2019年9月9日月曜日

流言(ツイート)論 (3) : 開かれた社会とその敵  「歴史の記憶」は「言論の自由」をハックさせない

流言(ツイート)論 (3) 
開かれた社会とその敵
「歴史の記憶」は「言論の自由」をハックさせない

パリ国際大学都市日本館(以下「日本館」)で杉田水脈衆議院議員(以下「杉田氏」)の講演が9月8日に計画されたことに対して、フランス在住の人びとから抗議の声が上がり、change.orgでのオンライン署名が一万筆を超えた。
私もこの抗議声明に賛同して署名したひとりで、自分のtwitterアカウントを通じてこの署名への協力を呼びかけた。

結局この講演は、抗議の声の拡がりを見て関係者が取り下げたのか、日本館館長の対応なのか、日本館での開催が断念されたようで、目的達成につきネット署名終了という連絡が9月1日に入った。

誰がこのような企画を立てたのか、どのような経緯で日本館が会場の提供に少なくとも一時は同意したのか、いかなる理由で会場提供は中止されたのか、詳しい事情はまだ私には把握できていない。
今後、日本館館長には事実関係を公表し説明することが求められる。私もひきつづき成り行きを見守るつもりだ。

今回の声明と署名のイニシアティブを発揮されたフランス在住市民の方々に敬意と感謝を表したい。私をふくめてフランスの学芸と文化に深く関係している学術コミュニティーが長らく係わってきたこの場所で、とんでもない企画が進行していたことに警告を発し、パリ国際大学都市および日本館の理念と名誉を守ることに力を貸してくださった市民のみなさんには感謝の気持ちでいっぱいである。

署名終了をうけて私自身も賛同してくれた皆さんに協力への謝意と今後の連帯を呼びかける連続ツイート4件を9月1日に発信した。それが一定程度の波紋を起こしたことについては後述する。


私は従前から、ツイッターなどソーシャルメディアで経験した特記すべき出来事について、「流言論」というタイトルでメディア論的考察をブログにまとめてきた。そこで、今回もネットをとおして自分が経験したことを「流言ツイート(3)」として記し賢明なる諸姉諸兄の批判に供したい。

(なお、私にとって、twitterfacebook、あるいはblogなどのソーシャルメディアは「メディア未満のメディア」である。したがって、本稿もまた未定稿であり、今後の改稿・改変の可能性があることをお断りしておく。また、理性的なご批判は歓迎するが、ネット上に残念ながら頻見される罵詈雑言の類は受け付けない。)

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今回、何が起こり、何が問題であったのか?
まず基礎的な事実をのべておこう。

「日本館」館長宛の声明文
今回のオンライン署名は「パリ国際大学都市日本館館長」に宛てて、企画の明らかな不適切性を指摘し取りやめるように促し計画が実行されれば強く抗議する旨の声明が出されたものである。

 以下にサイトを掲げるので、まず、声明文を読んでいただきたい。

私自身、この講演の計画を知ったとき大変な驚きをおぼえた。パリ国際大学都市および日本館という場所と、この計画とには想像を超えたギャップを感じたからである。まさか日本館がこのような「野蛮な」企画を自ら立てるなどはありえない、何らかの間違いが介在していると思ったのである。

問題の構図を理解していただくためには、「パリ国際大学都市」とは何か、その中にある「日本館」とは何か、その歴史をまず分かっていただく必要がある。


「パリ国際大学都市」とは何か?
「パリ国際大学都市CiuP 」は、パリの南14区に位置し、世界各国の40ほどの学生研究者宿舎施設・スポーツ文化施設があつまった国際大学都市。住民は研究者と学生で6000名程度。広さは34ヘクタール(東大本郷キャンパスが54ヘクタールだから相当広い)。その運営は「国立法人パリ国際大学都市法人」(la Fondation Nationle cité internationale universitaire de Paris)により、本部に総裁(プレジデント)をおき、各国の会館には館長(多くは大学教授や指導的研究者)がおり、学生(院生クラスが殆ど・滞在研究者が委員会を組織して運営している。

