2008年8月1日金曜日

「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年8月号, pp.79-88

公共空間の再定義のために(3)

—新しい〈社会契約〉・新しい〈公共性〉—

           

議会のショートカット

 思いきって〝ナイーヴ〟な問いから問いを起こそう —
 〈議会〉というものを見直そうという気運はいまなぜ盛り上がらないのだろうか?
 世界化がひとつのサイクルを終え、「大統領型政治」が支配的な統治モデルである時代が各国において終わりの兆候を顕わにしている。06年のアメリカの中間選挙以後の政治状況、ヨーロッパ諸国の動き(今年3月のフランス統一地方選挙、5月のイギリス統一地方選挙)、アジアでの動き(4月の韓国総選挙)、そしてもちろんわが国の昨年7月の参院選を見れば、〈議会〉が政治の前面に登場してくる局面を各国とも迎えているはずだ。しかし、〈議会〉の意味を再考し、その位置をあらためて確認しようする正面切った議論が起こってきているように見えないのはなぜなのか。
 昨年の参院選挙の結果は、すぐさま「ねじれ国会」というネガティヴなスキームで議会の問題をとらえる言説のフォーメーションを呼び起こした。そして、生まれかけた〈議会〉についての新たな問い直しの可能性を卵のうちに殺してしまった。同時に進んだのは「大連立」密室協議であり、「ねじれ」は解消されるべき負の状況としてのみ捉えられることとなったのである。
 党首討論をほとんど開くこともなく、重要法案採決の節目に衆議院本会議への欠席を繰り返したオザワ党首の民主党が、議会をとおして社会の議論を起こすという代議制民主主義のプロセスを「とばす」ことに手を貸したことはいうまでもない。
 他方で、メディアの側も、「議会」を焦点化することにどれほど、工夫を凝らしたのだろうか。
 いかにも、きわめて〝ナイーヴ〟な、教科書的で理念的な問いではあっても問うべきなのである。〈社会〉の問題が、いま新たに頭をもたげてきたとき、それを代弁し代表して表現するのは、そもそも〈議会〉の役割ではなかったのか、と。
 現在の議会で、政治的公共圏が市民社会を媒介し、世論を反映した議会が政治権力を統御するというデモクラシーの古典的図式を、そのまま信じるわけにはいかないことなど誰でもが知っている。二十世紀以降の大衆民主主義では、自由な討議という理念型が、そのままでは機能しないことは、どの教科書にも書いてある。議会は政党に分割され、政党は社会的な階層や職業カテゴリ、団体、地域を固定的な基盤とし、「代議制民主主義」とはなによりもまず、そのような社会的分割を「政党政治」に「代表=表現する」役割を果たしている。そのような大衆民主主義の〝常識〟からいえば、議会とは次の選挙での力の有利な再配分をめざした、利益代表による議会戦術の展開される場以外ではない。しかし、こうした図式さえもがすでにあまりに古典的なモデルであることこそが現在の議会政治の問題なのではないのだろうか。
 伝統的な「政治の社会的支持基盤の摩滅」が現在ではすすんでいて、政党や議員は、いったい「誰」が「何」を代表しているのかさえも、かならずしも定かでないという状態にあるのかもしれない。現在では、どのような社会グループや地域や階層を「代表=代弁」しているのかという、「代表制」そのものが不安定化しているのかもしれない。そこに、議会の本当の混迷があるのではないのか。「メディア政治」の効果とはそのようなところにも現れている。メディアの「鏡」に自己を映すことによって「当選」を果たした議員は、「自分」が何を「反映」しているのかが分からなくなる。そのような「うつろな鏡」のような状況に、代議制民主主義が陥ってしまったらどうだろうか。
 「世論調査」の独裁が言われて久しい。テレビ時代には、日々の世論調査という「人気投票」が、「国政」を動かしていく。「代表民主制」を「バイパス」するメディアによる擬似的な「直接民主制」が、「正統性」を主張するようになる。しかし、そのとき「政治」は、どの「社会」を「代表」し、どこに「正統性」のよりどころをおくことになるのだろうか。

