2008年8月1日金曜日

「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年8月号, pp.79-88

公共空間の再定義のために(3)

—新しい〈社会契約〉・新しい〈公共性〉—

           

議会のショートカット

 思いきって〝ナイーヴ〟な問いから問いを起こそう —
 〈議会〉というものを見直そうという気運はいまなぜ盛り上がらないのだろうか?
 世界化がひとつのサイクルを終え、「大統領型政治」が支配的な統治モデルである時代が各国において終わりの兆候を顕わにしている。06年のアメリカの中間選挙以後の政治状況、ヨーロッパ諸国の動き(今年3月のフランス統一地方選挙、5月のイギリス統一地方選挙)、アジアでの動き(4月の韓国総選挙)、そしてもちろんわが国の昨年7月の参院選を見れば、〈議会〉が政治の前面に登場してくる局面を各国とも迎えているはずだ。しかし、〈議会〉の意味を再考し、その位置をあらためて確認しようする正面切った議論が起こってきているように見えないのはなぜなのか。
 昨年の参院選挙の結果は、すぐさま「ねじれ国会」というネガティヴなスキームで議会の問題をとらえる言説のフォーメーションを呼び起こした。そして、生まれかけた〈議会〉についての新たな問い直しの可能性を卵のうちに殺してしまった。同時に進んだのは「大連立」密室協議であり、「ねじれ」は解消されるべき負の状況としてのみ捉えられることとなったのである。
 党首討論をほとんど開くこともなく、重要法案採決の節目に衆議院本会議への欠席を繰り返したオザワ党首の民主党が、議会をとおして社会の議論を起こすという代議制民主主義のプロセスを「とばす」ことに手を貸したことはいうまでもない。
 他方で、メディアの側も、「議会」を焦点化することにどれほど、工夫を凝らしたのだろうか。
 いかにも、きわめて〝ナイーヴ〟な、教科書的で理念的な問いではあっても問うべきなのである。〈社会〉の問題が、いま新たに頭をもたげてきたとき、それを代弁し代表して表現するのは、そもそも〈議会〉の役割ではなかったのか、と。
 現在の議会で、政治的公共圏が市民社会を媒介し、世論を反映した議会が政治権力を統御するというデモクラシーの古典的図式を、そのまま信じるわけにはいかないことなど誰でもが知っている。二十世紀以降の大衆民主主義では、自由な討議という理念型が、そのままでは機能しないことは、どの教科書にも書いてある。議会は政党に分割され、政党は社会的な階層や職業カテゴリ、団体、地域を固定的な基盤とし、「代議制民主主義」とはなによりもまず、そのような社会的分割を「政党政治」に「代表=表現する」役割を果たしている。そのような大衆民主主義の〝常識〟からいえば、議会とは次の選挙での力の有利な再配分をめざした、利益代表による議会戦術の展開される場以外ではない。しかし、こうした図式さえもがすでにあまりに古典的なモデルであることこそが現在の議会政治の問題なのではないのだろうか。
 伝統的な「政治の社会的支持基盤の摩滅」が現在ではすすんでいて、政党や議員は、いったい「誰」が「何」を代表しているのかさえも、かならずしも定かでないという状態にあるのかもしれない。現在では、どのような社会グループや地域や階層を「代表=代弁」しているのかという、「代表制」そのものが不安定化しているのかもしれない。そこに、議会の本当の混迷があるのではないのか。「メディア政治」の効果とはそのようなところにも現れている。メディアの「鏡」に自己を映すことによって「当選」を果たした議員は、「自分」が何を「反映」しているのかが分からなくなる。そのような「うつろな鏡」のような状況に、代議制民主主義が陥ってしまったらどうだろうか。
 「世論調査」の独裁が言われて久しい。テレビ時代には、日々の世論調査という「人気投票」が、「国政」を動かしていく。「代表民主制」を「バイパス」するメディアによる擬似的な「直接民主制」が、「正統性」を主張するようになる。しかし、そのとき「政治」は、どの「社会」を「代表」し、どこに「正統性」のよりどころをおくことになるのだろうか。

Ⅰ 新しい〈社会契約〉

 しかし、前回述べたように、人びとが〈生活〉に危機感を高め、〈社会国家〉が解体へと向かい、〈社会〉の輪郭が定かでなくなり、その分〈社会〉を再発見しようとする動きも生まれつつあるようだとするとどうなるだろうか。
 この一年あまりの間に次々と露呈してきた問題をもういちど思い起こしてみよう。二十世紀型の社会国家を基礎づけていた「生政治」がくずれ、人びとの「生活」が危機に直面し、「新しい社会問題」が浮上した。〈政治〉が〈社会〉との新しい約束を取り交わすときにきているのである。
 他方で、こうした事態の背景に、地球規模の「グローバルな次元では、炭素化石エネルギー問題が、ますます国際政治のアジェンダとして浮上してきている。冷戦終結後の世界のグローバル化を推し進めたのが、産油地域をめぐる戦争秩序の構築をとおしてグローバルな〈主権秩序〉を打ち立てようとしたのが、ブッシュ政権にみられる国際石油資本であった。現在では、エネルギー秩序のグローバル化のプロセスを裏返すように、「排出権取引」が語られ、代替エネルギー問題が食糧危機にまで及んでいる。エコロジーとグローバル秩序の形成とがリンクするようになってきている。
 さらにまた、資本主義そのものの変容と労働の変化がある。「新しい貧困」の背景にあるのは、「市場原理主義」や「ネオリベラリズム」や「金融資本主義」として現れた、情報伝達技術を基盤とした、「知識社会」や「知識資本主義」への資本主義のパラダイムシフトがある移行がある。
 これら一連の危機を、別のパラダイム連関をとおして、世界化の「別の回転」に応える時期が始まっていると考えられるのである。

