き入れられたのです。
 またボードレールが、資本主義の絶頂期にあったパリの「永遠的なものと一時的なもの」とを含む「モデルニテ」の経験を詩や批評に結晶化させたとき、「詩」は「歴史的現在」のうつろいゆく瞬間からなる、「モデルニテ」の歴史内在的な「表象」だったのです。
 それに対してマラルメの位置は、「文学」という表象文化の存立全般を「ことば」や「文字」において問う「詩」の出現ということにあります。

1 マラルメの「危機」と「書くことのコギト」
 マラルメ(Stéphane Mallarmé 1842-1898)の「詩」が「文学」という表象文化の成立条件自体を問う「詩」であることは、最初期の作品にすでに顕著です。
 「第一次高踏派詩集」に収録されることになる「不遇の魔」や「鐘を撞く男」、「蒼空」などにおいて、マラルメは「不能力の詩人」をテーマに、文学場のなかに参入していきます。「理想」という言葉で指される「詩的発話の超越的審級」(詩の大文字の主体)の声を「詩人」はもはや聴き取ることができず、「民衆」に対して、「ことば」を差し向けることができなくなっている。ロマン派的な「詩的発話の回路」、「文学」の表象回路の危機をテーマとすることによって、詩を書き始めたのです。
 じっさい、1866年頃書いたと思われる「エロディアード舞台」、さらに1868年ごろの制作と見られる「エロディアードの古序曲」には、マラルメに詩的言語の実験が凝縮されて表現されています。
 「乳母によるincantation」という副題がつけられた「エロディアード」の「古序曲」は、声のみの亡霊と化して「新約の世界」の到来を告知する「聖ヨハネの声」と交感しようとする、「乳母」の憑依の「声」を、アクロバット的なシンタックスによる二十数行におよぶ長い一文の音楽的かつ幾何学的な構成によって繰り広げて見せます。語が音楽的に反映し合い、ほとんど人間の言葉とは思えないほど徹底的に考え抜かれた構築体として言葉の構成から成立しています。

 「大いなる作品」の夢
 このような徹底的な「詩の言葉」の動機づけの追求は、「絶対的な言語的構築体」の夢想へとマラルメを向かわせることになりました。それが大文字で書かれる「大いなる作品」(のちのマラルメの「書物」)の構想です。「世界のすべては一冊の書物に到達するように出来ている」と後に述べることになるマラルメですが、マラルメにとっての「大いなる作品」、「絶対の書物」とは、「偶然」に支配された人間の「言語」を「詩」によって「作り直す」ことによって、「世界」そのものを「詩」によって作り直すような、「宇宙的構築体」の構想なのです。「神話」や「歴史」にではなく、「言語」の象徴性に「文学」の根拠を見いだし、言語や象徴が可能にする「虚構(フィクション)」の力に、人間の社会や文化の根底にある「表象作用」の根拠を見いだそうとする考えがそこにはあるのです。

 マラルメの「危機」
 この制作過程を通して、自分は人間の言葉の意味を失い、自己像の消滅さえも経験したのだと詩人は述べ、「詩句を穿っていくことによって」、「虚無」を発見したと手紙に書きます。あるいはまた自分は「ついに神を打ち倒した」とも書きます。これが、有名なマラルメの「形而上学的な危機」です。
 さまざまな解釈がされてきたこのマラルメの危機ですが、ロマン派以来前提とされてきた、詩の表象原理を存在論的に組み替える、宇宙論的な詩学がこのとき生み出されたことはまちがいありません。ロマン派以後の近代においてさえ創作の前提とされていた神学的秩序や、超越的な詩人という個人の形象が否定され、言語を動機づける「偶然を廃棄する」企てとして、詩が「言語」との関係で再定義され、宇宙の創世原理としての神学的秩序を前提にもたない「詩学」が生み出されたのです。大きくいえば、この時代は、ニーチェが神の死をテーマに思考を進めつつあった時代に対応しますし、政治体制としても神権的秩序から切り離された「国民国家」としての「共和国」が成立していく時代にあったこととも深いレヴェルでそれは照応し合うものだったでしょう。

 「イジチュール」とエクリチュールのコギト
 形而上学的な危機を通して強度の神経症に見舞われるマラルメですが、その危機自体を作品化することを通して、危機からの脱出を企てます。その時に書かれたのが、「哲学的コント」とされる未完の作品「イジチュール」の草稿群です。詩人の種族の末裔であるイジチュールが、「時間の部屋」の真夜中の時が打たれる時刻に、蝋燭と呪文の書かれた書物を携えて、部屋を後にして、「人間精神の階段」を降り、先祖の墓となっている地下室で骰子を投げに行くという、「詩作」をめぐる難解な寓話的なテクストです。そこには、マラルメが経験した「書くこと」の「危機」と、それを通して到達した「詩学」とが、極めて難解なフランス語の散文によって書き込まれています。なぜ難解かというと、「ことばの自己反省(=自己反映)」とでも言うべき方法によってテクストが書かれているからです。
 「真夜中 Le Minuit」の「時」が打たれると同時に、鏡に映し出されていたイジチュールの「私」は、ego-echo heure-heurt miroir-moi-voir などのシニフィアンの反映を通して、姿を融解させ「夜」と溶け合っていきます。エクリチュールの「私」が、シニフィアンのなかに姿を消していく様子が文字通りに演出されるのです。エクリチュールの主体になるとは、自己像の消失さえも伴って、シニフィアンのなかにとけ込むような主体へと変貌することである。そのような主体論のパラダイムがそこには分節化されるのです。さらに、非人称化した意識は、「人間精神の階段」のなかで、言語の自己反省を通して、デカルト的な方法的懐疑と演繹を実行し、言語的意識によるコギトの明証性へと達しようとします。そして、最後に、詩人の祖先たちの「作品」を完成させるべく、詩の行為のメタファーとして「骰子の一投げ」を行い、詩の企てを完成させ、「世界」の絶対的な動機づけに成功する。そのような詩の行為のアレゴリー劇によって、マラルメは、「詩」の形而上学的な意義を書き記したのです。
 現代フランスの前衛作家フィリップ・ソレルスは、これは「エクリチュールのコギト」であると評しましたが、詩を書く「私(ego)」とは誰かという問いが、シニフィアンのネットワークの「相互反映」を通して、言語意識の「自己反省(autoreflexion)」として省察されているのです。
 当時計画をすすめていた「言語学」の研究のための「ノート」に、「言語の自己反省」を「方法」とするという表現が読まれますが、文字通り語と語との反映関係を作り出すなかで言語表象を作り出していき、そのような言語宇宙を生み出す行為とは何かを言語の中から形而上学的に自己反省していくというオペレーションがここでは書く行為を通して実行されているのです。第一場にあたる「時間の部屋」では、主人公イジチュールの自己像の消失が、第二場「階段のなかで」では、言語的意識の自己反省にもとづくデカルト的な「懐疑」と「演繹」が、そして、最後の「墓」においては、詩人の種族の「書物」に告げられていた宇宙的な「詩の行為」としての「骰子の一振り」が書き込まれ演出される計画だったと推定される。「語に主導権を譲る詩人の発話的消滅」と後期に詩人が表現した「書く主体」とは何かという問い、ヘーゲルの語彙を借りて「人類の歴史を幼年期からやり直す」と書簡で語っていた「詩の企て」の「精神史」の意義、人間の言語を動機づけて「偶然を廃棄する」行為としての「詩の行為」という詩的言語の根拠付け、到達点としての窮極の「書物」との構想、これら、マラルメの詩学の基本的な柱となる原理が、ここに書き記されることになったのです。
 同時期に平行して立てられた「言語学」研究の計画もまた、詩的言語を学問的に根拠づける企てと解釈できるものですし、「ことばの研究」から取り出されたと詩人が述べる「それ自身のアレゴリーとしてのソネ」という不思議な十四行詩は、「語の相互反映」のみによって「ptyx」という謎の語の「意味」を生み出すという、詩的言語の実験的作品でした。
 つまり、このときにマラルメが打ち出したのは、「言語」の象徴力に「詩」の源泉を汲む詩学だったのです。
 「象徴派」という分類を受けるマラルメですが、より本質的な部分においては、「近代」の表象システムにおいて、「文学」の根拠を「言語」の問題として問う文学を打ち立てたことが、マラルメの位置であるといえます。「表象」が、既存の世界のシステムにもとづいたものではなく、「言語」に根拠を持つものであること、「言語」こそが「表象」のマトリクスであることが明かされたことになるのです。

