2008年12月1日月曜日

「雄弁は復権するか」『世界と議会』、尾崎行雄記念財団、2008年12月号、pp.9-14

「雄弁」は復権するか


 私たちの国の政治の頽廃ぶりをみるにつけ、バラク・オバマの選出にいたる今回のアメリカ大統領選挙は、アメリカン・デモクラシーの再生を鮮やかに印した稀にみる歴史的な政治の変革の出来事だった。
 政治から、「演説」や「雄弁」の価値の後退が指摘されて久しい。とりわけ、わが国においては、政治の言葉、「演説」、「討論」を通した「言論」による「政治」が衰退しているとの感をぬぐえないのは私だけであろうか。
 このことには、政治とメディアとの関係が影響している。「政治の言葉」が、テレビに代表されるような「メディアの言葉」との関係で変化してきたからだ。

「言論の府」である「議会」が、「バイパス」されてしまうという現象を何度も目のあたりにしてきた。
 とくにコイズミ政治に代表されたようなテレビを中心とした、メディア政治の進行がいわれる今日の政治において「言論」の位置は非常に大きな変化を経験してきたといえる。
 メディア政治が喧伝されるようになって久しい。1990年代以降に展開されたメディア政治は、「執行権力」の「メディア化」を促進してきたといえる。「議論」の場が、「メディア」にバイパスされ、「議会」そのものが「議論」の場でなくなってしまう。
 「劇場型政治」や「ワンフレーズ・ポリティック」がいわれ、「政治の言葉」が、テレビ・コマーシャルのようなフレーズに切り詰められていくということを私たちは経験してきた。「美しい国」などというキャンペーンが行われていたのはついこの間のことだ。そして、その挙げ句の果てに、ケインズのいう「美人投票」の論理がまかりとおり、わが国では、政治そのものの「崩壊状態」にまで至っている。

ところが、である。
アメリカの大統領選挙をみると、メディア政治の大変化が起こっているのである。そして、アメリカ大統領選挙は、世界の「政治とメディア」との関係を決めていく「壮大な民主主義の実験」という役割を果たしてきた。それを考えるならば、これからの世界の「政治とメディア」との関係を考えるうえで、オバマ選挙とは何であったのかを、分析し、総括しておくことは、重要である。

アメリカ大統領選挙とメディア政治

 アメリカ大統領選挙は、いつも壮大な「民主主義の実験場」である。とくにメディアと政治の関係に関しては、そうである。テレビが政治キャンペーンの主たる舞台となったのは、周知のように1960年のケネディとニクソンによるテレビ討論以来である。ラジオで討論を聞いていた聴衆はニクソンに説得力があると思った。しかし、テレビで中継を視聴していた人びとはケネディに分があると感じた。爾来、テレビが人びとの生活を覆うにつけ、政治的説得の戦略は、つねにテレビを主たる出口として立案され、それに合わせて、選挙戦略が決定されるように進化してきたのである。
 大統領選挙が「実験場」であるというのは、資金においても、テクノロジーにおいても、競争のルールにおいても、およそあらゆる制約を取り払った、全面的な競争が繰り広げられることを意味している。じっさい、今回の選挙戦をつうじて、オバマ陣営は、草の根の献金によって、数百億ドルといわれる献金を集めて、その潤沢な資金をもとに、公的選挙資金を断って、壮大なメディア選挙を展開した。まさに資本主義の国の選挙である。しかし、さらに注目すべきなのは、あらゆるメディア・テクノロジーの使用が可能である点である。資金が続く限りテレビ・コマーシャルを打つことができる。そして、ネガティヴ・キャンペーンも許されている。政治コミュニケーションや政治マーケティングのテクノロジーが駆使されて、選挙戦が戦われる壮大な実験場なのである。
 4年ごとにおこなわれるこの壮大なメディア政治の実験のもたらす効果はアメリカにむろんとどまらない。そこから様々なメディア政治のノウハウが引き出され、それ以後の世界の政治におけるメディア戦略のあり方を決定していくことになる。近い過去の例では、ブレアのメディア政治は、クリントンの大統領選挙から学んだことによるという事実がよく知られている。

「サウンドブラストの時代へようこそ」

 現在進行中のアメリカ大統領選挙だが、今回の選挙はYouTube選挙であるといわれている。
 インターネット市場における新しいジャーナリズム・ベンチャーとして注目されている政治専門オンライン紙The PoliticoPolitico.com は、本年3月26日アメリカ大統領候補指名選挙キャンペーンについて「サウンドブラストの時代へようこそ」へという記事を掲載した(”Welcome to the age of the sound blast by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008:
http://www.politico.com/news/stories/0308/9222.html)。このThe Politicoとは、ワシントン・ポスト紙の有力編集者をヘッドに、2008年の大統領選挙に照準して一年半前に立ち上げられた、活字とテレビとインターネットが完全に連動した新しいジャーナリズムの試みである。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。The Politicoの記事は、2008年のバラク・オバマとヒラリー・クリントンの指名争いは、「インターネットがテレビの支配を終焉させた瞬間として歴史に残るものとなるだろう」と述べている。
 「ケネディ・ニクソン討論」」以後、テレビ政治の時代がやってきた。しかも、テレビは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンドバイト」全盛の時代を迎える。
 1968年の大統領選では、ニュースショーでの候補者のサウンドバイトの平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少。1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ。
 記事はいう。バラク・オバマはこうしたテレビ政治の前提を過去のものとしつつある。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、拡げるように支持者たちに呼びかける。
 オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回、「ちょっと見」はこの動画投稿サイトではカウントされないので、すべて全体を見た人たちの数字である。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13,3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 対するヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示している。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンドバイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 「サウンドバイト(「音のエサ撒き」の意:印象的でキャッチーな短いフレーズからなる抜粋、石田註)の時代はまだ死んでいないが、サウンドブラスト(「音の爆風」の意:ドキュメント、息の長い、奥行きのある説得、石田註)の時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」、と記事は結んでいる。
 これこそ、私が語ってきた、ネット環境における「新しい公共空間」の成立可能性を示すエピソードである。情報テクノロジー環境に生み出されたアーカイヴによって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる。「批判・批評」の空間が生み出されるのである。
 このように確実に始まっている公共空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化、を見ていると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではない、ことが見えてくるのではないか。
「サウンドバイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」にしても、「サウンドブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。人々は、ネット上で、議会での討論にコメントを加えたり、批判を加えたりして、それを「議論」することができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」の価値が再評価されるようになるかもしれないではないか。


