Je t’apporte l’enfant d’une nuit d’Idumée !
二〇一〇年より京都春秋座でこれまで夏に三度にわたり公演されてきた「マラルメ・プロジェクト Ⅰ・ Ⅱ ・Ⅲ」(企画浅田彰、渡邊守章)は、幾重にも独創的なパフォーマンスの実験である。
難解をもって知られる十九世紀フランス詩人マラルメの作品を題材に、フランス語と日本語とを往還しながら、プレオリジナルを含む異同テクストを、厳密な生成論的研究を踏まえたうえで、考え抜かれた演出と、即興をふくむ声と身体のパフォーマンスをとおして、「舞台」にかけようというのだから、一見無謀ともいえる企てであることはまちがいない。
浅田彰、坂本龍一、高谷史郎、白井剛、寺田みさこ、そして渡邊守章という当代の名だたるパフォーマーたちの参加をえて、初めて可能になった、思考とコトバをめぐる、音響とイメージ、声と身体で書く演劇的エクリチュールの実験なのである。
Ⅰ「危機」
噺は、マラルメの「危機」という、現代文学の巨大な起源神話である。書簡の朗読をとおして語られることになる、「美」を求めて詩句を掘り進んでいった詩人が出会った「虚無」の深淵、おぞましい羽をもつ「神」との格闘の末、神殺しを果たした詩人を襲う酷たらしい人格解体の劇、言葉の意味をも失ってしまう「狂気」の経験、「破壊こそわがベアトリーチェ」と嘆ずるマラルメのあの「トゥルノンの夜」のドラマのひとくさり、コトバの焔の地帯に少しでも近づかんと試みた者ならば、誰もが聞き及んだことのある、私たちの思考を捉えて放さぬ冥府の臍の経験なのである。
『エロディアード』の制作に途上で詩人を襲ったこの危機は、やがて、ひとつの「哲学的小話」のシナリオに結実する。「マラルメ・プロジェクトⅡ」以降、渡邊らが遡上に載せた「イジチュールの夜」の素材となった草稿群である。
「イジチュール」とは、自己療法として書かれたとされる、詩を書くこと自体を主題とした一種の形而上学的なドラマである。コトバという存在の住処を掘り崩すことで逢着した危機を、その当のコトバと似たコトバで書こうというのだから、自らのカタストロフを言語化する自ずからカタストロフィックな実践である。「もし、その話が成立するなら、僕は治るだろう、似タモノハ似タモノニヨッテ Similia Similibus(毒をもって毒を制す)だ」と、詩人が表白するゆえんである。
2 潜勢劇
さて、こうしたマラルメの危機の進行を跡づけるように、浅田・渡邊の「マラルメ・プロジェクト」もまた、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと螺旋状に進化してきた。公演の構成が、その冥界下りの道行きを構造化している。
発端には、劇場のための「エロディアード」の構想があり、夏の幕間劇としての「半獣神」の執筆があり、劇場と詩とを巡る、書くことの「不能力」との心身にわたる格闘があった。書簡の朗読が点描する危機の進行・・・。
フランス第二帝政の終焉期、詩人二十代の頃である。
詩のコトバの演劇性を掘り下げていくことによって、隠退する世界と入れ替わるようにせり上がってくるエクリチュールの舞台。不在の劇場に上演されるコトバは、その内部に、暗示的に、身体と身ぶり、音楽と光景をはらんでいる。「事物を描くのではない、その効果を描くのだ」という「とても新しい詩法」とはこのコトバの潜勢劇の発明なのである。
それに応えるかのように、春秋座の舞台の上にしつらえられた大きな書物の頁のように開かれた二枚のスクリーン。そのうえに暗示的に浮かび上がっては消えていくイマージュと文字、黙劇(ミミック)」に似た踊る身体と、暗示的に垣間見られる「成り得ぬ潜勢の君主」ハムレットの劇・・・。目ざされたのは、身体の象形文字でかく「エクリチュールの劇」なのである。
3 翻訳の「呪法」
この潜勢劇の原動力は、なんといっても言語である。渡邊の翻訳の力が、かれが「言語態」と呼ぶ、コトバの劇の定立を可能にしている。いま、そのコトバの態を調べてみよう。
マラルメが、詩句を穿つことで虚無を発見するにいたったとき、制作にかかっていた詩作品は、エロディアードの「音楽的序曲」として書かれ、「古序曲」の題で知られている。
偶然を完全に排除するエクリチュール。全四連、九六行が、第三連二〇行を中心部として、大きな鳥の翼を拡げたごとく、完全にシンメトリカルな建築的構成をとって配置され、作品全体にわたって、詩句が反響し合い語が鏡的反映を繰り返す完璧な交響楽的構築体。その中央部に、巫女(シュビラ)である乳母の「降霊術」の「声」の発話が、ただ一つの主動詞を軸に、一文二十行に渡って繰り広げられる。
これを「魔法の影は、遣う 象徴の呪法を」で始まる渡邊訳は、修辞的疑問「〜か」、動詞の終止形、原文に密着した統辞的リズム、原文のカトリック典礼の語彙を、仏教の密教的用語に置き換えて生み出される擬古的な語彙系、五拍と七拍を交えた声明を思わせるリズム、等々のテクニックを駆使して、実に見事に、音楽的に翻訳の「言語態」を組み立て、主文動詞「今 立ち昇るのは、」の周囲に、絢爛たるコトバの織物を繰り広げてみせる。
魔法の影は 遣(つか)う、象徴の呪法(しゅほう)を!