2「詩」と「表象」批判
 独自の詩と詩学をつくりだしたマラルメは1870年代にパリにもどると、「言語学」や「神話学」の計画の延長上で「英単語」や「古代の神々」という翻訳や翻案を発行します。またそれらの言語学や神話学に関する書物を出版するかたわら、「劇場」を構想したり、「最新流行」というモード雑誌をひとりで編集し、時代の「表象」に参画していく企てを行います。

 第三共和国
 マラルメの詩と詩学が完成していくのは、1870年代後半から1890年代にかけての「フランス第三共和制」の成立期です。普仏戦争に敗れパリコミューンを経験したフランスが、「共和国」を政体として「国民国家」としての性格を露わにしていく時代です。「国民国家」を論じる際に必ず引用されるエルネスト・ルナンの「国民とは何か」(1882年)が発表され、ジュール・フェリーの教育改革により無宗教の「国民教育」が制度化され、「国語教育」が再編され、「文学」がその国語教育の柱となり(ランソンの「文学史」の誕生)、植民地経営が軌道に載り、電話や電信の通信技術の革新によって大衆ジャーナリズムが全盛をむかえ、鉄道網が都市を結び、鉄とガラスの建設が出現した時代です。しかも、普仏戦争の敗北の記憶をバネに、「対独報復」が合い言葉とされ、アルザス・ロレーヌ問題をめぐって「国民感情」が文字どおりナショナルな昂揚をしめし、さらに、国家と教会との分離の問題が、共和国の「宗教的中立(ライシテ)」の問題としてクローズアップされていきます。「パナマ疑獄事件」にみられる政界・財界のスキャンダルが多発し、プロレタリアートの問題が浮上し、アナーキストの爆弾事件がおこり、さらに「ドレフュス事件」にいたって決定的となる「人種問題」が浮上し、知識人や大学人の権力が生み出されていく時代でもあります。

 共和国と表象
 王政や帝政のような神権的秩序を拠り所としない、「国民」の「共通の物 res publica」である「共和国repubique」が、「政治的表象の原理」となり、ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」として「国民」の「想像力」のみが、共同体の存立根拠となるのです。「表象」とは、劇場や音楽会のように、ひとびとがさまざまな文化活動をおこなう活動であると同時に、ひとびとの「一般意志」を「代表」する「政治」の原理でもあり、ひとびとが生の有限性を超えて超越や不死を「想像」する「国民」的共同体や「宗教」の問題でもあります。
 政治は「共和国」という世俗的で徹底的に無根拠な「表象の制度」として姿を現す。「宗教」も国教としての権威を失って、「宗教」とは何かという問いが生まれます。そして、「文学」もまた、「超越的根拠」を失って、「文学」とは何かという問いを前にすることを余儀なくされる。事実、第三共和国が実質的な制度化を確立した、1880年代~1890年代は、「詩句の韻律を一手に体現していた」ヴィクトル・ユーゴーの死とほぼ同時に、伝統的韻律が崩れ「自由詩句」が登場した「詩句の危機」の時代もあったのです。
 人間生活のあらゆる領域を分節化していた「表象」のシステムが、全面的な転換期を迎え、「虚無」が一般化した「時代」、マラルメは、この事態をさして「空位時代」であると形容しています。

 『ディヴァガシオン』と「批評詩」
 マラルメは、こうした第三共和国における「表象」の問題系を、自身の「詩」の原理にもとづいて捉え、「批評=批判(クリティック)」していく企てを行いました。それが、後期の散文集『ディヴァガシオン』にまとめられることになる「批評詩」です。「批評詩(poèmes critiques)」とは、文字通り「詩(poème)」でもあり、同時に、「批評=批判(critique)」でもあるテクストという意味です。マラルメ一流の「難解な」フランス語散文で書かれていますが、その「難解さ」を、単なる韜晦や高踏趣味と考えてはいけません。なぜなら、一見「難解さ」と思えることばの様態(=言語態)とは、ことばの運用を極限にまで高めたマラルメ独自の「詩」的構築体であって、そこを拠点として、「詩の主体」のポジションから、同時代の「表象」一般を「批評=批判」していくことがめざされていたからです。「詩」を拠り所とした「表象批判」の実行、それこそが「批評詩」ですし、「詩」の認識を拠り所とした「メタ言語」の実践として、それを「詩学poetics」の試みと見てもいいでしょう。
 じっさい「ディヴァガシオン」とは、さまざまなテーマについての思うままの「逍遙」という意味ですが、しかし、そこに繰り広げられているのは単なる気ままな印象や雑感ということではまったくありません。ひとつひとつの散文が、詩や言語や書物について、あるいは新聞として現れたメディアについて、推敲を重ね、深い洞察に貫かれた文章であり、同時に、宗教や政治を含む第三共和国の「表象」について実に鋭い社会批評、文明批評、ひとつの<社会の詩学>となっているのです。
 ここでは、その全容を紹介する余裕はありませんが、その要点を、「言語・メディア批判」および「表象批判」という観点から辿ってみましょう。

3 言語・メディア批判
 『ディヴァガシオン』の「批評詩」群を貫いているのはなんといっても、詩の言語や文学、文字や頁や書物、あるいは書くこと一般についての省察です。「言語の詩学」、「メディアの詩学」の実践がそこにはあるのです。
 そして、マラルメの詩学の核にあるのは、語、文字、詩句、頁、書物をつらぬく<詩的意味形成の力>にかかわる思想です。

 文学の危機
 詩的言語についてのマラルメの省察は、『ディヴァガシオン』中、伝統的韻律の危機をテーマとしたテクスト「詩句の危機」に結晶化しています。「詩句vers」とは、「詩」のことばを成り立たせているもっとも基本的な単位ですが、「一人で詩句を体現していたユーゴー」の死(1885年)を待っていたかのように19世紀末の象徴派詩人たちの「自由詩句(vers libre)」とともに起こった伝統的韻律の解体現象は、「文学」の「鋭く、根本的な危機」を招来しているのだとマラルメは言います。
 19世紀の「文学」を成り立たせてきた詩的言語は、「詩句の危機」とともに、古典的な表象体系と重なりあっていた韻律共同体を離れ、多様な形をとるリズム系が個々の詩人の表現を生み出していく。そのような韻律の解放と多様化、個人化の現象として「詩句の危機」を、マラルメは肯定的に捉えています。「あらゆる民族の文学の歴史において、初めて、(・・・)、誰でもが個人的な奏法や聴取のために、深い知恵をもって吹奏し、弓に触れ、叩くことで、自分のために一楽器の作曲をすることができるようになった。楽器をひとり離れて使い、かつそれを大文字の<言語la Langue>に捧げることができるようになったのだ。」と、小楽器の演奏にたとえて、「自由詩」にあらわれた韻律の多様化を評価している。それに対して、アレクサンドランのような古典的な韻律は、文化的な正統性が鳴り渡るパイプオルガンの壮麗な演奏に喩えられています。そして、それらのいずれもが、大文字の<言語>に捧げられるものであるとして、大文字で書かれる<言語>(la Langue)が詩作を根拠づける最終的審級とされているのです。