Ⅰ 新しい〈社会契約〉

 しかし、前回述べたように、人びとが〈生活〉に危機感を高め、〈社会国家〉が解体へと向かい、〈社会〉の輪郭が定かでなくなり、その分〈社会〉を再発見しようとする動きも生まれつつあるようだとするとどうなるだろうか。
 この一年あまりの間に次々と露呈してきた問題をもういちど思い起こしてみよう。二十世紀型の社会国家を基礎づけていた「生政治」がくずれ、人びとの「生活」が危機に直面し、「新しい社会問題」が浮上した。〈政治〉が〈社会〉との新しい約束を取り交わすときにきているのである。
 他方で、こうした事態の背景に、地球規模の「グローバルな次元では、炭素化石エネルギー問題が、ますます国際政治のアジェンダとして浮上してきている。冷戦終結後の世界のグローバル化を推し進めたのが、産油地域をめぐる戦争秩序の構築をとおしてグローバルな〈主権秩序〉を打ち立てようとしたのが、ブッシュ政権にみられる国際石油資本であった。現在では、エネルギー秩序のグローバル化のプロセスを裏返すように、「排出権取引」が語られ、代替エネルギー問題が食糧危機にまで及んでいる。エコロジーとグローバル秩序の形成とがリンクするようになってきている。
 さらにまた、資本主義そのものの変容と労働の変化がある。「新しい貧困」の背景にあるのは、「市場原理主義」や「ネオリベラリズム」や「金融資本主義」として現れた、情報伝達技術を基盤とした、「知識社会」や「知識資本主義」への資本主義のパラダイムシフトがある移行がある。
 これら一連の危機を、別のパラダイム連関をとおして、世界化の「別の回転」に応える時期が始まっていると考えられるのである。