今はどの国にもある留学生のための普通の学生宿舎であろうなどと思うと誤解する。

その歴史は古く1925年の創設、第一次世界大戦後に国際連盟ができ、当時盛んに議論された「国際主義international」、平和主義、寛容の価値と文化の共栄をかかげて各国の会館が建てられていった。詳しくはCiuPのホームページ(http://www.ciup.fr/)やwikipediaの英語やフランス語項目(残念ながら日本語ページはあまりに貧弱)を見てほしい。

創立者たちが描いたのは大戦争の破局を経験した後の世界のある種の学術ユートピアで、中央ゲートから入って正面にある本部棟に名を冠されたAndré Honnorat (18681950) が初代総裁。かれは第三共和制の有力な政治家で様々な社会政策の立案者だったが第二次大戦中ペタン元帥の対独協力政権への全権委任を棄権し1944年にはドゴール将軍の暫定政権に参加した大立て者で1950年の死まで総裁をつとめた。世界戦争の20世紀のなかで、平和と国際主義を掲げ全体主義に抵抗し人類の普遍理念を追求してきた歴史的な場所なのだ。

あとで少し詳しく述べるが、この「国立法人国際大学都市」の運営の諸原則は「定款statuts」に定められ、さらに諸原則をより具体的に定めた「一般規則 règlement général」と、その他諸規則に基づき運営されている


「パリ国際大学都市日本館」とは何か?

他方、パリ国際大学都市日本館(以後「日本館」)は国際大学都市では6番目に1930年に建てられた。詩人大使クローデルから日本館建設を打診された日本政府には関東大震災直後で予算がなく、バロン薩摩と呼ばれ、藤田嗣治らパリの日本人芸術家を支援していた大富豪薩摩治郎八氏が巨額の私財を投じてメセナの力で建てられた和洋折衷様式の建築だ(詳細はwikipediaを参照されたい)。ここもまた日本の近代文化にとっては重要な歴史的記憶の場所で、とりわけ第二次大戦後は哲学者森有正が館長をしていたことは有名である。戦前から戦後の1970年頃までは、ほんとうに数が限られていた日本人留学生や在留邦人の心の拠り所だった場所だ。

運営は、館長と院生・研究者の委員会による自治であり、その規則は、国際大学都市本体の定款と一般規則を上位規範として、それに準ずるかたちで定められている。国際大学都市なのでどの館も原則的に国際混住であり日本館だから日本人だけの場所ではもちろんない。

個人的なことを言えば、日本館歴代館長の何人かは私にとって師であり、あるいは先輩や同僚であった。私自身は日本館に居住したことはないが、最初に留学した1970年代の森有正の時代から何度も訪れて概況は知っているし、国際大学都市の他の館にはパリ大学での客員教授や講演のときなど滞在し複数の館長たちとも交流を持ってきた。
 
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さて、そこで、今回の杉田水脈氏講演の問題点とは何か?
 まず原理原則から確認しよう。
「国立法人パリ国際大学都市定款statuts de la foundation nationale cité internationale universitaire de Paris」は「第一章法人の諸目的」第一条で法人の目的を列挙している。本稿と関わる範囲で訳出する。

第一条
「国立法人パリ国際大学、以下法人と略す、の目的は次のとおりである。1学生、教員、研究者、アーティスト、トップレベルのアスリート及び有資格技術者について、その国籍に関わらず交流を促進し、そのために寛容と個人の尊重の精神のもと、あらゆる差別を廃し、彼/彼女らに目的の達成に必要な住環境及び研究・労働環境を提供すること[以下省略]。
世界の諸文化の普及、研究の発展と人々の和睦に貢献するために、学術的・知的・文化的あるいはスポーツにかかわる活動を受け入れ、組織し、促進すること」。
La Fondation nationale, Cité internationale universitaire de Paris, ci-après dénommée la Fondation, a pour objet : 
de favoriser les échanges entre étudiants, professeurs, chercheurs, artistes, sportifs de haut niveau et techniciens confirmés, de toutes nationalités, en leur fournissant un accueil et des conditions de travail conformes à ses buts, dans un esprit de tolérance, de respect de la personne humaine et exempt de toute discrimination. (…)
de contribuer au rayonnement et à la diffusion des cultures du monde, au développement de la recherche et au rapprochement des peuples, par laccueil, lorganisation et la promotion dactivités scientifiques, intellectuelles, culturelles et sportives; 
第二条では、第一条に定められた目的を実現するために国際大学都市が行うべき活動が列挙され、その中に講演会やカンファレンス等組織・運営も含まれている。
そして第三条は大学都市の奉じる価値について次のように宣言する。