公論の復権

 前回、テレビ番組における公共性の覚醒を指摘したが、「公論」の復権も俟たれている。
 社会にとって死活的な問題をアジェンダとする政治選択が課題となってきているのだ。
 「事実」報道や「話題」提供だけではなく、それをこえた社会の「ステーク」(争点)を掘り下げ、問題の拡がりを分析して明示する「アジェンダ」の提示が、メディアの役割である。
 そのような方向はしかしまったく見えていないというわけではない。
 このところ大新聞が「提言」型の社説や特集を掲げることが目立ってきている。新聞を報道ととらえるジャーナリズム観からは違和の表明もあるが、私はこれには肯定的である。
 永らくオピニオンという次元が、わが国の新聞には希薄であったからである。
 この間メディアはアジェンダ設定のヘゲモニーを、「政治」に奪われてきている。しかし、格差社会の進行、新しい貧困の蔓延、人口の高齢化、年金などの福祉問題の切迫など、「社会の選択」が問われてきている。社会にとって死活的な問題をアジェンダとする政治選択が課題となってきているのだ。
 「事実」報道や「話題」提供だけではなく、それをこえた社会の「ステーク」(争点)を掘り下げ、問題の拡がりを分析して明示する「課題(アジェンダ)」の提示が、メディアの役割である。
 「朝日新聞」は、2007年5月の21本の社説からなる「社説21」を掲載した2007年10月からは、毎週一回「希望社会への提言」という「シリーズ社説」を24本掲げた。少子高齢化社会の近未来像を描き、「連帯型福祉国家へ」をキーワードに、地方分権、少子化対策、年金改革、食糧政策といった基本問題について、日本社会にとってのアジェンダの提起を特集するようになった。また年金改革について、読売・朝日・日本経済の三社がそれぞれ独自の年金改革案を提起するようなことも起こってきた。
 選挙における「マニフェスト」の制度化、公共メディアによるアジェンダの提起、こうした動きがかみ合うことによって、「世論」形成に見通しを与える「目印」がととのうようになるのである。
「政治改革」以後の政治
 一九九〇年代の「政治改革」の成果が今問われているのだともいえる。「イデオロギーの終焉」以後、あるいは「政党政治」の終焉以後、政治的な体制選択の余地はなくなった。ナショナルな政治の「限界」こそが、ナショナリズムの「温床」となり、市場の閉塞こそが「市場原理」にほかならないという二者択一に立たされてきた。「生存」や「生活」を基礎にして「社会」を構成しなおす時期に差しかかっていると考えるべきである。
 しかし、社会国家の変革のテーマは、複雑化した現代国家の政治のことで大変難しい。「改革」が「規制緩和」と同一視されたり、単なる「官僚叩き」や「無駄遣い批判」のパフォーマンスに終始したり、単純化とデマゴギーが世論を誘導する様を私たちはなんども目にしてこなかっただろうか。汚職やスキャンダルが減らず、年金記録問題にみられるようなずさんな「官僚国家」の姿が露呈することもしばしばである。
 戦後「復興」期のケインズ型国家プロジェクトのような「政ー官」による「上からの改革」は起こりにくいのである。やはり、「社会」との「新しい契約」を政治が取り交わすための地道な努力が不可欠なのである。そして、その議論の「場」は、「議会」と「公論」と「社会」をむすんで興るしかない。内実のある「マニフェスト」にもとづく政治選択を定着させ、議論のたかまりと深化をとおして、メディアは、政治に対して「課題」をつきつけ、議会における「議題」の成り行きを監視し、政治的公共空間を担保する役割を十全に発揮すべきなのである。
新しい「社会契約」とは
 生活世界の「植民地化」が進み、人びとの生のほとんどがシステムに組み込まれる時代に私たちは何をなすべきなのか。
 消費税をはじめとする「負担」が議論され、「年金」や「医療」といった「社会国家」の基本条件の大幅な変更が議論されてきているとき、問われている最も基本的な問いとは、「どのように共に社会を構成するのか」という社会の基本をなす問いであるだろう。
 私たち一人ひとりの「生活の問い」であると同時に、私たちの「社会」の未来についての問いであるだろう。
 だれが、どこまで、何を、どのように負担するのかという一連の問いは、どこまでがともに構成する社会としての関係を取り結ぶのかという、「社会」の約束をめぐる一連の問いである。
 社会を構成するという約束をあらためて取り交わすときに来ている。「社会権」(「生活権」)に関わる問いである(日本国憲法のいう「健康で文化的な最低限の生活」)。
 「社会権」の再設定、「社会国家」の再定義へと結びつく議論に「年金改革」や「消費税」をめぐる論議ははたして拡大していくだろうか。そこまで公共的な議論を深めていくことができるだろうか。それこそが、政治に問いかけられている問いである。

Ⅱ 公共空間を再定義する

 公共空間が〈社会〉を塑形する役割を果たすべきである。しかし、その公共空間が、いま世界中で解体の危機を迎えている。しかも、グローバル化の最大ファクターである情報伝達技術の発達にともなってその危機が進んでいる。
 近代の市民社会を生み出してきた活字メディアも、二十世紀の大衆メディアの主たるファクターでありつづけてきたテレビを中心とした放送メディアも、ネットに吞み込まれようとしている。現在の世界はマスメディアのゆるやかな解体期に差しかかっているのである。
 フランスの高級紙『ル・モンド』は、ここ数年来の経営危機から存続さえも危ぶまれる事態に陥っている。かつては八十万部近くあった発行部数は最近では三十万部台にまで減少、ここにきて記者のじつに三分の一を解雇した。インターネットの発達によって紙媒体での購読者が減少したことのほか、メディアミックス戦略の失敗、フリーペーパーの発達など複合的原因による危機である。現在パリの毎朝、地下鉄の入り口では、日本でいえばティッシュ配りを思わせるようなかたちで、黙々とフリーペーパー紙が行き交う人びとに配られ、そうしたタダの情報紙を車中で人びとが読んでいる姿を目にしていると、ヨーロッパを代表する高級紙が陥った危機の深刻さをひしひしと実感できる。この新聞が消えることになれば、その影響はフランス国内にとどまらない。
 他方、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、昨年九月に、オンライン紙面ウェブサイトを全面的に無料化した。それまで課金されていたサービスを無料化することで見込まれるアクセス数と広告料収入との釣り合いから、無料化に踏み切った方が有利であるとの判断からである。なんといっても世界的な英語紙のことだから、紙媒体での購読者が150万規模であっても、ネットアクセスは1300万を超えることが、こうした計算式が成り立つ背景にある。とくに、ウエブサイトに直接アクセスしてくる購読者以外に、サーチエンジンや他のサイトのリンクからやってくる「間接読者」の激増が、無料化への動機となったと同紙は説明している(2007年9月18日付)。
 では日本の場合はどうか。
 ここにきて新聞各社による、ネット時代への対応の動きが急である。各紙がおこなっている紙面改革の様子、新聞各社の連携の動き、テレビ局との株式持ち合いなどをみれば、いずれも、ネット時代の生き残りをかけた動きが活発である。
1 公共空間の危機とは何か
 問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの「公共空間」の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。以下では、新聞メディアの変容との関係で、何が「公共空間」を成立させるものであるのか、メディアのネット変容において何が問題であるのかを、一度原理にもどって考えてみることにしよう。