公論の復権

 前回、テレビ番組における公共性の覚醒を指摘したが、「公論」の復権も俟たれている。
 社会にとって死活的な問題をアジェンダとする政治選択が課題となってきているのだ。
 「事実」報道や「話題」提供だけではなく、それをこえた社会の「ステーク」(争点)を掘り下げ、問題の拡がりを分析して明示する「アジェンダ」の提示が、メディアの役割である。
 そのような方向はしかしまったく見えていないというわけではない。
 このところ大新聞が「提言」型の社説や特集を掲げることが目立ってきている。新聞を報道ととらえるジャーナリズム観からは違和の表明もあるが、私はこれには肯定的である。
 永らくオピニオンという次元が、わが国の新聞には希薄であったからである。
 この間メディアはアジェンダ設定のヘゲモニーを、「政治」に奪われてきている。しかし、格差社会の進行、新しい貧困の蔓延、人口の高齢化、年金などの福祉問題の切迫など、「社会の選択」が問われてきている。社会にとって死活的な問題をアジェンダとする政治選択が課題となってきているのだ。
 「事実」報道や「話題」提供だけではなく、それをこえた社会の「ステーク」(争点)を掘り下げ、問題の拡がりを分析して明示する「課題(アジェンダ)」の提示が、メディアの役割である。
 「朝日新聞」は、2007年5月の21本の社説からなる「社説21」を掲載した2007年10月からは、毎週一回「希望社会への提言」という「シリーズ社説」を24本掲げた。少子高齢化社会の近未来像を描き、「連帯型福祉国家へ」をキーワードに、地方分権、少子化対策、年金改革、食糧政策といった基本問題について、日本社会にとってのアジェンダの提起を特集するようになった。また年金改革について、読売・朝日・日本経済の三社がそれぞれ独自の年金改革案を提起するようなことも起こってきた。
 選挙における「マニフェスト」の制度化、公共メディアによるアジェンダの提起、こうした動きがかみ合うことによって、「世論」形成に見通しを与える「目印」がととのうようになるのである。
「政治改革」以後の政治
 一九九〇年代の「政治改革」の成果が今問われているのだともいえる。「イデオロギーの終焉」以後、あるいは「政党政治」の終焉以後、政治的な体制選択の余地はなくなった。ナショナルな政治の「限界」こそが、ナショナリズムの「温床」となり、市場の閉塞こそが「市場原理」にほかならないという二者択一に立たされてきた。「生存」や「生活」を基礎にして「社会」を構成しなおす時期に差しかかっていると考えるべきである。
 しかし、社会国家の変革のテーマは、複雑化した現代国家の政治のことで大変難しい。「改革」が「規制緩和」と同一視されたり、単なる「官僚叩き」や「無駄遣い批判」のパフォーマンスに終始したり、単純化とデマゴギーが世論を誘導する様を私たちはなんども目にしてこなかっただろうか。汚職やスキャンダルが減らず、年金記録問題にみられるようなずさんな「官僚国家」の姿が露呈することもしばしばである。
 戦後「復興」期のケインズ型国家プロジェクトのような「政ー官」による「上からの改革」は起こりにくいのである。やはり、「社会」との「新しい契約」を政治が取り交わすための地道な努力が不可欠なのである。そして、その議論の「場」は、「議会」と「公論」と「社会」をむすんで興るしかない。内実のある「マニフェスト」にもとづく政治選択を定着させ、議論のたかまりと深化をとおして、メディアは、政治に対して「課題」をつきつけ、議会における「議題」の成り行きを監視し、政治的公共空間を担保する役割を十全に発揮すべきなのである。
新しい「社会契約」とは
 生活世界の「植民地化」が進み、人びとの生のほとんどがシステムに組み込まれる時代に私たちは何をなすべきなのか。
 消費税をはじめとする「負担」が議論され、「年金」や「医療」といった「社会国家」の基本条件の大幅な変更が議論されてきているとき、問われている最も基本的な問いとは、「どのように共に社会を構成するのか」という社会の基本をなす問いであるだろう。
 私たち一人ひとりの「生活の問い」であると同時に、私たちの「社会」の未来についての問いであるだろう。
 だれが、どこまで、何を、どのように負担するのかという一連の問いは、どこまでがともに構成する社会としての関係を取り結ぶのかという、「社会」の約束をめぐる一連の問いである。
 社会を構成するという約束をあらためて取り交わすときに来ている。「社会権」(「生活権」)に関わる問いである(日本国憲法のいう「健康で文化的な最低限の生活」)。
 「社会権」の再設定、「社会国家」の再定義へと結びつく議論に「年金改革」や「消費税」をめぐる論議ははたして拡大していくだろうか。そこまで公共的な議論を深めていくことができるだろうか。それこそが、政治に問いかけられている問いである。

Ⅱ 公共空間を再定義する

 公共空間が〈社会〉を塑形する役割を果たすべきである。しかし、その公共空間が、いま世界中で解体の危機を迎えている。しかも、グローバル化の最大ファクターである情報伝達技術の発達にともなってその危機が進んでいる。
 近代の市民社会を生み出してきた活字メディアも、二十世紀の大衆メディアの主たるファクターでありつづけてきたテレビを中心とした放送メディアも、ネットに吞み込まれようとしている。現在の世界はマスメディアのゆるやかな解体期に差しかかっているのである。
 フランスの高級紙『ル・モンド』は、ここ数年来の経営危機から存続さえも危ぶまれる事態に陥っている。かつては八十万部近くあった発行部数は最近では三十万部台にまで減少、ここにきて記者のじつに三分の一を解雇した。インターネットの発達によって紙媒体での購読者が減少したことのほか、メディアミックス戦略の失敗、フリーペーパーの発達など複合的原因による危機である。現在パリの毎朝、地下鉄の入り口では、日本でいえばティッシュ配りを思わせるようなかたちで、黙々とフリーペーパー紙が行き交う人びとに配られ、そうしたタダの情報紙を車中で人びとが読んでいる姿を目にしていると、ヨーロッパを代表する高級紙が陥った危機の深刻さをひしひしと実感できる。この新聞が消えることになれば、その影響はフランス国内にとどまらない。
 他方、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、昨年九月に、オンライン紙面ウェブサイトを全面的に無料化した。それまで課金されていたサービスを無料化することで見込まれるアクセス数と広告料収入との釣り合いから、無料化に踏み切った方が有利であるとの判断からである。なんといっても世界的な英語紙のことだから、紙媒体での購読者が150万規模であっても、ネットアクセスは1300万を超えることが、こうした計算式が成り立つ背景にある。とくに、ウエブサイトに直接アクセスしてくる購読者以外に、サーチエンジンや他のサイトのリンクからやってくる「間接読者」の激増が、無料化への動機となったと同紙は説明している(2007年9月18日付)。
 では日本の場合はどうか。
 ここにきて新聞各社による、ネット時代への対応の動きが急である。各紙がおこなっている紙面改革の様子、新聞各社の連携の動き、テレビ局との株式持ち合いなどをみれば、いずれも、ネット時代の生き残りをかけた動きが活発である。
1 公共空間の危機とは何か
 問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの「公共空間」の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。以下では、新聞メディアの変容との関係で、何が「公共空間」を成立させるものであるのか、メディアのネット変容において何が問題であるのかを、一度原理にもどって考えてみることにしよう。