2008年9月1日月曜日

「<笑う>タレント知事とポピュリズム」、『論座』、朝日新聞社、2008年9月号、pp.57-63

笑うタレント知事とポピュリズム



1 「大きな乳房とBMW」

 2005年ごろをピークとした世界各国におけるメディア・ポリティクス全盛の時代の潮目が変わりつつあるのではないか。メディア効果を十全に組み込んだ長期政権のあと、各国ともその揺り戻しか、控えめのメディア戦略と旧来の堅実な政権運営にもどろうという動きがある。しかし、メディア露出型もメディア抑制型もいずれもうまくいきそうにない。世界のグローバル化の現在の局面がその理由と思われるのだが、それは余所で書いたのでここでは措くとして(『世界』08年6月・7月号)、各国のメディア・ポピュリズム現象はむしろ中心から周縁へ、具体的には、地方政治へと移動しているようだ。
 イギリスでは、周到なメディア戦略で長期政権を維持したブレア政権を受け継いだ、ブラウン首班内閣が地味な政権運営姿勢をとったが、支持率が低落。労働党の凋落を決定づけたのは、本年5月、異色の保守党政治家ボリス・ジョンソンのロンドン市長当選だ。名門イートン校、オックスフォード大出身の超エリートながら、「トーリー(保守党)に投票すれば、あんたの奥さんのおっぱいはもっと大きくなり、BMWの高級車だって手に入るかもしれないぜ」など、掟破りのジョークや失言の多さで知られる。 BBCのお笑いバラエティ番組の常連、ぼさぼさの金髪頭で自転車で登院し、破天荒の行動で知られ、コラムニストから下院当選 、一時は保守党の広報戦略責任者。しかし、イラク人質殺害事件について、犠牲者を出したリヴァプール市民が被害感情に惑溺しているなどと侮辱、パプア・ニューギニアについて「人食いや首長殺し」に関する差別的失言など失態の多さには事欠かない。だが、人権、人種問題、性差についてのぎりぎり発言が、メディア的「人気」を増幅していくのだ。『72人の処女』というイスラム原理主義をもじった政治的風刺小説さえ物している、超エリート「ぶっ飛び政治家」である(その小説は『世界同時中継!朝まで生テロリスト?』という題であの扶桑社から翻訳が刊行されさえしている)。イラク戦争に反対したこれまた異端の労働党ケン・リビングストン前市長に対する対抗馬として担ぎ出され、ポピュリズム的人気で目下快調に進化しつつあるらしい。
 こんなところにも変化の兆しは見える。ブレア時代の「セクシー」なメディア戦略から、「実直な」で地道な「政治運営」へと中央の政治が変われば、大衆の欲望は、むしろ、別の方向へと向かう。結晶化していたメディア型政治が流動化し、各国の「リビドー政治」が組み替えの時期を迎えているらしい。そして、私たちの国でも、大衆のリビドーが「投機先」を求めて流動化し、メディアはフラストレーションをつのらせ、新たなタイプのポピュリズムの「トリガー」を求めて蠢き始めている。

 

2「タレント」的歪像化

 小泉・安倍時代のメディア政治に一定程度の懐疑が起こり、中央の政治においては、政治のバラエティ化がひと区切りを迎えたかのようだ。政治のコミュニケーションの回路は二つに分かれていきつつあるように見える。
 一方は、「旧来の政治」に戻ろうとするベクトル。フクダ・オザワ的路線と呼んでもよい。あるいは、より新しい、まじめな「説得による政治」へと向かう動きもある(「岡田克也」的方向といってもよい)。
 他方は、「メディアの欲望」に応える政治である。こちらは、中央においてはやや潜伏期にあり(「麻生太郎」などが政権につけば再び活性化する可能性がある)、むしろ、「そのまんま」現象や「橋下」現象として現れている。政治がメディア化すれば、タレントそのものを政治家としてつくってしまおう、というメディアの欲望もさかんになる。「そのまんま」や「橋下」現象は、そのような潜伏するメディア・ポピュリズムの表現なのではないか。
 私たちは自分たちの政治意識の縁のところで、地方の「政治」を捉えている。それらは、文字通り周縁情報として、意識のなかに流れ込むが、「正視」されることは少ない。しかし、タレント知事の「顔」がそこに現れると、そこに注目して「地方の政治空間」をのぞき込むようになる。「キャラ」の「顔」から覗き込むとどのような「政治の姿」が見えるのだろうか。 そこにはなにがしかの政治空間の屈折があり、そこに生まれる像の歪みをとおして、私たちの政治の何かが語られているはずである。

