2013年12月18日水曜日

「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 日本記者クラブ

「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 配布資料

「ディジタル時代に公共圏を再定義する」(抜粋)

石田英敬(東京大学)

0 現状分析 「世界の別の別の回転」

「帝国」以後/ 「ポスト帝国」以後
1) 戦争秩序の破綻 → ポスト帝国以降 (中東危機)
2) 生政治の破綻  → 「オバマ・チェンジ/日本の政権交代」失敗以降
3) 表象によるメディア統治(gouvermédiabilité)の破綻 → ポピュリズムの短期化
4) 主体性の危機/象徴的貧困の進行 (メディア変動と深く連関)
5) 金融資本主義の危機/リーマンショック後の世界(ソブリン危機の慢性化)

1 公共空間の転換期

「公共空間」とは、ここでは、ごく単純に、メディアを通して「公共の事がら(=政治)」を議論するための報道と言論による媒介空間のことであると述べておこう。

グローバル化とは何よりも情報〈の/による〉世界化だった。「グローバル経済とはリアルタイムで地球規模でひとつの経済として機能しうる経済」であり、「世界経済が情報コミュニケーション技術という新たなインフラストラクチャーによって真の意味でグローバルになったのは 二十世紀末をまって」 (Manuel Castells The Network Society) である。冷戦終結を起点にして現在にいたるまで形成されてきた情報の世界秩序もいま転換期を迎えている。

1) 世界市場化と画一化
2) グローバル秩序とイメージの力
3) ドメスティケイトされる公共空間
4) メディアによる統治(gouvernemédiabilité
5) 情報秩序の再組織化

1990年代以降の情報のグローバル化は、もちろんインターネットの形成期でもある。情報コミュニケーション・テクノロジー(ICT)の革命なしに今日のグローバル化はない。しかし、およそ二十年間にわたって、およそあらゆる情報が投げ込まれネット上に浮かぶようになった結果、現在起こりつつある事態とは何だろうか。
 インターネットの第一期とは異なり、現在進行しつつあるのは、ネット環境の「再組織化」である。そしてネットに限らず、あらゆるメディアがICTをプラットフォームに再組織化されていく。グーグルに代表される検索エンジンによって、グローバル化した世界の情報が技術的に秩序づけられていく。「セマンティック・ウェブ」と呼ばれる技術によって、意味論的に秩序づけられていくのである。グローバル化の意味論(セマンティクス)自体が、ウェブの組織原理の技術的再編と重なっていく。Web2.03.0とは、そのようなウェブの再組織化の動きだった。次に「ビッグデータの時代」が来て、「政治マーケティング」などが基本的な政治ツールとなった。
 ネットが基盤となって公共空間の再編が進んでいく。放送と通信の融合にしても、新聞とネットとの連動にしても、ウェブを基盤として他のメディアが組織されなおされていくことを予告している。「公共空間」の大きな変容のモーメントがそこには見えているといえる。現在いえることは、放送・活字とネットという三次元の「公共空間」へと移行しつつあり、ネットは、グローバル化世界を意味環境化する基幹テクノロジーとして機能し始めているというぐらいである。
 ネットへの移行はマスメディアのゆるやかな解体を伴っている。「情報はタダ」という時代をまえに、大メディアはビジネスモデルの不在に頭を悩ませている。アクセス数における「ショートヘッド」(アクセス数の集中する数少ないサイト群)の位置を占めるべく大メディアは競争を繰り広げている。 他方、確実に発達したのは、マーケティングの技術である。政治自体の「情報テクノロジー化」である。ネットがもたらしたのは、「情報空間の組織の仕方」自体が「政治の実践」となる時代の到来である。
 (ネットに取材し、(マス)メディアが伝え、アジェンダ化する、という流れが、一定程度定着)。(この場合、ネットはオールタナティヴというよりは、ポピュリズムの温床)。

 戦争とともに形成されてきたグローバルな情報秩序の綻び。内向化され消費文化に浸されてきた人々の意識の危機。さらに、金融資本主義が破綻し資本主義の大変動期を迎えることになった。それらは現在起こりつつある「公共空間の転換期」を示している。

2. <政治>の危機と<社会的なもの>の浮上、そして<ネット>の浮上


1)「権力のメディア的変容」の綻び(「大統領型」統治の終焉)
2)「テレビ的代表具現」
3)「テレビにおける公共性の再転換」?
4)「社会」の再発見(La nouvelle question sociale
5)「ネット・ポピュリズム」の浸透