「国際大学都市法人CiuPは、フランスの大学に伝統的な寛容、人格尊重の諸価値を守り抜くことを宣言し、あらゆる政治的、イデオロギー的、人種的、宗教的な差別を禁止する。」
La Fondation affirme son attachement aux valeurs de tolérance et de respect de la personne humaine, traditionnelles dans l’Université française, et s’interdit toute discrimination politique, idéologique, raciale ou confessionnelle.

これに続く次段では、第二条に定められた表現の自由や集会・訪問の自由の行使は、フランス法に適合的になされなければならないこと、またそれら自由の行使の方法は、国際大学都市「一般規則」および日本館を含む各館の個別規則によって定められるとする。


そこでまず国際大学都市一般規則règlement général de la cité internationale universitaire de Paris」を見てみると、第三条「共通の諸価値および諸原則の尊重」は次の通り定めている。

「第三条 共通の諸価値および諸原則の尊重
パリ国際大学都市全体に共通の使命は、創設者たちの趣意に合致すべく、寛容と相互理解の尊重のもとに行われなければならない。
各館、各法人、諸機関は、利用者に基本的な諸自由を自由に行使する便益を保障し、またフランスにおいて適用される実定法に基づいて、とくに非差別原則と世俗性の 原則を尊重しなければならない。()」

ARTICLE 3 : RESPECTER LES VALEURS ET PRINCIPES COMMUNS
2 Les missions communes à toutes les entités de la Cité internationale universitaire de Paris doivent s’exercer dans le respect des valeurs de tolérance et de compréhension mutuelle, conformément aux vœux des fondateurs.
L’ensemble des maisons, fondations et services doivent garantir aux usagers le bénéfice du libre exercice de leurs libertés fondamentales, selon le régime du droit positif applicable en France et respecter en particulier les principes de non discrimination et de laïcité. (

次に、日本館の定める「日本館規則」は前文で日本館居住者による国際大学都市「一般規則」の遵守を定め、第15で表現及び集会の自由について以下のように定めている。

15条 表現の自由、集会、掲示
「日本館は、その居住者に対し、表現及び集会の自由を保障する。
この自由の行使は、意見の多様性、他の居住者の権利及び自由、また大学都市の奉じる諸価値、理想、一般規則をしっかり尊重した上でおこなわれねばならず、あらゆる形態における度を超した勧誘活動を排除するものである。
集会については、パーティー、文化活動、社会活動など、これをおこなうための空間でおこなうことは自由である。集会がよりフォーマルな形になる場合には、館長にその会合の開催を予告せねばならない。
もし集会がより大規模になり、館外者、大学都市非居住者も参加する場合には、特に課される諸責任との関係で、大学都市及び日本館が定めるより詳細な手続きが要求される。
掲示板が居住者委員会の責任で居住者に準備される。日本館の外部から提供される情報の掲示、配布についてはあらかじめ館長の許可を得なければならない。」

今回の「講演」の会場として当初想定されていた日本館大サロンの貸し出しに関しては、HPに次のように周知されている

「日本館には72 の学生・研究者用の居室のほか、催し物が開催できる大サロンがあります。一般の個人・団体にも利用していただけますが、貸出は原則として学術的・文化的催しに限定しています。
 【頻繁にお問い合わせをいただいている件について】
日本館は,パリ国際大学都市の目的に則って運営されています。日本館の諸施設は,一般の個人・団体にも一部有料で利用していただくことができますが,あくまでも,この目的に合致するイベントであることが前提です。」
(この但し書きがいつ付されたのかは筆者には不明)

