2008年9月1日月曜日

「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年9月号, pp. 112-121

公共空間の再定義のために(4)

公共空間を編み直す

            

0 情報は「タダ」なのか?

 私たちの時代には情報が氾濫し、「情報のコモディティー化(水と安全と情報はタダ)」が常識であると、 電通総研編『情報メディア白書2007』 (ダイヤモンド社刊、以下、『白書』と略)は、いとも簡単に語っている。たしかに、GoogleYahoo!のポータルサイトにアクセスし、「トピックス」をチェックしさえすれば、「世の中の動きを理解したと思うことのできるユーザー」は多く、それこそ「編集されたニュースの受動的な受容そのものであり、当初ビジョナリーたちが想定した能動的で「ネティズン」的なインターネットとはかけはなれている」と指摘している。
 人びとの生活時間は限られている。新聞など講読しても読む時間は少ないし、紙を処分するのも面倒だ。ネット上なら情報は「タダ」で手軽に手に入る。テレビも民放はタダだが、ネットなら好きな時間に好きな情報をチェックすればいい。「情報」の「コモディティー化」はそのようにそのようにしてますます進行し、購読料を支払って新聞をとろうという人の数は減少していく。課金システムを導入しているサイトは、特別なニーズ(多くの場合は「経済情報」だが)がないかぎり、運営を維持することは難しい。
「情報がタダになる」、「コモディティー(日用品)になる」とは、しかし、正確にはいったい何を意味しているのだろうか。

Ⅰ「意識の市場」としての情報空間

インターネットにおける民主主義を議論して話題となったアメリカの憲法学者キャス・サンスティーンは述べている --
 「消費者の注意力(attention)が[ネットという]新興市場では決定的で貴重な商品   (commodity) である(・・・)。注意(attention) をある方向に変えることができれば、得をする企業が出てくる。
 だから多数のウェブサイトが、情報や娯楽を消費者に無料で提供している。消費者は実際には商品であって、お金と引き換えに企業に広告主に『売られて』いるのだ。」(『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社刊、三八頁、議論のために原典から英語を補った)
 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、フランス最大の民放テレビ局TF1の会長による発言 -- 「コマーシャルのメッセージが知覚されるためには、視聴者の脳が活用可能になる必要がある。テレビ番組の役割とは視聴者の脳をそのようにし向けること、娯楽によって、二つの番組の間で脳を準備することなのだ。われわれがコカコーラに売るのは、人間の脳の活用可能な時間なのだ」を強く批判している
 「プログラム(番組)産業が売っているのはプログラム(番組)ではなく、広告スポットのための視聴者である。番組は、売りに出される意識を惹き付けることに役立つだけである。この市場において、一時間あたりの意識の値段は高くない。全国総合テレビ局を19時50分から20時50分の時間帯に1500万の人びとが視聴したとして、300万フランの広告収入があったとすると、意識の値段は、視聴市場において、20サンチームに『値する』ことになる。」(Bernard Stiegler, Mécréance et discrédit, tome 1, Galilée, pp.51-52