3. ジャーナリズムの情報オントロジー 

 現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介するというのが、規範的な意味での〈ジャーナリズム〉の活動。
 私は、記号学・情報学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報存在論(オントロジー)」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
 「新しい出来事」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は、「ニュース」という「新しい知らせ」の「主題(テーマ)」へと書き換えられ「伝達」の回路に導き入れられる。その「主題」は「話題(トピック)」となり、「交換」の場へ「流通」のために差し向けられる。「話題市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはおよそこのように出来ていると考えられる。
 すぐれた報道やスクープには、新しい情報価値の「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。
 現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出される。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を人びとに向けて開く契機が胚胎している。「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter - esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」への開かれにあるだろう。発見された「問題」は、ニュースの「主題」になり、次に「話題」になり、ついには「社会」にとっての「課題(アジェンダ)」になるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
 しかし、現代生活の「自己充足」したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される傾向がある。前回述べたような世界化の情報秩序は、そのようなニュースのグローバル市場化の動きを加速させた。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
 情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、原理的にいってそれらはすべて既知となった「情報」である。しかし、新しい情報や知識を抽出してくる生産のプロセスが、そこでは不可視化される。

「取材力」という資源

  しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す能力に関して言えば、公共マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大な人的リソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題は情報流通の経済にある。
 「事実」に対する合致を通して「情報価値」を生み出す力をメディアは源泉とすべきなのである。そこから逆算して、どのような情報の流れの集密度を達成するかが、それぞれのメディアの経済的なポジションを決めるだろう。現在のように社会が危機を迎え、ひとびとの生活世界にメディアが触れるときこそ、ジャーナリズムを再定義する「情報オントロジー」が求められているのだと思われてくる。

4. 公共空間の解体

1)「生活情報」化
2)紙面という「媒介システム」
3)「一覧性」や「実時間性」
4)「実世界性」


一覧性

新聞の情報一覧性についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
 たしかに、社会の関心事を共有する平面をもつとは、「公共性」の条件である。右に述べた、紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。
 ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられている。
 こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
 いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動である。
 問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生ー政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの公共空間の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。
 いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。

実世界/実時間への現前

テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。ヴァーチャル化のメディアが登場するにつれて、テレビの特性とは、そのリアルタイム性、実世界との同時的な接触にあることはまちがいない。活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 バーチャル化の時代には、アーカイブを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。「時間」と「アテンション」のエコノミーが、語られる現在、これは極めて重要な社会の争点である。


5. 公共空間を編み直す

1)ボトムアップとトップダウン
2)ネットを編み直す
3)批判テクノロジーと参加型民主主義
 ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。

ボトムアップとトップダウン

ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
 他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
 私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。

ネットを編み直す

 情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
 マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
 誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
 無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
 「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
 ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられる。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべき。

批判テクノロジーと参加型民主主義

マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
 「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
 そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。「参加型民主主義 Démocratie participative」)が、争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。

参考論考:

(1) 「テレビ国家(1):権力のメディア的変容について」、『世界』、岩波書店、No.753, 20066月号, pp. 49-57
(2) 「テレビ国家(2): 公共空間の変容について」、『世界』、岩波書店、No.754, 20067月号, pp. 138-146
(3)「テレビ国家(3): 政治の変容について」、『世界』、岩波書店、No.756, 20069月号, pp. 41-49
(4) 「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 200610月号, pp. 104-112
(5) 「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 200611月号, pp. 153-161
(6) 「公共空間の再定義のために(1)二〇〇八年の政治メディア状況」、『世界』、岩波書店、No.779, 20086月号, pp. 71-80
(7) 「公共空間の再定義のために(2)回帰する社会」、『世界』、岩波書店、No.780, 20087月号, pp. 103-112
(8) 「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 20088月号, pp.79-88

(9) 「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 20089月号, pp. 112-121

2013年12月9日月曜日

「読書の未来」、立花隆『読書脳:ぼくの深読み300冊の記録』巻頭対談、 350頁、2013年12月9日、文藝春秋 刊、pp. 13-45



石田
私は一九七二年に東大に入ったんですが、立花さんはよくご存じのように、その頃は学生運動がどんどん暴力的になって、対立するグループの抗争が激しくなった頃でした。は、立花さんの『中核vs.革マル』(講談社文庫)に私の名前が出てくるんですよ。「石田君」と

立花
えっ。

石田
インターネットで「石田英敬」を検索すると出てきますよ。当時の内ゲバで、中核派に友人が二人殺されました。その話が立花さんの本に出てくるんです。

立花
そうなんですか。石田さんとは何度もお会いしていますが、そういう過去をお持ちと
は、全然気づきませんでした。

石田
その事件の後、私は日本にいられなくなって、七五年にパリに留学したんです。

立花
そういうことだったんですね。留学中は、石田さんも相当ディープリーディングしたんじゃないですか。

石田
そうですね。生きていることの意味をかみしめながら、毎日、人でひたすら本を読む日々でした。当時読んだもの中で、とくに印象に残っているのは、Deleuze の Nietzsche et la Philosophie(邦訳『ニーチェと哲学』河出文庫)です。そζこに語られていたのは、肯定の思想で、へーゲルやマルクスの否定の弁証法に親しんでいた私には衝撃的でした。当時のパリはいまでいうととろのポスト構造主義の絶頂期で、ミシェル・フーコーやドゥルーズが活躍していました。私もコレー ジュ・ド・フランス(フランス最高峰の高等教育機関。講義は公開)に出かけていってフーコー の講義を聴いたり、ヴァンセンヌの森の大学(パリ第八大学)に行ってドゥルーズの講義を聴いたりしたんですが、そうした経験のおかげで、私はパリで新たに思想を発見することができたんです。それがいまの自分の研究の出発点になっています。