「生活情報」化

 日本の主要新聞紙は、朝刊・夕刊の一日二回発行、宅配制度によって各紙が数百万から一千万もの住民を読者として囲い込む、世界に類例のない制度である。『ニューヨーク・タイムズ』や『ル・モンド』のような知的エリートのみを読者層としているわけではない。一読すればあきらかだが、ひとつひとつの記事の長さ、使用用語の専門性、分析の深みにおいて、西欧有力紙には比べものにならない。しかし、マスとしての読者層の厚みと共有されている知識の拡がりという観点から言えば、高い平均値をもつ、大衆紙でも高級紙でもない大規模紙ということになるのだろう。いってみれば、「平均」が「高い」、日本的な「中間大衆」にとっての情報生活紙でありつづけてきたのだといえるのだろう。
 その日本の新聞だが、最近の様子を見れば、メディアの変容時代にどのように対応しようとしているのかを理解することができる。
 例えば、「朝日新聞」の場合(「be」と名打った「生活情報」紙面を充実させてきた。「b(ビジネス)アンドe(エンタテインメント)」という命名が示しているように、「仕事(すなわち「生産労働」生活)」に向かう途上でも、「娯楽(すなわち「消費」生活)」においても、「役に立つ」生活情報を提供することが狙いである。読者人口を「生活世界」の根元から情報回路に導き入れようとする戦略がそこには読み取れる。最近では、絵画鑑賞の欄にテレビタレントを起用したり、芸能人のライフストーリーを載せたりと、テレビメディアとの界面を意識した編集も目立っている。
 こうした「生活情報」化の動きは、「公共空間」の成立との関係でどのように解釈されるべきなのだろうか。
 一般紙が人びとの生活世界と直結した「生活情報」のボトムにまで降りて、人びとの情報生活を囲い込もうとする戦略の根には、消費社会への妥協(「消費生活」にとって役に立つ情報を提供するというニーズへの対応)、テレビメディアとの競合関係、あるいは各国で現在ますます「脅威」となっている「フリーペーパー」の隆盛への対抗などの理由があると考えられる。
 前回「情報オントロジー」という情報学の用語を用いたが、新聞を読んでいる者ならば誰もが経験的には知っているように、新聞はたんなる情報の集合でも、情報の伝達装置でもない。紙面に応じて情報は分類されてカテゴリ化を受け、世界の存在の階層レベルと文脈のなかに位置づけられて編集を受けている。新聞とは三十数面の紙面にもとづく、世界の出来事の秩序づけの媒介装置なのである。
紙面という〈媒介システム〉
 例題として、例えば、「食」に関わる「生活情報」を考えてみよう。その情報は、生活欄においては、レシピや健康のテーマと隣接しているかもしれない。しかし、同じ「食」に関わる情報は、別の紙面では、「医療」や「福祉」にかかわる紙面に登場するかもしれず、さらに、社会制度改革に関わる政治面や、食糧危機に関する経済面、環境問題にかかわる国際面、あるいは社説に現れるかもしれないのである。このようにひとつの情報の「存在」の仕方は、それ自体が多元的であり、新聞紙面の〈編集〉とは、これらの個別の情報をカテゴリ別に函数化して、〈社会〉を〈構成〉する活動である。このような媒介のシステムとして紙面を考えるなら、〈社会〉にとっての新聞紙面という〈媒介システム〉がもつ意味がより明確に定義できるであろう。
 このような〈情報〉の編集による〈構成〉なしに、そもそも認知的に〈社会〉を構成しえない。人びとの〈社会的判断力〉もまた、このような多元的な構成の支援なしに成立しえない。
 じっさい、それぞれの紙面には、部門に対応した記者たちの編成があり、編集の人的編成が、この媒介のシステムに対応している。それらの記者たちが、取材を通じて「情報」を掘り出し、記事化し、媒介のシステムに載せるのである。

「一覧性」

 新聞の情報の「一覧性」についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
 たしかに、社会の関心事を「共有する平面」をもつとは、「公共性」の条件である。紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられるのだ。
 こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
 いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動の原理である。
         *
 いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在レベル」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。

2 ネットとマスメディア

 ネットがマスメディアを吞み込むという危機感が拡がるようになってすでに久しい。じっさい、公共空間はネットとの関わりで、再定義される以外にない。活字メディアに関しても、テレビメディアに関してもそうなのである。

