2021年5月29日土曜日

石田英敬「テレビ記号論とは何か」 新記号論叢書[セミオトポス 1]日本記号学会編 慶應義塾大学出版会 2007  


テレビ記号論とは何か 石田英敬

 

 二十世紀の始まりにフェルディナン・ド・ソシュールによって「社会における記号の生活」 を研究する一般学として提唱された現代記号論にとって、テレビの研究は今日最も重要なテーマのひとつである。現代人の「記号の生活」に最も大きな影響を与えているメディアはテレビであり、私たちは、日常テレビをとおして世界のニュースに接し、世の中の話題を知り、プライヴェートな生活を送り、テレビなしに消費も経済も成り立たない。20世紀から21世紀初頭の人間は、テレビをとおして「社会における記号の生活」を営んでいるのだ。

 しかし、記号論は果たしてテレビの「記号生活」について十分な研究を展開してきたといえるだろうか。

 ソシュールの一般記号学の延長上で言えば、「テレビ記号論」とは、社会における「テレビの記号生活」を研究する学ということになる。しかし、テレビ記号論はすでにあるなんらかの記号論の理論や方法をテレビの記号作用に対して適用することで可能にはならない。テレビ記号論とは、私の考えでは、記号研究の根底にあるべき、記号の仮説や記号作用の公準を問い、「記号論」の成立条件自体を全面的に問い直す作業を含む、新たな認識論的パラダイムの探求なのだ。

 テレビの壁

 二十世紀の記号論は、文学作品や芸術作品、あるいは映画作品のような審美的対象を内在主義的に分析することを特権的方法としていた。しかし、「私はテレビから排除されていると感じる」 1970年代末にロラン・バルトが述べたように、第二次世界大戦後のテレビ文化の興隆期に当たる時期に最もソフィスティケートされた記号分析の理論と方法を確立していったフランス構造主義者たちにとってさえ、テレビは内在的な分析研究の対象とはならず、むしろ「記号社会」の現象として、マス・メディア社会や大衆文化に関するマクロな文脈で扱われるようになっていった。「神話作用」のバルトやジャン・ボードリヤールの仕事がそれにあたる。

 「メディアはメッセージ」というマーシャル・マクルーハンの定式との対比でいえば、「言語モデル」から出発した、記号論の関心はメディアにはなく、メッセージが中心となった。そこから「技術の問い」は閑却され、メッセージの記号としての意味構造を記述することに研究は焦点化されることになる。そして、メッセージ構造だけを抽出するとすれば、たとえばテレビと映画との区別はつきにくくなる。映像記号論において最も優れた成果を残し、今日のテレビ記号論にとっても重要な理論的ソースでありつづけているクリスチャン・メッツの議論においてさえ随所に述べられているように 、映画とテレビは基本的に同一の理論フォーマットで扱えるものとされてしまうのである。<記号>・<社会>・<技術>という、メディアを成立させる三つの基本的な問題次元のうち、記号論は<記号>の次元のみに着目することによって、<記号>としての自律性が低く、<技術>および<社会>による制約変数が高い<テレビ記号>は、研究対象としての像をついにくっきりと結ぶことがなかったのである。作者や作品をめぐって、「文学」という言説ジャンルや「芸術」という文化実践の制度を前提とし、「テクスト」に表れる「文体」や「レトリック」の「読み」を方法に、「意味作用」の「批判=批評」に身をゆだねる「読み手」という記号学者の「人文主義的な解釈の枠組み」からは、テレビのセミオーシスは十全に捉えることが出来なかったというべきかもしれない。