以上ですでにおわかりと思うが、杉田氏のような人物を招いて講演会をひらくというような企ては、パリ国際大学都市の「定款」「一般規則」、「日本館規則」に照らして、あらゆる点で問題を指摘される可能性の高い企画である。
国際大学都市のコミュニティーが今回の企画の内容を知ったとすれば、大学都市の中で行われる活動としてはまず間違いなく理解を得られない、国際大学都市の理念と目的への挑戦ともいうべき企てなのだ。

フランス語を少し解説すれば「国際大学都市La Cité internationale universitaire」というという呼称にいう、「Cité」はギリシャ語の「ポリス」にあたる言葉で、つまり、都市国家、政治的共同体を意味している。国際大学都市という学術と文化と国際交流のための「都市国家」では、ネオナチや原理主義や差別主義者やカルトの集会や講演会を開催することは認められないし、世界各国から集まる学識者の集うこの「ポリス」において、そもそもそのような考えを抱くものは極めて稀と思われる。そして、もし、そのようなことが行われば、相当に強い抗議の声や抗議行動が起こってまったく不思議ではない。
国際大学都市の歴史を紐解けば、そのような紛争や政治的な出来事は存在したし、いつでも紛争に発展する可能性はある。

思い出話をすれば、私が最初にパリに留学した1970年代半ばは、スペインはまだフランコの独裁の時代で、日本館のすぐお隣のスペイン館は長い間閉鎖されていた。フランコに反対する学生たちの反体制運動の拠点となることをきらって、フランコのスペイン政府が圧力をかけ閉鎖させていたのである。

今回の声明はいう、
杉田氏は過去に何度も問題発言を重ねてきた人物です。以下に挙げるこれまでの彼女の歴史修正主義、性差別・LGBT差別主義、戦前の国家・家族観に根ざした軍国主義、反民主主義的発言に鑑みて、第一次世界大戦後に平和の推進と、若者たちの国際的な相互理解と交流、文化の共栄を目指して設立されたパリ国際大学都市に属する日本館で、この人物の講演を行うことは、大学都市の理念とまったく相容れない行為であり、フランス共和国の理念にも反する催しだと考えます。」

まったくこの通りなのである。
そして、その杉田氏の行状はすでにフランスでも報道を通じて人びとの知れるところとなっている。実際に行われれば、どのような評価を受けることになるか、どのような抗議の声が上がるかは、かなり予測可能で、今回の声明も言及している高級紙ルモンドの記事などを読めばそれは分かる。

私自身は、この講演計画を当初なぜ日本館が受け入れたのか、なんらかの誤認、手違い、ミスがあったのか、それともわざわざ受け入れたのか、理解に苦しむ。

この事案を吟味し判断し決定を行うのは、もちろん、今回の声明の署名者たちではなく、名宛人の日本館館長であり、あるいはそれを超えて国際大学都市本部であり、ひいては、国際大学都市というアカデミック・コミュニティーの全体である。

どのような経過を辿ったのかは今後の報告をまつ以外ないが、幸いにして声明の主張は通り、日本館および国際学生都市では、この講演会は行われないことになった。

メールによるパリ国際大学都市本部への問い合わせに対しても、「杉田水脈氏の講演はパリ国際大学都市では行われない」と本部は明確に返答してきている。

当然の決定というほかないが、異常な事態が未然に回避されたことにひとまず安堵するほかない。上に述べたような国際大学都市の創設理念および先行する世代が払ってきた多大な努力に反し、国際的なアカデミズム共同体から非難されれば、私たちの国の学術文化の評価を毀損するところだった。

繰り返すが、日本館館長は事実経緯をきちんと公表し説明責任を果たしてもらいたい。


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 さて、それで一件落着かというと、そうでもない。

じつは、ここからが固有に「流言論」のパートなのだが、ネット上では幾つかの「議論」というか、まさしく「流言」が起こった。このブログが「流言論」を名乗っているのは、ネット上の「流言」を批評するものだからである。ここからは口調も少し転調してカジュアルになることをお認めいただきたい。何しろ、ブログだからね()


「言論の封殺」? 

