2017年4月20日木曜日

〈セルフィ化する自我〉と〈ポスト・トゥルース〉

石田英敬ブログ記事「流言(ツイート) (2)」

自撮り(セルフィ)化する自我〉と〈ポスト・トゥルース〉


 知人からの連絡で、私が数日前に朝日新聞(4月18日朝刊三面)に載せたコメントに対して、「池田信夫」という「ブロガー」がいくつかのツィートで私に言及していることを知った。
 ブログ圏では一定程度名前を知られたブロガーで相当数のフォロワーを持っているようである。しらべてみると、大学の同期か、(浪人した彼が)一学年程度下のようである。

 その一連のツィートは以下の通り:https://twitter.com/ikedanob
 (いずれも418日)

1)「これ笑えるね。明らかにフーコーを読まないで「パノプティコン」。コメントしてるのが元革マルの石田英敬。彼の下宿の引っ越しを手伝った友達が2人、内ゲバで殺された。」

2)「「パノプティコン」はフーコー自身がのちに否定した概念。石田英敬は彼の講義を訳したんだから、朝日の頭の悪い記者に教えてやれよ。|司牧的権力から統治性へ」

3) 「「石田は自分で立花隆に「私は元革マルで友達が殺された」と語っている。これが朝日新聞の「パノプティコン」のネタ元。|石田英敬 blog 立花隆『読書脳:ぼくの深読み300冊の記録』巻頭対談 ow.ly/R27U30aXgAN」」

4)「このときは石田が被害者だが、当時は革マルも「党派闘争で中核を殲滅する」と公言していた。彼が「日本にいられなくなった」のもそれが原因だが、自分のブログに書いて何も反省していない。2人殺されたのは大事件だったので、東大が彼を採用するときも前歴は知っていたはずだ。」

 ずいぶんずさんな引用で、上記3)の引用符に囲まれた言葉は、私のブログにも、言及している立花隆の本のなかにも、どこにも存在しないフェイク引用である。

 上記4)の一節は、石田は加害者でもあったはずだ、「それが原因」で「日本にいられなくなった」と推論しているようなのだが、何が根拠なのだろうか。
 「何も反省していない」とさらに倫理的に断罪。東大のことまでご丁寧に書いている。

 2)も、ずいぶん横柄な物言いだと思う。
 私は見ず知らずの人物に「教えてやれよ」と何か命令されるおぼえはない。「頭の悪い記者」とか口汚くののしるかぎりは、自分はよっぽど頭がいいと思い込んでいるのであろう。

 たった4回のツィートで、ずいぶんとたくさんの誤った推論を重ねたものである。

 断っておくが、私も、殺された私の友人たちも内ゲバに加わったり手を貸したことは一度もない。そこに、四十数年前の出来事の救いようのない「無益な受難性パッシヴィテ」があるのだが、いくら大学が同期でも、誤謬推理を重ねる浅薄あさはかな知性の人間には、とうてい理解できまい。


 流言(ツィート)が繰り広げる世界とは、なんとも心貧しい(ミゼラブル)光景だが、メディア学者としての私に興味があるのは、こうした一部ブロガーに見受けられる「無根拠な断定」癖と「肥大した自我」という病理である。
 ソーシャル・メディアでは、基本的な文明性(シヴィリテ)を失ってしまった物言いが行き交い、夜郎自大な意見がまかりとおる。残念ながら、それがこの種のコミュニケーションの「流儀」とさえなってしまっている面は否定できず、その種の心理的傾向をもつ人物を引き寄せる場所となって、大量のフォロワーをしたがえて跋扈している。

 ソーシャル・メディアという〈メディア未満のメディア〉が興隆し、信頼性に欠ける情報や意見が大量に世界に流布される〈ポスト・トゥルース〉状況とこれは深く関連しているだろう。
 トランプのような人物が現れるのも、こうしたソーシャル・メディアの負の側面が拡大したからである。


 しかし、メディアとは〈他者〉の契機なのである。メディアが〈他者〉の契機であることによって、ひとは〈自分〉を伝えようとする。

 だが、〈ソーシャル・メディア〉がもたらしたのは、〈メディア〉と〈自分〉との区別がつかなくなるというコミュニケーション状況である。「自撮り」が端的にそれを示している。「自撮り」を自分で眺めているかぎりはナルシス的関係だが、「自撮り」を無際限にネットワークに「拡散」するようになれば、〈自己〉と〈社会〉の境界がゆらぐ。

 おなじように、思い込みも、ソーシャル・メディアにのせると、〈真実みたいなもの〉と思われてくる。そして、〈真実〉を思うようにつくれるという錯覚に陥る。それこそ〈ポスト・トゥルース〉状況である。

 そして、〈プチ・トランプ〉がそのようにして、いたるところに生まれるようになる。


 冒頭の話題に戻ると、四方田犬彦は数年前に私に会いにきて話を聞いて帰り、私との対話を、彼の本のなかで次のように書いた。——

「最後に石田が、ただ一つ自分の心の支えだったのは、自分たちが中核派を襲撃する側の行動に参加していなかったことだと語ったことが、わたしには強く印象に残った。」(四方田犬彦『歳月の鉛』)

 今回、『朝日新聞』の記者も私に会いにきてフーコーについて話を聞いて帰り、そして記事を書いた。

 書かれたことは、それぞれの書き手の責任によるそれぞれの記事である。しかし、それは、それぞれ書き手たちが、〈取材〉して〈書〉いた〈書かれた真実〉である。

 たとえ、ブログであれ、〈書記メディア〉を扱う者は、〈他者〉と〈真実〉を前に、より謙虚であれ。〈書記メディア〉において、〈社会〉とは、〈書くことの倫理〉から始まるものである。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...