 他方、フランス記号論の諸概念を、メディア論の文脈で受け止めて、ヘゲモニー論やイデオロギー論、エスノグラフィー研究と組み合わせて発展させ、テレビにおいて成立するポピュラー・カルチャーの分析を研究の中心に据えたのは、よく知られているように、イギリスの「文化研究」の流れである。この研究動向は、スチュアート・ホールの「エンコーディング/ディコーディング」やジョン・フィスクの「テレビジョンのコード」に見られるような文化コード論とメディア・テクスト論を特徴としている。それらの研究がテレビ・カルチャーの成立について重要な成果を上げたことはまちがいない。しかし、操作概念についてより緻密な理論的検討を加えるならどうだろうか。「文化研究」における「コード」や「メディア・テクスト」の概念には、フランス構造主義から受け継いだ記号論モデルの影響が読みとれるのであり、テレビの「文化研究」を支える概念装置については再度の問い直しを求められているといえるだろう。とくに、その限界は、ポピュラー・カルチャーが成立しなくなる、テレビの「ネオ・テレビ期」(ウンベルト・エーコ)になると顕著になる 。「社会」がテレビに吞み込まれ、テレビが「社会」を「表象」しなくなるネオ・テレビ期における、テレビのセミオーシスの理解には、テレビの記号原理に関する認識論的な一新が不可欠だというべきなのである。

 テレビの「記号生活」の社会における全面化とうらはらに、記号論にとって、テレビは次第に認識論的な壁として立ち現れてきたといえるだろう。それはまさにテレビが既成の文化のジャンルを突き崩してコミュニケーションを流動化させ、「社会における記号の生活」をつくりだす主導的な記号装置として機能してきただけに、記号論にとってはまさに致命的な障碍であったというべきだ。今日記号論が、現代世界の意味生活について本来果たすべき批判的役割を担いきれていないことの原因には、こうしたテレビの非-思考の問題が横たわっているとみるべきなのだ。

 記号学者はテレビを前に自省すべきである。これほど日常的で影響力の大きいメディアを批判できない記号学とは何なのか、テレビを説明できない記号学者なんかいらないのではないのか、と。じじつ、記号学ルネサンスは、テレビ研究から起こりつつある。現代記号論はテレビ研究を自身の仕事の主要な源泉のひとつとしてきたエーコという例外的なパイオニアをもち、1990年代以降のヨーロッパのテレビ研究では「第二世代の記号論」 の登場も語られているのである。

 

記号テクノロジーの問い 

 テレビは何よりもまず「記号テクノロジー」である。この点において、テレビ記号論の問いは、二十世紀以後の記号論のまったくオーソドックスな問いの系譜のなかに位置づけられるのである。なぜなら、記号テクノロジーの問いこそ、ソシュールによる記号学の企てそのものを生み出した核心的問いだからだ。

 「テレビの記号作用」は、機械によって「テレビ記号」を生み出し送り手と受け手とをむすぶ一連のテクノロジー回路とオペレーションの手続きから成り立っている。この「技術的-社会的-記号的配置」において視聴されるのが「テレビ記号」であり、「番組」というメッセージであり、そこに生み出されるのが視聴者という「テレビ的コミュニケーションの主体」である。

 それはあたかも、ソシュールにおいて、「言語記号」が、お互いに「電話的回路」によって技術的に結びつけられ会話する二人の話し手/聞き手の「ことばの回路」という間主観性において「発見」されたのと同様である。フォノグラフと電話という記号テクノロジーが可能にした認識の図式なしに、ソシュールの「言語記号」の概念も「話す主体」の理論も成立しない。アナログ・メディアの「テクノロジーの文字」が書き取ることを可能にしたものこそ、ソシュールに記号学を提唱させた「記号」であって、テレビの「テクノロジーの文字」が書き取って送信しているものが「テレビ記号」なのである。

 そこにはしかしフリードリヒ・キトラーのいう「1900年の書き込みシステム」 に固有なひとつの根源的なパラドクスが潜んでいる。ソシュール以来、ことばという「意識」の「記号」現象の認識は、フォノグラフという「テクノロジーの文字」によって書き留められ構成されるという「技術的無意識」を伴うことになった。そしてじっさいにひとびとの「意識」はアナログ・メディアの記号テクノロジーによって構成されるようになったのである。