 <言語>と「偶然の廃棄」
 ところが、小文字で書かれる個々の「言語(la langue)」(具体的には「国語」)の方は「不完全」なものであるとマラルメはいう。詩的言語の働きを「偶然の廃棄」というタームでマラルメが考え始めたのはすでに1860年代の「危機」の時代からでしたが、「詩句」の存在意義とは、「偶然」に刻印された人間の言語の「不完全性」に由来しているとされるのです[1]。フランス語単語における暗い音色である「jour(昼)」と明るい音色の「nuit(夜)」の例をとって、ソシュールの言語学でいう「シニフィアン」と「シニフィエ」との結びつきの「恣意性」が、「偶然」という用語で問題とされます。完全で純粋な<言語>であれば、語の知覚と意味とが完全に一致して純粋な<思考>と区別できないものであるはずが、両者がずれているために、不完全な「言語」としての「国語」が複数存在している[2]。ところが、詩とは、そのようなシニフィアンとシニフィエとの間の「偶然」を修正して補い完全な<言語>に近づける働きをするのであって、それこそが、「詩句」の役割である、詩句とは不完全な「言語」の「哲学的補完物」だというのです。「詩句」とは複数の単語から、「国語には無縁な新しくトータルな語」を作り直し、言葉を鍛え直し、いままでだれも聞いたことのない「意味」を生み出す活動であるとも書いています。
 
 <言語>と<観念(イデー)>
 詩が可能にするのは、そもそも<言語>に固有の<観念>や<純粋概念>をもたらすことであるともマラルメは言います。「私が、花!という。すると、私の声が輪郭を追いやる忘却の淵から、知っている花弁とはちがう何かとして、音楽的に立ちのぼるのだ、観念そのものにして甘美なる、いかなる花束にも不在な花が。」この「観念」とは、言語学でいる「指向対象(レフェラン)」にあたる具体的な対象とは明確に区別され、むしろそれを消し去り不在化することによって、ことばの音楽性を通して、純粋な<言語>の記憶の圏域からプラトンの「イデア」のように「想起」されるものだというのです。これがマラルメが到達した<言語>の本質的な<観念性>の理論です。

 「ことばの二態」
 マラルメは「ことばの二態」を区別します。一方は、「語ったり、教えたり、さらに描写することであったりもする」、ことばの交換的=伝達的使用の状態であり、「普遍的ルポルタージュ」に奉仕する言説(ルビ:ディスクール)の「初歩的な使用」であって、文学を除くなら現代の言説ジャンルのおよそすべてが、そうした性格を帯びているとマラルメはいいます。それに対して、自然に存在する事実をことばの響きのなかに消し去り、そこから「純粋観念」を浮かび上がらせるような、詩のことばの「本質的な状態」が対比されるのです。こうした対比は、その後20世紀の言語思想や文学理論が「言語の裸出」や、「美的機能」論、詩的言語の「intransitivite」などとして、概念化していく問題ですが、マラルメは、社会における言語生活を成り立たせている言語のコミュニケーション的使用と、詩的言語にあらわれる言語の本質の開示とを明確に区別して見せているのです。「詩」はこのとき社会における「言語表象」の活動を批判し言語の本質を開示する働きをもたされているのです。

 詩における「主体」
 詩を書く主体は、人称的な個人ではなく、「語たちに主導権」を譲ることによって詩人は発話を通して語の組織になかに消え去る存在であること、すなわち、言語記号群の下に消え去ることによって言語活動の「主体subjectum」として成立するのだという「詩の主体」論も「詩句の危機」には述べられています -- 「純粋な作品は、詩人の発話をとおした消失を前提とする。詩人は語たちに主導権を譲り、語たちはお互いの不揃いが打ち合う音によって活性化するのだ。語たちは、相互の反映によって、宝石をつらぬいて走る幻の火の筋のように点火され、かつての叙情の息吹きに見てとれる呼吸や、文の熱烈かつ個人的領導にとって代わるのだ。」こうした言語活動における「非人称的主体」の理論も、20世紀の言語・人間科学や思想に大幅に取り入れられることになります。言語的表象の<主体>が、個人や意識とは別の次元に設定されることになったのです。

   活字メディア批判
 「ディヴァガシオン」には、さらに、文字や頁、余白やタイトル、書物といった、活字メディアについての省察もあります。言語を意味内容の観点からではなく、意味のかたちとして扱うのが「詩」であるとすれば、言葉が具体的に可視化され可感覚化される媒体としての「文字」や「頁」、「冊子」や「本」もまた、「意味内容」と「偶然」に結ばれているわけではありません。「文字」や「活字」、頁や余白、タイトルや見出し、本の構成についての省察が、マラルメによる詩と文学についての中心を占めています。「トータルな語」が「詩句」であったとしたら、「本」とは「文字のトータルな拡張」であると言われています。また、文字の黒いインクは、白い頁の「偶然」を一語ずつ「廃棄」していくものであるとも述べられている。そこにあるのは、「活字」とはなにか、「書物」とはなにか、という、「文字」「活字」文明についての問いであり、「偶然を廃棄する」構成をもつ<書物>の追求でもあるのです。

4  表象批判
 以上が、言語およびメディアをめぐるマラルメの詩学の大まかな特徴なのですが、さらに注目すべきなのは、『ディヴァガシオン』がそのような「言語」および「文字メディア」の理解を「方法」として、同時代の「表象文化」現象全般を「批評=批判」の俎上にのせるエクリチュールの実践となっていることです。それを、マラルメによる「表象記号分析」の態度と名づけることができると思いますが、その基本的な方法を見ておきましょう。

 表象批判としての「批評詩」
 じっさい、『ディヴァガシオン』には、「リヒャルト・ワーグナー、一フランス詩人の夢想」のような音楽、舞台、神話、祝祭、群集の相関関係をテーマとした論考、「芝居鉛筆書き」という総題でまとめられた舞台芸術論、「聖務・典礼」の題でまとめられた祝祭論、そして「重大雑報」の名でまとめられた「パナマ旋獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面雑報記事」を詩の言葉で書き直した社会ニュース論が、鋭い批評意識によって分類されて収録されています。文字通り、社会的文化的な表象装置全般がマラルメ的な「批評詩」のエクリチュールの俎上にのせられているのです。

 「芝居鉛筆書き」:劇場という表象装置
 さて、そのときの「批評」の「方法」ですが、「芝居鉛筆書き(=劇場における鉛筆書き)」という表題にすでに示されているように、劇場や音楽会や宗教儀礼のような社会的文化的装置において働いている「表象作用」を、「詩のことば」で書き取り、「詩」=「批評」として定着させるという、独自の<詩学の分光器(プリズム)>が働いている。
 じっさい、「芝居鉛筆書き」の導入にあたる同題のテクスト「芝居鉛筆書き」では、詩神(ミューズ)であり、詩の純粋なシニフィエである大文字の<観念(イデー)>との対話という構成をとって、<詩>と<批評>との対比において、<演劇>およびその<上演=表象(ルプレザンタシオン)>を論ずるという配置をとっている。詩のエクリチュールと、芝居、バレ、音楽会などを重ね合わせることで、<詩>は、<表象>を<批判>するメタ批評的実践となるのです。