関連記事:

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2013年11月1日金曜日

「「半沢直樹」の決め科白: 尊厳回復の叫びに共感」『北海道新聞』コラム「各自核論」2013年11月1日(金曜日)朝刊9頁

各自核論 尊厳について 
東大大学院教授 石田英敬

 2011年1月チュニジアの「ジャスミン革命」は、一人の青年の焼身自殺から始まった。チュニジア中部の都市シディブージドに住む、モハメド・ブアジジ26歳は、露天商として果物を売って貧しい生計を立てていたが、その日、広場で警官から公衆の面前で侮辱され、あしざまに平手打ちを受けて、屋台の品物と商売道具の秤を没収された。抗議に向かった市役所でも、訴えは聞き入れられず(なにしろ、役所に願い出るには賄賂が必要)、追い返された。絶望した青年は、商売道具の屋台にポリバケツのガソリンを浴びせ自分自身も頭からかぶって、ライターで火をつけた。炎に包まれたブアジジの姿は、すぐさまネットに投稿されて世界を駆け巡り、二十数年にわたって国を支配したベン・アリ独裁政権を倒す革命の烽火となった。
 ここには、地を這うように生きていた一人の青年の「侮辱された生」と「人間の尊厳」をめぐる命を賭けた抗議、その行為がバタフライ効果のように人びとに巻き起こしていった共感と憤怒の渦がある。民衆が立ち上がるとき、必ずしも経済的理由からだけではない。当時チュニジア経済は比較的順調(成長率3パーセント台を維持)、北アフリカ諸国のなかで相対的には制度的近代化を進めていた国である。支配層の腐敗の横行、正義無き社会の慣行が、人びとの心に澱のように鬱積していたのである。
 社会が貧しくとも人びとが「廉直な生」をまっとうしうる時代や国もあるだろう。生きにくさとは、いちがいに貧しさと同義ではない。生が侮辱されている、そう感じたとき人びとは声を上げ立ち上がるのである。
 それは、決して遠い国の出来事ではなく、私たちの社会とも無縁ではない。
 この夏に多くの視聴者が熱中したTBS系列のテレビドラマ『半沢直樹』が描き出したのも、「侮辱された生」と「尊厳の回復」の物語である。
 銀行から貸しはがしに会い自殺に追いやられた父を持つ主人公。連鎖倒産へと追いやられる大阪の下請け零細工場主。銀行エリートでも少しでも失敗すれば、「出向」という島流し。廉直な生を生きてきた人びとが、非情の仕打ちに会い、侮辱された生が待ち受けている。他方で横行しているのは、粉飾決算や計画倒産、銀行や企業の系列化や同族支配。テレビドラマらしい分かりやすい人物類型、推理ドラマ仕立ての波瀾万丈な展開、歌舞伎や時代劇を思わせる俳優たちの大見得演技で、圧倒的な視聴率を獲得したドラマ史に残る快作だった。
 誇張やステレオタイプを通してであれ、「経済」の振る舞いを分かりやすい勧善懲悪のドラマに仕立てることに成功したのである。 
 このテレビドラマの陰の主人公は「金融資本主義」である。メガバンクの中枢部に舞台が設定され、回を追うごとに視聴者は、粉飾決算や計画倒産、迂回融資、引当金、金融庁検査、等等と次々に「経済知識」を学びつつ、経済ドラマに「はまる」仕掛けになっている。しかも、その金融資本主義のドラマは決してテレビの中だけで完結しているわけではない。
 グローバル化は、廉直な生を営みつづけられるとはだれにも保障されていない世界である。資本の運動は目に見えない。なにか時代の空気がおかしくないか、なにかが間違っていないか、と思いつつ、真綿で首を絞められるように進行していく逼塞感と不安は、多くのひとびとの意識の裏側に貼り付いて離れない。
 バブル崩壊の不良債権処理やリーマンショックの後始末、東電による福島原発事故の処理、だれもが、支配層のモラルの頽廃、巨大資本の身勝手に翻弄される社会の記憶をとどめている。じっさいに生を脅かされ、跪かされ、ひれ伏し、土下座させられる人びとの苦汁の光景も既視感に満ちている。
 そんななかで人びとが、一瞬でも具体的な「悪」の正体をあぶり出してくれるドラマを見るなら、この状況に一矢報いるべく、だれもが一度は叫んでみたい決め科白、それこそ、「やられたらやり返す。倍返しだ!」
 
 いしだ・ひでたか 53年千葉県生まれ。東大文学部卒、パリ第10大学大学院博士課程修了。専攻は記号学・メディア論。著書に「自分と未来のつくり方」「現代思想の教科書」「記号の知/メディアの知」など。

