政権再交代後の国会論戦では、野党の質問に対して、政治は「結果がスベテ」として、内容にかかわる議論を封殺するような首相の高姿勢が目立っている。だが、その「結果」の内実とは何かとなると曖昧模糊(もこ)としている。
そもそも、論理学の常識からいって「結果」は「原因」とセットである。結果を言いつのるのであれば、原因についてきちんと説明するのが筋である。ひとつの出来事には複数の原因が認められるのがつねだから、ひとつの結果については、原因をめぐって様々な議論が展開されうるだろう。いま見えている「結果」は、次には、新たな出来事の「原因」になるかもしれない。さらに、その次の複数のありうる結果についての議論も引き出されて、原因と結果をめぐって丁々発止の議論が可能になるのである。原因・結果の究明をせずに、「結果がスベテ」というのでは、「結果」が「原因」であると述べるに等しく背理である。
こうした「結果がスベテ」論は、最近盛んな「多数決がスベテ」の論理と軌を一にしている。いずれも議論をせずに異論を封じ込めるやり方で危険である。
首相の「結果がスベテ」論が、政治のアクションの「結果」については自分がスベテの責任を負うということなら、それはまたそれで別の意味を帯びる。この時の「結果がスベテ」論は、意図と行動と結果とを結ぶ行為論に関わってくる。いかに良き意図で始めた行動でも、望まない「結果」をもたらすことはある。そのときには、政治は、それを甘んじて受け入れ自ら責任を取る、という実践倫理である。このときの議論は、「意図↑行動↑結果↑責任」のように図式化できる。これが首相のいう「結果がスベテ」論であるなら、政治家として、まず自らの「意図」と「行動」についてきちんと説明し、いついかなるかたちで「責任」をとるのか言明する必要があるだろう。
さて、現下の状況で「結果がスベテ」論による正当化の中心を占めつつあるのが、「アベノミクス」と呼ばれるようになった経済政策の効果に関わる議論である。
自民党の政権復帰が見えた昨年末以降、たしかに為替や株の市場では、円安や株価上昇が続いてきている。
しかし、これを「結果がスベテ」論の論拠とすることには無理がある。これは、何らかの、良き、あるいは、悪(あ)しきことがらの、あくまで始まりにすぎず、これをもって、政治の適切なアクションの結果ととらえるのは時期尚早である。今起きているのは、「症候(シンドローム)」というような範疇(はんちゅう)で括(くく)られるべき一時的な現象なのではないのか。
現代の資本主義には、数値と情報とが複雑に入り組んだメカニズムが働いている。微細な発言をも含む政策決定の一挙手一投足、その時々のニュースをめぐる解釈と推論の連鎖が金融市場の現実を刻々と生み出していく。この動きのなかで、因果の結びつきはリニア(直線的)ではなく、複雑かつ断続的であり、事態は、確実から不確実へと一挙に転化する。「結果」とは、無数の因子が繰り広げる相互決定作用の、あくまで一瞬の結果であって、その一寸先は不確実性の渦巻くカオスである。
経済学者たちの間でも、金融政策の行き着く「結果」について見方が極端に分かれていることに注目すべきである。誰も先を読めない、しかし、私たちの誰もがその中に巻き込まれているのが経済である。そして、いまこの国で行われようとしているのは、経済学の一大実験であるとさえいわれる。
原子力政策を科学者のみに任せておけなかったのと同様、経済学者にすべてを委ねてよいか。複雑化した世界には、結果責任を取りようのない巨大リスクが伴うということを、私たちはいまいちど心せねばならない。
いしだ・ひでたか 53年千葉県生まれ。東大文学部卒、パリ第10大学大学院博士課程修了。専攻は記号学・メディア論。著書に「自分と未来のつくり方」「現代思想の教科書」「記号の知/メディアの知」など。
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