ネット化に立ちおくれる日本の活字紙
 日本では、読売、朝日、日本経済の三大紙が、「あらたにす」という総合サイトを今年になって立ち上げた。ネット上の新しい企てとしては、 現在までのところでは、率直にいって「何がやりたいのか分からない」中途半端な試みである。「一面記事」の比較や「社説の読み比べ」や、「ニュース案内人」を設けたり、「年金改革案」などについての三社記者の「座談会」などを行っているが、ネットの特性をほとんど活用していないことが特徴といえば特徴である。 
 販売流通路の統合や、紙面改革にともなう印刷設備の共通フォーマット化など、ネット上での共同以外での連携の方にむしろ主眼があるのかとさえ思われてくる。ネット上に、意味環境を構築しようという「Web2.0」的な発想がみえず、ネットを単なる発表の媒体としてのみ捉えているのではないかと疑われてしまうのである。
 ところが、キーワード横断検索をかけたり、テーマごとに各社の記事を相互に関係づけて可視化したり、セマンティックウェブ技術によりニュース知識のネットワークを作成したりといったWeb2.0的発明はいくらでも考えられるはずである。そのことによって、上記に述べたような、「新聞」とは何かという、「情報オントロジー」そのものを提示して、公共メディアとしての新聞の存在意義を意味環境として提示することができるはずである。あるいは諸外国の新聞メディアサイトですでに行われているように、アーカイブ検索機能をもたせ、過去の記事の検索を可能にすることもできるはずである。(*本論からそれるが、私の研究室では、ネット環境における「公共空間」構築のための「批評プラットフォーム」を作成する研究プロジェクトを推進しているが、そのような実験的なプロジェクトを行ってみてはどうだろうか。)
 巨大新聞の連携(カルテル?)によって、印刷および販売の経路を共有化し、 巨大な発行部数に物を言わせて、ネットをとおした状況の流動化を食い止めようという、「反—ネット革命」としての防衛策しかそこからはうかがい知れないようなのである。
 インターネットとの「界面」の模索という観点からいえば、例えば、昨年来の朝日新聞の活字紙本体の方の「紙面改革」に、より積極的な改革意識を見て取ることができる。「インデックス」と呼ばれるサムネイル付きの「頭出し」欄を一面右サイドに設置したのは、ポータルサイトなどとの親和性を意識した紙面デザインだと捉えられる。さらに、テレビやネットに比較して劣るニュースの速報性を捨て、より時間をかけた取材特集記事や掘り下げた解説に力を入れ、前節に挙げたシリーズ社説「希望社会への提言」(あるいはその前の「社説21」)のような長期的なプロスペクティヴに重点をおく姿勢は、の情報の体系性と媒介作用の追求という点からポジティヴに評価されるべき方向であると思われる。
 活字メディアは「活字メディア」としての特性を生かし、テレビは同時性のメディアとしての特性を生かし、ネットはヴァーチャリティーやインタラクティヴ性としてのメディア特性を生かす方向に進むことは、誰が見ても当然の解と思われるが、問題はどこに、公共空間を維持し・更新する動きとして、この三次元化へとメディア環境が移行することができるかである。
 その他にも、ネットをめぐっては、産経新聞がMSNと連携したことで、ニュース記事の検索順位が急激に上昇したり、TBSのニュース画面がAsahi.comの記事ページに組み込まれたり、といったことが次々に起こってきている。
 あるいは、朝日新聞は最近になってテレビ朝日との株式持ち合いを強化してグループの結束を強め、将来的にはネット企業との連携をも含めて、複合メディア的な連携によって、ネット時代に対応しようという方向を打ち出している。
 いずれも、活字、テレビ、ネットの三次元において、公共空間を再定義する方向しかないということを示すエピソードである。
ネット化に立ち遅れる日本のテレビ
 日本のテレビにも同じ問題を指摘できる。テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。

実世界への現前

 活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
 放送と通信の融合が語られるように、テレビもまたネットと融合しつつある。 リアルタイムで一覧をつくってきていたテレビの「実時間」が、ヴァーチャル化する。各テレビ局ともに、過去に放送されたテレビ番組のオンデマンド配信の実施へと動きつつあるが、番組がヴァーチャルにストックされた番組アーカイヴから、呼び出された「コンテンツ」の「時間」を「解凍」するようにして、番組を視聴することが一般化していくだろう。
 日本のテレビ局は、著作権処理などの問題の処理の遅れから、こうしたヴァーチャルな番組アーカイヴの公開に踏み切れていない。すでにYouTube上では、事実上そうしたアーカイブは自己組織的に形成されつつあり、世界中のほとんどあらゆる番組の任意の場面を見ることができるようになってきている。
 あるいは、そのようにアーカイブ化された動画自体に、注釈やコメントを付与する「メタデータ付与」技術が発達し、例えば「ニコニコ動画」のようなサイトの興隆を生んでいる。
 もしもこのような動きをネットの自己組織化のプロセスに任せきりにしていくならば、テレビ局は、自分たちが放送した番組の「整理」と「秩序づけ」、「意味づけ」を、ネットの自己組織的なイニシアティブに委ねてしまうことになるだろう。テレビ番組のアーカイヴ編成の原理と、メタな解釈のイニシアティブを、ネットに握られることになるのである。
ネットと批評空間
 ネットがベースとなったメディア生活とは、それぞれの視聴者が、ブログをもち、番組の任意のセグメントを切り出し、YouTubeのような動画投稿サイトに投稿し、コメントを加え、そのことによって、他の視聴者の番組視聴との相互の影響関係をつくっていくような、巨大な「批評空間」を生み出す可能性を秘めている。
 それが、「ニコニコ動画」のように極めて「貧しい」文化実践に商業的に押し込められて、人びとの視聴傾向を増幅し、さらにそれが、番組制作にフィードバックされて、番組の貧困化をまねく可能性は否定できない。他方、よりまっとうな、番組視聴の態度を社会的に育て、テレビ文化を「成熟」させるためには、テレビ局自身が、あるいは、テレビ文化をになう公共機関が、より健全な、番組視聴を可能にする、アーカイヴの編成原理の確立と、番組検索の技術、的確な批評を付与しうる、批評環境を、視聴者に提供すべきなのである。
 時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 ヴァーチャル化の時代には、アーカイヴを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。

 公共空間を編み直す

 ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。 
 ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
 他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
 私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。



2008年7月1日火曜日

「公共空間の再定義のために(2)回帰する社会」、『世界』、岩波書店、No.780, 2008年7月号, pp. 103-112

公共空間の再定義のために (第二回)