3「ゆるキャラ」知事の誕生

 「そのまんま東」こと、東国原英夫宮崎県知事は、もっか最も注目を集めている「ゆるキャラ」的タレント知事である。
 かれが「知事になった」こと自体が、瓢箪を逆さにしたような「そのまんま」顔を、宮崎の「キャラ」に変えるプロジェクトである。かれのマニフェストのイラストを見てほしい(図「」参照)。タレントの存在とは、端的に、メディアにおける「笑い顔」の認知度であり、「キャラ」の機能とは、笑い顔をとおした、コミュニケーションの「パーソナライゼーション」である。ゆるキャラには、コンタクト、笑いを交えた共犯関係、親しみを打ち立て「全国の眼差し」を呼び込む狙いがあるのだ。
 「そのまんま東」というタレントと「東国原英夫」知事との間にある、面白い関係に注目したい。「東国原知事」の言葉遣いは「そのまんま東」を知っていると、とても「変」なのだ。タレント「そのまんま東」というフレームから見ていると、いかにも、じつはこれは冗談だ、ギャグだと、吹きだしそうになる。そのタレント顔が、そそくさと「精査します」だとか、「喫緊に取り組むべき」だとか、やや生硬な知事の「公式の言葉遣い」を操って、「知事」として「進化」しつつある。「ことばづかい」や「ものごし」に、いつもユーモラスなずれや齟齬がある。どっちのフレームから視ようかという、「とまどい」にいつも私たちはとらえられ、そのずれこそが「ゆるさ」の感覚をつくっている。人びとが警戒心を解き安心させる効果をもたらすのだ。
 かれのマニフェストは、どうせいいかげんなヤツだろうという「期待」を裏切る周到なものだった。

「宮崎をどげんかせんといかん!」
「何とかせんといかん!」
 私がこれまで培ってきた経験や人脈、スキル(手練)を今こそ宮崎に還元し、宮崎の宮崎による宮崎のための活動を県民の皆様と一緒に協働・共有したい。私の持っている全てのエネルギーやマンパワー、ネットワークをフルに活用し、この豊かな宮崎を日本国中・世界中に全力でPRしていくことで、宮崎再建・宮崎自立に尽くしたい。
 このタレント知事は、自らがメディアの触媒となることによって、宮崎県民が「キャラ立ち」し「ひとり立ち」する「お手伝い」をしようとしているのだ。「宮崎改新」のプログラムは、メディアをとおした人びとの「注目」の二重三重のキャプチャーから成り立っている。
(1)タレントとして県民の注目を集めること、
(2)タレントとして全国の注目を集めること
(3)「知事キャラ」として立つこと
 メディア的な注目をうまく政治メッセージの回路に呼び込んで、それらの注目を梃子にして、「改新」のための政治的力を生み出すこと。「どげんかせんないかんが」宣言、「変わらんといかんが」宣言、「がんばいよ」宣言、という三つの政治メッセージにつなげていく。「タレント」というメディア資本を使った、ある種の「政治コミュニケーション」革命がプログラム化されているのである。
 皆さんは、恋愛観察バラエティ「あいのり」のような番組を知っているだろうか。男女7名の参加者が世界を旅する「あいのり」バスに乗り込み、そのなかからカップルが誕生するか観察する内容だが、 「リアリティーショー」と呼ばれるテレビ番組のジャンルだ。テレビ番組自体がつくりだす「現実」のドラマを実況するバラエティショーだ。テレビが現実を生み出すプロセス自体が「番組化」されていくような番組である。
 私たちは、「政治」の素人であったタレント「そのまんま東」くんが、実際の「知事」になっていくリアリティーショーを見ているようなものだ。
 
 就任直後の「鳥インフルエンザ」対策、「入札改革」の実行、議会における「一問一答」方式の導入、「裏金はございませんか」というパフォーマンス、いずれも、鮮やかなリアリティーショーだった。じつに堂に入った「タレント」知事のパフォーマンスである。「そのまんま東」という「政治の素人」が、「知事」になっていく現実のドラマを実況中継されつづけているのである。
 もちろん「タレント」につきもののとんでもない「失敗」だってある。就任直後の「副知事」選任問題は、まさに「浮動することを宿命づけられている」タレントゆえの、フロイト的な「しくじり行為」と見てもよいかもしれない。
 タレントの弱点とは、つねに「プロデュース」してくれる存在を必要としていることにある。「官僚」や「議会与党」を必然的に呼び寄せてしまう衝動にかられる。「人気」のみが資本であることの哀しさがそこにある。その「象徴資本」を失ったとたんに、彼は地方政治のパワーポリティクスに吞み込まれ、地方官僚や地方権力の「操り人形」になってしまいはしないだろうか。
 タレント知事は、ほんとうの「改新知事」になれるのだろうか。そのまんまのプログラムとは、メディア露出だけが「権力の源泉」であることの困難さを示してはいまいか。彼の貢献が「タレント」としての知名度を活用した、「コミュニケーション革命」、「ソフト革命」、「意識革命」であるとすると、かれはずっと「そのまんま」でありつづける必要があるだろう。「人気」が「基盤」であることで、「そのまんま」は「東国原知事」になりきりつづけるリアリティーショーを演じ続ける。それがPR知事の宿命である。

