笑うタレント知事とポピュリズム
1 「大きな乳房とBMW」
2005年ごろをピークとした世界各国におけるメディア・ポリティクス全盛の時代の潮目が変わりつつあるのではないか。メディア効果を十全に組み込んだ長期政権のあと、各国ともその揺り戻しか、控えめのメディア戦略と旧来の堅実な政権運営にもどろうという動きがある。しかし、メディア露出型もメディア抑制型もいずれもうまくいきそうにない。世界のグローバル化の現在の局面がその理由と思われるのだが、それは余所で書いたのでここでは措くとして(『世界』08年6月・7月号)、各国のメディア・ポピュリズム現象はむしろ中心から周縁へ、具体的には、地方政治へと移動しているようだ。
イギリスでは、周到なメディア戦略で長期政権を維持したブレア政権を受け継いだ、ブラウン首班内閣が地味な政権運営姿勢をとったが、支持率が低落。労働党の凋落を決定づけたのは、本年5月、異色の保守党政治家ボリス・ジョンソンのロンドン市長当選だ。名門イートン校、オックスフォード大出身の超エリートながら、「トーリー(保守党)に投票すれば、あんたの奥さんのおっぱいはもっと大きくなり、BMWの高級車だって手に入るかもしれないぜ」など、掟破りのジョークや失言の多さで知られる。
BBCのお笑いバラエティ番組の常連、ぼさぼさの金髪頭で自転車で登院し、破天荒の行動で知られ、コラムニストから下院当選
、一時は保守党の広報戦略責任者。しかし、イラク人質殺害事件について、犠牲者を出したリヴァプール市民が被害感情に惑溺しているなどと侮辱、パプア・ニューギニアについて「人食いや首長殺し」に関する差別的失言など失態の多さには事欠かない。だが、人権、人種問題、性差についてのぎりぎり発言が、メディア的「人気」を増幅していくのだ。『72人の処女』というイスラム原理主義をもじった政治的風刺小説さえ物している、超エリート「ぶっ飛び政治家」である(その小説は『世界同時中継!朝まで生テロリスト?』という題であの扶桑社から翻訳が刊行されさえしている)。イラク戦争に反対したこれまた異端の労働党ケン・リビングストン前市長に対する対抗馬として担ぎ出され、ポピュリズム的人気で目下快調に進化しつつあるらしい。
こんなところにも変化の兆しは見える。ブレア時代の「セクシー」なメディア戦略から、「実直な」で地道な「政治運営」へと中央の政治が変われば、大衆の欲望は、むしろ、別の方向へと向かう。結晶化していたメディア型政治が流動化し、各国の「リビドー政治」が組み替えの時期を迎えているらしい。そして、私たちの国でも、大衆のリビドーが「投機先」を求めて流動化し、メディアはフラストレーションをつのらせ、新たなタイプのポピュリズムの「トリガー」を求めて蠢き始めている。
2「タレント」的歪像化
小泉・安倍時代のメディア政治に一定程度の懐疑が起こり、中央の政治においては、政治のバラエティ化がひと区切りを迎えたかのようだ。政治のコミュニケーションの回路は二つに分かれていきつつあるように見える。
一方は、「旧来の政治」に戻ろうとするベクトル。フクダ・オザワ的路線と呼んでもよい。あるいは、より新しい、まじめな「説得による政治」へと向かう動きもある(「岡田克也」的方向といってもよい)。
他方は、「メディアの欲望」に応える政治である。こちらは、中央においてはやや潜伏期にあり(「麻生太郎」などが政権につけば再び活性化する可能性がある)、むしろ、「そのまんま」現象や「橋下」現象として現れている。政治がメディア化すれば、タレントそのものを政治家としてつくってしまおう、というメディアの欲望もさかんになる。「そのまんま」や「橋下」現象は、そのような潜伏するメディア・ポピュリズムの表現なのではないか。
私たちは自分たちの政治意識の縁のところで、地方の「政治」を捉えている。それらは、文字通り周縁情報として、意識のなかに流れ込むが、「正視」されることは少ない。しかし、タレント知事の「顔」がそこに現れると、そこに注目して「地方の政治空間」をのぞき込むようになる。「キャラ」の「顔」から覗き込むとどのような「政治の姿」が見えるのだろうか。 そこにはなにがしかの政治空間の屈折があり、そこに生まれる像の歪みをとおして、私たちの政治の何かが語られているはずである。
3「ゆるキャラ」知事の誕生
「そのまんま東」こと、東国原英夫宮崎県知事は、もっか最も注目を集めている「ゆるキャラ」的タレント知事である。