「生活情報」化

 日本の主要新聞紙は、朝刊・夕刊の一日二回発行、宅配制度によって各紙が数百万から一千万もの住民を読者として囲い込む、世界に類例のない制度である。『ニューヨーク・タイムズ』や『ル・モンド』のような知的エリートのみを読者層としているわけではない。一読すればあきらかだが、ひとつひとつの記事の長さ、使用用語の専門性、分析の深みにおいて、西欧有力紙には比べものにならない。しかし、マスとしての読者層の厚みと共有されている知識の拡がりという観点から言えば、高い平均値をもつ、大衆紙でも高級紙でもない大規模紙ということになるのだろう。いってみれば、「平均」が「高い」、日本的な「中間大衆」にとっての情報生活紙でありつづけてきたのだといえるのだろう。
 その日本の新聞だが、最近の様子を見れば、メディアの変容時代にどのように対応しようとしているのかを理解することができる。
 例えば、「朝日新聞」の場合(「be」と名打った「生活情報」紙面を充実させてきた。「b(ビジネス)アンドe(エンタテインメント)」という命名が示しているように、「仕事(すなわち「生産労働」生活)」に向かう途上でも、「娯楽(すなわち「消費」生活)」においても、「役に立つ」生活情報を提供することが狙いである。読者人口を「生活世界」の根元から情報回路に導き入れようとする戦略がそこには読み取れる。最近では、絵画鑑賞の欄にテレビタレントを起用したり、芸能人のライフストーリーを載せたりと、テレビメディアとの界面を意識した編集も目立っている。
 こうした「生活情報」化の動きは、「公共空間」の成立との関係でどのように解釈されるべきなのだろうか。
 一般紙が人びとの生活世界と直結した「生活情報」のボトムにまで降りて、人びとの情報生活を囲い込もうとする戦略の根には、消費社会への妥協(「消費生活」にとって役に立つ情報を提供するというニーズへの対応)、テレビメディアとの競合関係、あるいは各国で現在ますます「脅威」となっている「フリーペーパー」の隆盛への対抗などの理由があると考えられる。
 前回「情報オントロジー」という情報学の用語を用いたが、新聞を読んでいる者ならば誰もが経験的には知っているように、新聞はたんなる情報の集合でも、情報の伝達装置でもない。紙面に応じて情報は分類されてカテゴリ化を受け、世界の存在の階層レベルと文脈のなかに位置づけられて編集を受けている。新聞とは三十数面の紙面にもとづく、世界の出来事の秩序づけの媒介装置なのである。
紙面という〈媒介システム〉
 例題として、例えば、「食」に関わる「生活情報」を考えてみよう。その情報は、生活欄においては、レシピや健康のテーマと隣接しているかもしれない。しかし、同じ「食」に関わる情報は、別の紙面では、「医療」や「福祉」にかかわる紙面に登場するかもしれず、さらに、社会制度改革に関わる政治面や、食糧危機に関する経済面、環境問題にかかわる国際面、あるいは社説に現れるかもしれないのである。このようにひとつの情報の「存在」の仕方は、それ自体が多元的であり、新聞紙面の〈編集〉とは、これらの個別の情報をカテゴリ別に函数化して、〈社会〉を〈構成〉する活動である。このような媒介のシステムとして紙面を考えるなら、〈社会〉にとっての新聞紙面という〈媒介システム〉がもつ意味がより明確に定義できるであろう。
 このような〈情報〉の編集による〈構成〉なしに、そもそも認知的に〈社会〉を構成しえない。人びとの〈社会的判断力〉もまた、このような多元的な構成の支援なしに成立しえない。
 じっさい、それぞれの紙面には、部門に対応した記者たちの編成があり、編集の人的編成が、この媒介のシステムに対応している。それらの記者たちが、取材を通じて「情報」を掘り出し、記事化し、媒介のシステムに載せるのである。