4 〈笑い〉と〈暴力〉

 「そのまんまー東国原」が、どちらかというと明るい系のリアリティーショーを展開しているとしたら、大阪府知事「橋下徹」は、より攻撃的(アグレッシヴ)で、破壊的なメディア・ポピュリズム政治を展開中である。
 もともと、消費者金融大手子会社の商工ローン会社の顧問弁護士を務めていたこともある、このタレント弁護士は、物議をかもす不規則発言で名をはせ、ワイドショーや法律バラエティ番組(日本テレビ「行列の出来る法律相談所」)、ポピュリズム的トークショー(読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」)のパーソナリティーやコメンテーターとして、自分のメディア資本を作り出してきた。典型的なポピュリストだ。ここに、その詳細を記すことさえ気が滅入る数々の暴言や失言、バイアス発言、罵詈雑言の数々(「日本人による買春は中国へのODA(政府開発援助)みたいなもの」と発言、「能や狂言が好きな人は変質者」などと発言等々)。それらを観察してみれば、テレビにおける笑いやギャグと攻撃性との関係が明らかになる。「笑い」を「嗤い」と書き換えてみればその攻撃性はあきらかになる。
 今日のテレビ番組には、〈笑い〉が満ちている。しかし、その笑いのある種のものは、人々の心理の底にある、暗い欲動に結びついていることがある。それは、レイシズム的な欲動であったり、ホモフォビア的な欲動、ナショナリズム的な欲動であったりする。彼が重ねてきた様々な放言や暴言、不規則発言の類は、バラエティ的笑いをとおして、そうした暗い欲動にサインを送る「嗤いのサウンドバイト」としての効果をもってきたのではないのか。「法律家」という職業と、そうした「失言」とのミスマッチ、それこそが、かれの「扇動家」としてのパーソナリティーを形作ってきているのではないのか。私は、この人物について、その「原ファシズム」的ともいうべき資質について、重大な疑念を抱いている。
 テレビ番組で光市母子殺害事件裁判にかんして弁護士会の懲戒請求を呼びかけるなどの言動も、まさに扇動家としての面目躍如である。
 そのように積み重ねられた話題を人気のベースに、『おおさかを笑顔にするプラン』というきわめて大綱的な文書を「公約」と称して、選挙直前になって、大阪府知事選に打って出た。ここでも「笑い」をモチーフにしている(「子どもが笑う、大人も笑う大阪に」)ところに、テレビバラエティー出身を意識したメッセージのつくりがある。
 候補者のポピュリズム傾向に呼応するように、スポーツ紙・芸能紙に代表される大衆メディアが、橋下を大々的にとりあげた。9・11小泉選挙と同じ構図で選挙キャンペーンは進んだのである。本人は、演説では政策を訴えるのではなく、人々が聞きたいことを訴えたのだという。「(島田)伸助さんに言われて、演説で、情に訴えなアカン、頭に訴えたらアカン」(「行列のできる」08年4月27日放送)と実行した述べている。人びとの情動的な部分をとらえ、増幅していく戦略がそこには見えている。
 そして、知事就任後は、「公約」の基本部分を、「机上の空論」であったなどとして、あっさり転換。持ち前の「口撃」能力にものを言わせて、不都合な部分はメディア批判でかわすなどして、「大阪府財政非常事態宣言」を発して全権掌握、トップダウン型の「プロジェクトチーム」を発足させ、財政再建のための「戦い」の演出に乗り出している。 
 その一挙手一頭足が、メディアの話題に増幅され、「攻撃性」そのものが財政立て直しのための「バトル」として演出されていく。そんな光景を、私たちは目の当たりにしている。
 四月になって橋下は「行列のできる」に「特別ゲスト」として出演。府議会との対立について司会の島田紳助が「何か正しい事しようと思ったら既得権益持っている方は嫌いますから」などと持ち上げつつ導入。選挙戦の回顧映像と府議会での対立の映像のあと、大阪府は「全面戦争」の状態だなどと解説。橋下は選挙の経験、島田から「演説」を教えてもらったなどエピソードを紹介。最後の部分で、次のように発言した。
橋下徹:
 「行列」のみなさんに、ほんとうにお礼を申し上げたいのはね、本来の選挙いうたら、いろんな団体・グループにお願いし票をもらって、と、そうするとどうしてもそういう人たちのことを考えなきゃいけないってところがあったんですけど、たまたま僕の今回の選挙は、このメディア、「行列」、出させてもらってたってことがあるから、なにもそういうつきあいのないところで票をもらったんです、だから、いわゆる票のことを考えてしまったら、「ココ切れません」、「ココ切れません」、「ココ切れません」となるんですけど、いまね、ここ5年後、10年後のことを思って、いろんなしがらみのないところで、エイヤ!でやろうと思っていますので、また、このエイヤ!でやれる環境をつくってもらったね、この番組にはほんとうに感謝してるんですよ。 
島田紳助:
 橋下知事で変えられんかったらこの街は終わりや。大阪府が変わるラストチャンスや。(以下略)

 「法律相談」を名打った番組が、「公選法」に照らしてきわめて疑わしい「当選御礼」番組と化していることは一体どう判断したらいいのだろうか。
 ここに述べられているのは、代議制民主主義の否定である。メディアをとおして調達された「人気」が、有権者の「意思」に取って代わる。しかも、その同意の調達は、政策ではなく、もっぱら情緒的訴えによって行われたものなのだと本人があけすけに述懐している。
 このように、わずかの「公約」さえ、あっというまに翻され、同時に、「非常事態宣言」で批判を封じる。それを、「全面戦争」と、ポピュリズム番組ホストのお笑いタレントがもちあげて擁護する。笑いの共犯関係による、批判の封じ込めが、公共の放送電波をつかってまかりとおる。
 ここにあるのは、〈笑い〉による剥き出しの「象徴暴力」の支配、「笑いのファシズム」状態である。
 朝礼で抗議の声をあげた女性職員は、すぐに、メディア・ポピュリズムの餌食になり、ネットでは実名や映像が公開されて、集団的笑いの血祭りにあげられる。疑問をいだく議員や職員には「抵抗勢力」のレッテルが貼られ、メディアによるバッシングの対象になる。
 そのようにして、経済不況にあえぐ人びとの不満は、公務員や官僚バッシングへとリサイクルされ、公的な事業の見直しは詳しい内容を伝えられることなく、うむをいわさず削減が決定され、結果として、最も恵まれない人口層が、自分たち自身への公共サービス削減に喝采を送るという構図が生まれることになる。ポピュリズムの政治とはいつもそのようなものだ。
 それだけではない。橋下知事の軌道修正を見ていると、財政再建のシナリオとアクションが、府議会与党、府幹部によって、次第に巧妙に誘導コントロールされてきている様子が顕著なのだ。喝采する大衆の思いとは別に、政界や財界が、この際、この「人気」を活用して、福祉政策の解体と事業の合理化を一挙に進めようと考えるとしても、不思議はない。
 福祉国家の解体期において、社会コストの削減を推進するためのスペクタクル政治の活用法がそこには見えている。