 前述の電通『白書』はノーベル経済学賞を受けた情報科学・認知科学者ハーバート・サイモンの言葉を引用している
「情報過多世界において、情報の豊富さは、別のものの希少を意味する。すなわち情報が消費する何らかのものの希少性をである。情報が消費するものが何かは、明白である。情報は受け手の興味(Attention)を消費するのだ。」(同書、26頁、訳文の不備を原典から補った。)
「注意力の経済」
 いずれも、近年さかんにいわれる「注意力の経済(アテンション・エコノミー)」を問題にしているのだ。
 メディアの情報空間は、一方から見れば、「公共空間」へのアクセスを意味しているだろう。だが、他方から見れば、視聴者の「意識」が売られる「市場」を意味している。消費者の「意識」をめぐって、自分のサイトへ誘導しようと、市場では「注意力 (Attention)」のたえざる争奪戦が繰り広げられているのだ。 
 近代資本主義の始まりにおいて、「公共空間」は、世界の動向や商品の交易にかかわる「情報」を手に入れ共有することで、「市民」たちの「意識」が「世界」を自律的にとらえるための媒介空間だった。20世紀の大衆社会では、「公共空間」は「PR空間」へと変貌し、市場を構成する産業および商品についての「情報」を、「生産者」および「消費者」の「意識」へと媒介する空間となった。モノの生産者としても、モノの消費者としても、「大衆」の「意識」は、「主体」を逃れていない。ところが、現在では、その「PR空間」は、より先鋭的な「意識の市場」と化しているのだ。
 今やあふれる「情報」とは、ありふれた「話題(トピックス)」にことであり、人びとの「注意」を「市場」に呼ぶ込むためにだけ「流通」している。「意識」が「資源」であり、「注意力」が「商品」である。メディアの情報空間は、人びとの「意識」を「囲い込み」、飼育しておくための「いけす」の役割を果たしているだけである。情報過多の世界では、本質的に新しい「情報」などなにもない。世界の出来事に関するひとびとの好奇心も逓減傾向にある。トリビアルな「小さな差異」に、人びとが「へー」ボタンを押し続けているような世界である。人気テレビ番組「トリビアの泉」とは、こうした「情報のいけす」の名なのである。広告主が、そのいけすから、視聴者の「意識」を買っていく。
 そして、「意識の市場」とは、「市場の市場」、ひとつの「メタ市場」である。「商品の市場」は買い手の「意識」によって構成される。その買い手の意識を売買するのが「意識の市場」である。そして「意識」は「時間」の関数である。どれだけの「時間」、視聴者の「脳を活用」できるかによって、買い取られる「意識」の高が決まってくる。だから人びとの視聴覚コンテンツや文化産品による「時間の商品化」をめぐって、「注意力」の争奪が行われている。
 経済学者で高名なエッセイスト、ジェレミー・リフキンは書いている
 「空間や物品の商品化から、人間の時間や生の経験の商品化へという変化は、いたるところで起こっている。我々の持つわずかな時間を狙って何らかの商業活動が入り込み、時間そのものが最も貴重な資源と化している。ファクスやボイスメール、携帯電話、二十四時間眠らない株式市場、同じく二四時間のATM(現金自動預入払出機)やネットバンキング、オールナイトの電子商取引や調査サービス、二四時間放映のテレビニュース、娯楽、二四時間オープンの飲食店、薬局、清掃業。これらすべてが我々の注意を惹こうと声高に叫んでいる。どれも人の意識の中へじわじわと侵入し、目覚めている時間の大半を奪い、思考の大半を占めるため、消費者は息を抜く暇もない。」(『エイジ・オブ・アクセス』、集英社刊、pp.153-154
 人びとの生が「情報テクノロジー」によって囲い込まれ「時間の商品化」が起こる。消費者の「注意力」は、 情報テクノロジーによって捕捉され、その「意識」を囲い込まれて、「売り」に出される。彼の「主体的統合」が、時間単位で切り売りされる。「意識」は、その「統合」を、「プログラム」に委ねることになる。
 「サービス」の享受とはこの意味で主体の徹底的な「受動化」であり、消費者は、身体も精神も自分自身で「総合」することができない存在となってしまう。「サービス」とは、消費する主体のプロレタリア化、「serf(奴隷)」化であるのだ。
 「情報がタダになる」とは、このようにシステムの奴隷になることであり、ひとびとの経験が文化商品として売られることであり、「時間」・「意識」が商品化されるということを意味している。
 ならば、「公共空間」としてもう一度人間性を回復し、「政治的主権」を取りもどす方向はあるのだろうか。

「生活世界」の危機

 現在では、人びとの生活世界そのものが内側からネットワークに二四時間接続している。「生活世界」そのものが「情報空間」に侵入されており、あなたの「注意力」を絶えず捕捉し、「意識」を産み出し続けている。