あの影は 遥かな過去を 長々と 呼び起こす
あれは わたしの声か、降霊の呪法(しゅほう)に 入らんとする?
今もなお、思考の 黄ばんだ 襞のなかを
徘徊して居る、古の あたかも香(こう)に 染(し)みた織物(きぬ)、
冷え切った香炉の 雑然と山をなす その上を
古(いにしえ)に穿(うが)たれた穴により、はたまた硬い 襞によって、
いずれも律動により 穿(うが)たれて、また穢れなき レース編みは
経(きょう)帷子(かたびら)、美しき 浮き彫りかと見まがう 布(きぬ)を通して、
立ち昇らせる、絶望のうちに、ヴェールの覆われた 古き輝き、
今 立ち昇るのは、(この叫び声の封印する、遥かの地平、あれはなにか!)
異形(いぎょう)なる真紅(しんく)の 鈍(にび)色(いろ)に覆われた 輝き、
声は悩ましげに、何も語らず、傍らには 侍(じ)祭(さい)もおらず、
・・・・(残念ながら紙幅の都合上、以後省略)
「古序曲」の「乳母」はシュビラ(巫女)でもあって、彼女の「降霊術」の声は、聖ヨハネによる「新たな書物」(新約聖書)の世界の到来の預言という運命の日の曙の訪れをまえに、その発話のテクストのリズムがエロディアードの部屋のタペストリを喚起するとともに、彼女自身がこの降霊の発話を通して魔術的な「影」と化してタペストリのなかに消え去る(「あれは わたしの声か、降霊の呪法に 入らんとする」)とともに、彼女の「わたしの声」は、「わたし」から離脱して漂い、来るべき「預言者」ヨハネの「声」に一致しようと憑依する。マラルメにおいて、この「降霊術」の発話は、来るべき「新しい詩法」の「発話」を先取りする発話でもある。詩的発話自体の自己預言という、詩的言語の自己言及性の問題系を伴っているのである。
他方、渡邊の構築する翻訳の発話の「声の詩法」は、まさに、その意味では、マラルメの「新しい詩法の声」を現代日本語へ「降霊」させるべく組織されているともいえる。
乳母の声が、「旧約の世界」から「新約の世界」へのキリスト教進学のいう「契約置換」の境界に立つ発話(聖ヨハネの「新しい詩学」の声)の声を呼び出そうとする声であったのと相同形で、我が国の古いコトバの記憶に汲みつつ、原文の声を発明しようとする、渡邊流翻訳の「降霊術」の声とでもいうべきものである。それは、まさに、ほとんど「人間国宝」的なメートル(巨匠)の言語技であると言ってもいい。
あるいはまた、渡邊版ラシーヌに慣れ親しんだ者であれば、「エロディアード 舞台」の七七五七五拍の独白のなかに、渡邊ブリタニキュスの絢爛たる〈守章節〉を聴き取るはずだ。
おお、鏡よ!
冷たい水よ、そなたを囲む縁の中、倦怠によって凍れる水よ、
幾度(いくたび)となく、いや長い時の間、夢想に打ちひしがれて、
ただ独り、我が追憶を、さながら深い筒井の底、
そなたの氷の下に沈む
枯れ葉のように、追い求めつつ、
遥か彼方の亡霊か、そなたの内に現したのだ、この姿を、
だが、おぞましい!幾夜かは、そなたの畏るべき泉水のうちに
知ってしまった、散乱する我が夢の
裸形の姿を!