0「短命化」する各国政権

 二〇〇七年四月のフランス大統領選挙で五三パーセント余りの票を獲得してフランス第五共和制の第六代大統領に選ばれたニコラ・サルコジは、大統領着任直後の総選挙において与党が地滑り的な勝利を収め国民議会で絶対過半数の三一三議席を占め、世論調査による支持率も六五パーセントとドゴールに次ぐ記録的な支持率を記録していたが、二〇〇八年に入ると四十パーセント前半へと降下、三月の統一地方選挙では与党が大敗、大統領就任一年後の四月には世論調査でついに三十パーセント台にまで落下、国民の七二パーセントが大統領の政治に不満をもつという結果も出て、『Le Monde』紙は、「就任一年にして、第五共和制史上最も不人気な大統領となったニコラ・サルコジ!」(08年4月23日付)と見出しを打った。
 二〇〇七年六月にトニー・ブレアの後を受け継いで英国労働党の党首に選出され、第七四代英国首相に選出されたゴードン・ブラウンは、「コイズミの後を継いだが人気が急落した日本の首相アベ・シンゾーの二の舞にならないよう」(『The Observer』紙2007年85日付)心がけ、就任当初は堅実な政権運営で労働党の支持率も保守党を上回り解散もささやかれたが、減税、銀行危機、歳入関税庁による個人情報2500万件の紛失事件、労働党の献金疑惑などを受けて支持率が急落、今年三月には労働党支持率は二十五年来の最低を記録、五月の統一地方選では自由党をも下回る第三党に労働党が転落するという四十年来の歴史的敗北を喫することになった。
 イタリアのベルルスコーニの政権の後を襲ったプロディにも、そのプロディに取って代わったベルルスコーニにも、同様のことがいえるだろう。
 本年二月に第十七代大韓民国大統領に就任した李明博の支持率は、経済政策のつまづき、側近の辞任、アメリカ産牛肉の輸入問題をめぐって批判が急速に拡がり、政権発足当初の七十パーセント台からわずか二ヶ月で四十パーセン台へ、最近では二十五パーセントにまで落ち込んでいる。
 私たちの国では、二〇〇六年にコイズミ長期政権の後を受け継ぎ、当初の七十パーセント近くの支持率から就任一年足らずで三分の一の二十パーセント前半にまで降下し辞任したアベ・シンゾー。そして、やはり六割以上の支持から同じように半年で半減し二十パーセントさえも割り込みそうな現首相のフクダ・タケオ・・・。
 就任当初はいずれもかなり高い支持率を上げながら、半年もすればその支持率は半分以下になる。そして、遅かれ早かれ退場を余儀なくされる。この「短命化」現象はいったい何を意味しているのだろうか。
 もちろん、それぞれの国に異なる事情はある。政治家の資質もお互いに異なっている。サルコジやベルルスコーニやアベはメディア露出型政治だし、ブラウンやプロディやフクダはむしろメディアから距離をとり「地道な」姿勢を打ちだそうとしていただろう。サルコジ、李は大統領だし、ブラウン、プロディ、フクダは首相だ。 しかし、 大統領制も議院内閣制も、メディア露出型も露出抑制型も、同じように短期的変動を免れることができず、政権はたちまち立ち往生に見舞われる。それはいったいなぜなのか。
 前回述べた、世界化のサイクルの「別の回転」と、それは関係しているようにわたしには思われる。「政治の過渡期」の際だった兆候と考えるべきなのだ。
 一九九〇年代以降の長期政権を支えてきた主要なベクトルがかみ合わず「政治的合力」が今では生み出しがたくなっている。「政治」という前景と「社会」という後景とを結び合わせて分節化してきたメディアの「公共空間」が、ここにきてこわばってみえるのは、世界がいままでとはちがう「別の政治的構成」に向かって生成の途上にあると考えるべきではないか。

I〈大統領型政治〉の黄昏?


 民主社会における政治権力の「大統領型化」の傾向が、一九九〇年代以後の各国における政治を特徴づけてきた。英国のトニー・ブレア、ドイツのゲルハルト・シュレーダー、イタリアのベティノ・クラクシやベルルスコーニ、日本のコイズミなどに見られた政治権力である。
 まさしくそれは、グローバル化時代における政治が引き起こした現象だった。「首相公選制」が私たちの国でもさかんに議論されたのがこの時代であったことを思い出してもいい。
 そうした政治権力の「人格化(personalization)」、とくに「大統領型化 presidensialization)」は、 各国で「政治のメディア化(mediatization of politics) -- 私のいう「権力のメディア的変容」(『世界』〇六年六月号「テレビ国家(1)」) -- と軌を一にして進行した。比較政治学者のポグントケとウェッブは、「大統領型化とは、政体としては、ほとんどの場合、政体類型としての形式構造を変えることなしに、そのじっさいの実践において政治がより大統領的になるプロセスのことである」として、政治の「大統領型化」が政治リーダーの「三つの顔」に関して起こるとしている(ed. Th. Poguntke & P. Webb The Presidentialization of Politics, A Comparative Study of Modern Democracies,  Oxford Univ. Press 2005)。「 政府の顔(executive face)」、「 党の顔(party face)」、「 選挙の顔( electoral face)」、としての政治リーダーの人格化にもとづく権力の構成である。
三つの顔と四つの構造因
 「大統領型化」の背景には、四つの「構造因」が挙げられている。「①政治の国際化」、「②国家の増大」、「③メディアの構造変化」、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」である。以下、論者たちの議論を、若干の私見もまじえつつ手短かに要約しよう(同書 一三頁以下を参照)。
 ①グローバル化の進行とEUなど超国家的枠組みの形成により、「政治の国際化」が進んだ。民族紛争や国際テロリズムとの戦い、環境問題、移民政策、金融市場や国際投資の管理など、今日政府が直面する重要政策課題は国際的な政府間協議で決定されるイシューばかりである。グローバル化は、政府首脳およびそのブレーンに権力をシフト集中させ、政党や議会による政策決定への関与を減少させた。
 ②現代国家の巨大化は官僚的複雑化と専門化を招いたが、細分化された組織を調整するための政府執行部への権限の集中化、部門化された政策立案に対応した関係大臣と行政の長としての首相・大統領との直接やりとりによる政策決定の傾向を生んだ。こうした権限集中は、民営化や行政法人への移管など政府権力の減少を伴うとみられるリストラ局面において逆説的に促進される。「統治不能」に陥ったセクターを整理し、政府の責任を切り離す際に、政府中枢への権限集中は強化される。いわゆる「リーダーシップ」や「強い指導力」の名のもとに、大統領や首相といった行政の長に権威が集中する傾向が生まれるのである。
 ③テレビに代表される電子メディアの影響は一九六〇年代以降からのものだが、各国テレビの民営化の促進によって、それは加速された。テレビは政策プログラムよりはパーソナリティに焦点を当てて政治的争点の複雑さを減殺させる。また、政治家たちは、メディアの内発的なニーズに応えるべく内容や細部よりはシンボリズムに専念して応えるようになる。「現代政治のメディア化」とは、視覚メディアの特性を利用して、自分たちの目的のために単純化やシンボル操作をおこなう政治家たちによる意識的な選択の結果でもある。政府指導者たちがこうしたメディア技術のポテンシャルを使って他の政治アクターたちをバイパスし政治のアジェンダを設定しようとする。
 ④イデオロギーの終焉状況と、社会グループにもとづく諸政党の伝統的支持基盤の摩滅が進んだ。政党が社会の固定層に根をもたなくなる。伝統的な政党間のイデオロギー的分割とアイデンティティが揺らぐ。選挙民の社会的およびイデオロギー的構成が不均質化すると同時に政党の政策プログラムも同様に相互に区別がつきにくくなる。社会グループとしてのアイデンティティーが政治選択と投票行動を決する余地が減れば、現在の及び来るべき政府の長のパーソナルな特徴が比重を増す。政治家たちは、政治のリーダーシップの中心化に活路を見出すことになるのである。
 こうした、わたしたちにはいずれも既知感に満ちた四つの「構造因」を背景に、「政治家の個人的資質」および「政治的文脈」を「偶発因」として、「 政府の顔」、「❷党の顔」、「❸選挙の顔」が相互に働き合って、政治的合力として「政治の大統領型化」が導かれるとモデル化されている。(図 参照)

