この本は、メディアとヒトとの古くて新しい関係について書いた本です。大人のためのメディア論講義と断ってありますが、子どもが読んではいけないアダルトな本という意味ではありません。誰にでも読めるようにすべての〈文字を読み書きするヒト〉に向けて書いたつもりです。
クロマニョン人だって、もし彼らが私たちの文字を読めたとしたら、この本を読んで、三万年後の現代のヒトのメディア生活のことを思い描いてくれたかもしれない。そして、彼らのメディア生活と比較したかもしれない。そんなことを考えながらパソコンを打ちました。
なぜ、クロマニョン人かって?
クロマニョン人たちは、すでに三万年前に洞窟という彼らのメディア装置をもち、そこで「原-シネマ」を読み書きしていたことが知られているからです。
一九九四年に発見された、フランス南部のショーヴェ洞窟は、人類最古の動物の絵に覆われています。突進する牛の頭は何重にも輪郭線をかさねてえがかれ、疾駆する野牛や飛びかかるライオンの四肢は幾筋もの線を重ねて、いまにも動き出しそうに、文字通り動く画として描かれている。かがり火のゆらめく洞窟の暗がりに浮かび上がった動物たちの運動は、映画のショットの連続のように描き出され、物語的なコマ割の分節のなかに連らねられています。人びとのこだまする唄いと語りとともに、猛獣を追い狩りをする人間たちと群れをなしひしめき合い角を突き合わせる動物たちの疾走と鳴き声が、まざまざと目に見え耳に聴こえる、洞窟とは先史時代のシネマ装置だったのです。
クロマニョン人たちとは、「ホモ・シネマトグラフィクス(運動を描(か)くヒト)」だったと、この洞窟を調査した洞窟先史学者のマルク・アゼマは書いています。〈シネマトグラフ〉の語源は、動きの(cinemato-)書き取り(graphe)ですから、クロマニョン人たちは、「運動の文字」を「書/描(か)」いていた。そのように、先史学者たちは結論づけているのです。
クロマニョン人たちが教えること・・・
クロマニョン人たちのメディア装置は、現代のメディア論に多くを教えます。
洞窟は、集団的な〈心のメディア装置〉、〈夢の装置〉であったこと。地上の自然の光の下で繰り広げられた動物たちの戦い、人間の狩りの動きを、記録・記憶・再現して、時間を先取りするかのように投影する〈想像力の母胎(マトリクス)〉であったこと。かがり火のゆらめきの下で、生き物たちの動きをリアルに現出させ、谺(こだま)する音響とともにリズムに合わせて唄う〈語りの装置」でもあったこと。〈シネマトグラフ〉という文字は、文字プロパーの成立よりもずっと古く、運動という時空間の現象を、視覚要素に分解して〈分析〉すると同時に、視る/聴く意識を分節化して〈総合〉するものであったこと、など、など。私たちが、そこから引き出すべき知識はとても多いのです。
それから三万年をへて、人類は、今度は、本物のシネマトグラフ(映画)を発明しました。
1895年12月、ぞろぞろと出てくるリヨンの女工たちの行列が、リュミエール兄弟の最初のフィルム「工場からの出口」で撮影された時です。運動が、シネマトグラフという〈テクノロジーの文字〉によってはじめて書き始められた瞬間だった。しかし、それは同時に、機械が書/描(か)く文字が、ヒトには読めなくなり、人間の意識のコントロールを逃れていくメディア史的な瞬間でもあったのです。
私たちは、一秒一六コマで流れる映像の一コマ一コマを視ることができないので、シネマトグラフが書き取り投影するフィルムの流れを運動として見ることができる。見えないから見えるという、メディアの〈技術的無意識〉の問題が、人類文明を捉えるようになりました。メディア・テクノロジーに支配される文明の危機が、二十世紀以降の人類社会に次第に濃い影をおとしていくことになったのです。
この本は、そうしたメディア・テクノロジーの栄光と悲惨を、読者とともに深く考えることを目的としています。
二十一世紀初頭の私たちの世界にいたるまでのわずか一世紀余りの間に、人類はメディア生活において、それまでの何世紀分にも、あるいは千年紀分にもあたる巨大な変化を経験してきました。