2013年10月18日金曜日

「『安倍さん』という気分:言葉よりイメージ、消去される記憶、諦めが政権支える」、『朝日新聞』2013年10月18日金曜日 朝刊 17頁(高橋純子記者インタビュー)

安倍政権が発足して10カ月。いま日本社会は刹那(せつな)的な多幸感に包まれ、時代の大きな転機にあることを見過ごしてしまいそうだ。なぜこのような時代の気分が醸成され、そして日本という国がどこに向かおうとしているのか。政治が凪(な)いで見える今こそ考えたい。まずは「安倍人気」の底流について、メディア学者の石田英敬さんに聞いた。
 ――安倍政権は高い支持率を維持しています。
 「なんと言っても、最初に『アベノミクス』という仕掛けをつくったことが大きい。これは成功するか失敗するか誰にもわからない大きな実験です。実験することには賛成反対の立場の選択があり得ますが、開始されてしまったら否(いや)も応もない。失敗させるわけにはいかないから、経済界や経済紙といった経済アクターたちは成功に向けて動くしかありません。いまや一種の情報戦です。何につけても『アベノミクス効果』をうたい、称賛し、人々の景気回復への期待をどんどん膨らませればいい。それが実際に株価上昇という現実をつくり出し、さらなる期待を醸成する。この『期待の螺旋(らせん)』が安倍政権の『人気の資本』です」
 「この『期待の螺旋』の裏側は、『期待をしぼませるようなネガティブなことは言ってはいけない』という『沈黙の螺旋』で出来ています。『裸の王様』よろしく、『安倍さんは裸だ』と気づいたとしても誰も自分からは言い出せない。期待と沈黙で両側から支えられた政権が安定するのは当然です。当否や持続性への疑念を棚上げすれば、仕掛けは見事と言うよりほかありません」
 ――安倍晋三首相の言葉の力も、人気を支えているのではないでしょうか。首相の演説が五輪招致の決め手になったと称賛されています。
 「人々に響いているのは、首相の言葉ではなく、イメージでしょう。言葉を武器に人々の理性に訴え、説得を試みるのが本来の政治ですが、安倍首相が展開しているのは、理性ではなく人々の感性に働きかけ、良いイメージを持ってもらうことで政治を動かすことを狙った『イメージの政治』です。そこで必要とされるのは、しぐさや表情、レトリックといった、人に良いイメージを持ってもらうための『技術』です」
 「イメージの政治において、私たちは政治ショーを見ている観客と化します。安倍首相は五輪招致演説で、福島第一原発の汚染水漏れについて『アンダー・コントロール』と発言しましたね。これは書き言葉に落とすとつじつまが合いませんが、招致に利したし、いいパフォーマンスだったと多くの人が判断している。スポーツ観戦する人が『最高のパフォーマンスを見せてくれ』と言うでしょ。それと同じです」
 「消費増税の決定過程も、イメージの政治のセオリーにのっとり、うまく演出されていました。日本の首相でイメージの政治の扉を開いたのは小泉純一郎さんですが、それはあくまでも個人の才能によるものです。一方、安倍首相はおそらくプロが演出している。政治はどんどん技術を磨いています。良しあしはともかく、私たちはそういう世界を生きているということをもっと知る必要があります」
    ■     ■
 ――新聞やテレビも、そのイメージの政治に巻き込まれてしまうということですか。
 「そうです。イメージの政治に巻き込まれずに批判の足場を持てるのは、観客ではいられない人、例えば福島の漁民のように現場とつながっている当事者か、外から日本を見ている人です。イメージは国境を越えられませんから。越えるのは言葉です。麻生太郎副総理のナチス発言や橋下徹大阪市長の慰安婦発言に対しては、国内よりも海外の報道の方が厳しかった。政治家はこのズレをよくよく認識すべきです。このような『実績』が積み重なると、日本に対する信頼は確実に減殺されます」
 ――自省を込めて言えば、新聞やテレビの権力監視機能が弱っていることが、こういう政治状況を助長してしまっているのでしょうね。
 「その通りですが、政権に取り込まれているとか、弱腰だとか、従来型のマスコミ批判をしているだけでは実相はつかめません。大きいのは私たちのメモリーの問題です」
 「注意力と言った方がわかりやすいかもしれませんね。パソコンの一画面にディスプレーできる情報量が限られているように、人間の注意力も有限です。新聞が最大の情報源だった時代は、翌日の朝刊がくるまでは『現在』が固定されるので、注意力を傾け、思考を深めることができた。ところがテレビ、さらにはインターネット、SNSの時代になると『現在』が頻繁に更新されるため、注意力が分散されて深く思考できません。その上、新しい情報を入れるために、古い記憶はどんどん消去されていく。いまやメディアは、出来事を人々に認識させる伝達装置であると同時に、片っ端から忘れさせていく忘却装置となっているのです」
 「このような状況の中で、人気を得たい政治家は、より新奇なことを言って、常に話題の周辺にいるという戦略をとるようになる。橋下市長はその典型です。言葉は人気競争に勝つための道具に堕し、受け手の側もネタとして消費したらすぐに忘れるので、政治家の発言がコロコロ変わっても問題視されない。これが現代のポピュリズムのかたちです」
 ――情報技術の発達が、政治のありようを大きく変えてしまったと。
 「代議制民主主義を成り立たせてきた条件がどんどん摩滅しています。代議制民主主義には『遅れ』が不可欠です。代表を選ぶための時間、意思決定までの討議のプロセス、決定が実行され成果を出すまでの時間。その時間的な遅れが、私たちの政治的判断力を養うのです。しかし現代の情報社会はこうした遅れを許しません。政治家も選挙民もマスコミも情報の洪水の中で注意力が分散し、長い射程をもった政治的判断力を培うことも、大きな文脈に位置づけて物事を考えることもできなくなっている。いい悪いではなく、情報社会の端的な結果です」
    ■     ■
 ――だとすると、受け入れるしかないのでしょうか。
 「悔やまれるのは、政権交代の失敗です。民主党のマニフェストとは、忘却が進むこの社会において、時間的に持続する選挙民との約束であり、代議制民主主義を立て直すためのツールになり得たはずです。しかしその仕組みを、民主党は自ら台無しにしました」
 ――民主党の罪は深いですね。
 「ただ、情報社会の観点からは、別の問題も指摘できます。民主党政権の3年半について、私たちは『最低でも県外』『近いうちに解散』といった断片的な失態の記憶しか持っていません。ダメな首相が3人出てきて訳がわからないうちに自滅したねと。しかし本当はもっと深いところに失敗の原因があったのではないか。私たちは『政権交代とは何だったのか』という問いに対する明確な答えをいまだに持てていません。そう。私たちは忘れっぽく、大きな文脈の中で思考することができなくなっているからです。その結果『政治は変えられない/変わらない』という諦めにも似た感情だけが残り、それが現在の、人々の政治的判断のベースになっていると思います」
 「安倍政権はその諦念(ていねん)をうまく原資にして政治を動かしている。ほかに選択肢はありませんよ――。安倍政権が発しているメッセージはこれに尽きます。大型公共事業が復活し、原発は推進され、沖縄の空をオスプレイが飛ぶ。政権交代も3・11もまるでなかったかのようです」
 ――諦念がベースになれば、道はおのずと現実追随へと続きます。未来への希望や想像力を取り戻すことはできないのでしょうか。
 「政権交代、そして3・11をきちんと思い出すことから始めるしかないでしょう。精神的な病と同じで、記憶を取り戻し、自分の中にきちんと位置づけない限り、問題を克服して次に進むことはできません。私たちはどんな道を歩み、どこで間違ったのか。切れ切れになった情報を整理することで、現在の社会の構造や奥行きを理解できる。そのような認知マップを持って初めて、将来についての展望を描けるのです」
 (聞き手・高橋純子)
    *
 いしだひでたか 53年生まれ。東京大学教授。専門は記号学・メディア論。著書に「記号の知/メディアの知」「自分と未来のつくり方」など。

