2013年3月18日月曜日

『東大教師 青春の一冊』東京大学新聞社編、信山社新書 2013年3月18日 、「『亡命生活』とニーチェ読解 ジル・ドゥルーズ“Nietzsche et la philosophie”」、pp.146-148 『東大教師 青春の一冊』東京大学新聞社  292頁 2013年3月10日 信山社

76年の春だったと思う。その頃、私は、パリでひとり「亡命生活」を送っていた。その前の数年は、最近、四方田犬彦(『歳月の鉛』工作舎刊本年5月刊)が書いたような「鉛の歳月」だったからだ。
 復活祭のバカンスは、パリの北部歓楽街のピガールから少しさがったラ・ブリュイエール街の屋根裏部屋に引きこもり、乾いたパンとチーズ、そしてリンゴをかじりながら何冊も本を読破した。
 当時の私は、「政治」からも「思想」からも「降りた」つもりだった。ただ「生きている」ことの意味をかみしめている毎日だったと言えるかもしれない。隣の部屋にはチュニジア人の鉛管工の家族が住んでいて、小学生の男の子がときどき宿題をもって遊びにきた。その向こうの部屋には「オ・ペール(住み込みベビーシッター)」のフィランドの女子学生がいて、廊下の暗がりですれ違うと金髪がまぶしかった。
 何冊も何冊もただ本を読み、貧しい食事をし、ノートをつけ、眠り、また本を読む、文字通り孤独なしかし書物と深く対話する日々だった。そのように読書を繰り返すうちに出会ったのが本書である。確か、サンミシェル街のソルボンヌ広場の角のPUF書店で買い求めた一冊だったと思う。
 ニーチェについては、日本を出る前に「永劫回帰」について深く考えたことがあった。自分自身の「死後」と向き合ううちに、ある種宇宙論的ともいえる特異な時間的実存を発見したように感じていたからだ。
私がジル・ドゥルーズの書に読んだのは、それまで語られていたマルクスや実存主義の弁証法や否定性の理論とはまったくちがう、「肯定」の思想、「反復」や「偶然」や「力」をめぐる「ハンマーで打つ哲学」である。私は、自分のニーチェ読解からえていた時間的実存を、ドゥルーズが解くニーチェの哲学に重ねて読んでいった。それが当時の閉塞の状況からのニーチェ的な「快癒」の書となったのだと思う。まったく新しい思考の可能性を発見したのである。
 そのころ私はフランス語のトレーニングを積んでいたから、当時読んだのはもちろんすべてはフランス語原書である。自分自身の思考が別の言語で動き始める経験、自分自身の思考の分身が別の言語で立ち上がるような経験だったといってもいい。
 その後、しばらくして、ヴァンセンヌの森の大学にドゥルーズの講義を聴きにいき、コレージュ・ド・フランスのフーコーの講義に出かけていくようになった。今につながる自分自身の思考の原点である。

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