 「黙劇」
 例えば、パントマイムを論じた「黙劇(ミミック)」を見てみましょう。ポール・マグリットの『女房殺しのピエロ』を題材としたものですが、冒頭は、「沈黙とは、脚韻のあとに残された唯一の豪奢であり、オーケストラも、己が黄金の音、思考と夕べとのあえかな触れ合いによって、声無き頌歌にも等しく、その(=沈黙の)意味作用をひたすら詳細にするにすぎず、詩人こそがひとつの挑戦にうながされて、それ(=沈黙)を翻訳する役割を担う。音楽の跳ねた午後における沈黙をである。それ(=沈黙)をまた、私は、ピエロすなわち悲痛にして優雅なるマイム役者ポール・マグリットの常に未刊行の再登場を前にしても、見いだすのだ、満足の思いを以て。」というように、<><>とを、<音楽><>とを、<黙劇><余白>とを重層的なメタファーで重ね合わせることによって、<>の表象作用を<>に書き換えていくのです。<>において<言語>そのものを<舞台>にかけるというマラルメの<詩>が、じっさいの劇場において、<芝居>の表象活動を、<言語>や<文字>、<空白>や<記号>の活動としてとらえて読む<方法>を導き入れるのです。
 すでにかつて哲学者のジャック・デリダが論じたように、「舞台が照らし出すのは観念(ルビ:イデー)のみ、現実の行為ではない、しかもそれは、よこしまではあるが神聖なるひとつの婚姻(そこから<夢>が生じる)、欲望と成就の、犯罪遂行とその追憶の間の婚姻においてなのである。ここでは先取りし、あそこでは追想しつつ、未来形で、過去形で、現在時の偽りの外見の下に。かくのごとくにマイム役者は操作する。その演戯は絶えざる仄めかしに留まっていて、決して鏡を破ることはない。彼はかくして、虚構というものの純粋な場を設定するのだ。」と、「黙劇」のなかで引用されている記述は、マイム劇についての記述であると同時にマラルメ的な詩のエクリチュールについての記述でもある。
 あるいはまた、「バレエ」を評した散文では、「すなわち踊り子は踊る女ではない。それは次のような併置された理由による、すなわち、彼女は一人の女性ではなく、我々の抱く形態の基本的様相の一つ、剣とか盃とか花、等々を要約する隠喩(メタフォール)なのだということ、そして彼女は踊るのではなくて、縮約と飛翔の奇跡により、身体で書く文字によって、対話体の散文や描写的散文なら、表現するには、文に書いて、幾段落も必要であろうものを、暗示するのだ、ということである。書き手の道具からすべて解放された詩篇だ。」、バレリーナは「君に、常に残る最後の薄布をとおして、君の思考の基本的なものの裸形の姿を手渡してくれようし、君の内心の幻想(ルビ:ヴィジョン)を、一つの<記号>のやり方で書くだろう。彼女がそのような<記号>であるのだから。」と書かれている。「芝居鉛筆書き」は、演劇やバレエという表象芸術を、「文字」や「記号」のタームで読み解く、ロラン・バルトに代表されるような20世紀の現代記号学の方法を先取りして実践しているともいえるのです。

 「虚構(フィクション)」の原理
 「虚構というものの純粋な場」と黙劇を語っていますが、演劇や舞踏、音楽など同時代の表象文化の基底に見いだされる表象作用の原理を、マラルメは「虚構(フィクション)」という言葉で呼んでいます。演劇であろうと、バレエであろうと、音楽会であろうと、宗教儀式であろうと、あるいは「共和国」という「代議制政治」の制度であろうと、それらは、すべて「表象」を原理としているわけですが、それらの「表象装置」には、ある物で別のものを「代理=表象」するという、それ自体としては「意味をもたないが存在しているもの」で、「存在していないが意味されているもの」を表すという原理が働いているのです。それは、「何でもない物」、フランス語でいう「rien」で、「何か」観念上の「存在しない」もの(それが「idée」です)を表すという、「何かの代わりにある何か alquid stat pro aliquo」という「記号」の原理そのものでもあります。そして、「記号」は、それ自体では何ものでもないのですが、その「何ものでもないもの(rien)」であることによって、「想像」や「幻想」を生み出すことができる。この原理をマラルメは「虚構」と呼ぶのです。
 マラルメは、「言語」の根本的な原理が「虚構」にあることを、すでに初期の「危機」の時代にすでに発見していたのですが、「言語」において発見した「虚構」のロジックをさらに表象作用一般にまで拡大して展開するのが後期の『ディヴァガシオン』において繰り広げられた「表象批判」なのです。

 「キマイラ」あるいは集団的想像力
 演劇やバレエや音楽会や祭式(セレモニー)はそのような「虚構」の表象文化の制度です。そして、人びとは、「想像」するために、すなわち「いま・ここ」には存在していないものを想い描くために、都市において、劇場、コンサートホール、祭式の場に引き寄せられて集まってくる。「近代人は想像することを厭う」とマラルメはワーグナー論のなかで書いていますが、「想像する」とは、人間が有限な「いま・ここの世界」から離れて、自分の「何でもなさ」をバネに、いま現在は存在していないコトやモノを夢見る活動であると考えることができる。つまり、ひとびとは、自分の世界の「何でもなさ=虚無」に向かい合うことによって、逆に自分たちの境遇を超える「夢」を抱く契機を見いだすのです。そして、民衆による「想像」が生み出すべき来るべき集団表象を、マラルメは、「存在し得ない怪物」である「キマイラ」という神話的形象の名で呼んで、そのありうべき姿を社会の表象装置の行方に読み取ろうとしています。それが、かれの「未来の祝祭」論です。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれていますが、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じています。自然が闇に沈む<夜>になって、無のなかに想像力の<虚構>の光が浮かび上がる。そして、群衆の抱え込んだそれぞれの<虚無>を動機づけるべく、劇場という想像力の<シメール(幻想)>の装置は口をあけるというのです。

「共和国」という表象制度
 そしてそもそも、「共和国」という表象の制度自体がひとつの共同幻想であると考えられます。「共和国」の語源にあたる「res publica」の「res もの」とは、「rien」の語源に当たる「物」という語であって、「共和国」とは、神権的権威の裏打ちを失って世俗化した「何でもないもの rien」=「無」が社会全体に一般化した無神論の時代であるのです。
  じっさい、マラルメは、共和国が、様々な想像の装置を発達させていること、様々な集団的表象の「キマイラ」の口を拡げていることに注目します。アンダーソン流の「想像の共同体」との関係でいうならば、共和国とは、群衆の<虚無>が露呈した状態なのであり、その<虚無>に向き合い、そこから出発して<夢>を生み出す<文学>を手がかりにして、<国家>という<虚構>はつくりなおされるべきものだというのです。「社会的関係というものは、虚構であり、したがって、<文芸>に属すべきものだ」(「擁護」)というような主張にそれは要約されているといえます。
 あるいはまた、じっさいの共和国のナショナリズムと相似した<ナショナリズム>をマラルメ自身も描いているかに見えるところもあります。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれるのですし、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じています。そして、「この外国人に対する感情は複雑である」と述べているように、「厳密な意味で想像力があり抽象的な、従って詩的であるフランス精神」の名において、「己が民族の誕生を飾る壮麗な光景に立ち会う」ような<神話>にもとづくゲルマンの楽劇に異を唱えているのです。ここには、ドイツ的な「民族国家」対フランス第三共和国的な「国民国家」という対立の図式に相似的な対立の構図が見えるのですし、それがしかも、<音楽>と<詩>との関係として捉え直されています。
 「カトリシスム」というキリスト教の典礼に関する中心的なテクストは、「われらの民族」であるフランス国民に、カトリシスムの典礼儀式の形式をもとにして、「共和国」の儀礼をつくりなおすことをめざすしているように読めます。「大雑把にいえば問題は、<神性>という、<自己>に他ならぬもの、(...)そのような<神性>を、地面すれすれのところで、出発点として、人間社会の慎ましやかな基盤、各人のうちにある信仰として、取り返すことである」とされ、「我らのコミュニオン、すなわち個から全体へ、全体から個への参与」は、聖体拝領の「野蛮な食事」やキリストという「姿を消した俳優」を取り去ったミサの形式として、「<祖国>とか<名誉>、<平和>という勝ち誇る光となった言葉の正統性の刻印を受けたものとして」とり行われるべきことを夢想しています(マラルメ自身は、「私は、夢を見ているとは、全然思わない」と続けて書いていますが)。
 しかし、むしろ問題は、「<民衆>を魅惑し、教化する」詩の<朗読会>を構想し、フランス大革命の一世紀を記念して「<歴史>の一サイクルを閉ざすべく、<詩人>の大臣(祭式執行者)としての働きを要求」するこの<文学の共和国>のユートピアが、<文学>と<国民>との関係について、何を述べようとしているのか、ということなのだ。つまり、より徹底した「想像の共同体」の在り方を、「未来の祝祭」として述べようとしているようなのだが、そして、そこでは、<宗教>も、<国家>も、さらには、「金」を記号とする<経済>もが、<文学>による、裏打ち(マラルメの言葉でいえば「証明」)を受けようとしているのです。第三共和国という<国民国家>と<文学>との結びつきのもっとも深い根拠とは、「なにか或ものが存在するということに関係がある」インクの「暗黒の滴」に最終的にはもとづいた、「虚構」、つまり、<擬制>の無根拠性ということなのだ。<無>のレース編みの襞としての<文字>によって結びついた共同体、成員のそれぞれが抱え込んだ<虚無>の襞を編成し、しかも、その襞に向き合うべく、劇場、コンサートホール、祭式の場の暗闇に想像のための穴(「シメールの開口」)を穿ち、それ自身が<自然>から離れて<無>を折り畳んだ<政治体(ポリス)>としての「都市」。「空位」という「時代のトンネル」を、言語の無の襞によって覆い包もうとする、詩のポリティクスとして、<文学の共和国>は対置されているのです。