  「①政治の国際化」、「②国家の増大」、 「③メディアの構造変化」という三つの構造因は、政治家の「ⓐ個人的資質(personality)」を偶発因として、「❶政府の顔」としての政治リーダーの「大統領化」をもたらすベクトルとなる。
 「③メディアの構造変化」は政治家の「個人的資質」を偶発因として「❷党の顔」としての政治家の「大統領化」をもたらす。
 「③メディアの構造変化」および 「④政治の社会的支持基盤の摩滅」は、「ⓑ政治的文脈」を偶発因として、「❸選挙の顔」としての「大統領化」のベクトルとなる、という具合である。
 それらの「顔」は、相互に働きあい合力となって「政治の大統領型化」が起こるというわけである。
 「③メディアの構造変化」から三つのベクトルの矢が伸びていることが示すように、大統領型政治指導者の「三つの顔」の成立のために決定的な構造因は、テレビを中心とするメディアの影響力である。

日本における〈大統領型化〉

 さて、この「政治の大統領型化」モデルを日本の政治の文脈に適用すればどうだろう。 
 小泉は、この図式のあらゆるファクターに関して、「大統領型化」へのベクトルを調達することができた。グローバルな世界秩序の形成にむかう「①政治の国際化」は国際的なリーダシップというベクトルを(よくもあしくも、「靖国」問題というネガを含めて)与えたし、「②国家の増大」の問題系こそ「構造改革」のテーマであったし、「③メディアの構造変化」こそ小泉政治を推進した「構造因」そのものであったし、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」がこの「変人」政治家を「大統領型化」する政治の中心に呼び寄せたものだった。テレビ受けするルックスと物言いという「ⓐ個人的資質(personality)」にしても、9.11選挙のときのような「ⓑ政治的文脈」をつかむ巧みさによって、政治家の三つの「顔」を使い分けて好循環をつくりだし、まさに「大統領型政治」をコンプリートなかたちで成し遂げたのである。ブレアやベルルスコーニやシュレーダーのケースに関しても同じようなことがいえるであろう。小泉が「制度化」した「ぶらさがり取材」のように、テレビは政治を「内閣」のアクションに切り詰め、まさに政治家の「パーソナリティ化」、政治の「大統領型化」を推し進めたのだった。
 しかし、この図式を持ちだしたのは、いまさら、こうした「成功した」大統領型政治をあらためて確認し「賛嘆」する(!)ためではない。その後、なぜそれが世界各国でうまく巡らなくなったか、を考えるためである。
 安倍は、「ワタシの内閣、ワタシの内閣」という物言いを繰り返し、明らかに「大統領型」権力を夢見ていたふしがある。かれが政権にたどりついたときには、すでにグローバル化した世界秩序の時計は「別の回転」を始めていた。安倍は、すでに終わりに来ていた「ネオコン主権秩序」というまちがった世界地図をたよりに 「①政治の国際化」に対応しようとした。「③メディアの構造変化」を背景に、「血筋のよさ」や「若さ」という偶発因にもとづいて、「❷党の顔」の位置に一瞬たどり着いたにとどまった。なにより、構造因「②国家の増大」に関して、「年金問題」に見られる国家の複雑化にかかわる統治能力、内閣を統御する危機管理能力を示すことに失敗したことから「❶政府の顔」としてのリーダシップを示すことができず、「❸選挙の顔」としても負のスパイラルに落ち込んで失墜した事例だろう。
 他方、フクダは、安倍辞任という「ⓑ政治的文脈」の「偶発因」によって首相になった。「③メディアの構造変化」を生かすための「ⓐ個人的資質」を持たないことが、かれのすねた物言いを動機づけているだろう。そしてメディアからの引きが鮮明な指導者像を打ち出させなくしている。「①政治の国際化」に対応するアクションが「イラク特措法」延長や、日中外交や、環境サミットであっても、なにより、「②国家の増大」に関して、有効な手を打てないことが、「❶政府の顔」としてのディメンションの獲得を不可能にしている。
 対称的に、オザワは 、「③メディアの構造変化」に対応できない。「ⓐ個人的資質」という点で、フクダと歩調を合わせて、共同で「メディア・ポリティクスの不在」を競い合っている。「❷党の顔」、「❸選挙の顔」を、メディア露出を忌避しつつ実現しようというオザワの戦略は、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」に逆らって伝統的な政党支持を掘り起こすという「レトロ」な戦術だが効を奏するだろうか。メディア・ポリティクスの信用低下という「ⓑ政治的文脈」においては一定の効果を発揮するかも知れないが、いずれにしても、フクダもオザワも「大統領型政治」にたどりつく見込みはまずない、といえる。それを望んでいるとも思えないが・・・。