拍や節がないような詩の翻訳はありえない(巷に、「学者的な余りに学者的な」翻訳があふれているのは、この国の外国文学研究の衰弱の兆候である)。演劇のために書き起こされ、劇場を放棄することにより、言語の内部へとその舞台を移した潜勢劇が、渡邊訳の言語「態」として、その身ぶりを濃い陰影をもって浮かびあがらせるのである。
4 「イジチュールの夜」
さて、そのようにして、渡邊版エクリチュールの舞台をとおして、われわれは「イジチュールの夜」の潜勢劇に招じ入れられる。
「自ら事物を舞台にかける読者の知性に向けて」書かれた「哲学的小話」。おおまかなシノプシスらしきものをとどめた草稿群は細部については未分明な箇所が多く、いわば想像力がオープンに残されている。四部構成なのか、五部構成なのか、はたまた三段構成なのか、いずれにせよ。この暗示的な劇は、「絶対」や「無限」や「観念」や「行為」や「不条理」や「虚無」といった抽象的な「概念」たちの間で、「深夜」、「夜」を登場人物として組み立てられ、天地創造の際に紛れ込んだ「偶然」を「廃棄」する「宇宙の行為」の遂行という、まことに大それた「大きな物語」の「要約」としての「小話」なのである。
それが、マラルメ自身のエクリチュールの危難を再現する演出によって、独特の語呂合わせ的な言葉遊びを通してテクスト化されている、まことにやっかいな散文の難物である。
春秋座の「イジチュールの夜」では、こうした未完の草稿群の重ね合わせを、朗読と録音音声、映像とダンス、音響と演奏のそれぞれの即興を重ね合わせることで、断片的で暗示的なパフォーマンスの舞台を成り立たせている。
朗読を担当する渡邊と浅田の声のパートは、渡邊が、作者〈マラルメ〉、浅田が主人公〈イジチュール〉という分身構造と見立てることができるのだろう。
5 「深夜」
「イジチュール」の散文の特徴は、そのテクスチュアにある。「内部的脚韻」と呼ばれることもある、音韻エコーの関係が、語のカテゴリカルな同一性を揺るがせるところに、物語の仕掛けがある。このドラマの主人公は「時間(le temps)」であり、「部屋(la chambre)」の空間でもある。すなわち、あるいは、「不在(l’absence)」でもある。
「時間の部屋」の柱時計が、世界に引導を渡す「絶対」の「深夜」の十二時を打った直後の把持の時間性のなか、不在化したはずの「わたし」の「影」は、その現在時のなかにまだ幽かに残存している
ー
[―]確かに、[男姿の]深夜は、そこに現前して残っている。時刻は、鏡を通って消え去りはしなかったし、壁掛けに埋もれもしなかった、その虚ろな響きが、家具調度の存在を喚起してはいたのだが。わたしが思い出すのは、その黄金の響きが、不在のなかで、夢想の虚無なる宝石の姿を、豪奢で無用な生き残りだが、その姿を取ろうとしていたことであり、金銀細工の海と星々の複雑な配置の上に、無限に組み合わせの可能な偶然が、読み取れていたことを除けば、である。
「深夜Le Minuit 男性」と化した「わたし」は、「夜 La Nuit 女性」の中に、「影」となって、十二時の「時刻」の「衝撃」の「木霊」に導かれて、「人間精神」の螺旋階段を「事物の底」へと降下していく。「時間」「空間」のカテゴリ化がゆらぐ、この絶対的な「時刻」の経験を、マラルメは、「絶対」「偶然」「観念」「無限」「永遠」「混沌」「思考」のような、哲学素を擬人化してドラマ化している。
ここでは、「深夜Le Minuit」とは、「ワタシガ夜ト化ス時刻 l’heure oû je m’y fais Nuit.」であり、その「時刻(l’heure)」は、時計の「打刻(le heurt)」として「時(hora)」の「黄金(son or)」を響かせており、その「衝撃(le choc)」が、時刻と主人公の墓への螺旋状の「落下(la chûte)」というように、響き合う語の連鎖をとおして、空間も時間も、人物も小道具も、情景も行動も組織されている。マラルメが残した草稿には、「echo- ego heureー
heurt choc-chute plume-plumage je 」といったパラダイムが記されているから、こうしたシニフィアンの連鎖にもとづいて、物語素を組織していったことが分かる。「深夜」の男性形や「夜 La Nuit」の女性形に渡邊訳はこだわっているが、じっさい、これらのパラダイムは、男性/女性の対としても機能しており、語の形そのものがドラマを駆動させる原動力として機能しているのである。