「一覧性」

 新聞の情報の「一覧性」についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
 たしかに、社会の関心事を「共有する平面」をもつとは、「公共性」の条件である。紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられるのだ。
 こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
 いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動の原理である。
         *
 いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在レベル」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。

2 ネットとマスメディア

 ネットがマスメディアを吞み込むという危機感が拡がるようになってすでに久しい。じっさい、公共空間はネットとの関わりで、再定義される以外にない。活字メディアに関しても、テレビメディアに関してもそうなのである。

ネット化に立ちおくれる日本の活字紙
 日本では、読売、朝日、日本経済の三大紙が、「あらたにす」という総合サイトを今年になって立ち上げた。ネット上の新しい企てとしては、 現在までのところでは、率直にいって「何がやりたいのか分からない」中途半端な試みである。「一面記事」の比較や「社説の読み比べ」や、「ニュース案内人」を設けたり、「年金改革案」などについての三社記者の「座談会」などを行っているが、ネットの特性をほとんど活用していないことが特徴といえば特徴である。 
 販売流通路の統合や、紙面改革にともなう印刷設備の共通フォーマット化など、ネット上での共同以外での連携の方にむしろ主眼があるのかとさえ思われてくる。ネット上に、意味環境を構築しようという「Web2.0」的な発想がみえず、ネットを単なる発表の媒体としてのみ捉えているのではないかと疑われてしまうのである。
 ところが、キーワード横断検索をかけたり、テーマごとに各社の記事を相互に関係づけて可視化したり、セマンティックウェブ技術によりニュース知識のネットワークを作成したりといったWeb2.0的発明はいくらでも考えられるはずである。そのことによって、上記に述べたような、「新聞」とは何かという、「情報オントロジー」そのものを提示して、公共メディアとしての新聞の存在意義を意味環境として提示することができるはずである。あるいは諸外国の新聞メディアサイトですでに行われているように、アーカイブ検索機能をもたせ、過去の記事の検索を可能にすることもできるはずである。(*本論からそれるが、私の研究室では、ネット環境における「公共空間」構築のための「批評プラットフォーム」を作成する研究プロジェクトを推進しているが、そのような実験的なプロジェクトを行ってみてはどうだろうか。)
 巨大新聞の連携(カルテル?)によって、印刷および販売の経路を共有化し、 巨大な発行部数に物を言わせて、ネットをとおした状況の流動化を食い止めようという、「反—ネット革命」としての防衛策しかそこからはうかがい知れないようなのである。
 インターネットとの「界面」の模索という観点からいえば、例えば、昨年来の朝日新聞の活字紙本体の方の「紙面改革」に、より積極的な改革意識を見て取ることができる。「インデックス」と呼ばれるサムネイル付きの「頭出し」欄を一面右サイドに設置したのは、ポータルサイトなどとの親和性を意識した紙面デザインだと捉えられる。さらに、テレビやネットに比較して劣るニュースの速報性を捨て、より時間をかけた取材特集記事や掘り下げた解説に力を入れ、前節に挙げたシリーズ社説「希望社会への提言」(あるいはその前の「社説21」)のような長期的なプロスペクティヴに重点をおく姿勢は、の情報の体系性と媒介作用の追求という点からポジティヴに評価されるべき方向であると思われる。
 活字メディアは「活字メディア」としての特性を生かし、テレビは同時性のメディアとしての特性を生かし、ネットはヴァーチャリティーやインタラクティヴ性としてのメディア特性を生かす方向に進むことは、誰が見ても当然の解と思われるが、問題はどこに、公共空間を維持し・更新する動きとして、この三次元化へとメディア環境が移行することができるかである。
 その他にも、ネットをめぐっては、産経新聞がMSNと連携したことで、ニュース記事の検索順位が急激に上昇したり、TBSのニュース画面がAsahi.comの記事ページに組み込まれたり、といったことが次々に起こってきている。
 あるいは、朝日新聞は最近になってテレビ朝日との株式持ち合いを強化してグループの結束を強め、将来的にはネット企業との連携をも含めて、複合メディア的な連携によって、ネット時代に対応しようという方向を打ち出している。
 いずれも、活字、テレビ、ネットの三次元において、公共空間を再定義する方向しかないということを示すエピソードである。
ネット化に立ち遅れる日本のテレビ
 日本のテレビにも同じ問題を指摘できる。テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。