今日、私たちは0と1の記号列が光速に近い速度でめまぐるしく計算され、すべてが情報として無限のメモリへと送り込まれていく、コンピュータの「数の行列(マトリクス)」からなる洞窟の住民となっている。
そんな人類文明の変化を、二十世紀以降のメディア革命に照準して語ってみたのが、この本です。・・・・
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第一章では、フロイトの「不思議のメモ帳」をとりあげます。メディアを手掛かりに「心の装置」を構想したフロイトと、二十一世紀にはスマートフォンやiPadのようなメディア端末が人びとと一対一の関係になった現代生活との関係を考えることから始めます。人間の心の働きと、それを補完するメディア装置とがびったりと対応するようになってきたことが現代の私たちの「メディアの問題」だからです。
第二章では、メディアの問題と文字の問題とを直結させて考える私の基本スタンスを説明します。二十世紀以後、シネマトグラフやフォトグラフ、フォノグラフ、テレグラフといった文字〈テクノロジーの文字〉が人類文明を大幅に書き換えます。これが「二〇世紀のメディア革命」で、メディアは人類文明に〈技術的無意識〉という大きな課題をもたらしました。
そこで、メディアと文明とを考える学問的枠組みとして、「記号論」という学問について解説します。記号論は、二〇世紀の現代記号論をさらに遡って、コンピュータの思想的な設計図を書いたライプニッツのバロック期の記号論にルーツを求めるべきこと、新たにこの学問をつくりなおすことによって、現代のコンピュータの発達によって進みつつある、「世界の記号論化」を捉えることができる、という私の理論的立場を解説します。
第三章では、大量生産・大量消費という二〇世紀の資本主義の構成要素として、テイラー・システム、フォーディズム、文化産業、マーケッティングの四要素を取り上げます。二〇世紀のアメリカ資本主義の発達を「欲望の経済」(リビドー経済)の側から支えたのは、映画やレコードのアナログ・メディア革命が可能にした意識の産業的な生産でした。それが「文化産業」の問題です。フォードがT型フォードをベルトコンベア・システムで大量生産していくのと並行して、ハリウッドの映画産業が、「夢の工場」で、大衆の夢を長編映画として組み立てていったこと、大衆心理の「心のなかの隠された市場」を操作するノウハウとして「マーケティング」のテクノロジーが、フロイトの甥エドワード・バーネイズによって確立されていったことを解説します。
第四章では、二〇世紀の第二のメディア革命である、デジタル・メディア革命について考えます。デジタル革命とは、全てのメディアがコンピュータになる大転換であること、人間の記号生活において、「記号」と「情報」とが表裏の関係になることを説明します。それを原理的に捉えるためにはライプニッツの普遍記号論にまで遡って、記号論を情報記号論としてつくりなおす必要があることを説きます。さらに、メディアの「デジタル転回」によって、人間と情報との間に、「検索人間」化や「端末人間」化、「言語資本主義」、「アルゴリズム型統治」、「アルゴリズム型消費」など、これまでにない問題が浮上してきていると問題提起します。
第五章では、デジタル・メディア時代の意識資源の枯渇の危機と、「精神のエコロジー」について考えます。ヒトの情報処理能力を超えた、大量の情報が氾濫するメディア生活では、「注意力の経済」による意識資源の争奪が激化して、「ハイパー・アテンション」状態が常態化しかねません。情報生活においても、エコロジー的な視点の導入が必要です。そのためには、メディアを捉え返す知識技術の研究開発、メディアの生態系の設計とデザイン、公共空間の整備が必要なことを説明します。
最後に、第六章では、「メディア再帰社会」と題して、メディアの再帰化の問題、メディアを捉え返す回路を社会が整備していく必要、精神のエコロジーのために、これからのメディア社会を私たちはどのように構想して生きてゆけばよいのかを、具体例を交えながら展望します。
大人のためのメディア論講義
〜 メディア再帰社会のために