5  マラルメの<書物>
 さて、以上に概観した、マラルメにおける<詩>に依拠した<表象批判>のあり方ですが、<言語・メディア批判>と<表象批判>との双方のテーマ系をまとめ上げる位置を占めているのが、マラルメにおける<書物>の問題系です。
 「危機」の時代にマラルメに懐胎した「作品」の夢ですが、「この世界において、すべては、一冊の書物に到達するために存在する」という命題に言い表された、大文字の<書物>の企てが、マラルメの言語論・メディア論の延長上にも、また、社会的および文化的な表象論の延長上にも、夢見られていたのです。
 タイポグラフィを詩の意味形成に組み込み、「偶然の廃棄」というマラルメ詩学の中心命題を、活字、段組、余白、頁の運動によって動機づけ、「骰子の一振りは偶然を廃棄しはしないだろう」という一文をフォリオ版12頁に繰り広げた実験詩作品「骰子の一振り」(図 )が示すように、マラルメにとって、「書物」とは、言語の意味形成および、活字から頁そして書物全体にいたる構築において、「偶然が廃棄」され、すべてが動機づけられたような構築体のことです。すべての印刷物は、無意識的にせよ、そのような動機づけを求める傾向を示すものであって、当時急速に発達しつつあった電信技術に媒介された「新聞」でさえも、そのような傾向と無縁ではないとマラルメは考えていました。
 「本質的な状態」としての詩のことばと、ジャーナリズムの「普遍的ルポルタージュ」のことばとの対比が「言語」に関して行われていたように、構築体としての構造をもった「書物」と、「鋳流し」としての「新聞」とが対比的に論じられます。『ディヴァガシオン』のなかで「重大雑報」と名打った批評詩連作は、「パナマ旋獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面雑報記事」を詩の言葉で書き直したものです。そして、大文字で書かれる<書物>をめぐる考察は、必ず<新聞>をめぐる問題から出発して説き起こされています。<書物>論を頂点とするマラルメの詩学は、「メディア批判」を主要な次元に持ちつつ成立しているのです。じっさい、大文字で書かれる<書物>をめぐる考察は、必ず<新聞>をめぐる問題から出発して説き起こされています。
   書物こそは最高のものだ、新聞は出発点にとどまる。 
                        (「書物、精神の楽器」)
 マラルメは、「文芸というような何かは存在するのか」と問います。それに対する答えは、「文学は存在する、お望みならすべての例外として」というものです。その意味は、世界の事象や出来事は、言葉というシンボルによって固定されて初めて十全な意味を実現するものであり、しかし、言葉とその対象との関係が「偶然的な状態」にとどまる限りでは、対象は十全な存在の意味をまだ実現できていない。「詩のことば」に見られる、言葉の「動機づけ」によって、事物が十全に「証明」されたときにはじめて、この世界でおこった出来事は、その「存在」を「証明」されることになるという考え方です。そのように偶然を廃棄してこの世界で起こっている事象を「モチヴェート」することが「文学」であって、それがこの「世界」の「存在」の根拠であるというのです。マラルメは、「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」という有名な定式を打ち出します。「詩」とは、人間の意味活動を「動機づける」ものであり、そのような「言葉」の「文字」の場所が、緻密に考えられた場としての「頁」であり、「書物」である。完全にモチヴェートされた言語と文字、余白や頁、完全なる書物とは、他のあらゆる書物の試みを集約して見せるような、文字の「結晶体」であるのです。
 じっさい、マラルメは、<書物>についての、その「朗読の会」の計画のノートを残しています。それらのノートは、読解が難しい未定稿ですが、マラルメが同時代の演劇や音楽会、祭式やミサなどをめぐる「表象装置」批判から描き出した「未来の祝祭」についての計画とでも呼ぶことができるプロジェクトを書き留めたものです。絶対の<書物>は、どのような、表象装置がつくりだす配置において読まれるべきなのか、そのときどのような「虚構」と「想像」における民衆のコミュニオンの祭式が成立し、どのように四季の宇宙的リズムと連動するようになるのか、未来の「表象装置」の特徴を描きだそうとしたノート群なのです。来るべき<書物>をめぐる未来の人間たちの「文化的」および「政治的」かつ場合によっては「宗教的」ともいえる「共同体」の姿がそこには想い描かれているのです。

 まとめ

グーテンベルク銀河系の極北としての<マラルメの書物>
 さて、これまで概観してきたマラルメの詩と詩学ですが、その表象文化にとっての意義を確認しておきましょう。
 表象作用を成立させる要素を「記号」と考えることができると、冒頭で私は述べました。マラルメに関していえば、その記号とは、具体的には、まず「言語」や「文字」ということになります。19世紀のロマン派的な文学観が後退し、「文学」を支えていた超越的価値が揺らいでいく時代  ニーチェ的にいえば「神の死」の時代  にあって、マラルメは、「文学」を、それ以前の「神学的」前提から切り離し、「言語」や「文字」の問題として位置づけるということを行った。ときあたかもそれは「共和国」の時代でもありました。「偶然の廃棄」を中心命題として、「言語」や「文字」・「頁」・「書物」の意味形成の力(=象徴効果)を「文学」の核心に据えることによって、マラルメはこの一大転換を行ったのです。
 他方、マラルメの詩は、「言語」や「文字」の視点から、人間社会をかたちづくっている「表象現象」一般を理解するという、「ことばと文字の知」にもとづく「表象批判」の側面を持っていたことも私たちは見ました。マラルメにおいて「詩」とは、宇宙論にまで拡がる「ことばと文字の知」そのものです。神権的な世界が後退し、マックス・ウェーバーの言葉で言えば「世界の脱魔術化」が進み、「共和国」や「国民国家」という無神論的な原理が一般化する世界において、人間たちの集団表象を作り出す社会的・文化的表象装置とは何か、という問いが、マラルメの「批評詩」を貫いていることを私たちは見ました。それが「表象批判」としての「詩」の位置です。「文学」こそが、「言語」や「文字」に依拠することによって、社会や文化の表象装置一般の、そして、究極的には、来るべき「政治」や「宗教」の基礎付けともなりうる原理である、とも考えられていました。
 そして、「言語」や「文字」が生み出すべき究極的な構築体が「絶対の書物」であり、その「書物」を「読む」という「祝祭」と「祭式」を通して宇宙と人間との交感を再組織する来るべき共同体が夢みられる。
 このように要約してみると、マラルメの「文学」の位置がはっきりと見えてきます。20世紀のメディア論の創始者であるマクルーハンは、活字技術がつくりだした文化圏を「グーテンベルク銀河系」と呼びました。マラルメの「文学」は、グーテンベルクが可能にした「活字」技術に依拠しつつ、「偶然を廃棄する」ことによって、「完璧な書物」を作り出すことによって、あらゆる書物をまとめ上げる位置にくる「窮極の書物」をめざす企てです。そして、その書物は、人類のあらゆる「表象」をまとめ上げる位置をも占めることになる。「マラルメの書物」とは、そのようなグーテンベルク銀河系の極北の星座をめざす構想であったのです。

