歴史が逆戻りを始めたのではないかと、二十一世紀の始まる頃からさかんに言われるようになった。長い「冷戦」の後「熱い戦争」(湾岸戦争、アフガン・イラク戦争)の時代が到来し、まるで中世に戻ったかのように聖戦や十字軍が叫ばれ、原理主義や宗教対立や人種・民族問題が噴出した。娯楽化するメディアによって人々の世界はむしろ魔術化して、迷信や軽信が広まり、「メディア・ポピュリズム」が台頭した。進歩していくはずだった歴史が、脅威や不安を前に後ずさりするエビのように、「後ずさりする」現象が目立ち始めたのだ。
「後ずさりする歴史」、それが、このエッセイ集が扱うテーマだ。イタリアの日刊紙や週刊誌に時事的に書き継がれた文章を集めて編集している。「後ずさり」しようとする歴史を捕まえるためには、近代を超えて歴史を遡りうる深い洞察力、同時代のメディア社会の兆候を見逃さない鋭い批評力、政治やメディアの欺瞞を喝破する透徹した論理力が必要である。中世神学の研究を出発点に、メディア現象を読み解く独自の記号学を築き、世界的なベストセラー小説を次々と発表してきた、ヨーロッパを代表する大知識人ウンベルト・エーコがその強靱な知性をフルに発揮して現代文明の混迷を読み解いている。
戦争の変質、メディア・ポピュリズムの君主的体制、新たな帝国、十字軍の回帰や反ユダヤ問題と、エーコは中世の枠組みを借りて現代世界の問題群を取り出して見せている。その時々の政治やメディアのレトリックを俎上にのせ強靱な(縦横無尽に)論理のナタを振るい、知性のスパイスを加えたうえで洒脱な文体で料理してみせる。イラク戦争時のバグダッド陥落を先取りするかのように、十字軍による「エルサレム陥落」を「生中継」して見せた小論などを試しに読んでみるとよい。
ゼロ年代のイタリアで書かれたクロニクルだが、我が国の現状にこれを引き写したときに何が見えてくるか。エーコの文体の技巧を味わいつつ、絶妙なイタリア料理を嗜むように知のレッスンを賞味しながら、我らの今日を振り返ってみよう。原著者の口吻を日本語で伝えることに成功した翻訳にも拍手を送りたい。
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