 「語る主体」は「意識」において「言語記号」をコントロールすることができる。だがアナログ・メディア以後は、「記号」の「意識」への「現われ」を支えているのは、テクノロジーのエクリチュールである。このようなコミュニケーションの条件が20世紀以降は一般化したのだ。私たちは、テレビ映像の一コマ一コマを見ることが出来ないがゆえに、私たちの「意識」自体が技術的に生み出され、私たちはテレビの「記号」を見ることができるのである。

 二十世紀の記号論は、こうした記号テクノロジーの認識論的な回路のうえに記号の「意識」と「無意識」をめぐって成立してきたのである。記号論の実定性の根拠はそこにあり、現象学や精神分析との本質的な結びつきはそこに起因している。記号論はもういちどこの認識論的技術論的な条件を思い出すべきなのである。

 現代記号論は自らを生み出した「記号テクノロジーの問い」を問うてこなかった。その間に、人びとの生活世界に深く食い込み意味環境の成立条件を一変させてしまったのは、テレビやITのような「記号テクノロジー」だったのである。記号論の認識革命が行き詰まったのはある意味で当然だった。世界の方が全面的に「記号論化」したのに、「記号論」の方は理論的に失効するというパラドクス的状況である。テレビやコンピュータという「記号論マシン」が人間生活のおよそすべてを統御しているのに、「記号論」の方は手も足もでないという情けない状況である。これは現代記号論がある時期以降、「言語モデル」を始めとするあまりに均質的な意味モデルに閉じこもった結果である。

 いまではソシュールにはちがった読み方が求められているといえる。「記号学」はより根本的な認識論的な批判を求めている。それはソシュール派記号学を根底的に批判しつつ、それが始まりにおいて持っていた認識論的なダイナミズムを回復する試みを意味している。その批判のひとつがたとえば、このような観点から求められるテレビ記号論なのである。あるいはパースの記号論からも補助線を引かれるべき問題も多い。記号テクノロジーに媒介されたセミオーシスの解明である。

 例えば、テレビ記号論において現在注目される立場は、パースの「類像記号」、「指標記号」、「象徴記号」の三分類のうち、テレビ記号の「指標性」に着目することによって、「テレビ記号」の定義を立体的に組み直し、そこを突破口に、<技術>的制約性や、<社会>的構築性の問題へと至るという理論戦略である。そこでは、コミュニケーションの「同時性」という「時間」性や、スタジオの「ダイクシス」の「現在」性に照準した、理論的審級の組み直しが求められる。これらはすべて従来の記号論の公準のラディカルな組み替えなしに完全に理論化しうるものではない。「テレビ記号論」が、新たな記号論を求めるものである所以はまさにそこにあるのである。

 

テレビの一般記号学

 テレビは「現実世界」を「リアル・タイム」で指示しつづけるあまりにも「リアル」なメディアである。しかし、その自明性に反して、そこに流れているのは、無機質な物理的信号の流れであり、画面上に刻々と浮かび上がっては消えていくのは一般性を欠いた個別のイメージの「いま・ここ」の連続である。その視覚に突如として闖入してくる「偶然性」の「出来事」…。テレビは脈絡を欠いた無数の「idiot(=個別)」(ジャック・ラカン)な映像から成り立っている「現実界の砂漠」(スラヴォイ・ジジェック)への入り口なのである。

 しかし、その根源的な寄る辺なさゆえに、テレビはあらゆる記号手段を動員して、象徴体系を築き上げようとする。刻々と紡がれるアドホックな「筋」、「声」や「顔」といった「言表行為」の「痕跡性=指標性」を裸出させつつ即興的に組み立てられる誇張的な「語り」や「演出」、急ごしらえの映像文法と編集…。こうした「偶然性と筋」(エーコ)の戯れによってテレビは、その記号作用のゲームを繰り広げてみせるのだ。