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この記事に関連して、日本記者クラブで「デジタル多メディア時­代のジャーナリズム」と題して記者会見を行いました。


2013年10月1日火曜日

[X 資料]東京大学「新図書館計画」 — 新しい知の拠点、アカデミック・コモンズとして -- 『大学マネジメント』2013.10

[X 資料]

東京大学「新図書館計画」

    新しい知の拠点、アカデミック・コモンズとして --

石田英敬(東京大学附属図書館副館長)


 世界の大学における大学図書館システムの役割は現在大きな転換期を迎えている。
 東京大学が加盟している「国際研究型大学連合(International Alliance of Research Universities; IARU)[1]では昨年度から「IARU図書館長会議」を毎年1回定例開催して、加盟十大学の図書館責任者の間で情報交換を密にし、共通テーマを掲げて戦略的目標を設定して交流・連携を強化する取り組みを開始している。
 世界の主要大学では大学図書館の新設、大規模な改修計画も目白押しで、上記IARU加盟校は、私たち東京大学附属図書館以外でも、北京大学が大学図書館を新設・全面改修中、オックスフォード大学のボードレイアン図書館群は、ニューボードレイアン図書館を「ウェストン図書館」として全面リニューアルを計画している。IARU加盟校以外でも、筆者が実地に訪れた大学だけでも、ソウル国立大学、ストックホルム大学、パリ・ソルボンヌ大学など世界各国の中心的な大学で、軒並み新図書館建設・大規模な改修計画が進行中である。世界的な大学競争のなかで各国は図書館システムを大学の知識基盤の中核に据える戦略を実行に移しつつあるのである。
 こうした世界的なコンペティッション状況のなかで、現在進行中の東京大学の「新図書館計画」もまた、大規模な建物の建設・改修、蔵書の収蔵能力の飛躍的な拡大のための計画にとどまらない。大学における〈知のロジスティクス〉を再定義し、世界最高水準の教育と研究を実現していくための、根幹的な知識基盤整備の事業として進められているのである。
 以下では、推進責任者として、このプロジェクトの概要を報告するとともに、世界競争時代を迎えた研究型大学における大学図書館の未来形について、ときには私見を交えることをいとわず述べてみることにしよう。