〈権力のメディア的変容〉の綻び

 諸外国においても同様の傾向は見てとれる。政権の交代直後は、「ⓑ政治的文脈」とメディア報道の活性化(「③メディアの構造変化」)に後押しされて「順調な船出」が保障されるが、四つの「構造因」に適切に対応し、「三つの顔」の良い循環をつくりだし、政権を浮揚させる条件が整わなくなってきている。「選挙の顔」であっても「政府の顔」にはなれず、「政府の顔」ではあっても「選挙の顔」や「政党の顔」になれずといった、「大統領型」の政治指導者をうみだす余地が見いだせないのである。
 冷戦終結後の20年間の世界のグローバル化の進行にともなって、 わたしたちは〈大統領型政治〉 というスキームにあまりに慣らされてきた。それこそがネオリベラル化する世界の「政治の理念型」をつくってきたともいえる。とくにテレビを中心とするメディアはこのタイプの政治権力の「構造因」である。それだけにテレビ的公共空間はこの「理念型」にもとづいて「政治」を測り評価しようとする傾向がある。そして、メディアの評価が、「世論」にも反映することになる。
 各国の政治は、過去15年つづいた、この理念型を求めて新たなに再び政権を生み出そうとしているが、しかし、ここにきて軒並み急速な「失速」と「失墜」の憂き目にあってきている。もはや〈大統領型政治〉が前提していた「構造因」とされた条件そのものがすでに大きく変化を起こし、基盤そのものがもはや存在しなくなってきているからではないのか。
 政治家もメディアも〈大統領型〉のスキームにとらわれているが、現実の方は別の方向に動き始めていると考えた方がいいのではないのだろうか。
 政治の〈大統領型〉がもはや趨勢ではないという認識に立ったとき、私たちには〈社会〉や〈議会〉に関して、新しい政治の展望が開かれてくるのではないのか。〈大統領型政治〉ではなく〈議会主義政治〉の基本、〈個人化する権力〉ではなく〈社会〉を視野に入れた、〈別の政治〉の可能性が見えてきはしないだろうか。そして、〈メディア〉は政治の〈個人化〉に手を貸すのではなく、あらたな〈公共空間〉をひらくために何をすればよいのか。あらためて確認するが、それがここでの私たちの問いである。

II 〈社会的なもの〉の浮上

 メディアが媒介する私たちの公共空間から、長いあいだ〈社会的なもの〉が排除されてきた。 もともと私たちの国では社会運動や労働問題に関するメディアによるカバーは著しく低調である。とくに、冷戦終結以後、「社会などというようなものは存在しない。」というマーガレット・サッチャーの言葉に象徴されるネオリベラリズム・イデオロギーが席巻する世界で、<社会的なもの>という観点から伝える報道は周縁に追いやられてきた。
 <個人><個物>に焦点を合わせるテレビにおいて、<社会的なもの>を伝えることはむずかしい。とくに、「ネオ・テレビ期」と呼ばれる、スタジオを中心とした番組づくりが主流となった時代において、テレビの”外”の世界や社会の”現実”を伝える番組ジャンルは等閑視されてきた。テレビはテレビのなかで話題を消費するためにあるという文化が支配的になるからである。バラエティやリアリティショー、トークショーの興隆をみればそれは分かる。本連載初回述べた、公共空間の「ドメスティケイト(内向化=馴致化)」が進んだのである。
テレビ的代表具現
 テレビ的世界の「人々」(ピープル)は、普通の人々と変わらない姿、物言いで登場するが、彼ら自身でそのまま「世界」を体現している。テレビ内の世界がそのまま独立した「世界」であって、人々を映し出す「鏡」だからである。
 これは、近代の市民革命時代の公共圏が生み出される前の王侯貴族の「具現的公共性」と似ている(ハーバーマス『公共性の構造転換』)。「存在」そのものからしてすでに、世界を「代表具現」するものとされる。だから「メディア貴族」といわれたりする。
 そこに政治家たちが招じ入れられると、「個人的資質」(「偶発因ⓐ」)に応じて「パーソナリティ」として、その「テレビ的世界」のなかに場を占める。「登場」するだけで「キャラ」になるのである。
 前節で述べた<大統領型化>との関連でいえば、政治指導者のテレビ的「パーソナリティ」化が起こり、それが「延長」されて、「小泉劇場」や「騎士ベルルスコーニ」、「ピープル(=タレント)大統領サルコジ」などが生まれることになる。

