:『新訂表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日 第14章(pp. 209-221)
表象文化論14回 表象メディア論II コンピュータ
情報技術革命が20世紀後半以降の人類の生活を大きく変えたことは皆さんご存知のとおりです。インターネットを始めとする、コンピュータを媒介手段としたコミュニケーション技術によって、人間にとって「表象」が成立する条件は大きく変化しつつあります。進行しているのは、ただ単に世界の出来事のすべてが情報としてコンピュータに入力され、処理され、現実の出来事が電脳空間(サイバースペース)のなかに転位されるというだけではありません。世界の全ての与件(データ)が記号列としてヴァーチャル化され、その情報を変形したり合成したりする操作が可能になったということ、しかも、このヴァーチャル化の動きは情報やコミュニケーションの手段ばかりではなく、私たちの身体経験、感性の枠組み、知能の働き、世界における共生の在り方 ― コミュニティーや経済や政治の在り方 ―にも大きな影響を及ぼしつつあるのです。
そこで、この章では、コンピュータが可能にした表象の問題をとりあげたいと思います。20世紀はメディア革命の世紀であったわけですが、このメディア革命は二つの革命から成り立っています。ひとつは映画、レコードやテレビを生み出した20世紀前半のアナログ・メディアの革命であり、そしてもうひとつが、コンピュータ技術の登場によって引き起こされた20世紀後半のディジタル・メディアの革命です。イメージであれ音声であれ、すべての記号を二進法の数字列に書き換えることによって、あらゆる事象を「情報」として処理する記号テクノロジーの登場は、「表象」の成立条件、そしてひいては「人間の条件」さえも変化させてしまいました。それはまた、ルネッサンス以後、相互に分離されることによって発達してきた「芸術」と「技術」との関係をも変容させ、アートとテクノロジーの新たな協働をも求めるものです。表象にとって情報とは何かを、具体例を通して以下に見ることにしましょう。
1 ポスト・ヒューマン
メディア・アート作家ジェフリー・ショー(1944- )らによるコンピュータグラフィック・インスタレーション”conFIGUING The Cave”(by Agnes HEGEÜS+ Jeffrey SHAW + Bernard LINTERMAN NTTInterCommunicationCentre所蔵、以下では「The Cave」と略称) は、正面、両側面、床面がスクリーンである小さな暗い部屋から成り立っています。中央に設置され体の関節部の随所にセンサーを埋め込まれた150センチのマネキン人形がインタフェースを作っていて、観客が3Dmメガネを着用してそのマネキン人形に触れて人形の姿勢や手足の位置を変えると、4つのスクリーンから浮かび上がる立体映像が次々に形を変え微妙に変化しつつ繰り広げられる仕掛けになっています。映し出される映像は7つの世界を表しているとされるのですが様々な映像や文字の組み合わせから成り立っています。空間は強烈な音響にみたされ、それもまたマネキン人形を操作することによって変化し、映像の運動との共感覚を生み出すようにできています。観客は人間の身体に擬されるマネキン人形の体位を変化させ様々な身振りをあたえることによって、人形の身体と連動してハイパーリンクする記号列が織りなすヴァーチャル世界のなかに没入していくのです。繰り広げられる光景は、あたかも人形の身体に宿っている記憶の場所のようでもあり、身体のなかに折り畳まれている潜在的な感覚の場が繰り広げられているかのようでもある。ここでは身体のインタフェースを通してヴァーチャルな記号の場の生成が主題化されているといってもいいでしょう。3Dメガネのような立体視インタフェースの使用、映像、文字、音響といった記号および記号成分のインタラクティヴな展開、身体のメタファーとしてのマネキン人形、こうした要素が示しているのは、感覚の合成に始まって、記号の獲得、そして身体と空間の関係性の場あるいは身体的記憶の場の成立をとおして、言語やイメージの世界の展開へといたる、ハイパーメディアによる表象世界の生成のパフォーマンスなのです。