II  ソシュール革命と<記号の知>

 さて、次に、マラルメが19世紀末に立てた「文学の問い」が、20世紀に入ると、どのような「知」を呼び寄せたかという問題を次に考えてみようと思います。
 マラルメの「文学の問い」とは、活版印刷術の発明以来、3世紀に渡って拡大した「グーテンベルク銀河系」において「書くこと」「思考すること」とは何かという問いであったといえるでしょう。「活字」の知に依拠することによって、「表象」一般を批判する視座が可能になっていたのです。
 その活字文化圏には、すでに「電信技術」によって、「ジャーナリズム」という「普遍的ルポルタージュ」の言語活動が侵入してきていると述べられていたことも見たとおりです。マラルメの「ことばの二態」論に述べられていたように、「言語」が、本ではないメディア技術の発達によって、別の「記号」の体制(ルビ:レジーム)との関係に入るということが起こってきたのです。「最新速報」というかたちで、「ニュース」が配信され、「書物」と対比的な「新聞」の「紙面」を形成するということが起こっている。マラルメにおいては、ことばや文字の知は文化的な記憶の源に根ざした太古(immemorial)の実践に根ざしたものであって、「書物」を「本質的な」場にもつべきものとされていた。ところが、「なまで直接的な」ことばの状態である「ユニヴァーサルなルポルタージュ」によって、ジャーナリズムのことばが同時的な遠隔を可能にしていく時代がすでに始まっていたのです。
 「言語」や「文字」についての認識も、また「表象批判」の方法も、そこから大きな転換を迎えることになります。
 マクルーハンは、メディア論の理論家として世界的に知られるようになる以前に、ニュークリティシズムの注目すべき文学理論家でもありました。そのマクルーハンは、ジョイスやマラルメの文学を19世紀末における電信メディア技術の発達との関係で理解する必要を説いていました。


1「メディア革命」と「記号の知」

 じっさい、19世紀末から20世紀にかけて、マクルーハンが「グーテンベルク銀河系」から「電気メディア星雲」への移行という表現で描き出そうとした文明の大変化が起こり、人間の表象活動が成立するメディア技術の基盤が大きく転換します。
 マラルメは、「言語」や「文字」に依拠することによって、「表象文化」一般を「批判」する視座を築きましたが、もはや人間が書き留める「文字」や「活字」ではない「書き取り技術」(この点については後述します)によって、人間の「知覚」や「意識」や「言語」の活動を書き取り、「再現=表象」することを可能にする「メディア・テクノロジー」が19世紀後半には発明され、20世紀への移行とほぼ同時に、「メディア革命」を迎えます。「映画」や「蓄音機」や「電話」や「ラジオ」など、19世紀後半に生み出されたアナログ・メディア技術を基盤として、新たな「表象文化」が生み出されていくようになったのです。それと同時に、人間の「表象」活動をとらえる<知>も大きく変容します。マラルメの方法が、「活字」のラディカルな追求による「詩」の知にもとづく「表象批判」であったとすれば、「アナログ・メディア」を基礎とした「表象批判」の「知」を20世紀の表象文化の発達はもたらすことになったのです。それが、ソシュールに始まる現代言語学の誕生および「記号学」の提唱から、その「言語」と「記号」の発見を基礎にした「構造主義」へといたる、「文化」理解の方法の革新の動きです。それらは、「ことばと文字の知」を基本としたマラルメによる「表象批判」の方法といわば同心円を描きつつ、しかし、もはや「グーテンベルク銀河系」には属してはいない「記号の知」の運動の軌跡を描いていくことになります。その「知」のダイナミズムを、ソシュールの「記号学」に注目しつつ検討してみましょう。

2  ソシュールと現代言語学の誕生

 フェルディナン・ド・ソシュール(Louis Ferdinand de Saussure 1857-1913)は19世紀末から20世紀初頭にスイスのジュネーヴ大学で「一般言語学」を講じた言語学者で、彼の没後弟子たちによる講義録から出版された『一般言語学講義』によって知られ、現代言語学の創始者とされています。「表象文化」研究にとってなぜソシュールが重要かといえば、「現代言語学」の父である、彼が『一般言語学講義』において示した「記号学」の構想によって、「表象文化」理解のための20世紀の「知」の源流となったからです。人間の社会・文化活動を「表象」として理解する知の方法は、本講義をとおして随所で述べられてきたように、構造主義やポスト構造主義と呼ばれた20世紀の運動と切り離せないのですが、それらの知の源泉には、「表象」は「記号」から成り立つものであって、人間の「文化」は「記号の一般学」で扱いうるというソシュールの「記号学」の提唱があったのです。

  

 3    新しい<テクノロジーの文字>

 19世紀の後半には、トーマス・エジソンの発明(1877年)した「フォノグラフ(phonographe)」(蓄音機)という、音を記録し再生する装置が出現しました。さらに同じ頃ベルにより「電話telephone」が発明され(1876年)、音響・音声を伝達する技術が登場しました。注目すべきことは、これら20世紀以降人間の生活を大きく変化させたメディア・テクノロジーが、「音声」や「音響」を書き取り再生する、新しい「テクノロジーの文字 (graphie)」の発明であったことです。じっさい、19世紀前半の「フォトグラフィ photographie」の発明に始まり、この時期に発明された「テレグラフ telegraphe」にせよ、「シネマトグラフ cinematographe」にせよ、それらはいずれも知覚の対象を「機械によって技術的に書き取る文字」の発明であるのです。20世紀の人類のメディア生活を決定することになった「アナログ・メディア技術」とは、いってみれば、この「テクノロジーの新しい文字」の発明であったのです。

   アナログ・メディア技術と<記号の知>
「ことば」をほぼ発話と同時に「意識」の近くから書き取る装置、しかも、それを「再現」することを許す技術が「フォノグラフ」です。「ことば」は「文字」に書き取られる以前に、機械の痕跡技術によって書き取られるようになる。すると、「ことば」を研究し理論化する場の大きな転換が起こったのです。
 ソシュールの言語学は、文字と書物に基づくような19世紀に行われていた言語の歴史的研究から、1877年にトーマス・エジソン(Thomas Edison 18471931)によって発明された「フォノグラフ(蓄音機)」のような音声解析装置の技術を使った研究へと言語の研究法が転換し、「音韻論」のような言語研究の基礎的な分野が刷新されるにともなって、まったく新しい言語観を提示したという側面が強いのです。
  1は、「フォノグラフ」を使って音声学者のルースロ師(Abbé Rousselot が音声の波形の研究を行っている姿ですが、20世紀初頭の言語学はこのように音声記録技術の革新によって可能になったのです。この時期以後、音韻を研究する言語学は、人間言語の発音体系を、アルファベットではなく、機械の書き取った痕跡を「翻訳」する「発音記号」で記すようになったのです。そこから得られたのが、「言語」を「差異のシステム」としてとらえるような、ソシュールの「言語記号」論であったのです。音声解析装置によって「音素」が発見され、音素を基礎的なシステムとして、言語を「差異」からなる形式的特徴に分解して、「記号」として理解する理論的研究が進められていきます。「記号」は人間の「意識」の活動を「分節化」しているものですが、「記号」自体を人間の「意識」にもとづいた「文字」で書き記すことはできない。「記号」を書き記すためには「フォノグラフ」のような「テクノロジー(技術論理)」が必要であるのです。「音素」やさらにそれを構成する「弁別特徴」のような「言語記号」を生み出す「差異」はしかし「意味」を生み出す「記号」の原理ではあっても、「意識」に上ることはありません。「記号」とはしたがって、「意識」の下で働いている「無意識」の存在を示すものでもあるのです。そして、その「無意識」を書き記すために「アナログ・メディア」テクノロジーが使われるというわけなのです。