5 負の分配者としてのタレント知事

 大阪や宮崎は孤立したケースなのだろうか。橋下と似たタレント知事としては、同じ攻撃的ポピュリズムの範列的ケースとして石原慎太郎がいるだろう。都市ポピュリズムには「青島ノック現象」なども過去にはある。地方キャラクターの演出には、田中康夫前長野県知事のケースもある。「知事」とは、そもそも、もっとも個人化しやすい「大統領型」とも言われる統治権力であり、だから、「タレント」という「個人」を活かしやすい制度だともいえるだろう。 
 二十世紀の社会国家は、人口を合理的に管理し、人びとの生活を改善して維持し、産業社会を成り立たせてきた。人びとの「生」に近くから関わり、住民の生活を管理して、社会的生産の循環をスムーズに統御する、哲学者のフーコーが「生政治」と呼んだ近代政治の統治のかたちである。地方自治は、福祉国家の理念として実現した二十世紀の生政治の住民への直接の窓口を担当してきた。
 しかし、政策資源の枯渇にともない、この生政治は、「正の分配」から「負の分配」へと転換期を迎えている。他方、メディアは人びとの生活世界にますます接近して成り立つようになった。そこで、人びとの生にメディアをとおして近づくことにより、社会的統治を維持していこうという方向は増す傾向にある。現在のタレント知事の役割とは、こうした負の分配のサイクルのなかにおかれた、「メディアをとおした生政治」である。
 現在では、地方政治においてもメディアの活用は不可避かつ必要であろう。しかし、負の社会分配を余儀なくされる現在の地方政治において、「メディアによる政治」もまた、そろそろ、メディア・ポピュリズムを脱して、真の「対話と説得」というテーマに向き会うときが近づいているはずだ。

 

「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年9月号, pp. 112-121

公共空間の再定義のために(4)

公共空間を編み直す

            

0 情報は「タダ」なのか?

 私たちの時代には情報が氾濫し、「情報のコモディティー化(水と安全と情報はタダ)」が常識であると、 電通総研編『情報メディア白書2007』 (ダイヤモンド社刊、以下、『白書』と略)は、いとも簡単に語っている。たしかに、GoogleYahoo!のポータルサイトにアクセスし、「トピックス」をチェックしさえすれば、「世の中の動きを理解したと思うことのできるユーザー」は多く、それこそ「編集されたニュースの受動的な受容そのものであり、当初ビジョナリーたちが想定した能動的で「ネティズン」的なインターネットとはかけはなれている」と指摘している。
 人びとの生活時間は限られている。新聞など講読しても読む時間は少ないし、紙を処分するのも面倒だ。ネット上なら情報は「タダ」で手軽に手に入る。テレビも民放はタダだが、ネットなら好きな時間に好きな情報をチェックすればいい。「情報」の「コモディティー化」はそのようにそのようにしてますます進行し、購読料を支払って新聞をとろうという人の数は減少していく。課金システムを導入しているサイトは、特別なニーズ(多くの場合は「経済情報」だが)がないかぎり、運営を維持することは難しい。
「情報がタダになる」、「コモディティー(日用品)になる」とは、しかし、正確にはいったい何を意味しているのだろうか。

Ⅰ「意識の市場」としての情報空間

インターネットにおける民主主義を議論して話題となったアメリカの憲法学者キャス・サンスティーンは述べている --
 「消費者の注意力(attention)が[ネットという]新興市場では決定的で貴重な商品   (commodity) である(・・・)。注意(attention) をある方向に変えることができれば、得をする企業が出てくる。
 だから多数のウェブサイトが、情報や娯楽を消費者に無料で提供している。消費者は実際には商品であって、お金と引き換えに企業に広告主に『売られて』いるのだ。」(『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社刊、三八頁、議論のために原典から英語を補った)
 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、フランス最大の民放テレビ局TF1の会長による発言 -- 「コマーシャルのメッセージが知覚されるためには、視聴者の脳が活用可能になる必要がある。テレビ番組の役割とは視聴者の脳をそのようにし向けること、娯楽によって、二つの番組の間で脳を準備することなのだ。われわれがコカコーラに売るのは、人間の脳の活用可能な時間なのだ」を強く批判している
 「プログラム(番組)産業が売っているのはプログラム(番組)ではなく、広告スポットのための視聴者である。番組は、売りに出される意識を惹き付けることに役立つだけである。この市場において、一時間あたりの意識の値段は高くない。全国総合テレビ局を19時50分から20時50分の時間帯に1500万の人びとが視聴したとして、300万フランの広告収入があったとすると、意識の値段は、視聴市場において、20サンチームに『値する』ことになる。」(Bernard Stiegler, Mécréance et discrédit, tome 1, Galilée, pp.51-52