主体の危機

 ネットにおいては、メッセージはリニアーな構造をもっていない。新聞や本のように、メッセージが固定していない。テレビやラジオのように時間に沿って、時間に沿ってリニアーに流れていない。つねにハイパーリンクによって、時間はノン・リニアーによぎられ、メッセージが断片化してつらなっていく。マウスを五クリックより前に閲覧したページを思いだそうと試みるとよい。ただその痕跡は、情報テクノロジーによって捕捉されつづけている。
 情報テクノロジーのノンリニアーな時間によぎられる生活とは、人びとが自分自身の「意識」の「統合」を行う、カントのいう「統覚」に困難が生じる世界である。「統覚」とは、知覚を結合して主体の統一を保っている心の働きのことだ。「注意力の経済」に突き動かされて次々に送り込まれてくる「メディア・コンテンツ」は、人びとの視聴覚経験をとらえて知覚をつぎつぎと産み出していく。「主体の危機」がそこから生ずる。
 人びとがこうした環境において「自己」でありつづけうるためには、意識の痕跡を自分自身でとらえかえし、 自己の知覚の記憶を組織し直すことができる、「記憶の支え(hypomnemata)」が必要である。痕跡を産業的機械のプロセスにまかせてしまうのではなく、自分自身でそれをコントロールできる技術環境を手に入れる必要がある。生身の人間にではダメなのだ。相手は機械のプロセスなので「技術」を持たないと対抗できないのだ。
 「注意力の経済」が過度に進行し、さまざまな「刺激」が「知覚」を争奪するようになると、「注意力欠陥障害ADDS症候群」のような状態が生まれる。じっさいそうした症候との関連性が議論されている。人間の、そして私たちの子どもたちの「注意力」そのものを保全するケアが必要になるのだ。「象徴的貧困」や「実存的犯罪」の多発とこうした問題とは無関係ではないだろう。
 有害サイトや子どもたちのケータイ利用の問題だけでなく、情報テクノロジーを個人化や主体化のツールとして活用しうる方法を培うのでなければならない。私たちの「社会」に情報テクノロジーによる主体化のための基本的なリテラシーを持つと同時に、それを可能にする環境がもたらされる必要があるのである。 主体の意識を安定的に組織し、文化の主体にまで高める社会的なケアの仕組みが、情報社会にはどうしても必要なのである。「意識」そのものが「資源」なのだから、人間の「精神」の「持続可能性」こそテーマなのだ。

市民と社会の危機

 ネットをとおして情報が氾濫する社会においては、「公共空間」の「編み直し」が行われるのでなければならない。
 サンスティーンが指摘するようにネットは、ユーザーが「好きな情報のみ」を集めることを可能にする。消費者のために「便利な」技術であっても、異なる意見や趣味の人々、関心の必ずしもない出来事に出会う「必要のない」情報生活が可能になっている。
「民主制度は、広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とする。この主張に賛同する人たちからすれば、各自が前もって見たいもの、見たくないものを決めるシステムは、民主主義を危うくするものにみえるだろう。考え方の似たもの同士がもっぱら隔離された場所で交流しているだけでは、社会分裂と相互の誤解が起こりやすくなる。」(p.8)
 情報の収集をフィルタリングすることで、読みたいニュースだけを集めた自分用の「デーリー・ミー(日刊わたし)」新聞を読むようになる読者たち、自分に似た意見の人びととだけ議論することで自分に似た考えのみを増幅させていく「エコーチェンバー」現象、似たもの同士が意見を極端化させて群れをなす「集団的分極化」、断片的な情報によって一挙に人びとが結びついていく「サイバーカスケード」・・・。いずれも、私たちにとってすでに既知となったサイバー現象である。
 サンスティーンは、「消費者主権」と「政治的主権」とを対立させて論じている(p.60)
「消費者主権」の受動的な市民ではなく、「能動的な市民」による「政治的主権」をどのように担保できるかが、「インターネットによる民主主義」の掛け金(ステイク)である。
 この著者は、意見の異なるサイト間の相互リンクや「公共的なサイト」の運営などを提唱している。しかし、私にはその有効性に関しては疑問が残る。技術的な進化が起こりつつある環境に対して、政治的な理念のみによって「共和制」的な制約を加えることにどの程度の有効性があるだろうか。
 それよりも、技術革新の中から、ネットの再秩序化の動きと連動して、「公共空間を編み直す」ことをめざす方向はないものか。

「ネットを編み直す」

 「ネットを編み直す」プロジェクトとそれを呼んでもよい。
 二年ほど前から「Web 2.0」がさかんに喧伝されている。
 具体的には、Googleのようなロボットを使ったサーチエンジンを基軸に、blogや、Wiki, YouTube, などのコラボレーションツールの発達により、ネットを単なる一方的な情報の発信と閲覧の場としてではなく、情報が整理組織され、知識が生み出される「環境」へと変えるテクノロジー条件の成立と、それにともなう情報の「再組織化」の動きをいう。
 blogは「ブログ圏」という言葉を生み出したことが示すように、トラックバックによる相互リンクによって「討議空間」を構造的に生み出すことを可能にしたし、Wikiは集団的知性のコラボレーションを可能にしたし、YouTubeは映像および音響データの自然発生的なアーカイブを生み出した。SNS(ソーシャル・ネットワーク)のような、相互ルールの制定にもとづく「社会関係」を生み出す技術も登場した。これらはすべて、「参加」を可能にしたコラボレーション技術である。「意味環境」としての性格をネットが帯び始めたのである。
 Web 2.0がさかんにマーケティングの文脈で喧伝されたことが示すように、これらはいずれも「消費主権的」な使用に向けられうる技術であり、そのように、使われてきた。だが、そこには別の活用法が見えている。