823日に開始されたキャンペーン「歴史修正主義者・差別主義者の杉田水脈氏のパリ講演に断固として抗議する。」に対しては、「言論の自由」を封殺する動きだ、という「流言」が起こった。ネットでの「オピニオン」の拡がりは、一部の者がツイートしたワードが拡散されていくことを繰り返すが、この件に関しても、「言論の封殺」である、「言論の弾圧」、などという書き込みが拡がった。

「弾圧」という語の辞書定義は、「支配階級が権力で被支配者階級をおさえつけること。強権的におさえつけること。」(小学館『日本国語大辞典』)「政治的反対勢力の政治活動を阻害,あるいは根絶するために,政治的支配層が国家権力(軍隊,警察,裁判所など)を行使すること。」(平凡社『世界大百科事典』)であるから、権力を持たない者が「弾圧」することは不可能なので、明らかに日本語の誤用である。ただ、ネット上では、「サヨク」や「メディア」による「言論封殺」や「言論弾圧」というシンタグム(=語の組み合わせ)は、ネットウヨクによってよく使われているようである。

私自身は、上記で述べたように、91日のキャンペーン完了をうけて4件の連続ツイートを行った。その文面をコピーする。

1「杉田水脈氏のパリ国際大学都市日本館での講演は中止となった模様です。署名ご協力に感謝します。真理探究と価値多様性の尊重を掲げるパリ国際大学都市憲章に反する催しが未然に防がれたことに安堵するとともに今後とも歴史修正主義、差別主義を許さない戦いをともに続けていきましょう。」

2「本件は「学問の自由」に係わる案件です。パリ国際大学都市は、学術機関として以下の憲章理念に基づいて運用されています(つづく)。
http://ciup.fr/wp-content/uploads/2019/02/statuts_anglais_2019.pdf…

3「学術機関において、真理に明らかに反する活動に機会が与えられないのは、誤った学説、データがねつ造された研究に学会で発表機会が与えられないのと同様です。本件は「言論・表現の自由」とは非関与的は問題なのです。(つづく)」

4「杉田氏には、パリ国際大学都市以外の場所で発表を行うことは権利上保障されています。現にHPではそのようにされると発表しています。但し、フランス共和国では、ホロコースト否定など歴史修正主義、ヘイトスピーチは軽犯罪の対象になります。(了)」

この連続ツイートは、私にもなぜなのか当初はよく分からなかったのだが、何人かの多数フォロワーをもつアカウントにリツイートされて、一方において「朗報」、他方において「凶報」として、拡散されていったようである。ある時点以降は比較的こまめに観察したが、98日現在、22万インプレッションを超え、さほど多くのフォロワーをもたず、それほど頻繁にツイートするわけでもない私のアカウントとしては、ずいぶんの拡散ぶりである。

杉田水脈パリ講演をめぐる「言論弾圧」をめぐる言説編制(discursive formation)のなかに、私のツイート4件もりっぱに編入されて、「石田英敬の弾圧思想」なるページも設けていただけるようになったようである(笑)。(https://www.jijitsu.net/entry/ishidahidetaka-tokyo-sugitamio

こうなってくると、メディア記号学者としては、それなりのフィールドワークの機会を得たということで、1週間ほど観察して、この稿を書いている。杉田氏のパリ講演は予定通りパリのどこかで行われるのだとすれば98日ということだから、その終了をまって、この稿をアップするわけである。

まず事実確認だが、「声明」にも、また上記の私の一連のツイートにも、「言論の封殺」を非難される内容はない。(cf. 4「杉田氏には、パリ国際大学都市以外の場所で発表を行うことは権利上保障されています。現にHPではそのようにされると発表しています。」)。あくまでも、パリ国際大学都市のなかでは、そのような講演を行うことはできません、ということを述べたまでである。その主張の正当性の根拠については、これまで長々と説明してきたとおりである。