The cave(洞窟)というタイトルに注目してみましょう。これは、プラトンの『国家』に語られる「洞窟の比喩」を暗示的に参照しているように思われます。プラトンの対話篇においては、人間の本性と「真理」との関係について、洞窟に閉じこめられ、後ろを振り向くことができないように子供のころから手足も首も縛られて固定され、入り口から差し入る火の照明に照らし出され、洞窟の奥の壁に投影される、自分たちの像、および自分たちの背後の道を人びとが話したり物音を立てたりしながら運んでいく品々の像のみを見ることができる囚人たちの喩えが語られていました。人間たちは、背後から射す事物および自分たちの影および壁面に反響する事物の音をのみ知覚することに慣らされた状態におかれている。自分たちおよび事物の像と音を実体として捉えているのです。ところがこれらの像の元にあるのは事物の実相としてのイデアであって、究極的には光源である太陽に喩えられる<善>のイデアを見ることもできる真理の器官を人間たちは備えているのだというのが、プラトンよるこの比喩のモチーフなのです。これが、真理と表象の関係についての決定的なメタファーであることに注目しましょう。
さて、このプラトンの「洞窟」との関係でいえば、「The Cave」でも、人間のメタファーとしてマネキン人形が部屋の真ん中に縛りつけられている。洞窟の壁面の役目をするスクリーンには様々な像がつぎつぎと光に照らしだされ音響や文字とともに送り込まれてきます。プラトンにおいて「真理」のメタファーであった、「火」(太陽)に、相当するのはここでは「コンピュータ」の装置であり、したがって「真理」とはここでは「計算」です。その「光源」から、つぎつぎとプログラムが送り込まれてきていて、観客は、プログラムの「影」を見ている。プラトンでは、暗がりに慣れていて外界の光に目が眩んだ囚人達は光に順応することで外界の実体を見ることができるようになるのだと言われていましたが、「The Cave」では、3Dメガネという補助具をつかって、コンピュータから送り込まれてくる「像」を立体的に視ることができるようになる、というわけです。
だいたい以上のような並行関係を想定してみることができるわけですが、もちろん大きな相違点も存在します。そして、それこそが、「The Cave」が作品化している、コンピュータ時代における「人間の条件」についてのメタファーです。
まず、太陽という宇宙的な光源と、洞窟という建築物のゼロ度、そして、事物の影の投影という、最もプリミティヴな自然的メタファー装置から、プラトンの比喩は成り立っています。他方、The Cave」は、徹底的に人工的で最もソフィスティケートされたテクノロジーにもとづくメタファー装置です。ここでは、コンピュータ・テクノロジーによって生み出される「空間」や「時間」とはどのようなものか、「身体」や「記憶」の経験とは何か、「イメージ」や「言語」や「音響」の表象作用はいかなるものか、といった一連の「問い」が、瞬時に形成されては消えていくテクノロジーの「洞窟」の場の「共—形成」(conFIGURING)を通して問われていると考えればよいのです。
さて、そこで注目すべきなのは、まず「身体」と「空間」との関係です。インタフェースとしての人形の身体は、「観客」(しかし、このインタラクティヴなインスタレーションにおいて観客はつねに「参加者」です)として「共—形成」に参加する人の身体のメタファーなのですが、ここに形成されるのは固定的で一義的な空間では全くありません。センサーを埋め込まれた人形の身ぶりや体位の変化にしたがって、スクリーン上に繰り広げられる空間と場は刻々と変化するからです。しかも、それが3Dメガネを通して立体的に視覚化されて繰り広げられていきます。身体のなかに記憶のように宿っていた場が、ヴァーチャル・リアリティの表象空間としてスクリーン上に立ち上がり、一つの場は、さらに別の場をその裡に折り畳んでおり、つぎつぎと繰り広げられる襞のようにこのテクノロジーの洞窟の場は展開していくのです。
「インタフェース」や「インタラクティヴィティ」という、コンピュータのメディアとしての特性がここには使われていることを見るべきです。人間はインタフェースを通して、コンピュータの世界へとアクセスするのですが、コンピュータが生み出す表象空間は、ユーザ自身をその中に身体的に記入してメッセージを動かさないかぎり成立しないものです。これはなにも「The Cave」のようなアート作品だけでなく、私たちが日常使用しているパソコン、インターネット、あるいはもちろんコンピュータ・ゲームなどコンピュータ・メディアに共通した最も基本的な特性です。コンピュータ・メディアにおいては、ひとびとは自分がつくる表象空間の中に身体ととともに入らなければ表象活動をおこなうことができない。それが「没入 immersion」というユーザのあり方なのです。したがって、そこでは、ユーザの身体の所作を通してしか表象空間は繰り広げられない。空間は、ユーザの身体活動の外に措定されたアプリオリな枠組みであることをもはややめるのです。私たちはそのつど自分自身で固有の表象空間を自分の身体を使って「共—形成」せざるをえないのです。これが、コンピュータが繰り広げるヴァーチャル・リアリティの意味です。
