記号論の泰斗で『薔薇の名前』などで知られたベストセラー作家でもあったウンベルト・エーコ(1932-2016)が、イタリア、ミラノで毎年開かれる文化フェスティバル「ミラネジアーナ」で十年以上にわたって続けた講演をまとめた没後出版。ヨーロッパの代表的知性が残した最後の声を聞くことができる。
原題は「巨人の肩に乗って」。歴史的に後代の人間たちは先行する世代の知恵にいわば肩車されて世界の行方を眺めやることができるから、遠くまで視ることができるはずだ。ひとりひとりは小人でも文明とは巨人の業であるというわけだ。しかし小人たちは無知で恩知らずでもあるから、小賢しく親に反抗もすれば愚行も重ねる。困ったものだが人間の歴史とは所詮そんなもの。では、どうしたら巨人たちの知恵を引き出せるのか。
そのためには文明に深く分け入る必要がある。美にせよ醜にせよ、一見自然に見える価値でも、それぞれの文化に固有の語法がある。記号論ではそれをメタ言語と呼ぶ。それを読み解いていくのがエーコの方法である。文明の絵解きともいうべき作業であって、じっさいこの本にはいたるところに巧妙な意図を帯びた図版が配されている。そのひとつひとつを眺めつつ文章を追える愉しさがある。
エーコの考察は現代世界の病いに鋭く切り込んでいる。間違いを言うこと、噓をつくこと、偽造することは、いかにちがっていていかに同じなのか。真理の厳密な条件とは何か。見えるもの見えないもの、完全と不完全、虚構と実在、豊富な実例にもとづいて文化の文法が厳密にレッスンされる。
この著者ならではの想像力が羽ばたくのは、秘密や秘匿、隠された真実をめぐる考察である。薔薇十字団やテンプル騎士団の伝説、フリーメーソンやユダヤの議定書といった陰謀説の歴史と同じ文法で、ケネディ暗殺や9/11米同時テロ陰謀説はどのようにつくり出されるのか。「陰謀症候群の歴史は世界の歴史と同じくらい古い」と述べる著者の博識と推理がいかんなく発揮される。
ポスト真実状況が露呈し妄想が世界を動かしかねない不安な時代に、知の巨人エーコが残していった最後の贈り物を、われら小人たたちは心して読むべきだ。
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