「裸の王様」の題でも知られたアンデルセンの話「皇帝の新しい衣装」は、もとをたどれば、14世紀のスペインの摂政ドン・フアン・マヌエルによる「ルカノール伯」の教訓譚(たん)である。原話は中世らしく血筋にもとづく身分制が話の縦糸となっている。詐欺師たちは架空の布地が「正統なる血を引かぬ怪しげなる輩(やから)の目には見えぬ」という謳(うた)い文句で王の関心を引く。嫡子のみが遺産を継ぐことを許された王国では、この妙(たえ)なる布地が、「正統なる貴顕一族に財を集中する格好の手だて」だとして、王は機織りたちを召し抱えることにした。王は織物が目に見えぬことに「余は先王の嫡子ならずか」とうろたえて、王国を失うことを恐れて秘密をひた隠す。臣下たちも、布地が目に見えぬことに、「我が母に過ちありきか」とそれぞれ震え上がって、次々と沈黙して加担していく。
おかしいと思いつつも、少数意見として指弾されることをおそれ人々が沈黙していく、集団心理の理論がいう「沈黙の螺旋(らせん)」効果が起こるのである。最後に「失うべき何もものも持たない馬丁の黒人」が「おいらは誰の子でもいいが、あんたはまったく裸ですぜ」と告発することで、詐術の魔法が解ける。
アンデルセンの童話も、真理を見抜く子供のイノセンスの物語に原話を書き換えたにはとどまらない。皇帝が新しい布地の効能に惹(ひ)かれるのは、「有能な官吏と無能な輩を選別してやろう」という近代らしい職能的動機からであり、人々は、自分が無能であると見なされるのを恐れて「沈黙の螺旋」に引き込まれていく。子供が「王様は裸だよ」と叫んで人々がどよめき「王は裸だ」と口々に繰り返すなかでも「寒心に耐えず、衆人に理ありと覚えたが、いかなることがあれ朕(ちん)が地位を全うすべく、王はますます威厳を高めて進み、お付きたちは、姿無き衣の裾を持ちながら歩み続けた」というアンデルセンの結論は、近代の官僚的専制国家の権力の本質をえぐる物語なのである。
この裸の王の物語、さて現代に書き換えてみればどうなるか。中世の血統支配でも近代の官僚支配でもなく、現代とはまさに経済が実体を失った金融資本主義の時代である。あるとき、ある国の都に「経済の新しい衣装」を織り上げる機織りたちが現れる。そもそも経済には「実体」などないのだから、「リフレ政策」でお金を刷り続ければいい。「紙幣」を大量に刷って、「実体経済」がさも存在するかのように、無知な王にそれに身を包むよう進言する。新しい経済の衣装は、株価上昇への「期待」を持つ者の目にのみ見え、持たざる者の目には見えない。「期待」をしていない者は、国の経済生活に参加する資格を持たざる者として「選別」される。
この新しい経済の衣装は、「沈黙の螺旋」と同じように、「期待の螺旋」の渦の中に人々を呑(の)み込んでいく。「期待」が見えないのは、端的に、「株」を持たない輩であり、国の経済生活を作動させ続けるためには、「期待」をしぼませてはいけない。国の経済紙がこぞって政府の経済政策批判に及び腰なのは、まさにこの「期待の螺旋」という「沈黙の螺旋」にとらえられているからである。
しかし、「期待のエコノミー」は、他者が期待しているだろうという期待に基づいており、その期待は、さらに他者が期待しているという期待に期待している、云々…、「思い込み(スペキュレーション)」の無限の連鎖に基づいている。この無限の連鎖は、現在ではプログラム化され数式化されて、コンピュータで高速計算処理され、1秒間に何度も繰り返される株売買に使われている。
経済の新しい衣装は、しばらくは、人々の注目を集め、怪しくもあでやかな光を放つかもしれない。しかし、「ルカノール伯」の物語が言うように、何も失うものもない人々やイノセントな子供が、実感のない経済生活を告発し、ようやく世論の風向きが変化して、「王が逮捕状を発した時には、すでにとき遅し、詐欺師たちは、衣装材料としてしこたま納めさせた金銀緞子(どんす)を持ち、彼方(かなた)に姿を消していた」という終わり方もまた、金融危機をすでに多く経験した我らの現代でもよく知られた結末にちがいない。
いしだ・ひでたか 53年千葉県生まれ。東大文学部卒、パリ第10大学大学院博士課程修了。専攻は記号学・メディア論。著書に「自分と未来のつくり方」「現代思想の教科書」「記号の知/メディアの知」など。
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