 前述の電通『白書』はノーベル経済学賞を受けた情報科学・認知科学者ハーバート・サイモンの言葉を引用している
「情報過多世界において、情報の豊富さは、別のものの希少を意味する。すなわち情報が消費する何らかのものの希少性をである。情報が消費するものが何かは、明白である。情報は受け手の興味(Attention)を消費するのだ。」(同書、26頁、訳文の不備を原典から補った。)
「注意力の経済」
 いずれも、近年さかんにいわれる「注意力の経済(アテンション・エコノミー)」を問題にしているのだ。
 メディアの情報空間は、一方から見れば、「公共空間」へのアクセスを意味しているだろう。だが、他方から見れば、視聴者の「意識」が売られる「市場」を意味している。消費者の「意識」をめぐって、自分のサイトへ誘導しようと、市場では「注意力 (Attention)」のたえざる争奪戦が繰り広げられているのだ。 
 近代資本主義の始まりにおいて、「公共空間」は、世界の動向や商品の交易にかかわる「情報」を手に入れ共有することで、「市民」たちの「意識」が「世界」を自律的にとらえるための媒介空間だった。20世紀の大衆社会では、「公共空間」は「PR空間」へと変貌し、市場を構成する産業および商品についての「情報」を、「生産者」および「消費者」の「意識」へと媒介する空間となった。モノの生産者としても、モノの消費者としても、「大衆」の「意識」は、「主体」を逃れていない。ところが、現在では、その「PR空間」は、より先鋭的な「意識の市場」と化しているのだ。
 今やあふれる「情報」とは、ありふれた「話題(トピックス)」にことであり、人びとの「注意」を「市場」に呼ぶ込むためにだけ「流通」している。「意識」が「資源」であり、「注意力」が「商品」である。メディアの情報空間は、人びとの「意識」を「囲い込み」、飼育しておくための「いけす」の役割を果たしているだけである。情報過多の世界では、本質的に新しい「情報」などなにもない。世界の出来事に関するひとびとの好奇心も逓減傾向にある。トリビアルな「小さな差異」に、人びとが「へー」ボタンを押し続けているような世界である。人気テレビ番組「トリビアの泉」とは、こうした「情報のいけす」の名なのである。広告主が、そのいけすから、視聴者の「意識」を買っていく。
 そして、「意識の市場」とは、「市場の市場」、ひとつの「メタ市場」である。「商品の市場」は買い手の「意識」によって構成される。その買い手の意識を売買するのが「意識の市場」である。そして「意識」は「時間」の関数である。どれだけの「時間」、視聴者の「脳を活用」できるかによって、買い取られる「意識」の高が決まってくる。だから人びとの視聴覚コンテンツや文化産品による「時間の商品化」をめぐって、「注意力」の争奪が行われている。
 経済学者で高名なエッセイスト、ジェレミー・リフキンは書いている
 「空間や物品の商品化から、人間の時間や生の経験の商品化へという変化は、いたるところで起こっている。我々の持つわずかな時間を狙って何らかの商業活動が入り込み、時間そのものが最も貴重な資源と化している。ファクスやボイスメール、携帯電話、二十四時間眠らない株式市場、同じく二四時間のATM(現金自動預入払出機)やネットバンキング、オールナイトの電子商取引や調査サービス、二四時間放映のテレビニュース、娯楽、二四時間オープンの飲食店、薬局、清掃業。これらすべてが我々の注意を惹こうと声高に叫んでいる。どれも人の意識の中へじわじわと侵入し、目覚めている時間の大半を奪い、思考の大半を占めるため、消費者は息を抜く暇もない。」(『エイジ・オブ・アクセス』、集英社刊、pp.153-154
 人びとの生が「情報テクノロジー」によって囲い込まれ「時間の商品化」が起こる。消費者の「注意力」は、 情報テクノロジーによって捕捉され、その「意識」を囲い込まれて、「売り」に出される。彼の「主体的統合」が、時間単位で切り売りされる。「意識」は、その「統合」を、「プログラム」に委ねることになる。
 「サービス」の享受とはこの意味で主体の徹底的な「受動化」であり、消費者は、身体も精神も自分自身で「総合」することができない存在となってしまう。「サービス」とは、消費する主体のプロレタリア化、「serf(奴隷)」化であるのだ。
 「情報がタダになる」とは、このようにシステムの奴隷になることであり、ひとびとの経験が文化商品として売られることであり、「時間」・「意識」が商品化されるということを意味している。
 ならば、「公共空間」としてもう一度人間性を回復し、「政治的主権」を取りもどす方向はあるのだろうか。

「生活世界」の危機

 現在では、人びとの生活世界そのものが内側からネットワークに二四時間接続している。「生活世界」そのものが「情報空間」に侵入されており、あなたの「注意力」を絶えず捕捉し、「意識」を産み出し続けている。

主体の危機

 ネットにおいては、メッセージはリニアーな構造をもっていない。新聞や本のように、メッセージが固定していない。テレビやラジオのように時間に沿って、時間に沿ってリニアーに流れていない。つねにハイパーリンクによって、時間はノン・リニアーによぎられ、メッセージが断片化してつらなっていく。マウスを五クリックより前に閲覧したページを思いだそうと試みるとよい。ただその痕跡は、情報テクノロジーによって捕捉されつづけている。
 情報テクノロジーのノンリニアーな時間によぎられる生活とは、人びとが自分自身の「意識」の「統合」を行う、カントのいう「統覚」に困難が生じる世界である。「統覚」とは、知覚を結合して主体の統一を保っている心の働きのことだ。「注意力の経済」に突き動かされて次々に送り込まれてくる「メディア・コンテンツ」は、人びとの視聴覚経験をとらえて知覚をつぎつぎと産み出していく。「主体の危機」がそこから生ずる。
 人びとがこうした環境において「自己」でありつづけうるためには、意識の痕跡を自分自身でとらえかえし、 自己の知覚の記憶を組織し直すことができる、「記憶の支え(hypomnemata)」が必要である。痕跡を産業的機械のプロセスにまかせてしまうのではなく、自分自身でそれをコントロールできる技術環境を手に入れる必要がある。生身の人間にではダメなのだ。相手は機械のプロセスなので「技術」を持たないと対抗できないのだ。
 「注意力の経済」が過度に進行し、さまざまな「刺激」が「知覚」を争奪するようになると、「注意力欠陥障害ADDS症候群」のような状態が生まれる。じっさいそうした症候との関連性が議論されている。人間の、そして私たちの子どもたちの「注意力」そのものを保全するケアが必要になるのだ。「象徴的貧困」や「実存的犯罪」の多発とこうした問題とは無関係ではないだろう。
 有害サイトや子どもたちのケータイ利用の問題だけでなく、情報テクノロジーを個人化や主体化のツールとして活用しうる方法を培うのでなければならない。私たちの「社会」に情報テクノロジーによる主体化のための基本的なリテラシーを持つと同時に、それを可能にする環境がもたらされる必要があるのである。 主体の意識を安定的に組織し、文化の主体にまで高める社会的なケアの仕組みが、情報社会にはどうしても必要なのである。「意識」そのものが「資源」なのだから、人間の「精神」の「持続可能性」こそテーマなのだ。