そのように考えると「The Cave」の空間的特徴がよりはっきりしてきます。マネキン人形の身体の部位とその所作には固有のコンピュータ・アルゴリズムが対応している。マネキンの動きによってアルゴリズムが発動され、身体のなかに折り畳まれていたヴァーチャル空間が呼び起こされ展開され、さらにその空間はそれ自身のなかに折り畳んでいる無数の別の空間をつぎつぎと繰り広げていく。このような「襞の展開」の構造も、アート作品に固有のものではありません。テクストのなかに他のテクストへの無数のリンクが張られた「ハイパーテクスト」は、すでにこのような「展開」の論理にもとづき、一つのテクストが別の無数のテクストをヴァーチャルに折り畳んでいる襞の編成体であるのです。インターネットは http (Hypertext Transport Protocol)というプロトコルが示すように、こうした「襞の展開」の原理に基づいて自己組織化されるコミュニケーション空間です。
次に注目すべきは「時間」の経験です。次々と送り込まれてくるプログラムの「時間」は、目まぐるしく布置を変えていくVRに没入するユーザ主体にとって、彼の経験を収めるアプリオリで固定的な枠組みであるわけではない。「時間」もまた、ここでは、つぎつぎと「展開」を変える不連続な強度の経験として出現するのです。「時間」はもはや、カントが述べていたような人間の経験の「先験的形式」として、感性の経験が成立するためのアプリオリな枠組みとして成立しているわけではない。「時間」はここでは、プログラムによってそのつど生成されては一瞬のうちに移行し消えていく不連続な運動のなかに生み出される持続の断片の連なりとして現れているのです。現代フランスの美学者クリスティーヌ・ビュチ=グリュックスマン(Christine Buci-Glucksman)は、ショーに代表されるサイバー・アート作品が示す美学とは、時間の新しいかたちの創造を示すものであっって、サイバー・アートは「時間」のなかにかたちを生み出すものではなく、「時間」をダイレクトに創り出し「時間のかたち」を生み出すものであって、「機械状の時間」および「移ろいゆく流れの時間」をその本質的特徴としていると述べています 。
さて、以上をまとめてみると「The Cave」が提示している「人間の条件」についての問いとはどのようなものなのかが分かってきます。ここでは、作品世界への参加者である観客としての「人間」は、「マネキン人形」という「アヴァター(化身)」を通して「ヴァーチャル世界」へと「没入」していきます。「コンピュータ」という「計算的理性」が、「身体」の代理物をとおして、「人間」が表象する「空間」や「時間」をつぎつぎと繰り広げて、そこに現れる「現象」を「3Dメガネ」という補助具を通して「人間」が「表象」を「経験」するということになっているのです。このような「人間」の「表象活動」が置かれた存在状況を、私は、「ポスト・ヒューマンの条件」という言葉で表せると考えています。なぜなら、カントの「人間」理解に見られるように、近代における「人間」観の基礎には、「人間」こそ「表象活動」の主体であって、「現象」は「感性」をとおして人間に与えられるが、経験は「空間」および「時間」という「先験的形式」を可能性の条件として、「表象」されるものとされていました。「私が考える」とすることによって、すべての「表象」活動を、「私=人間」のところで総合して考えてきたのが近代的な<人間>理解なのです。<人間>は経験の主体であると同時に世界を構成する表象の先験的な主体としての位置を占める。カントは認識におけるこうした<人間>の位置を<経験的-先験的>二重体として定義しました。
『純粋理性批判』における「空間について」のカントの考察は次のように始まります –
「我々は(我々の心意識のひとつの特性としての)外感(外的感官)によって、対象を我々のそとにあるものとして表象する。つまりこれらの対象を空間において表象するわけである。対象の形態、大きさおよび相互の関係は、空間において規定せられ、もしくは規定せられ得る。また心は、内感(内的感官)によって自分自身を、或いは自分の内的状態を直観する。」
ところが、The Caveが繰り広げて見せるように、事物の経験を可能とする「表象」の先験的形式としての「空間」が計算論的に書き換えられるとき、そして、そもそも「事物」そのものがシミュレートされるとき、そして事物をとられる感性の経験としての「感覚」が合成されるとき、<人間>の<経験と超越>の条件は大きく書き換えられることになる。 私たちは、サイバースペースの出現とともに、<ポスト・ヒューマンの問い>を前にしているといえるのです。<ポスト・ヒューマン(人間-以後)の問い>とは、<人間>という形象において統合されていた、世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が、もはや<人間>という統一体を経由しなくなっているのではないかという問いです。