実世界への現前

 活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
 放送と通信の融合が語られるように、テレビもまたネットと融合しつつある。 リアルタイムで一覧をつくってきていたテレビの「実時間」が、ヴァーチャル化する。各テレビ局ともに、過去に放送されたテレビ番組のオンデマンド配信の実施へと動きつつあるが、番組がヴァーチャルにストックされた番組アーカイヴから、呼び出された「コンテンツ」の「時間」を「解凍」するようにして、番組を視聴することが一般化していくだろう。
 日本のテレビ局は、著作権処理などの問題の処理の遅れから、こうしたヴァーチャルな番組アーカイヴの公開に踏み切れていない。すでにYouTube上では、事実上そうしたアーカイブは自己組織的に形成されつつあり、世界中のほとんどあらゆる番組の任意の場面を見ることができるようになってきている。
 あるいは、そのようにアーカイブ化された動画自体に、注釈やコメントを付与する「メタデータ付与」技術が発達し、例えば「ニコニコ動画」のようなサイトの興隆を生んでいる。
 もしもこのような動きをネットの自己組織化のプロセスに任せきりにしていくならば、テレビ局は、自分たちが放送した番組の「整理」と「秩序づけ」、「意味づけ」を、ネットの自己組織的なイニシアティブに委ねてしまうことになるだろう。テレビ番組のアーカイヴ編成の原理と、メタな解釈のイニシアティブを、ネットに握られることになるのである。
ネットと批評空間
 ネットがベースとなったメディア生活とは、それぞれの視聴者が、ブログをもち、番組の任意のセグメントを切り出し、YouTubeのような動画投稿サイトに投稿し、コメントを加え、そのことによって、他の視聴者の番組視聴との相互の影響関係をつくっていくような、巨大な「批評空間」を生み出す可能性を秘めている。
 それが、「ニコニコ動画」のように極めて「貧しい」文化実践に商業的に押し込められて、人びとの視聴傾向を増幅し、さらにそれが、番組制作にフィードバックされて、番組の貧困化をまねく可能性は否定できない。他方、よりまっとうな、番組視聴の態度を社会的に育て、テレビ文化を「成熟」させるためには、テレビ局自身が、あるいは、テレビ文化をになう公共機関が、より健全な、番組視聴を可能にする、アーカイヴの編成原理の確立と、番組検索の技術、的確な批評を付与しうる、批評環境を、視聴者に提供すべきなのである。
 時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 ヴァーチャル化の時代には、アーカイヴを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。

 公共空間を編み直す

 ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。 
 ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
 他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
 私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。



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