かれが「知事になった」こと自体が、瓢箪を逆さにしたような「そのまんま」顔を、宮崎の「キャラ」に変えるプロジェクトである。かれのマニフェストのイラストを見てほしい(図「」参照)。タレントの存在とは、端的に、メディアにおける「笑い顔」の認知度であり、「キャラ」の機能とは、笑い顔をとおした、コミュニケーションの「パーソナライゼーション」である。ゆるキャラには、コンタクト、笑いを交えた共犯関係、親しみを打ち立て「全国の眼差し」を呼び込む狙いがあるのだ。
「そのまんま東」というタレントと「東国原英夫」知事との間にある、面白い関係に注目したい。「東国原知事」の言葉遣いは「そのまんま東」を知っていると、とても「変」なのだ。タレント「そのまんま東」というフレームから見ていると、いかにも、じつはこれは冗談だ、ギャグだと、吹きだしそうになる。そのタレント顔が、そそくさと「精査します」だとか、「喫緊に取り組むべき」だとか、やや生硬な知事の「公式の言葉遣い」を操って、「知事」として「進化」しつつある。「ことばづかい」や「ものごし」に、いつもユーモラスなずれや齟齬がある。どっちのフレームから視ようかという、「とまどい」にいつも私たちはとらえられ、そのずれこそが「ゆるさ」の感覚をつくっている。人びとが警戒心を解き安心させる効果をもたらすのだ。
かれのマニフェストは、どうせいいかげんなヤツだろうという「期待」を裏切る周到なものだった。
「宮崎をどげんかせんといかん!」
「何とかせんといかん!」
私がこれまで培ってきた経験や人脈、スキル(手練)を今こそ宮崎に還元し、宮崎の宮崎による宮崎のための活動を県民の皆様と一緒に協働・共有したい。私の持っている全てのエネルギーやマンパワー、ネットワークをフルに活用し、この豊かな宮崎を日本国中・世界中に全力でPRしていくことで、宮崎再建・宮崎自立に尽くしたい。
このタレント知事は、自らがメディアの触媒となることによって、宮崎県民が「キャラ立ち」し「ひとり立ち」する「お手伝い」をしようとしているのだ。「宮崎改新」のプログラムは、メディアをとおした人びとの「注目」の二重三重のキャプチャーから成り立っている。
(1)タレントとして県民の注目を集めること、
(2)タレントとして全国の注目を集めること
(3)「知事キャラ」として立つこと
メディア的な注目をうまく政治メッセージの回路に呼び込んで、それらの注目を梃子にして、「改新」のための政治的力を生み出すこと。「どげんかせんないかんが」宣言、「変わらんといかんが」宣言、「がんばいよ」宣言、という三つの政治メッセージにつなげていく。「タレント」というメディア資本を使った、ある種の「政治コミュニケーション」革命がプログラム化されているのである。
皆さんは、恋愛観察バラエティ「あいのり」のような番組を知っているだろうか。男女7名の参加者が世界を旅する「あいのり」バスに乗り込み、そのなかからカップルが誕生するか観察する内容だが、
「リアリティーショー」と呼ばれるテレビ番組のジャンルだ。テレビ番組自体がつくりだす「現実」のドラマを実況するバラエティショーだ。テレビが現実を生み出すプロセス自体が「番組化」されていくような番組である。
私たちは、「政治」の素人であったタレント「そのまんま東」くんが、実際の「知事」になっていくリアリティーショーを見ているようなものだ。
就任直後の「鳥インフルエンザ」対策、「入札改革」の実行、議会における「一問一答」方式の導入、「裏金はございませんか」というパフォーマンス、いずれも、鮮やかなリアリティーショーだった。じつに堂に入った「タレント」知事のパフォーマンスである。「そのまんま東」という「政治の素人」が、「知事」になっていく現実のドラマを実況中継されつづけているのである。
もちろん「タレント」につきもののとんでもない「失敗」だってある。就任直後の「副知事」選任問題は、まさに「浮動することを宿命づけられている」タレントゆえの、フロイト的な「しくじり行為」と見てもよいかもしれない。
タレントの弱点とは、つねに「プロデュース」してくれる存在を必要としていることにある。「官僚」や「議会与党」を必然的に呼び寄せてしまう衝動にかられる。「人気」のみが資本であることの哀しさがそこにある。その「象徴資本」を失ったとたんに、彼は地方政治のパワーポリティクスに吞み込まれ、地方官僚や地方権力の「操り人形」になってしまいはしないだろうか。
タレント知事は、ほんとうの「改新知事」になれるのだろうか。そのまんまのプログラムとは、メディア露出だけが「権力の源泉」であることの困難さを示してはいまいか。彼の貢献が「タレント」としての知名度を活用した、「コミュニケーション革命」、「ソフト革命」、「意識革命」であるとすると、かれはずっと「そのまんま」でありつづける必要があるだろう。「人気」が「基盤」であることで、「そのまんま」は「東国原知事」になりきりつづけるリアリティーショーを演じ続ける。それがPR知事の宿命である。