1.東京大学「新図書館計画」の概要

 まず、東京大学が実行に移しつつある「新図書館計画」[2]について説明する。
 スタジオジブリ制作の宮崎駿監督のアニメ最新作「風立ちぬ」をご覧になった方も多いだろう。関東大震災の場面から物語は始まるが、蔵書を救おうとする学生たちの懸命の奮闘も空しく焼失してしまうのが本郷の東京帝国大学図書館である。
 この図書館炎上と蔵書全滅をへて、アメリカの富豪ジョン・ロックフェラーJr.の寛大な援助をえて建造されたのが、現在の本郷キャンパス総合図書館である。のちに東大14代総長となる建築家の内田祥三の設計で、竣工は1928年。震災の教訓を生かし、鉄骨鉄筋コンクリート造りで頑強な構造を備え、地下一階、地上三階、中央部のみ五階、内側には7層の書庫が設けられている。当時の建築技術の粋を集めた歴史的価値の高い建物だが、第二次大戦中の金属供出や数度にわたる改装・改造で現況はつぎはぎやパイプ配管などが目立ち、冷暖房設備はエネルギー効率が悪く、全面的なリニューアルと歴史的価値の復元が求められていた。
 東大では、三キャンパスの拠点図書館と、現在32ある部局図書館・図書室とも収容能力は限界で、時代の新しいサービスに対応するためにも、大学の図書館システムの中核である総合図書館設備の刷新が求められていた。
 計画では、図書館前広場の地下に「新館」を建設する。地下2~4階には300万冊程度収蔵可能な自動化書庫を導入して文献・資料の安全な保存と有効な活用を図る。地下1階には研究・学習のための多様で新しい機能を備えた「ライブラリープラザ(仮称)」を設置する。これが第一期工事である。(20171月工事完了予定)
 また、第二期工事として、現在の総合図書館を外観を完全に保存したうえで、内部を全面改修して図書館機能を高度化。3階部分の閲覧室を拡充し、書架スペースを拡張、ブラウジング機能を高めて高度な学習図書館を実現。4階部分に世界のアジア研究の拠点となる「アジア研究図書館」を新設。1階2階は、資料の統合的なデジタルアーカイブ化や、国内外のさまざまなデジタル学術情報のハブ化の推進、新しい知識技術の活用やマルチメディア資料の活用を可能にするメディアラボ、ラーニングスタジオの設置等を計画している(2019年工事完了予定)。
 このようにして生まれ変わる本郷新図書館全体を、大学のもつ知を俯瞰し、高次の学習・教育研究活動を支援する21世紀の「アカデミック・コモンズ」と位置づけている。

2 「ハイブリッド図書館」

 この「新図書館計画」は五つの理念を掲げている。
 その第一が、電子情報と実物の本の間を自由に往き来する「ハイブリッド図書館」という理念である。
 電子ジャーナルの利用によって研究が進められ、電子書籍が浸透していく時代に、電子図書館と伝統的図書館とを融合させて、ヴァーチャルとリアルの双方を最大限に活用できる環境を構築しようという、ある意味では当然の考えである。
 とりわけ、「新館」地下に300万冊の自動化書庫を設置することによって、その部分の書籍・雑誌等資料がブラウジングできない状態に置かれることになるのだから、新しい図書館はヴァーチャルな空間においても、「知らない本」との出会いを可能にするのでなければならない。
 新図書館計画では、出版界や図書館界とも連携しつつ、大学発足以来のすべての教員の著作のデジタル化をめざす「知の森(デジタル・フォレスト)」プロジェクトが立ち上げられ、検索能力の向上やデータ組織の高度化、独自の検索エンジンやリコメンデーション・システムの研究開発、ヴァーチャル書架の試作、電子書籍の活用実験などが始まっている。
 教育情報と学術・図書情報とのリンクと往還もハイブリッド図書館の重要な機能である。シラバスから、書誌情報へ、書誌情報から大学の知識ネットワークや研究者情報へと、シームレスにつながっていくことが、大学における知の循環を可能にする。その知のネットワークのポータルとしての役割を図書館が果たすことになる。
 国際的にもリポジトリの拡充、オープンアクセスへの対応などのパブリッシング機能が、大学図書館ひいては大学自体の決定的に重要な評価軸になりつつあるから、電子図書館機能の充実は東大図書館システムの最大課題の柱なのである。
 