事物や現象は次々と<ヴァーチャルな計算論的空間>のなかに転位され、<人間のアヴァター化>が進み、人々が<脳のなかでの生活>を始める。事物についての<アナログ的な認識>を担う<意識論的主体>としての<人間>は、いままさにディジタルな記号列を演算処理する<計算論的主体>である<ポスト人間>に席を譲ろうとしているのだともいえます。<ポスト人間>とは、人間が終焉してサイボーグ化するというようなことをいうのではありません。<ポスト人間>とは、人間たちの生がサイバースペースの計算論的プロセスのなかに組み込まれ、人々が自らの分身として<ヴァーチャルな主体>を自らの影のように従えて生きるようになった人間たちのことを指す用語です。
II 情報が素材になるとき
The Caveが実験的に作品化して見せたようなVRの表象経験だけではなく、コンピュータ・テクノロジーによる情報化は今日では、私たちの日常の現実の具体的なモノのレヴェルにまで及んでいます。コンピュータは人間と表象との関係を変化させるだけではなく、表象の素材としてのモノの成立にまで大きな変化をもたらしているのです。モノがコンピュータとなり、具体的な個物が情報を担うコンピュータのあり方を、ユビキタス・コンピューティングと呼びます。ユビキタス・コンピューティングが可能にするのは、「具現化したヴァーチャリティ(embodied virtuality)」と呼ばれる、ヴァーチャリティの新しい成立の仕方です。
「考えるモノたち」や「触ることができるビット」のプロジェクトで知られる石井裕MIT準教授のラボラトリーが開発した、Topobotという遊具、I/Oブラシという電子絵の具ブラシを見てみましょう。これらは、コンピュータをつかった新しい「表象の道具」とでも言うべきものです。そして、表象と素材との関係を大きく変更するものであることが分かります。
Topobot(http://tangible.media.mit.edu/projects/topobo/)は、子供のブロック積み木「レゴ(LEGO)」に似た、組み立てブロックによる遊び道具です(図 参照)。ブロックにはメモリが埋め込まれて加えられた運動を記憶するパーツ、また記憶された運動を再現するモータを備えたパーツがあります。例えば、動物の姿を組み立てて、四肢や関節部に引っ張ったり捻ったりという運動を加えると、加えられた運動を再現して、歩いたり尻尾を振ったり首を動かしたりというように、運動を自在に記憶させて生みことができるのです。積み木やレゴ・ブロックが、物の立体的なかたちを分節化して組み立てることから成り立つ遊びであるとしたら、Topobotはかたちだけでなく、運動をも分節化することができるブロック遊びなのです。Topobotは目下のところ遊具としてプレゼンテーションがされていますが、しかし、表象の道具が、運動の造形を可能にしていることに注目しましょう。運動の記憶をモノたちが持ち始めることによって、今までに現実には存在しなかった運動を「造形」することができるようなるのです。モノが「情報」をになうことによって、運動を「素材」として、新しく運動を「造形」する可能性が生まれたのです。
I/Oブラシ(I/O Brush http://tangible.media.mit.edu/projects/iobrush/)は、私たちの日常生活にある素材の色、肌理、運動を取り込んで、それを使って絵を描くためのドローイング・ツールです。一見、どこにでもあるペイント・ブラシのかたちをしていますが、内部にはライト付きの小さなビデオカメラおよび接触センサーを備えていて、身の回りにある素材にブラシをかけることによって、その色彩や肌理や動きを情報として取り込み、その情報を「絵の具」として、タッチパネルのキャンバスに出力して絵を描くことができる情報装置です。私たちの周りにある日常的なものをそのまま「素材」として「絵」を描くことができますし、また静止したものを取り込んで運動を加えて描くこともできます。
これらの事例が示しているのは、情報技術がもたらした「表象」と「素材」との関係のラディカルな変化です。情報化が物のレヴェルにまで及ぶことで、物が情報とほとんど等号で結ばれるような関係が成立するのが、ユビキタス・コンピューティングによってもたらされた世界です。そこでは、リアリティを構成する物たちとはすでに情報でもある。Topobotによって動く対象を構成するとは、Topobotを素材として立体的運動体を組み立てるということではあるのですが、しかし、その場合の「素材」とは、それ自体が情報と化した素材であって、表象とはその情報を使って運動体を組織することを意味しています。I/Oブラシにおいても、絵の具のかわりに私たちの周りのあらゆる物たちの「情報」が、絵を描くことの「素材」になっています。そこでは絵を描くとはそのような情報を使って「表象」を組織するということを意味しています。「表象活動」は「現実」を「再現=代行」するのではなく、物や運動の「情報」を組織する活動へと転位しているのです。これが、私たちの現実界それ自体が情報化することによって、私たちの表象活動に起こりつつある大変化なのです。