市民と社会の危機

 ネットをとおして情報が氾濫する社会においては、「公共空間」の「編み直し」が行われるのでなければならない。
 サンスティーンが指摘するようにネットは、ユーザーが「好きな情報のみ」を集めることを可能にする。消費者のために「便利な」技術であっても、異なる意見や趣味の人々、関心の必ずしもない出来事に出会う「必要のない」情報生活が可能になっている。
「民主制度は、広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とする。この主張に賛同する人たちからすれば、各自が前もって見たいもの、見たくないものを決めるシステムは、民主主義を危うくするものにみえるだろう。考え方の似たもの同士がもっぱら隔離された場所で交流しているだけでは、社会分裂と相互の誤解が起こりやすくなる。」(p.8)
 情報の収集をフィルタリングすることで、読みたいニュースだけを集めた自分用の「デーリー・ミー(日刊わたし)」新聞を読むようになる読者たち、自分に似た意見の人びととだけ議論することで自分に似た考えのみを増幅させていく「エコーチェンバー」現象、似たもの同士が意見を極端化させて群れをなす「集団的分極化」、断片的な情報によって一挙に人びとが結びついていく「サイバーカスケード」・・・。いずれも、私たちにとってすでに既知となったサイバー現象である。
 サンスティーンは、「消費者主権」と「政治的主権」とを対立させて論じている(p.60)
「消費者主権」の受動的な市民ではなく、「能動的な市民」による「政治的主権」をどのように担保できるかが、「インターネットによる民主主義」の掛け金(ステイク)である。
 この著者は、意見の異なるサイト間の相互リンクや「公共的なサイト」の運営などを提唱している。しかし、私にはその有効性に関しては疑問が残る。技術的な進化が起こりつつある環境に対して、政治的な理念のみによって「共和制」的な制約を加えることにどの程度の有効性があるだろうか。
 それよりも、技術革新の中から、ネットの再秩序化の動きと連動して、「公共空間を編み直す」ことをめざす方向はないものか。

「ネットを編み直す」

 「ネットを編み直す」プロジェクトとそれを呼んでもよい。
 二年ほど前から「Web 2.0」がさかんに喧伝されている。
 具体的には、Googleのようなロボットを使ったサーチエンジンを基軸に、blogや、Wiki, YouTube, などのコラボレーションツールの発達により、ネットを単なる一方的な情報の発信と閲覧の場としてではなく、情報が整理組織され、知識が生み出される「環境」へと変えるテクノロジー条件の成立と、それにともなう情報の「再組織化」の動きをいう。
 blogは「ブログ圏」という言葉を生み出したことが示すように、トラックバックによる相互リンクによって「討議空間」を構造的に生み出すことを可能にしたし、Wikiは集団的知性のコラボレーションを可能にしたし、YouTubeは映像および音響データの自然発生的なアーカイブを生み出した。SNS(ソーシャル・ネットワーク)のような、相互ルールの制定にもとづく「社会関係」を生み出す技術も登場した。これらはすべて、「参加」を可能にしたコラボレーション技術である。「意味環境」としての性格をネットが帯び始めたのである。
 Web 2.0がさかんにマーケティングの文脈で喧伝されたことが示すように、これらはいずれも「消費主権的」な使用に向けられうる技術であり、そのように、使われてきた。だが、そこには別の活用法が見えている。

ボトムアップかトップダウンか

 情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
 マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
 誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
 無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
 「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
 ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられるのである。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべきなのである。
 少し具体的に記してみよう。
実験例 
 ベルナール・スティグレールが主宰するフランス・ポンピドゥー・センターでは、視聴覚データにメタデータを付与し、共有することができる「タイム・ライン」という「批判の道具」を主軸に、展覧会や映像作家のコラボレーションをとおして、批評家の視線を提示するプロジェクトを行っている。
 彼らと協力して私の研究室では、TV番組をアーカイヴ化しタイムラインによって分析・批評し、「知恵の樹」と名付けたハイパーメディア型理論百科事典をベースに、「知識ネットワーク」をつくる「批評のためのプラットフォーム」を作成するプロジェクトを実施中である。
 情報が氾濫し、まさしくタダでアクセスできる時代には、むしろ、「確かな知識、「構造をもったメッセージの体系」(構築性)、「批評・批判」の方法、視点の提示と、受容のための「環境」の設計が重要性を増してくる。
 情報伝達技術がメッセージのエントロピーの増大への傾向を強めるとき、必要なことは、メッセージの信頼度、検証可能性、知識の確かさ、知の体系性を保証し、文化の公共性を担保しうる技術環境を用意することである。

ネットの「公共的イニシアティヴ」

 大学を始めとして、研究教育機関、図書館やさまざまなアーカイブ、公共の放送局、さらには、民間の大メディアを含む公共メディアや出版流通業界が、こうした「公共空間」を維持し、ネット社会のなかに「公共空間」を埋め込む役割を果たすべき時なのだ。それは公共空間の再生のためであると同時に、民間であっても公共的役割を果たすべき大メディアや出版流通業界のサバイバルのためにも必要なことであろう。
 すでにある知の体系、すでにある情報の秩序づけ、すでにある「言論空間」の構造を、ネットのなかに移植し、ネット文化を成熟させる、「公共的イニシアティヴ」が現在ほど求められるときはない。
 それこそが、ネットを「公共空間」として「編み直し」、文化を断片化しエントロピーを増大させ、文化的統合性を砕いて価値下落を引き起こし消費へと向かう方向ではなく、人間的価値と文化の高みを組み直し、持続可能な文化へとネット文化を転換させる、企てとなるのでなければならない。
 例えば、大新聞は、単に情報の流れを囲い込み、「ショートヘッド」の位置を維持しようとするのではなく、前回述べたような「トピックの階層性」を「可視化」し、それを「経験」することができるような「紙面構成」をネット上にも構築するなどして、「社会」の「再組織化」の実践へと踏み出すべきである。「デイリー・ミー」ではなく、人々を「社会」へと開く構造をデジタルメディアとして実現することは決して不可能ではない。消費者ではなく、市民として、位置づけることができるような使用が可能な環境を用意すべきなのである。