4 〈笑い〉と〈暴力〉
「そのまんまー東国原」が、どちらかというと明るい系のリアリティーショーを展開しているとしたら、大阪府知事「橋下徹」は、より攻撃的(アグレッシヴ)で、破壊的なメディア・ポピュリズム政治を展開中である。
もともと、消費者金融大手子会社の商工ローン会社の顧問弁護士を務めていたこともある、このタレント弁護士は、物議をかもす不規則発言で名をはせ、ワイドショーや法律バラエティ番組(日本テレビ「行列の出来る法律相談所」)、ポピュリズム的トークショー(読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」)のパーソナリティーやコメンテーターとして、自分のメディア資本を作り出してきた。典型的なポピュリストだ。ここに、その詳細を記すことさえ気が滅入る数々の暴言や失言、バイアス発言、罵詈雑言の数々(「日本人による買春は中国へのODA(政府開発援助)みたいなもの」と発言、「能や狂言が好きな人は変質者」などと発言等々)。それらを観察してみれば、テレビにおける笑いやギャグと攻撃性との関係が明らかになる。「笑い」を「嗤い」と書き換えてみればその攻撃性はあきらかになる。
今日のテレビ番組には、〈笑い〉が満ちている。しかし、その笑いのある種のものは、人々の心理の底にある、暗い欲動に結びついていることがある。それは、レイシズム的な欲動であったり、ホモフォビア的な欲動、ナショナリズム的な欲動であったりする。彼が重ねてきた様々な放言や暴言、不規則発言の類は、バラエティ的笑いをとおして、そうした暗い欲動にサインを送る「嗤いのサウンドバイト」としての効果をもってきたのではないのか。「法律家」という職業と、そうした「失言」とのミスマッチ、それこそが、かれの「扇動家」としてのパーソナリティーを形作ってきているのではないのか。私は、この人物について、その「原ファシズム」的ともいうべき資質について、重大な疑念を抱いている。
テレビ番組で光市母子殺害事件裁判にかんして弁護士会の懲戒請求を呼びかけるなどの言動も、まさに扇動家としての面目躍如である。
そのように積み重ねられた話題を人気のベースに、『おおさかを笑顔にするプラン』というきわめて大綱的な文書を「公約」と称して、選挙直前になって、大阪府知事選に打って出た。ここでも「笑い」をモチーフにしている(「子どもが笑う、大人も笑う大阪に」)ところに、テレビバラエティー出身を意識したメッセージのつくりがある。
候補者のポピュリズム傾向に呼応するように、スポーツ紙・芸能紙に代表される大衆メディアが、橋下を大々的にとりあげた。9・11小泉選挙と同じ構図で選挙キャンペーンは進んだのである。本人は、演説では政策を訴えるのではなく、人々が聞きたいことを訴えたのだという。「(島田)伸助さんに言われて、演説で、情に訴えなアカン、頭に訴えたらアカン」(「行列のできる」08年4月27日放送)と実行した述べている。人びとの情動的な部分をとらえ、増幅していく戦略がそこには見えている。
そして、知事就任後は、「公約」の基本部分を、「机上の空論」であったなどとして、あっさり転換。持ち前の「口撃」能力にものを言わせて、不都合な部分はメディア批判でかわすなどして、「大阪府財政非常事態宣言」を発して全権掌握、トップダウン型の「プロジェクトチーム」を発足させ、財政再建のための「戦い」の演出に乗り出している。
その一挙手一頭足が、メディアの話題に増幅され、「攻撃性」そのものが財政立て直しのための「バトル」として演出されていく。そんな光景を、私たちは目の当たりにしている。
四月になって橋下は「行列のできる」に「特別ゲスト」として出演。府議会との対立について司会の島田紳助が「何か正しい事しようと思ったら既得権益持っている方は嫌いますから」などと持ち上げつつ導入。選挙戦の回顧映像と府議会での対立の映像のあと、大阪府は「全面戦争」の状態だなどと解説。橋下は選挙の経験、島田から「演説」を教えてもらったなどエピソードを紹介。最後の部分で、次のように発言した。
橋下徹:
「行列」のみなさんに、ほんとうにお礼を申し上げたいのはね、本来の選挙いうたら、いろんな団体・グループにお願いし票をもらって、と、そうするとどうしてもそういう人たちのことを考えなきゃいけないってところがあったんですけど、たまたま僕の今回の選挙は、このメディア、「行列」、出させてもらってたってことがあるから、なにもそういうつきあいのないところで票をもらったんです、だから、いわゆる票のことを考えてしまったら、「ココ切れません」、「ココ切れません」、「ココ切れません」となるんですけど、いまね、ここ5年後、10年後のことを思って、いろんなしがらみのないところで、エイヤ!でやろうと思っていますので、また、このエイヤ!でやれる環境をつくってもらったね、この番組にはほんとうに感謝してるんですよ。
島田紳助:
橋下知事で変えられんかったらこの街は終わりや。大阪府が変わるラストチャンスや。(以下略)
「法律相談」を名打った番組が、「公選法」に照らしてきわめて疑わしい「当選御礼」番組と化していることは一体どう判断したらいいのだろうか。
ここに述べられているのは、代議制民主主義の否定である。メディアをとおして調達された「人気」が、有権者の「意思」に取って代わる。しかも、その同意の調達は、政策ではなく、もっぱら情緒的訴えによって行われたものなのだと本人があけすけに述懐している。
このように、わずかの「公約」さえ、あっというまに翻され、同時に、「非常事態宣言」で批判を封じる。それを、「全面戦争」と、ポピュリズム番組ホストのお笑いタレントがもちあげて擁護する。笑いの共犯関係による、批判の封じ込めが、公共の放送電波をつかってまかりとおる。
ここにあるのは、〈笑い〉による剥き出しの「象徴暴力」の支配、「笑いのファシズム」状態である。
朝礼で抗議の声をあげた女性職員は、すぐに、メディア・ポピュリズムの餌食になり、ネットでは実名や映像が公開されて、集団的笑いの血祭りにあげられる。疑問をいだく議員や職員には「抵抗勢力」のレッテルが貼られ、メディアによるバッシングの対象になる。
そのようにして、経済不況にあえぐ人びとの不満は、公務員や官僚バッシングへとリサイクルされ、公的な事業の見直しは詳しい内容を伝えられることなく、うむをいわさず削減が決定され、結果として、最も恵まれない人口層が、自分たち自身への公共サービス削減に喝采を送るという構図が生まれることになる。ポピュリズムの政治とはいつもそのようなものだ。
それだけではない。橋下知事の軌道修正を見ていると、財政再建のシナリオとアクションが、府議会与党、府幹部によって、次第に巧妙に誘導コントロールされてきている様子が顕著なのだ。喝采する大衆の思いとは別に、政界や財界が、この際、この「人気」を活用して、福祉政策の解体と事業の合理化を一挙に進めようと考えるとしても、不思議はない。
福祉国家の解体期において、社会コストの削減を推進するためのスペクタクル政治の活用法がそこには見えている。
5 負の分配者としてのタレント知事
大阪や宮崎は孤立したケースなのだろうか。橋下と似たタレント知事としては、同じ攻撃的ポピュリズムの範列的ケースとして石原慎太郎がいるだろう。都市ポピュリズムには「青島ノック現象」なども過去にはある。地方キャラクターの演出には、田中康夫前長野県知事のケースもある。「知事」とは、そもそも、もっとも個人化しやすい「大統領型」とも言われる統治権力であり、だから、「タレント」という「個人」を活かしやすい制度だともいえるだろう。
二十世紀の社会国家は、人口を合理的に管理し、人びとの生活を改善して維持し、産業社会を成り立たせてきた。人びとの「生」に近くから関わり、住民の生活を管理して、社会的生産の循環をスムーズに統御する、哲学者のフーコーが「生政治」と呼んだ近代政治の統治のかたちである。地方自治は、福祉国家の理念として実現した二十世紀の生政治の住民への直接の窓口を担当してきた。
しかし、政策資源の枯渇にともない、この生政治は、「正の分配」から「負の分配」へと転換期を迎えている。他方、メディアは人びとの生活世界にますます接近して成り立つようになった。そこで、人びとの生にメディアをとおして近づくことにより、社会的統治を維持していこうという方向は増す傾向にある。現在のタレント知事の役割とは、こうした負の分配のサイクルのなかにおかれた、「メディアをとおした生政治」である。
現在では、地方政治においてもメディアの活用は不可避かつ必要であろう。しかし、負の社会分配を余儀なくされる現在の地方政治において、「メディアによる政治」もまた、そろそろ、メディア・ポピュリズムを脱して、真の「対話と説得」というテーマに向き会うときが近づいているはずだ。
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