III 人工物と自然
情報テクノロジーは、VRやロボットのような人工物にのみ関係しているわけではありません。遺伝子のような生命・生物現象にまで働きかけて、自然を操作するところにまで、その技術が及んでいることは皆さんも知っているとおりです。人間は自然に働きかけることによってそれを変形し、人工的な営為としての文化を生み出してきたと考えられるわけですが、「情報」のパラダイムはこうした「自然」と「文化」、「自然物」と「人工物」という区別自体に重大な変更をもたらしつつあります。
現代日本のメディア・アーチスト藤幡正樹(1956年生まれ)とバイオ・メディア・アーチストの胴金裕司(1957年生まれ)によるコラボレーション「Orchisoidプロジェクト」は、環境によって変化する蘭の生体電位を植物の「脳波」のように測定し、植物の蘭が動かされたり、人が近づいたり、あるいは他の蘭を近づけたりするときにあらわれる波状の変化をとらえることによって、植物の「コミュニケーション」を想定し、植物の「脳波」にもとづいて植物の「意志」にもとづいて動くロボットを作ったり、あるいは、蘭を進化させて1万年後には「歩行する」蘭を作り出そうという、思考実験的なアート作品です。2001年に科学未来館の「ロボット・ミーム展」では、温室のようなコーナーにつるされた何種類もの蘭たちが植物同士であるいは環境とコミュニケートする電流波形がパソコンのモニター上に映し出され、また鉢植えの蘭が車輪型ロボットに載せられ、植物の生体電流の値にもとづく運動パターンにしたがって動く、「Orchisoid(蘭もどき)」として展示されました。藤幡によれば、ドーキンスの「ミーム(文化遺伝子)」論がいうように「人間」とは「ミーム」の「乗り物」であると考えられるとすれば、ロボットは「人間」のミームが「機械」に乗り移った姿である。その考え方を植物にまで適用していくと「蘭」のミームを仮定してみることができるのであって、その振る舞いを測定することができれば、蘭の「意志」行動に働きかけることができるだろう、というのです。
このような「実験」としてのアート作品に表れているのは、「情報」がもたらした、「機械」と「生物」、「動物」と「植物」、「人工」と「自然」を分ける境界の消滅です。「人間」も「機械」も「動物」も「植物」も、ひとしく「情報」の「乗り物」という視点からとらえ、「情報」のプログラムをとおして、自然物をふくむあらゆる生き物とコミュニケートしうるというヴィジョンを提示することを通して、人間中心の人工物の世界を脱し、植物的な生命との連続性へと向かおうとする批評的意識を、そこに見て取ることも不可能とはいえないのです。
IV アートとテクノロジー
この章では、コンピュータの情報テクノロジーが、人間の表象文化にどのような変化をもたらしつつあるのかを、三つの具体例を通して考えてきました。最後に、情報テクノロジーによって、アートの成立条件がどのように変化したのかを考えてみましょう。
ショー等による作品「conFIGURING The Cave」は、VR技術を使ったハイパーメディア作品として、固定的な時—空間、一つの身体、安定した文脈とシンボル体系といった、「人間」の「表象活動」の前提を覆す、ヴァーチャル世界の成立を示していました。強調しておきたいのは、アート作品がテーマ化していたコンピュータ時代の人間の条件とは、私たちの日常生活にも共通した一般的条件であるということです。じっさい、私たちは、インターネットというハイパーテクストによるコミュニケーションに「住まい」、自分たちの「身体」をヴァーチャル世界と「インタラクション」させながら生活しています。インターネットの「サイバースペース」における、私たちの「空間」は、次々に襞のように展開する構造をもち、「時間」も次々と「機械状」に連結し、しかも瞬時に「流れて」いきます。「アート」は、したがって、「テクノロジー」がもたらした人間の条件の変化を作品によって露呈させ、その意味を問うているのです。