   ことばの回路
 同じ原理は、20世紀以降の人間の表象生活を規定している「コミュニケーション」のモデル化に関しても言えます。
ソシュールが現代言語学を確立したときに提唱した言語モデルというものがあります。「ことば(ルビ:パロール)の回路」と呼ばれていますが、これは20世紀に現れた最初のコミュニケーション・モデルと考えられる図式です。AさんとBさんが対面していて二人の間で電話を掛け合っている。Aさんが言葉を発すると空気の波を通してBさんへと伝わり、Bさんは頭の中でAさんから送られてきた音声記号を観念の形式と組み合わせて、そして記号の意味を読み取ると、そしてBさんはAさんに向かって同じプロセスを別の方向に送り返す。このようにお互いに電話を掛け合っている関係をモデルとして、ことばをやり取りする回路として、人間の言語活動を説明しようとした図式が「ことば(ルビ:パロール)の回路」(図 3)です。
  ソシュールは、言語記号を「シニフィアン(Sa 記号表現)」と「シニフィエ(Se 記号内容)」の結びつきとして考えたのですが(この点については後で述べます)、最もシンプルな言語活動は、ABという二人の個人の「話し手/聞き手」の間に成立する、言語記号のやりとりであると考えています。言語記号のシニフィアンとシニフィエの連合は、「話し手/聞き手」の脳のなかにある心的な結びつきで、話し手Aは、この心的な結びつきのプロセスにおいて「シニフィエ(概念)」と「シニフィアン(聴覚映像)」とを頭のなかで結びつけ、彼の「発声」の生理的--物理的過程を通して聞き手Bのほうへ記号を送ります。聞き手Bは、「聴取」によって受け取った記号の「シニフィアン(聴覚映像)」を、脳のなかで「シニフィエ(概念)」に結びつけることによって理解する、というわけです。図式のなかで、円に囲まれた「SaSe」の部分がメンタルなプロセス、「回路」としてABをむすんでいる矢印線の部分が生理的--物理的なプロセスにあたります。それに対して、回路をとおして音声化して送られるのが言語記号が現働化したものとしての「ことば(パロール)」です。
  これが「ことばの回路」の図式です。ことばのやりとりを、電話を掛け合っている関係、「電話モデル」を手がかりに概念化しているわけです。そして、ソシュールが人間の言語活動をこのようなモデルで考えようとしたことについては、あのエジソンが発明したフォノグラフによる音声の書き取り装置を使って研究し、電話モデルによってその回路をモデル化するという、19世紀後半に発明されたメディア・テクノロジーにもとづいて言語を研究しようという姿勢を見て取ることができる、「テクノロジーの文字」が
 ソシュール以前の19世紀の歴史言語学を考えてみますと、言語をもっぱら文字に書き取り、あるいは古文書に書き取られていたことばの記録を文献調査することによって研究するという方法によるものでした。文字を手段として言語を研究し、ことばがどのように変化していったのかを歴史的に研究しようというというのが歴史言語学です。ソシュ―ルの整理によると、そうした言語学の研究のあり方は、言語の通時態(diachronie)の研究である「通時態言語学(la linguistique diachronique)」と呼ばれます。
そのような通時的な観点にもっぱら基づく言語学のあり方から、電話モデルに基づく、その場でAさんとBさんがお互いに同じ時点で言葉をキャッチボールする、やり取りするということを基本にして、同じ時点で何が起こっているのか、頭の中でどのようなことが起こっているのかということをモデル化して理解することから言語の研究を始めようと考える立場への転換がソシュールによって引き起こされた。後者は言語を話者たちが話している状態において、コミュニケーションの同時性において研究する、言語の「共時態(synchronie)」の研究であり、ソシュールによって「共時態言語学(la linguistique synchronique)」と呼ばれることになります。言語を同時性において研究する共時態言語学こそが言語学の原理的な出発点であり、言語の通時態の研究はその延長上で考えられるという、共時態モデルの言語学研究への転換を「ことばの回路」は図式化して表しているのです。

  脳のモデル
  こうした変化が可能になったのは、19世紀後半に発明されたテクノロジー、ここでは電話や音声解析装置のテクノロジーが可能にしたことでした。さらに、『一般言語学講義』を読みますと、当時新しく知られるようになった科学的知見として、脳の研究ということがあります。言葉を研究することは脳を研究することである、という考えが、当時、言語中枢というものが発見されることによって飛躍的に高まってきた、脳についての関心が高まった時代でした。ブローカ野とかウェルニッケ野といわれる言語中枢が言語の活動に関与していることがはっきりしてきた時代だったのです。
  ソシュールが「ことばの回路」を説明した箇所を読むと、言語活動の研究をするとは、AさんBさんの脳の中でどういうメカニズムが働いているのかということを研究することである、ということが述べられています。ことばの回路をとおして送られた「聴覚映像(シニフィアン)」は、「脳」のなかに「記入され」、「脳」のなかで、「概念(シニフィエ)」と連合する。アナログ・メディア技術によって、人間が意味をやりとりする「心的活動」を、人間の「心的装置」により近いところから記録し、研究することができる。従来的な「文字と書物」によらない、「テクノロジーの文字(=信号)」とそれが「書き込まれている場所」としての「脳」による「意味」の研究がここに始まったのです。
 

3  「記号学」の提唱

  ソシュールは言語学とは「言語記号のシステム」としての「言語(ラング)」を研究する学であるとしました。この場合、「言語記号」とは、以上に見たように、フォノグラフのような「テクノロジーの文字」によって発明された概念なのです。ソシュールにおける「言語記号」はアナログ・メディアによって媒介されて書き取り、再生することができる、「言語(ラング)」による意味作用の「単位」なのです。
 言語学の研究対象が「言語記号のシステム」であると彼が述べたことの背景には、言語のように意味を生み出したり伝達したりする「記号」は、必ずしもつねに「言語記号」であるとは限らないという考えがあります。しかも、フォノグラフという「テクノロジーの文字」が「言語記号」の概念の発明に寄与したように、例えば、ソシュールの「一般言語学講義」とまったく同時代に発明された、シネマトグラフは、運動の視覚表象を、記録し再現する「テクノロジーの文字」であって、それが、「映画」という人類が持たなかった「表象文化」を生み出すと同時に、イメージの運動を「書き記し」「分析」する手がかりをも与えます。そこから「映像記号」や「視覚記号」といった概念を導きだしうると発想するにいたるまでにはあと一歩です。
 言語は人間の意味活動、すなわち人間が意味を作り出し、人間が意味を伝え、人間が様々な物事の意味を理解するために重要で中心的な活動であるわけですが、ソシュールの考え方では、人間はそれのみによって活動を行っているわけではない。人間において意味の活動を担う要素には言語記号以外の記号もあるという考え方がそこにはあるのです。そこで、ソシュールは、言語だけではなくて、言語以外の意味活動をも研究対象とする意味の一般学が必要であると考えました。人間の言語を研究するのが言語学であるとして、それはもっと広い人間の意味活動一般を研究する学問の一部と考えられるのではないかというわけです。
 そこで、ソシュールが提唱したのが、「記号学(la sémiologie)」という一般学でした。言語学は19世紀にも存在していましたが、「記号学」は、20世紀的な意味においてはソシュールが初めて提唱したものです。
 ソシュールが『一般言語学講義』のなかで「記号学」を提唱した箇所を読み返してみましょう。
「言語は観念を表現する記号のシステムであり、その点で、文字法とか、手話法とか、象徴儀式だとか、作法だとか、軍用信号だとかと、比較されうるものである。ただそれはこれらのシステムのうちもっとも重要なものなのである。そこで、社会のなかにおける記号の生活を研究するようなひとつの学を考えてみることができる;それは社会的な心理学のしたがって一般的な心理学の一部門をなすであろう;われわれはこれを記号学(Sémiologie。ギリシャ語のsemêion「記号」から)とよぼうとおもう。それは記号がなにから成り立ち、どんな法則がそれらを支配するかを教えるであろう。それはまだ存在しないのであるから、どんなものになるかはわからない;しかしそれは存在すべき権利を有し、その位置はあらかじめ決定されている。言語学はこの一般学の一部門にほかならず、記号学が発見する法則は言語学にも適用されるにちがいなく、後者はかくして人間的事象の総体のうちで、はっきりと定義された領域に結びつけられることになる。(Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique générale, édition critique par T. de Mauro, Payot, 1972 p. 33 ; 邦訳ソシュール『一般言語学講義』、小林英夫訳、岩波書店、1984 年刊、29 頁に対応 但し 石田英敬訳)