かつて、フィリップ・ソレルスが「イジチュール」をさして「エクリチュールのコギト」であると評したが、たしかに、「深夜」の段は、「語に主導権を譲り、発話をとおして消失する詩人(la dispariton elocutoire du poete qui cede l’initiative aux mots)」の「わたし(ego)」の「木霊(écho)」の自己反省=自己反射を書き留めているのである。
6 「回廊」にて
「イジチュール」において、最も難解な断章は、第二幕「回廊 L’Escalier 」である。
「深夜」がコトバの「自己反省」によって「時間の部屋」を喚起していたとすれば、「回廊」はコトバによる演繹が、その展開を成り立たせている。例えば、次のようにである ー
影は、暗がりに消えて、夜は、振り子の、振り子自身に合致してそこに消えようとしている、疑わしい知覚と共に残った。しかし、光り輝き、それ自身において息絶えつつ、消え去ろうとするものに対しては、彼女は、今なおそれを担っているのは自分であると知っている。したがって、彼女から発しているのだ!疑いはない、・・・」 彼女とは、夜である。時が終わり、永遠の夜が訪れているはずなのに、意識はまだ消えていないようだ。影と化した意識はそう自問しているようだ。
「懐い」(懐疑 le doute)と、「確信」(la certitude)を交互に繰り返す方法の進行が、「推論」(演繹 la éduction)による「反省(レフレクション)」の「階段」を作っていく。この思考実験の場所は、ここでもやはり言語の運動とともに形づくられて、「意識」の「影」がその回廊に自己を映し出す「自己反省」=「自己反映」の鏡の連続体とし、回廊のパネルが繰り広げられていく。マラルメにおける、「方法的懐疑」とは、このような言語の自己反省の運動なのである ー
――今度は、もはや疑いの余地はない。確信は明晰さとなって、己が姿を映す。無駄なのだ、虚偽の記憶の蘇り、その結果に他ならなかった確信だが、一つの場のヴィジョンが、なおも現れていた、そのようなものとして、たとえば、期待された間隙がそうであったはずのもの、事実それは、両側の壁面としては、パネルの二重の相対する形があり、対面する形で、前と後ろには、内実を欠く疑いの開口部があって、それが翼あるものの逃げ去ったパネルの音響の延長によって反響され、探索された曖昧さによって二重にされているから、推論として予想された事態の完璧な相称構造は、己が現実を裏切っている。もはや思い違いの余地はない、これは自己の意識であった・・・
この「回廊」の段は、ポーの「大鴉The Raven」と「落穴と振子The Pit and the Pendulum」、デカルトの「方法序説」、そしてヘーゲルの「精神哲学」とを混ぜ合わせて書かれていると私は睨んでいるが、第一段「深夜」で遂行されたエクリチュールの自己反省を、こんどは、ヘーゲルばりの「精神史」のなかに記入し、詩人の種族の歴史の「自己意識」へと辿り着こうとする演繹をおこなっている。「影」の推論は、「疑い」から「確信」へ、さらに、「虚偽」の否定から「明晰さ」へ、そしてついに、「夢の構築物」の「美しい相称構造」の螺旋階段の踊り場で、詩人の種族の歴史と一致する「自己の意識」の明証性に辿り着く。
渡邊訳は、この主人公の「推論」による場の構築を、原文が生硬にいきなり使用するむき出しの哲学素を生かしながら、トポスの移動を原文のシンタックスのリズムと合わせながら、じつに巧みに日本語化してドラマ化している。
この反省=反映が「自我の頂」において、種族の歴史との一致を実現した後、「人間精神」の階段を降ってついに「事物の底」へと辿り着いた主人公は、賽を投げて、「偶然の廃棄」を確認して、種族の亡骸のうえに横たわる、とスクリプトには読めるのだが、渡邊版イジチュールは、最後に、主人公が自身の生涯を表白する「イジチュールの生涯」の場を設定している。
7 「やがて 鮮やかに 極北の 七重奏」
さて、残念ながら約束の紙幅が尽きた。まだまだ語るべきことは多くあるが、「書物を閉じ – 蝋燭に息を吹きかける」時だ。
見上げれば、夜空には、
煌めきの やがて鮮やかに 極北の 七重奏。
ドビッシー生誕一五〇年の今年は、最後に、渡邊による「半獣神の午後」の原詩朗読と坂本龍一の演奏が添えられた。来年も京都の夏の「イジチュールの夜」が楽しみである。
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