TopobotやI/Oブラシが示しているのは、テクノロジーによってもたらされた、現実のなかの物や素材と人間の表象活動との関係の変化です。物と情報とが等号で結ばれ、リアリティーと情報とがマテリアルなレヴェルで等価になった状態が、これらの道具によってすでに実現され始めているといえます。I/Oブラシに関して言えば、具体的な物が素材としてまず存在し、人間が絵の具を使ってそれを再現し表現するものであるという、「再—現前化」としての表象という考え方はここではもはや通用しないといえます。物自体が情報となることによっていつでも表象の素材として機能し始める。そのような、表象とその素材との関係の変容が起きているのです。Topobotについてみるなら、物の運動を、他のメディアに転写して再現するのではなく、物自体の運動として分節化し再現する、さらには合成するという、動きの「造形」が可能になったことを示しています。テクノロジーがもたらした、これらの新しい表象の道具の登場は、限定された素材や限定された担い手による表象活動ではなく、日常的なあらゆる物たち、日常生活のあらゆる所作も表象の素材となりうる時代の到来を意味しており、アートのあり方そのものを問い直すことにつながっていく可能性があります。
藤幡らのOrchisoidプロジェクトが示していたのは、情報テクノロジーにもとづく人工と自然との境界の探索です。アートはそこではサイエンスとほとんど等価であり、「情報」を共分母に、人間と人工物、動物と植物、人工と自然との区分を揺らがせ、植物を「歩かせる」進化を引き起こすにまでいたる、仮説的な実験系として提示されている。アートとサイエンス、文化と自然との関係の全般的な再定義にまでいたるような問題系がそこには表れているのです。
以上のように、情報テクノロジーは、「人間の条件」を全面的に書き換えつつあり、表象の経験の成立のための制約をはずし「あらゆること」を可能にしつつあるように見えます。しかし、私たちはまだ、その意味をまだ十分に理解できているとはいえない状態にあります。アートは、テクノロジーの「意味」を実験したり発明したりする「感性の実験」という性格をもち、さらには、文化全般がよって立つ認識の枠組みに及ぶ問題系を提起する役割を果たしているといえます。
「アート art」とは、その語の原義からも分かるように、人間の「作為、技 ars」でした。その「作為」は、現在ではすでに、人間文化の対立項としての「自然」や「物質」に働きかけるものではなくなっています。「作為」が「人工物」に働きかけること。そこに「アートが置かれた新しいコンディション」があるといえるのです。
私たちは第一章で、ルネッサンス期の「透視図法」をとりあげ、「表象」が自立する近代の世界の始まりを考えることから出発しました。「表象」の自立にともなって、「人間」が「自然」を均質な時—空間座標のなかにとらえて解明し支配することが可能になったのです。空間や時間における経験の成立の条件を認識として法則化し、自然や人間の経験を統御する「科学」の視座が生み出されたのでした。他方、人間が、「文化」において生み出す、固有の感性経験や意味経験の組織化は「芸術」として形式化され、文化の基本に位置づけられることになりました。「表象」をめぐって、「芸術(アート)」と「科学(サイエンス)」との分離が起こったのです。
情報テクノロジーは、大きく言えば、ルネサンス期に発した、「表象」の形式化による時空間の数学化が生み出した窮極の技術なのですが、そのテクノロジーはいまでは私たちの意味や感覚の経験のあらゆるディテールにまで及び、それぞれの主体によって、そのつど定義され生きられるしかない固有の経験と、テクノロジーの経験とが一致するようになってきています。ハイパーメディアに関して見たように、固有の「場」を離れて時—空間は存立しえないことになった。時間や空間は、厳密にいえば、私たちの外にあると前提される経験の一般的枠組みとして成立することはもはやなくなっているのです。だれでもが固有の時間や空間を日々選び取り発明することが不可避になったテクノロジー環境を私たちは生きているということなのです。
そこに、テクノロジーとアートとのまったく新しい関係があると私は考えています。テクノロジーが、人間の主観や意味活動に捕らわれない、表象の一般的条件を規定し、アートが人間の固有な意味や感性の経験を提示するという、テクノロジーとアートとの分離は、もはや不可能になっているのです。VRのインタフェースについて見たように、テクノロジー環境は今日では単独な主体の位置からしか動かし得ないという成立の仕方をしています。固有の感性的経験、主体の単独な意味活動を離れてテクノロジーが作動しないということは、すべてのテクノロジーがアートを求めるものであること、テクノロジーとアートとはいまでは切りはなしえないものであることを示唆しているのです。
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