ボトムアップかトップダウンか

 情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
 マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
 誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
 無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
 「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
 ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられるのである。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべきなのである。
 少し具体的に記してみよう。
実験例 
 ベルナール・スティグレールが主宰するフランス・ポンピドゥー・センターでは、視聴覚データにメタデータを付与し、共有することができる「タイム・ライン」という「批判の道具」を主軸に、展覧会や映像作家のコラボレーションをとおして、批評家の視線を提示するプロジェクトを行っている。
 彼らと協力して私の研究室では、TV番組をアーカイヴ化しタイムラインによって分析・批評し、「知恵の樹」と名付けたハイパーメディア型理論百科事典をベースに、「知識ネットワーク」をつくる「批評のためのプラットフォーム」を作成するプロジェクトを実施中である。
 情報が氾濫し、まさしくタダでアクセスできる時代には、むしろ、「確かな知識、「構造をもったメッセージの体系」(構築性)、「批評・批判」の方法、視点の提示と、受容のための「環境」の設計が重要性を増してくる。
 情報伝達技術がメッセージのエントロピーの増大への傾向を強めるとき、必要なことは、メッセージの信頼度、検証可能性、知識の確かさ、知の体系性を保証し、文化の公共性を担保しうる技術環境を用意することである。

ネットの「公共的イニシアティヴ」

 大学を始めとして、研究教育機関、図書館やさまざまなアーカイブ、公共の放送局、さらには、民間の大メディアを含む公共メディアや出版流通業界が、こうした「公共空間」を維持し、ネット社会のなかに「公共空間」を埋め込む役割を果たすべき時なのだ。それは公共空間の再生のためであると同時に、民間であっても公共的役割を果たすべき大メディアや出版流通業界のサバイバルのためにも必要なことであろう。
 すでにある知の体系、すでにある情報の秩序づけ、すでにある「言論空間」の構造を、ネットのなかに移植し、ネット文化を成熟させる、「公共的イニシアティヴ」が現在ほど求められるときはない。
 それこそが、ネットを「公共空間」として「編み直し」、文化を断片化しエントロピーを増大させ、文化的統合性を砕いて価値下落を引き起こし消費へと向かう方向ではなく、人間的価値と文化の高みを組み直し、持続可能な文化へとネット文化を転換させる、企てとなるのでなければならない。
 例えば、大新聞は、単に情報の流れを囲い込み、「ショートヘッド」の位置を維持しようとするのではなく、前回述べたような「トピックの階層性」を「可視化」し、それを「経験」することができるような「紙面構成」をネット上にも構築するなどして、「社会」の「再組織化」の実践へと踏み出すべきである。「デイリー・ミー」ではなく、人々を「社会」へと開く構造をデジタルメディアとして実現することは決して不可能ではない。消費者ではなく、市民として、位置づけることができるような使用が可能な環境を用意すべきなのである。

社会基盤としてのアーカイヴ

 テレビ放送に関しても同様のことがいえる。テレビがフローなメディアである時代は終わりに近づいている。オンデマンド配信の事業化に見られるように、テレビもまた「ストック型」のメディアとしての性格を併せ持つ時代へと入ってきた。そのとき、決定的に重要なのは、リアルタイムでの実世界への遠隔現前というテレビの本性と、ヴァーチャルな時間性において蓄積されたデータとの間を、スムーズに行き来することを許すアーカイヴの設計である。
 アーカイヴ機能を、YouTubeのような自己組織化のイニシアティブにゆだねておけば、断片的で恣意的な「資料」にもとづいて生成することが、アーカイヴの編成原理となってしまう。それでは、社会の記憶、国民の記憶を偶発的な自己組織化の原理にゆだねることになる。テレビ放送は「公共の時間」をどのように組織してきたか。いかに、人々の生活世界にテレビは触れてきたかを、明確に整理し、文化の記憶と成熟に役立つデータ構造にもとづいたアーカイヴを組織し、合理的な活用が可能なアーカイヴをこそ放送局はつくるべきである。
 こうした試みの最大の達成は、フランスのINAによるアーカイヴの形成と公開である。パブリックなメモリー(公共的記憶)のアーカイヴ、社会の時間を正確で合理的な呼び戻しができる文化事業が求められている。そうすることで初めて、文化の豊かな実践が促され、よい番組づくり、放送文化の成熟への道が開かれるのである。
 アーカイヴを単なる消費者に対する商業的なコンテンツ配信事業としてのみとらえるのでは、文化産業自体の成熟もおぼつかない。 