3 「アジア研究図書館」

 現在の大学の図書館システムには、その大学に息づいているあらゆる知の領域に対応した学術情報の収集・活用・保存・提示以外に、大学としての〈知の顔立ち〉を持つことが求められている。とりわけ、現在のように大学が世界的コンペティッションの時代を迎えているとき、大学図書館もまた世界的に相互に比べ合う関係に入ることになる。したがって、「東京大学の図書館の特徴とは」と問われたときに、その中心になる〈顔立ち〉が大学の図書館システムにはあってしかるべきであろう。
 研究型大学の図書館としての顔となるのが、4階部分に予定されている「アジア研究図書館」である。大学には、多様な学問分野を横断してアジアに関連する研究をおこなう研究者は多数おり、「ASNET(日本・アジアに関する研究教育ネットワーク機構)」という横断組織を結成して活動している。大学内に保存されてきた貴重蔵書やコレクション、蓄積されてきた第一級のアジア研究学術資料も多数である。それらの蓄積を結集し、各国の研究者が集う世界最高水準のアジア研究環境を生み出すことがめざされている。
 

4 国際化時代の教育への対応

 現在の総合図書館前広場の地下に建造される「新館」の地下1階には、学生たちの学習や自主的な研究活動をサポートする学びの広場として仮に「ライブラリープラザ」と名づけた能動的学習のためのフロアが予定されている。
 約1300平方メートル、収容能力200名程度の、いわゆるラーニングコモンズである。東京大学の本郷にはこれまで大学院情報学環の福武ホールに先駆的な前例があるが、すべての学生に対して開くラーニングコモンズはこれが初めてである。
 能動的学習が高等教育のテーマとなり、東京大学もまた体験型教育プログラムの充実やサマープログラムの実施、学部後期や大学院を通した高度教養教育の拡充、留学生の受け入れの拡大、学事暦の変更にともなう多様な学びの実現等に力を入れようとしている。そのような総合的な教育改革の取り組みのなかで、「ライブラリープラザ」は能動的学習のための中心的設備としての役割を期待されている。
 世界の大学に広まりつつあるラーニングコモンズだが、「ライブラリープラザ」は東大としての独自の特徴を出そうとプロアプランを進めている。
 現在の総合図書館である「本館」への入り口として、〈大学の知へのポータル〉として性格づけられる。様々な学部の学生が集い、相互に学び合い、知を立案する場所であると同時に、TAやチューター、ライブラリアンが、パーソナライズされた対応を基本に、知の世界へ導き入れる役割を果たすことになる。
 また、先述のようなハイブリッド図書館環境を活用して、ヴァーチャル書架やITを駆使した特集コーナー「ブック・フォレスト」を設置して、本や学術情報の世界へガイドする環境を用意する。
 いままで大学になかった図書館空間が出現すると同時に、ライブラリアン、TAやチューターの院生、教員という多様な人びとが共に働く、新しい図書館の場所が実現することになる。これは、これまで図書館職員のみが働いてきた図書館という職場に大きな変化をもたらすことになるだろう。

5 社会に開かれた大学図書館

 この「新図書館計画」は東京大学だけのためではなく、広く社会的なロールプレイをも志向している。
 東京大学の本郷キャンパスは、一般的には、安田講堂にしても赤門にしても、本郷通りからの眺めをもって表象されがちである。
 しかし、不忍池サイドに注目するならば、不忍池の周りには、東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館といった日本を代表する文化施設が林立し、池をはさんで東京藝術大学まで徒歩30分の距離にある。江戸絵画にみられるように不忍池の景観自体、歴史的価値が極めて高い。
 この様なロケーションと歴史的に蓄積された文化的価値を活用して、東京大学新図書館は、この本郷・上野地区をむすんだMLAMuseum Library Archive)連携の学術極となることをめざしている。
 例えば、上記の文化施設と連携して、人材育成のプログラムを組織したり、日本の芸術・学術文化に関するサマープログラムを組織したりすることが考えられる。MLA連携というように、アーカイブを相互接続したり、協働でシンポジウムや展示を企画したりすることもできる。
 また、現在の総合図書館の建築上および歴史文化的な価値を復元することで、新たな文化を創出しうると考えている。現総合図書館の一階入り口左にある洋雑誌閲覧室は、もとは「貴賓室」とも呼ばれ徳川慶喜筆の「南葵文庫」扁額が掲げられシャンデリアで照明された豪華な部屋である。第二次大戦末期には有名な「東大七教授終戦工作」の相談が行われたといわれている歴史的な場所である。戦後のずさんな改装により、かつての輝きを失っていたこの旧貴賓室を記憶の場所として復活させる。講演会や若手研究者を顕彰する授賞式などを行ったり、賛助会員のセミナーや読書クラブを開催したり、社会の人びととの出会いを可能にする場所に生まれ変わらせるのである。
 これからの大学図書館は、そこに行けばいろいろな知と人との出会いが待ち受けている、いろいろなアイデアや人とのつながりが見つけられる、心躍る場所となるべきである。これもハーバード大学など外国の大学ではすでに定着している大学図書館の役割である。