 テレビの「記号」はラディカルに恣意的であると同時に、「いま・ここ」の指示作用において絶対的に動機づけられている。リアル・タイムの「いま」、リアル・ワールドの「ここ」において偶発的な痕跡からアドホックに組み立てられて「編集」されている「指標的シニフィアン」の組織、それこそがテレビなのである。

 リアルからシンボルへ、こうしたすべてにおいて、テレビは刻々と生み出される「記号」の「いま・ここ・わたしたち」の社会的機関(ルビ:オルガノン)なのである。

 物理的な信号からリアル・タイムのテレプレゼンスを生み出し、その時間の流れから意識を構成し、リアル・ワールドの指示作用を立ち上げ、コミュニケーションのフレームを指定し、世界とのコンタクトを組織する・・・。テレビのスイッチをオンにするだけで、こうしたセミオーシスの全プロセスが一挙に立ち上がるのである。

 テレビの番組表は、テレビという記号テクノロジーがつくりだす「意識」のダイヤグラムでもある。スタジオはテレビ的コミュニケーションの「いま・ここ・私たち」の「ダイクシス」装置であり、バラエティにせよ、ドキュメンタリにせよ、スポーツ実況にせよ、すべては、以上のような記号のあらゆる組み合わせと、言語行為の連続から成り立っているのである。

 テレビの記号テクノロジーのセミオーシスは、その信号の「実時間」の流れをとおして「意識」を生産するところからテレビという記号生活をたちあげる。「意識」は、スタジオの「ダイクシス」とじかに結ばれて間主観的に「人称化」され、「主体化」を受ける。私たちが、テレビをとおして「接触」しているテレビ局のスタジオとは、社会的「人称化」のための「主体化のモジュール」である。その「ダイクシス」をとおして「世界」が組織され、「人口」の意識が整流(モジュレート)され、「人口」の「生」が「リアル・タイム」で「管理」されていく。

 テレビがおこなっているのは、そのようなまさしく現代的な「管理社会」(ジル・ドゥルーズ)の「生政治」(ミシェル・フーコー)なのである。テレビという社会的な「機関(オルガン)」をとおして組織される「記号の生」とはまさに一般化した記号実践の性格を帯び、テレビはその記号テクノロジーのセミオーシスをとおしてひとつの「一般記号学」を実践しているのである。

 テレビ記号論はしたがって社会批判にとって死活的に重要な「意味批判」の一般学の可能性を拓くものなのである。テレビはその指示作用をとおして「顔」とは何かを「映し出している」。「声」とは何かを露呈させている。「眼差し」とは何かをカメラワークで示している。テレビという記号テクノロジーの「メタ言語」を裸出させ、その一般記号学的な射程を明るみにだすと何が見えてくるのか。「テレビのセミオーシス」をとおして「世界」を視ると何が見えてくるのか。テレビは「世界」をテレビの記号活動をとおして「一般記号学化」しているのである。あるいは、テレビはそのセミオーシスをとおして世界の記号を、その固有の視点から配列しなおしているということができる。

 いまや、ソシュール派記号学を根底的に批判しつつ、<ソシュールに帰る>ときである。ソシュールが電話モデルによって「ことばの回路」から「言語記号」の仮説を引きだしたように、テレビという「番組の回路」からどのような「テレビ記号」の認識を抽出できるのか、その技術的-記号的配置dispositifを先験的な「可能性の条件」として引き起こされる「意味の出来事」がどのように「社会」を生み出していくのか、それこそが「社会におけるテレビ記号の生活」を研究する「テレビの一般記号学」なのである。

 ソシュールが述べていた「一般記号学」の可能性は、「記号テクノロジー」のなかに内在している。そして、テレビのテクノロジーの文字がその問いを延長したその先にはさらに情報技術によるデジタルなテクノロジーの文字の問いが広がっている。「一般記号学」のプロジェクトの射程をさらにそこにまでのばすならば、そのとき「記号論」はふたたびロック、ライプニッツの「大計画」と合流することになるだろう。

 

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