このケースでは、「言論の自由」の行使のためには、二つの条件がある。第一に、国際大学都市のなかで「言論の自由」を行使しうるためには、国際大学都市の定める規範を満たしそこで「語りうる者」としての資格を認められる必要がある。第二に、国際大学都市においては「語りうる者」としての資格を認められなかったとしても、国際大学都市の外で語ることは原則的に自由である。ただし、国際大学都市の外であってもは、フランス共和国における「言論の自由」の行使の規範を逸脱しないことが求められる。そして、フランス共和国では歴史修正主義発言やヘイト・スピーチは軽犯罪として処罰の対象となるから、そのような発言は国際大学都市の中で行われようが外で行われようがフランス共和国における「言論の自由」の範疇を超える(国際大学都市においてもフランス共和国の法を守らなければならないことは当然である)。

この二つを正確に指摘することに、どのような意味で「弾圧思想」が含まれているといえるのか? 謎、というほかない。


「学問の自由」

私自身は、今回のような出来事を「学問の自由」にかかわる問題として捉えている。これが私の第二のツイートの意味だ。

上に説明してきた、パリ国際大学都市の設立の経緯、創設理念、定款、一般規則、そして日本館規則は、要するに広い意味での「学問の自由」を擁護すべく歴史的に形成され合意され保持されてきた価値・規範なのだ。

この場合の「自由」とは、学問以外の権力・権威からの自由である。例えば、政治権力、宗教権力、経済権力、などのことだ。

 この「権力」の問題というのは、この杉田氏講演のエピソードでは分かりやすい。杉田氏が「代表」しているような、普遍的価値のコンセンサスとは明らかに背反する諸価値を奉ずるような政治的権力である。

声明には含まれていないが、アカデミズムの世界では、杉田氏の名前は、科研費に関する政治的介入のエピソードなどがよく知られている。この問題は目下訴訟中で、これなどは、「学問の自由」に対する、露骨な政治権力の介入といえる。(https://digital.asahi.com/articles/ASM2D443DM2DPLZB00P.html

口幅ったい言い方で世の中の人びとからは反撥をかうかもしれないが、学術の価値は、その価値を判断しうる科学的共同体によってのみ、妥当性を判断されうる。それ以外の力によって価値判断が曲げられてはならない。これが私の第三のツイートの意味である。

もちろん、学問とて、人間の営為であるから「可謬的」である(つまり「誤りうる」)。いや、むしろ学問とは、つねに自らの誤りを修正し続けている人間のたえまない営為そのものなのだ。そして、つねに誤りを修正しつづけていくことで学問は進歩する。それを可能にするのが科学者共同体による純粋で妥協のない自律的で厳格な審査なのだ。


3「表現の自由」

今回、「愛知トリエンナーレ 表現の不自由展」の問題と時期的に重なったこともあって、「表現の自由」を擁護する人びとが、今回は杉田氏から「言論の自由」を奪うことに荷担している、ダブルスタンダードではないのか、という「流言」も見受けられた。

だが、よく考えてほしい。

「表現の不自由展」問題もまた、芸術表現は、芸術表現の価値を適確に判断しうる人びとの価値判定に帰するべきで、「芸術の自由」をみとめてはじめて豊かな芸術文化は華開くことができるのだ。
だから、「芸術の自由」とは、芸術以外の権力・権威からの自由のことで、これも「学問の自由」と同じで、政治権力、宗教権力、経済権力などから不当な介入を受けない自由のことなのだ。

だから、「学問の自由」も「芸術の自由」も、「文化」が政治権力や非理性的な権威から介入を受けてはならない、という民主主義社会の基本的な自由の一部なのだと私は考えるわけだ。

これで分かってもらえただろうか?