 6 出版文化の公共的基盤としての大学図書館

 数分以内にOPAC検索から蔵書を取り出すことができる300万冊収蔵可能な自動化書庫を本郷キャンパスの地下につくることにどれほどの価値があるのか。今回の図書館計画の立案中に議論が集中したテーマの一つである。
 書籍のデジタル化が進み、学術情報一般が総じて電子化へと向かっていくなかで、首都圏においてフィジカルな書籍をこれほどの規模で蓄えている巨大図書館は、国立国会図書館と東大新図書館ということになるだろう。
 そのことの意義は計り知れない。学術の基本は、「反証可能性」である。例えば、EPUBPDFの現状を考えれば、フィジカルな書籍を学術的基盤とすることの有効性は、にわかに消え去るとは思われない。学問に従事する者は、典拠や引用の正確さ、オリジナルの文献との照合、確認が、知の厳密さの根拠である。ところが、例えば、キンドルのリフロー機能によってテクストが流動化し、そこから「引用」を行えば、どのテクストのどの版を典拠にしたかという基準そのものが揺らぐことになる。度量衡に「メートル原器」が必要であるがごとく、本にも「原本」が必要であるという、学術の「厳密性」の根本は、今後も永らくの間不変であり続ける。したがって、すぐに原本を取り出して照合することができる、フィジカルな本の存在は、学問の存続にとって死活的な重要事項なのである。
 他方では、出版文化、とくに学術出版文化の危機がある。
 現下のメディア状況にあって、大学図書館の蔵書を構成する学術出版界は、書籍のデジタル化に関しても不利な戦いを強いられている。また、恒常的な経営難から、独自で社内の充実した図書室機能を維持し続けうる出版社は極めて少ない。
 現在でも東京大学総合図書館の学外利用者のうちに出版編集者の占める割合は高い。
 それらの編集者こそ、本が生み出される最後の段階まで校正・校閲を重ね、レフェランスの厳密さ、引用の正確さを原本に当たって確認し、知識の正確さを保証している人びとである。
 そこで、300万冊の自動化書庫を備えた東大の新図書館を、学術出版に携わる編集者・出版人に今まで以上に活用してもらい出版文化の下支えとなることを、この新図書館計画の理念の一つの柱としている。上記のハイブリッド図書館の機能と合わせて、学術出版と大学図書館をこれまでよりも飛躍的に有機的に結びつけた出版文化におけるコラボレーションが可能になることをめざしている。
 大学図書館における電子書籍蔵書の拡大、大学図書館での電子書籍の貸し出しが、一般化していくことが見えてきた今日、大学図書館と学術出版の新しい関係を示していくことが求められているのである。

7.大学図書館の未来形をめざして

 さて、以上が東京大学で現在進行中の「新図書館計画」の概要である。
 私見では、今日改めて捉え返されるべきなのは、大学における〈知のロジスティクス〉という視点である。
 情報革命は、図書館を、そして大学自体を、リアルな空間の制約から「解放」することになった。リアルな図書館に行かなくても電子ジャーナルや電子書籍ブックのような情報の〈構造〉にアクセスすることは出来るし、リアルな本を手にとらなくても、テキストという情報の〈編集体〉を読むことはできる。図書館の書架の間を一冊の本を求めて歩かなくても画面で〈情報の通路〉を通り、目ざす一文を求めて頁をくらなくても一瞬でその〈情報列〉に辿り着くことが出来る。
 そこから浮かびあがってきたのは、しかし、知の回路や技術の配列の空間的設計の重要性、知識の供給経路の戦略性の追求である。大学という知識集団のヒトの流れと、研究や教育というアクティヴィティーの系列を、知識の補給路のどこで、どのように出会わせ、どのように新たな発見や学びの出来事を組織するのか。これが大学における〈知のロジスティクス(兵站学)〉の問題である。
 東大もその世界的典型例の一つである、19世紀発のフンボルト型大学において、大学図書館は知の物流の中核的拠点であった。大学自体が巨大な情報の流れの中におかれた21世紀の大学においては、その情報の巨大渦をデフォルトの前提条件として、大学自身が己の知の回路を設計しなおし知識基盤を築き直す必要がある。大学自身が自らの〈知のロジスティクス〉を立て直す時が来ているのである。
 この視点に立てば、もはや「大学図書館」は従来とは異なった顔立ちを持って現れることになるだろう。一方において、物理的な空間のなかで具体的な人びとがリアルな出来事と出会う場所であり、他方において、高速で巨大な知識の流れとヴァーチャルに結びついている。
 毎日、何千人もの知的作業が刻々とデータを更新して、知識を摂取し、知識を増殖させ、知識を送り出している、巨大な知の循環の場所として、大学図書館は定義されなおすことになるだろう。
 その場所を、まだ「図書館(本の場所)」と呼び続けるのかどうか。それは、もはや、大学構成員たちの思い入れと好みの問題であるだろう。だが、その場所が、今日の大学にとって知的生産の〈心臓部〉としての戦略性を高めつつあることを、もはや誰も否定することはできないのである。

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[2] 東京大学新図書館計画については、次を参照。

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