二十一世紀はカタストロフィーの世紀として幕を開けた感がある。大地震や津波やハリケーンのような自然災害であろうと、戦争や宗教対立、科学技術や産業化のもたらす破壊であろうと、金融危機のような情報化や金融化による経済破壊にせよ、私たちはますます巨大なリスクと隣り合わせの生活を強いられることになった。大災厄のサイクルは周期を狭め、人災であれ天災であれ、短い間隔で繰り返すようになった。
現在の世界の不幸は、この混迷を深める時代にあって、私たちが世界の向かう方向を見定める羅針盤をさえ失いかねない精神的、思想的な閉塞のなかにあることにある。
本書はフランスの哲学者レジス・ドブレによって、二〇一一年三月十一日の東日本大震災〈三・一一〉の直後に発表された小冊子の翻訳である。 ドブレ自身が述べているように、三・一一の直後に日本人が示した反応が、このエッセイを書かせるきっかけになっている。
日本人たちが世の無常という仏教的パラダイムをよりどころに大惨事を「平静さと我慢強さ」をもって受けとめ、「あらゆるものの儚さと移ろいやすさに対する仏教的感情」(本書十九頁)を、転変地異に立ち向かう絆のよりどころとしたのをまのあたりにして哲学者は問う。
西欧の精神的伝統を受け継ぐ自分たちは、カタストロフィーに見舞われる世界なかでいかに生き、いかに思考すべきなのか。繰り返される悲劇をどのように乗り越えればよいのか。破壊された世界の廃墟のなかでは、そのように悲しみに打ち勝ち、宿命論や絶望を乗り越えられるのか。それは、人類が経験してきた大災厄のなかで繰り返し問われてきた問いである。しかし、その問いが今また新たに問われるべき時代であると、ドブレは言うのである。
長い歴史をもつ文明は、それぞれカタストロフィーへの向き合い方、乗り越え方を異にしている。
日本人が仏教的無常観をよりどころに大惨事に立ち向かったのとは対比的に、ますます不確実化する世界にあって、ドブレは、西欧人が捉え返すべき精神的態度をユダヤ・キリスト教的な伝統のなかに見いだそうとする。それはカタストロフィーを、現在世界への警告と、次なる世の将来を予告する象徴的なメッセージとして解釈することである。聖書の「黙示録」がそのような世界の捉え方の拠り所となる。そのような精神的態度を賦活するためには、「預言」という活動をあらためて見直すことが必要とも考えている。...
(以下は本書をお読みください。)
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