では、なぜ、そのような自律的領域が社会のなかに必要かというと、それは決して、学者たち芸術家たちの独りよがりのためではなくて、学問や芸術が自由に華開くため、いやもう少し分かりやすい用語で言い換えれば、学者たち、芸術家たちの間に自由な競争を起こりやすくして、新しい創造や創発が起こりやすくするためなのだ。だって、政治の力や宗教の力やカネの力で、真理や美がゆがめられてしまったら、学問も芸術も死に絶えてしまうだろう?だから、自由な社会でこそ、学問も発達し、芸術も花開く。これは歴史が証明している真実ではなかっただろうか。


4「無知からの自由」

最後に、メディア学者として、もう一つの視点を導入しておく。
昔、近代社会の始まりでは、普遍的で基本的な「自由」とは、貧困、迷信や因習、専制や宗教的権威などに起因した「野蛮」や「無知」の状態からの自由を意味していた。
しかし、現代では、「野蛮」や「無知」の成り立ち方が異なってきているということをみんなは考えたことがあるかな?

現代の「野蛮」や「無知」というのは、「二次的な野蛮」、「二次的な無知」というあり方をしている。
それは、情報があふれてメディアにサポートされて生がマニュアル化していて、「知らなくてもいい」・「考えなくてもいい」・「想像しなくてもいい」という状態を資本主義が産業的につくりだしつづけることによってもたらされた、人びとの存在状態としての、二次的な野蛮・二次的な無知だ。

本稿では、ながながと国際大学都市とは何か、日本館とは何かからあらためて説き起こし、その運用ルールはどうなっているのか、今回の件でどこに問題点があったのかを説明してきた。
96日になって、Japan In-Depthという私にはよく分からないニュースサイトから「杉田水脈氏パリ講演反対の訳」という国際記事が配信された。https://japan-indepth.jp/?p=47763

そこには、主催者へのインタビューと称するやりとりが掲載されており、詳細はそちらを見ていただく以外にないが、かなり「気楽な」気持ちで – つまり「無知」から-- 今回の講演会を企画したというようなことが語られている。

驚くべきことも語られていて、主催者の説明では、「講演会は申し込み制で少人数制で行われます。最高でも30人。対象はフランスに住む日本人で、講演も日本語のみで行われます。ネットで色々な憶測が飛び交っていますが、不特定多数の日本の憲法について知らないフランス人にお話しするとかではないのです。」とある。
しかし、これこそまさに非常識。国際大学都市で日本人たちだけのために日本語のみで講演会を開く?これこそ、日本館の目的に反している。国際大学都市で、ある国の人たちのためにだけ会をもつことはできない。日本人のみを対象として日本語のできる外国人を排除するなら、それこそ「差別的な」活動である。日本語での講演であっても、日本語のできる外国人は数限りなくいる。日本語は世界言語なのだよ。どれだけのパリの若者たちがマンガを読んだりアニメを見たりするために日本語を一生懸命勉強しているか知っているかな?パリには日本語を学習している人びとは非常に多いのですよ。
 日本は世界のためにある、世界とともにある、世界のなかに日本はあるし、日本のなかに世界がある、そう考えること、つまり日本の「普遍性」を議論し、世界の人びととともに考えることが、本当の「愛国」だと私は考えているのだ。日本は、世界のことなんか知らない、ともに議論しない、無知な日本人たちだけのためにあると思うな!日本はもっとずっと素晴らしい普遍的な価値に満ちた国なのだよ!と言いたいわけです。分かってくれるかな。

また、「自分と違う考えの方が講演会するのは嫌なのはわかりますし、それをご自分のSNSでいうのも自由です。しかし、会場に嫌がらせをしたりというのはどうなのでしょうか?私たちは一個人でどこの団体にも所属していませんし、これを仕事としてやっているわけでもありません。ただ広い知識を得たいと考えているだけです。」との発言を紹介しているが、これこそ、自分たちの「無知」を拠り所として、その場所が刻んできた意味、先人たちが培ってきた歴史的な記憶を消そうとしていることなんだ。「広い知識」を得たいというのであれば、もっと歴史を勉強しなければいけない。あそこの国際学生都市はどのように出来てどのような歴史を生きてきたのか。あの日本館はどのような場所でどのような規則で動いているのか。そういう基本を知らずに、結果的にその場所の歴史を消去したり、人びとが大切に築いて守ってきた価値を踏みにじることは、とてもいけないことだと思う。