テレビにおける公共性の再転換  

 しかし、メディア、とくにテレビにおいて、ここに来て<社会的なもの>を媒介する番組が活性化している。逆説的だが、テレビが〈社会〉を再発見する動き、テレビ自身が〈社会的な番組ジャンル〉を再発見する動きといってもよい。さらにいえば、テレビの「公共性」の再発明といってもよい。
 端的にいえば、ドキュメンタリ番組の力が再び注目を集め始めているのである。もちろんこの動きは現実社会の深刻な実態と無縁でない。
 代表的な例は、2006年7月にNHK総合テレビが第一回を放送したNHKスペシャル『ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない 』である(『ワーキングプア II0612月放送、『ワーキングプア III0712月放送)。この番組は、「新しい貧困」の事例を描き出して衝撃を与えた。まさしく「公共放送」としてのNHKのレゾンデートルを証明したような番組である。チーフ・プロデューサーは制作の経緯を証言している ー 「私たちは、議論や討論をする番組ではなく、現実に今日本で起きていることを、きちんと映像で記録し、人々に報告する番組を創りたいと話し合っていた。(・・・)「すごいこと」が日本で起きていて、それが「きちんと伝えられていなかった」、だけなのである。日本各地で「豊かさ」のそのすぐ「隣」に、「新たな貧困」が生まれ、深く進行していた。」(NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編『ワーキングプア 日本を蝕む病』 藤木達弘 「はじめに」)。
 グローバル化した世界が生み出した「第一世界のなかにある第三世界」(ネグリ-ハート『帝国』』)、「第四世界のブラックホール」(Castells The Network Society )が、報道の対象になってきた。 番組制作者自身が〈社会〉を再発見する(それも「すごいこと」である)。〈メディア〉〉と〈現実〉とをめぐる、そういう状況がある。テレビ的世界のなかでの「議論や討論」でなく、「現実に起きていること」を、発見し「記録し、人々に報告する」、そこに過度にスタジオ中心化したテレビ・コミュニケーション(バラエティでも討論番組でもコミュニケーション・タイプとしては同じだ)に対する〈構造転換〉がある。
 『ワーキングプア』以外にも、福祉、医療、教育、地域、食糧など、「NHKスペシャル」や「ETV特集」でこのところ質の高い番組制作が目立っている。このところNHKは頑張ってきているのである。
 NHKだけではない。民放においても、ドキュメンタリ番組が力を発揮している。日テレ系のNNNドキュメント番組『ネットカフェ難民~漂流する貧困者たち』(20071月放送)から「ネットカフェ難民」という「流行語」が作り出された。

〈社会〉の再発見

 社会学者や経済学者が使い始めた、「格差社会」や「不平等社会」といった用語がメディアには定着した。「新しい貧困」の問題もさかんに取り上げれるようになってきた。テレビのニュースや報道番組の番組編成においても「社会」報道は重みを増しつつある。活字メディアでも、『毎日新聞』の特集「縦並び社会 格差の現場から」(20061月から)のような「格差社会」の掘り下げ、『朝日新聞』の「偽装請負」(2006年7月31日付から)キャンペーン報道のような「非正規労働」についての問題究明も進められてきている。そのような報道や番組の積み重ね、異なるメディア間の相互参照の重層化と相互引用をとおして「言説の編成」が起こり、〈社会〉が問題として存在し始め、世論を動かし始める。雨宮処凜は「プレカリアート」という言葉と出会うことで自身の問題を理解したと語っているが(『生きさせろ――難民化する若者たち』)、「言説編成」が成立して「現実」は表象可能になる。
 ひとことでいえば、メディアは、そしてメディアをとおして、私たちの社会は、〈社会〉を再発見しつつある。ヨーロッパではかなり前から議論されているような、「新しい〈社会問題〉」が存在し始めたのである。フランスの政治思想・歴史家のロザンバロンは書いている - 「〈社会問題〉という表現は、19世紀末に生まれたての産業社会の機能不全を表していた。成長の配当と社会闘争の成果はそのあと、当時のプロレタリアの状況を根本的に変革することを可能にした。(・・・)現在の社会的排除の現象は搾取の旧いカテゴリで説明できるわけではない。新しい社会問題が姿を出現したということなのである。」(Pierre Rosanvallon La nouvelle question sociale, Seuil, 1996)

ニュースの二態

 現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介する〈ジャーナリズム〉の活動が、ここにきてようやく再び活性化してきている、とまでいうと楽観的すぎるだろうか。
 私は、情報学・記号学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報オントロジー」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。
 外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、いくつもの情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
 「新しい出来事」の「知らせ(ニュース)」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は「主題(テーマ)」へと書き換えられ、「主題」は「話題(トピック)」となり、「既知」の「話題」に変えられ、「交換」の場へ「話ネタ」にかえられ「流通」のために差し向けられる。「共同体」に、「ニュース」は回収されると考えられる。「トピック市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはこのように出来ていると考えるべきではないのか。
 すぐれた報道やスクープには、新しい「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を現実に向けて開く契機が胚胎している。
 現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出され、「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter - esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」へのそのつどの開かれにあるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
 しかし、現代生活の自己充足したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される、かのようだ。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
 情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、それらは原理的にいってすべてすでに「既知」となった「情報」である。しかし、「知識」を抽出してくる作業(生産のプロセス)が、そこでは「不可視」化される。「信頼度」、「確度」が等閑視される。
「取材力」という資源
 「取材力」という資源(ニュースを生産する能力(「物作り」に似た問題))に物を言わせるべきなのである。News gatheringや、「検索」、「ゲート」、「ポータル」の機能については、ICTテクノロジーに、対抗のしようがない。
 しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す生産能力に関して言えば、マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大なリソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題はもちろん「流通の経済」にある。
 「事実」に対するadequatioを資源として「価値」を生み出す能力を資源とすべきなのである。(配信能力と事実発見力とが、どのような情報ニーズの集密度を達成するかが、「経済的な」ポジションを決めるだろう)。
 生活世界にメディアが触れるとき。「公共性」の原理的な再定義が求められている。
 ジャーナリズムの「情報存在論」が今日求められているのだ、と思われてくる。

社会と政治の界面

 さて、以上は、「危機」がここまで及んだことの徴であると同時に、メディアの「公共性」の自己再発見の契機が見えるという、やや希望的な観測である。「公共空間」が社会の媒介の空間であることの意識の覚醒がある。スペクタクル空間化していた公共圏、「具現的公共性」が支配していた公共圏に対して、「公共空間」を再び開く動き、「表象=代表」なき人々を「社会」に「再編入」する効果をもつ動きが、描かれはじめているというやや希望的な観測である。
 しかし、問題はさらに先にある。
 〈社会〉が発見されつつあるからといって、次に、それを〈政治〉に書き換えるプロセスが考えられなければならないからだ。メディアをとおした、〈社会問題〉と〈政治問題〉との分節化、どのように、それに表現を与えるのかという問題があるだろう。社会に関して政治を議論するメディアの枠組みの問題は、まだ課題として残されている。そして、そのとき重要なポイントとして現れるのが、〈議会〉の問題と、〈アジェンダ〉の設定である。




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