Ⅳ 再編される政治的公共圏

 さて、四回にわたって連載してきたが、最後に述べたようなネットベースの「公共空間の編み直し」は、連載を通じて随時参照してきた、グローバル化する世界の政治メディア状況とどのように結びつくだろうか。
 冷戦の終結以後、世界の情報秩序は、世界の主権秩序の成立(〈帝国〉)と歩を合わせて成立してきた。インターネットの出現も冷戦終結にともなう軍事技術の民間への転用の結果である。この新たな情報インフラは、産業の成立原理を変え、労働の成り立ちを大きく変化させてきた。そして、人々をそのネットワークのなかにとらえるようになった。すべての人々が「ネットワーク内存在」として生きる時代になってきたのである。
 世界と同時的に結びつける通信網がおよそすべてのメディアの情報を包摂し、瞬時に、すべての情報がアーカイヴ化され、また呼び戻される時代がやってきたのである。よくもあしくも、私たちはサイバースペースを経由して「生活する」ようになったのである。
 こうした「情報世界秩序」の第二期にはどのような「政体構成」の変化が生まれようとしているのか目が離せない。

「サウンドブラストの時代へようこそ」

 現在進行中のアメリカ大統領選挙だが、今回の選挙はYouTube選挙であるといわれている。
 インターネット市場における新しいジャーナリズム・ベンチャーとして注目されている政治専門オンライン紙The PoliticoPolitico.com は、本年3月26日アメリカ大統領候補指名選挙キャンペーンについて「サウンドブラストの時代へようこそ」へという記事を掲載した(”Welcome to the age of the sound blast by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008:
http://www.politico.com/news/stories/0308/9222.html)。このThe Politicoとは、ワシントン・ポスト紙の有力編集者をヘッドに、2008年の大統領選挙に照準して一年半前に立ち上げられた、活字とテレビとインターネットが完全に連動した新しいジャーナリズムの試みである。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。The Politicoの記事は、2008年のバラク・オバマとヒラリー・クリントンの指名争いは、「インターネットがテレビの支配を終焉させた瞬間として歴史に残るものとなるだろう」と述べている。
 「ケネディ・ニクソン討論」」以後、テレビ政治の時代がやってきた。しかも、テレビは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンドバイト」全盛の時代を迎える。
 1968年の大統領選では、ニュースショーでの候補者のサウンドバイトの平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少。1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ。
 記事はいう。バラク・オバマはこうしたテレビ政治の前提を過去のものとしつつある。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、拡げるように支持者たちに呼びかける。
 オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回、「ちょっと見」はこの動画投稿サイトではカウントされないので、すべて全体を見た人たちの数字である。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13,3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 対するヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示している。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンドバイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 「サウンドバイト(「音のエサ撒き」の意:印象的でキャッチーな短いフレーズからなる抜粋、石田註)の時代はまだ死んでいないが、サウンドブラスト(「音の爆風」の意:ドキュメント、息の長い、奥行きのある説得、石田註)の時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」、と記事は結んでいる。
 これこそ、私が語ってきた、ネット環境における「新しい公共空間」の成立可能性を示すエピソードである。情報テクノロジー環境に生み出されたアーカイヴによって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる。「批判・批評」の空間が生み出されるのである。
 このように確実に始まっている公共空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化、を見ていると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではない、ことが見えてくるのではないか。
「サウンドバイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」にしても、「サウンドブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。人々は、ネット上で、議会での討論にコメントを加えたり、批判を加えたりして、それを「議論」することができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」の価値が再評価されるようになるかもしれないではないか。
「批判テクノロジー」と「参加型民主主義」
 以上に一端を紹介してきた情報テクノロジーはいずれも「参加型テクノロジー」である。マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
 「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
 そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。アメリカ大統領選挙(オバマ民主党候補による「参加型民主主義Participatory Democracy」の主張)やフランス大統領選挙(セゴレーヌ・ロワイヤル社会党候補による「参加型民主主義 Démocratie participative」)で、「参加型民主主義」が、論争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。



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