この記事はあたかも「中立」の視点からのように書かれているが、その中立性もまた、あやしい。自分たちは何も知らない、何も知らないので、中立に物を書くことができるという、「無知の正統性」を主張しているようなつくりの記事だ。

ネットでの反応にも、どんな意見でも発言させればいいのではないか。意見が異なれば議論すればいという「流言」も散見された。「思想の自由市場」に任せろというわけだが、そこがまた、そういうわけにはいかないのだ。

なぜならば、現代のコミュニケーションとは、自由に内容を吟味する「事実確認的な理性的な討議」ではなく、「行為遂行的な発話」がデフォルトになったコミュニケーションだからだ。というとまた、小難しいことを言いやがると思うかもしれないので、ちょっと説明しよう。

「事実確認的な理性的な討議」というのは、学会発表みたいなやつのこと。つまりコミュニケーションのルールは明示的に合意されていて、中身に集中して論理構成がちゃんとできているか、ちゃんと証明ができているか、をみんなで議論すればいい、という討議。「行為遂行的な発話がデフォルトになったコミュニケーション」というのは、なんでもありで異種格闘技的でやった者勝ちという、アナーキーなルールのゲーム。このゲームでは出場することに意味がある。なぜなら、出場することによって、認知されるからね。それで、出場することによって「出場者」になってしまうし、発言するということで「発言者」としての地位を得てしまう。発言したということが発言者の参入を既成事実化し、正統化する、そんな言語ゲームなのだ。まあプロレスみたいなものだね。

「思想の自由市場」主義者たちが「思想の自由」をいうときには、中身としての「思想」とこの「ゲームの規則の壊乱」とが混ざっているから注意が必要なんだ。現代のメディアは、リアルタイムのメディアになったから、このアナーキー・ゲームがとてもやりやすくなった。だから、テレビ・バラエティとか見ていれば分かるが、デフォルトで「行為遂行的な発話状況」が一般化したのさ。(それがいちがいに悪いと言っているわけではないのだよ、ただ、ルールを自覚しましょう、と言っているわけで、ルールが明示されうるためには、コミュニケーションのプロトコルについての知識が必要)。

そして、いまでは、もっとも無知なものがコミュニケーションを支配するようになった。テレビ討論を見てもらえばすぐに分かる。何にも知らないことは、司会者の「中立」という最も強い立場なんだ。だから何にも知らないひとがキャスターになったり、何にも知らないひとがコメンテーターをつとめることさえ起こる。何にも知らない者こそが、もっとも「偏りのない」意見を言うことができる、というルールになっている。視聴者は「何にも知らない」状態で番組を見るのがよく、何にも知らないがゆえに「予見をもたずに」状況を「印象」でジャッジできるとされる。あ、そうなんだ、知らなかったあ〜〜、なんて平気で言える。そして、みんなすぐに忘れる。

そのようにして、「歴史の記憶」は消去され、メディア時代の「二次的な野蛮」は拡がっていく。いまでは「無知」こそが力だ!「無知」をきもちよく前提にさせてくれるメディアこそがもっともよいメディアなのだ。

昔、メディアは社会を「開かれた社会」にするはずだった。だが、メディアは「無知」や「野蛮」や「忘却」を社会に広めることになった。「第二の無知」「第二の野蛮」の時代になったからだ。

私たちがいまいたるところで目の当たりにしているのは、そのような「二次的な野蛮と無知」の専制支配なのかもしれないのだよ。

ならば、21世紀の第二のファシズムはもう私たちの世界の目の前のすぐそこまで迫ってきているはずだ。

   そのファシズム、みんなで止めませんか!

でも、どうやって?

 「歴史」を勉強することによって、だよ。


             (長文読解、お疲れ様でした!感謝します。)


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