ここには重要なことがいくつか述べられています。まず、「記号学」の提唱ですが、記号学という学問はこれから打ち立てられるべき学問として予告されています。「それはまだ存在していない」が、しかし、20世紀の知にとっては「それ(記号学)は存在すべき権利を持つのであって」、これから起こる知の配置において「あらかじめ定められている」場所を持つものであるとう強い主張が述べられています。じっさい、20世紀はメディア・テクノロジーの世紀であって、映画、レコード、ラジオ、テレビなど、さまざまな「テクノロジーの文字」が生み出され、「マルチメディア」な生活を人びとが営むようになる。「言語記号」だけでなく、「視覚イメージ記号」にせよ、「身体記号」にせよ、「音声・音響記号」、さまざまな「記号」が、ひとびとの社会生活における「表象」生活を作り出すようになるのです。そのときに、それらを全般的に扱うことができる「一般学」が求められることになる、それがソシュールが提唱した「記号学」の発想のもとに在る考えであると理解すればよいのです。

「記号」の概念: 表象を扱うフレームワークとしての
  ソシュールのいう「言語記号」とは、言語が意味を生み出す要素、言語による意味活動の構成素のことです。意味を生み出す活動は言語によるとは限りませんので、意味の活動全体のことを考えて、それを構成する一般要素を「記号」という概念でソシュールは指しているのです。
   「記号(英sign, signe)」、「意味作用(英、仏 signification)」という二つの語は、ともに「意味する(英signify, signifier)」にかかわる同じ系列の言葉です。意味することが「意味作用」であり、意味を生み出す要素が「記号」です。
ソシュールは、記号は二つの側面から成り立っていると考えました。それが「シニフィアン(仏significant, 英 signifier)と「シニフィエ(仏 signifié, signified)」、記号の表現面と内容面という区別です。
   言語記号、たとえば「ウマ」という言語記号があるとすると、[uma]という音の組み合わせの方が「シニフィアン」(記号表現)、それに対して「ウマ」という言葉を聞いたとき[馬]という概念を頭の中に思い浮かべます。その概念の図式のことを「シニフィエ」(記号内容)といいます。ソシュールは、記号とはこのようにシニフィアンとシニフィエによって成り立つと定義しています。意味するものとしてのシニフィアンは、聞き取られる音声や、目に見える文字のように物質を捉える捉え方、つまり物質面における形式として、記号の感性面,知覚面にかかわる部分です。それに対してシニフィエは、音に聞こえたり目に見えたりはしないけれども脳の中でそれが思い浮かぶ、観念面、精神面で成立する形式、意味されるものの側、知的に理解される部分、概念的な了解面であって、この二つの部分が表裏の関係になって記号というものは成り立っている。つまり精神と物質の狭間の中間領域に、人間の表象活動を成立させている「記号」の活動領域が存在していると、ソシュールが考えていたことがわかります。
 「記号」の概念は、「言語記号」にかぎらず、人間の「文化」を形づくるあらゆる「表象」を扱うフレームワークとして作動させることができます。じっさい、20世紀には、アナログ・メディアの発達によって、人間の表象活動のほとんど全領域が、記録・再生可能な「表象」の範囲に組み込まれるということが起こりました。あらゆる表象活動が、「テクノロジーの文字」によって書き記され、「表象」を成り立たせている「記号」が分析される可能性が生まれたのです。

  記号のシステム

  記号はそのように精神と物質の間に広がって人間の意味活動を成立させている領域なのですが、そこにおいて記号は孤立した一つ一つの記号の集積として成立しているわけではないと、ソシュールは考えます。記号は孤立して存在しているわけではない、記号は「システム」として存在している。あるいは他の記号と区別しあうことによって記号は成立しているのだから、記号とは「差異のシステム」をかたちづくることによって、記号相互の違いのシステム、相互区別のシステムにおいて成立するものであるとソシュールは結論します。しかし、「差異」とは、「意識」を成り立たせている「無意識」です。このように記号の要素というものは、他の要素との差異によって相互規定の関係を作っている形式的なシステムであるというわけです。

  パラディグム(範列)/サンタグム(連辞)[i1]
  ソシュールには、記号を使って人間が具体的に意味を実現するときに、それがどのような働きにもとづくのかを説明した、「パラディグム(範列)」と「サンタグム(連辞)」という記号実現の二つの作用軸の理論があります。
「範列(パラディグム)」とは、ひとつの言述(パロール)が実現するときに、記号の現働化を規定している記号間の「連合関係」(つまり、ある差異を共通項として活性化する記号の反復の系列)、「連辞(サンタグム)」とは、ひとつの記号の実現につづく記号の反復の系列を指定している「結合関係」です。

   これ自体も、「電話」モデルに見られるような、「記号」の「選択」と「結合」のモデル化のためのフレームワークですが、このフレームワークを使えば、人間の表象活動のほとんどすべてを、「選択」と「結合」として記述する可能性が見えてきます。
そこから、「言語」という用語は、「言語記号」だけの記述に使われるのではなくて、「映像言語」や「身体言語」、「建築言語」や「空間言語」というように、「表象」を記述する概念フレームワークとなっていったのです。そして、そこから生み出されたのが、「構造主義」の知の運動だったのです。


  まとめ 

 さて、「詩と記号:マラルメからソシュールへ」と題した、この課での学習事項をまとめておきましょう。
 まずここでは、「文学」の問題を、いわゆる文学研究のようなかたちではなく、「表象文化」の問題として問うという問題意識を導入しました。
その際に手がかりのひとつとしたのは、マクルーハンの表現を借りて、「グーテンベルクの銀河系」と呼んだ活字文明から、20世紀の「メディア革命」への移行というメディア論的な視座です。「表象文化」は、メディア技術を基盤として成立しているという前提がそこにはありました。
次に、マラルメにおける「詩」とソシュールにおける「記号」という、まったく異なったジャンルの問題系を、比較して理解するという、インターディシプリナリーな視点が導入されたことにも注意しましょう。
マラルメにおいては、「詩」が「ことば」と「文字」の「知」の精髄として、同時代のあらゆる表象現象を「批判」し、「活字文明」の意義を確認する「認識のかたち」となっていたことを私たちは見ました。「詩」は、グーテンベルク銀河系における「表象」批判の中枢的拠点となっていたのです。
他方、ソシュールにおいては、「記号」が、メディア化する世界のあらゆる「表象」をとらえる「知」の鍵概念として浮上してきました。そこでは、「知」の担い手は、活字文明に精通した「人文学者」や、ことばや文字の奥義に通じた「詩人」ではなく、「テクノロジーの文字」を操る「科学者」です。
しかし、それでは、マラルメにおけるような「表象」の奥義や、誰にも真似のできない「表象」の単独な実践にかかわる「詩の知」は、必要なくなったのでしょうか。いえ、そんなことはありません。「テクノロジーの文字」を操るなかで、新しい「文化」が次々と生み出され、それが20世紀以降の「表象文化」を生み出してきたからです。新たな感性的経験が組織され、美学的経験の固有の「知」が求められるようになるからです。
 「言語学」は、必然的に「詩学」を求めますし、コミュニケーションの発達はむしろ「精神分析」による固有の意味の解読を求めることになります。「テクノロジー(技術論理)」と、人間の固有な意味実践との出会いが、あらたな表象批判の「知」を求めることになったのです。それが、表象の分析論と、言語学・記号学・精神分析 など、20世紀とともに登場した「知」とを結びつけている「深いエピステーメ」への帰属なのです。




[1] マラルメの言語思想が「クラチュロス主義」と共鳴し合う部分です。
[2] 詩はその意味で、言語が諸語に分裂する「バベル」以前にさかのぼる企てと言えます。



 [i1]「言語」のメタファー
「映像言語」、「記号言語」

 [i2]「芸術」と「批判」
マラルメの「文字」g「言語」批判と
「表象芸術」による「表象批判」

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