社会基盤としてのアーカイヴ

 テレビ放送に関しても同様のことがいえる。テレビがフローなメディアである時代は終わりに近づいている。オンデマンド配信の事業化に見られるように、テレビもまた「ストック型」のメディアとしての性格を併せ持つ時代へと入ってきた。そのとき、決定的に重要なのは、リアルタイムでの実世界への遠隔現前というテレビの本性と、ヴァーチャルな時間性において蓄積されたデータとの間を、スムーズに行き来することを許すアーカイヴの設計である。
 アーカイヴ機能を、YouTubeのような自己組織化のイニシアティブにゆだねておけば、断片的で恣意的な「資料」にもとづいて生成することが、アーカイヴの編成原理となってしまう。それでは、社会の記憶、国民の記憶を偶発的な自己組織化の原理にゆだねることになる。テレビ放送は「公共の時間」をどのように組織してきたか。いかに、人々の生活世界にテレビは触れてきたかを、明確に整理し、文化の記憶と成熟に役立つデータ構造にもとづいたアーカイヴを組織し、合理的な活用が可能なアーカイヴをこそ放送局はつくるべきである。
 こうした試みの最大の達成は、フランスのINAによるアーカイヴの形成と公開である。パブリックなメモリー(公共的記憶)のアーカイヴ、社会の時間を正確で合理的な呼び戻しができる文化事業が求められている。そうすることで初めて、文化の豊かな実践が促され、よい番組づくり、放送文化の成熟への道が開かれるのである。
 アーカイヴを単なる消費者に対する商業的なコンテンツ配信事業としてのみとらえるのでは、文化産業自体の成熟もおぼつかない。 

Ⅳ 再編される政治的公共圏

 さて、四回にわたって連載してきたが、最後に述べたようなネットベースの「公共空間の編み直し」は、連載を通じて随時参照してきた、グローバル化する世界の政治メディア状況とどのように結びつくだろうか。
 冷戦の終結以後、世界の情報秩序は、世界の主権秩序の成立(〈帝国〉)と歩を合わせて成立してきた。インターネットの出現も冷戦終結にともなう軍事技術の民間への転用の結果である。この新たな情報インフラは、産業の成立原理を変え、労働の成り立ちを大きく変化させてきた。そして、人々をそのネットワークのなかにとらえるようになった。すべての人々が「ネットワーク内存在」として生きる時代になってきたのである。
 世界と同時的に結びつける通信網がおよそすべてのメディアの情報を包摂し、瞬時に、すべての情報がアーカイヴ化され、また呼び戻される時代がやってきたのである。よくもあしくも、私たちはサイバースペースを経由して「生活する」ようになったのである。
 こうした「情報世界秩序」の第二期にはどのような「政体構成」の変化が生まれようとしているのか目が離せない。

「サウンドブラストの時代へようこそ」

 現在進行中のアメリカ大統領選挙だが、今回の選挙はYouTube選挙であるといわれている。
 インターネット市場における新しいジャーナリズム・ベンチャーとして注目されている政治専門オンライン紙The PoliticoPolitico.com は、本年3月26日アメリカ大統領候補指名選挙キャンペーンについて「サウンドブラストの時代へようこそ」へという記事を掲載した(”Welcome to the age of the sound blast by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008:
http://www.politico.com/news/stories/0308/9222.html)。このThe Politicoとは、ワシントン・ポスト紙の有力編集者をヘッドに、2008年の大統領選挙に照準して一年半前に立ち上げられた、活字とテレビとインターネットが完全に連動した新しいジャーナリズムの試みである。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。The Politicoの記事は、2008年のバラク・オバマとヒラリー・クリントンの指名争いは、「インターネットがテレビの支配を終焉させた瞬間として歴史に残るものとなるだろう」と述べている。
 「ケネディ・ニクソン討論」」以後、テレビ政治の時代がやってきた。しかも、テレビは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンドバイト」全盛の時代を迎える。
 1968年の大統領選では、ニュースショーでの候補者のサウンドバイトの平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少。1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ。
 記事はいう。バラク・オバマはこうしたテレビ政治の前提を過去のものとしつつある。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、拡げるように支持者たちに呼びかける。
 オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回、「ちょっと見」はこの動画投稿サイトではカウントされないので、すべて全体を見た人たちの数字である。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13,3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 対するヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示している。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンドバイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 「サウンドバイト(「音のエサ撒き」の意:印象的でキャッチーな短いフレーズからなる抜粋、石田註)の時代はまだ死んでいないが、サウンドブラスト(「音の爆風」の意:ドキュメント、息の長い、奥行きのある説得、石田註)の時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」、と記事は結んでいる。
 これこそ、私が語ってきた、ネット環境における「新しい公共空間」の成立可能性を示すエピソードである。情報テクノロジー環境に生み出されたアーカイヴによって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる。「批判・批評」の空間が生み出されるのである。
 このように確実に始まっている公共空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化、を見ていると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではない、ことが見えてくるのではないか。
「サウンドバイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」にしても、「サウンドブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。人々は、ネット上で、議会での討論にコメントを加えたり、批判を加えたりして、それを「議論」することができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」の価値が再評価されるようになるかもしれないではないか。
「批判テクノロジー」と「参加型民主主義」
 以上に一端を紹介してきた情報テクノロジーはいずれも「参加型テクノロジー」である。マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
 「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
 そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。アメリカ大統領選挙(オバマ民主党候補による「参加型民主主義Participatory Democracy」の主張)やフランス大統領選挙(セゴレーヌ・ロワイヤル社会党候補による「参加型民主主義 Démocratie participative」)で、「参加型民主主義」が、論争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。



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