【目次】
はじめに
第1章 メディアと〈心の装置〉
不思議のメモ帳とi―Pad/記憶を補完する/心の延長線――身体拡張論/記憶をためる・消す・呼び戻す/心の構造/プラトンとファラオの文字/メモリーとリマインダー/文字とドラッグ/コピペ学生の起源/メディアは心の装置/知覚と意識は作られる
第2章 〈テクノロジーの文字〉と〈技術的無意識〉
ケータイがついて回る/手の解放は技術を、脳の解放は高度な言語活動・表象活動・記憶を/記号論とは――記号論は死んだ?/記号論を新しくつくりなおす/記号論がコンピュータを生んだ/記号論の二つのはじまり/コンピュータの「思想的発明」/ライプニッツの普遍記号論/哲学マシンとしてのコンピュータ/脳の活動を手が書く・機械が文字を書く/「原-メディア論」と「原-記号論」/ふたつのメディア革命①――アナログ・メディア革命/文字テクノロジー/遠隔テクノロジー/「テクノロジーの文字」の革命/ソシュールの言語記号学/「テクノロジーの文字」と「知の革命」/「技術的無意識」の時代」/技術的無意識/「私たちはテクノロジーの文字を読むことができない」/わたくしといふ現象/意識の産業化/「年代区分」と「3つのテーゼ」
第3章 現代資本主義と文化産業
パースの記号論/資本主義の4要素/「テイラー・システム」/テイラー・システムからフォーディズムへ/夢の工場ハリウッドの誕生/「マーケティング」の創始者――欲望が消費を生む/軍事・ラジオ・コンピュータ/リビドー経済――「生きるノウハウ」を奪う/「消費」を「生産」する/コカコーラに脳を売る
第4章 メディアの〈デジタル転回〉
ふたつのメディア革命②――デジタル・メディア革命/情報革命と意識の市場/デジタル革命の始まり/計算機による書換え/ライプニッツの発明/情報記号論/世界のデジタル化/デジタル・メモリー/「検索人間」と「端末人間」/すべてがコンピュータになっていく/ボルヘスの地図、忘却を忘れた人/デジタル革命の完成/モノのインターネット/グーグル化する世界/グーグルの言語資本主義/ことばの変動相場制/アルゴリズム型統治/デジタル化時代の消費/アルゴリズム型消費/人間を微分する
第5章 〈注意力の経済〉と〈精神のエコロジー〉
注意力の経済/「ハイパー・アテンション」状態の脳/チカチカする文字/ヒトの情報処理能力の限界/意味のエコロジー/メディアの気持ちになる/メディア・リテラシーの課題/テクノロジーの文字の「クリティー」は可能か/ニコ動は批評か?/目には目を、デジタルにはデジタルを/真のクリティークを目指して/わが国のデジタル・アーカイブ事情/批評空間を構築する/新しい図書館をたちあげる/東京大学「新図書館計画」/電子書籍/電子書籍vs 電子ジャーナル/理系の読書/文系の読書/人工知能と学問/電子書籍とノートの統合/文明の中心にある読書//読字と読書の脳神経科学本という空間/ハイブリッド・リーディング環境/社会に「精神のエコロジー」を保障する場所
第6章 〈メディア再帰社会〉とは何か
メディア社会に再帰的になる/成長と消費から遠く離れて/日本の敗北/アメリカの情報資本主義/記号論の問いを立て直す/「デジタル転回」と再帰性/メディアから「プラットフォーム」へ/記号の再帰化/記号過程と情報処理/メディアの再帰化/生のアルゴリズム化/コミュニケーション文明の中の居心地悪さ/「象徴的貧困」の進行/「メディア再帰社会」という課題/クリティークの更新は可能か/認知テクノロジーとリテラシー実践/自分のプラットフォームをつくる/来るべきユマニスト
おわりに
参考文献
(以上は、著者校からのコピーですので、刊行本との異動があります 石田 記)http://www.chikumashobo.co.jp/blog/news/entry/1252/
関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2016/10/journalism9.html
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