2018年6月24日日曜日

新『人間知性新論』:〈本〉の記号論とは何か


新『人間知性新論』[1]

〈本〉の記号論とは何か

« Ce conte s' adresse à l'Intelligence du lecteur qui met les choses en scène, elle-même.
コノ小話は事物ヲ自ラ演出スル読者ノ〈知性〉ニ向ケラレテイル »

« Similia similibus
似タモノハ似タモノニヨッテ
S’il est fait, je suis guéri.
コレガ仕上ガレバ僕ハ快癒スル »

Stéphane Mallarmé 1869

 

Ⅰ〈超-グーテンベルク〉期

 いま世界では果てのない〈普遍図書館Bibliotheca de Babel〉が建設中で、人びとは〈顔の本Facebook〉によるお見合いで知り合い、〈家庭の頁homepage〉を単位に日々の暮らしを更新し、毎分のように文字列を〈呟きtweet〉合って生活している[2]。ほとんどの日用品は〈本屋Amazon〉が運んでくる。本屋が運んでくるモノはすべて〈本〉として分類され、世界全体が〈机の上desktop〉になり、本の数は日々爆発的に増殖し世界の机の上が異様に散らかっている。
 二十世紀には「グーテンベルク銀河系」のまぢかな終焉が預言されていた。だが、訪れたのは、〈超-グーテンベルク〉期である[3]
 あらゆる生活場面で人びとは、〈本〉を読んでいる。地下鉄にのると、どの車両でも乗客は〈私本アイホン〉などの〈賢明本スマートホン〉を読んでいる。街角では、皆が古代ギリシャ人さながらに、〈私板IPad〉を持ち歩いて、カフェに腰をおろして、〈汝管YouTube〉をのぞき込んでいる。超-グーテンベルク期とは、ひとびとが寝食を忘れ、本を読むことも忘れて本を読むまでに本の文化が異常発達をとげた〈新人類期Anthropocene〉なのである。
 世界経済はいまハイパー出版資本主義の絶頂にある。本の生産・流通・消費こそが、この知識産業社会の基幹産業であって、消費、とは、〈読者〉を生産する活動である。〈本屋〉の提供する〈金取Kindle〉本によって、人びとは〈読者〉になる。一度読む消費者になると、次々に読むべき本が推薦recommendationされて、1時間以内に、〈本〉たちが〈人工蜂drone〉に載せられて運ばれてくる。〈人工蜂〉は〈地球磁針GPS〉と連動しているから、どこまでも追いかけてくる。
 〈手紙e-mail〉のやりとりも、これほどまでに発達した時代はなかった。地域の市役所や役場も民営化されて〈書店Tsutaya〉ネットワークとなり、住民票もTカードとなっている。街角のコンビニエンスストアも書店網TSUTAYAと一体化し、配達のために〈飛脚Sagawa〉が飛び交っている。会話は一四〇字に制限されて〈付け文Twitter〉で行われるので、俳人と歌人が何万人もの〈弟子たちfollowers〉の群れを従えるようになり〈俳歌壇社会〉が圧力団体として政界を牛耳っている。
 いまでは全てのモノが〈本〉として分類され、相互に参照し合っている。〈モノが本になるInternet of Things〉時代なのだ。これをIoT  -- モノのインターテキスト(Intertext of Things-- と呼ぶ。本たちはじかにお互いに結び付き相互に〈読み合って〉いるのである。
 ときどき街角には「ゴミハウス」と呼ばれるモノが家から溢れ出す現象が観察されるが、これなども〈本屋〉が運んでくる本が机の上から溢れ出し、さらに本と本とがIoTで呼び合って、隣の家から呼ばれて来た本たちが押し寄せて、家が破壊されて、本たちが路上へ溢れ出している例である。人びとが、〈私本〉や〈賢明本〉をあまりに熟読し、歩きながら読書にふける〈二宮金治郎〉症も広がり、ぶつかりや転倒・転落の事故も頻発している。 
 さまざまな本をむさぼり読む、〈本の虫〉たちが大量群棲する〈社会昆虫網SNS〉が発達して、〈議論する公衆〉が陸続と登場し、「討議型民主主義」が拡がっている。知識人たちが18世紀に夢見ていた〈公共圏〉が遂に実現したといえる。

〈普遍図書館〉計画

 〈本〉と〈頁〉と〈文〉と〈字〉と〈手紙〉と〈飛脚〉と〈本屋〉と〈モノ〉と〈図書館〉を連ねる〈隠喩連鎖メダフォール・フィレ〉が現実化した世界を私たちは生きている。
 すべての発端は、十八世紀の哲学者による「知性の改革」計画だった。その基礎学は「普遍記号論」と呼ばれ、「計算機」が試作された。しかし二十世紀には、軍事戦略的位置づけをえて「知の暗号化」計画として推進され、暗号無線技術にもとづく「暗号論」が普遍記号論の主流となった。
 二つ目の大戦後は、書斎に戻った元原爆開発者が、原爆を組み立てることができる〈勉強机Memex〉を自宅で組み立てることを考案した。核弾頭の到着よりも早く弾道計算を行える計算機が設計され、「計算とは他の手段による戦争の継続である」という抑止論が唱えられた。
 この〈冷たい戦争〉の終結ののち、使用済みになった〈計算機〉の再利用のために、連邦政府は「図書館の平和利用」を唱え、世界の図書館の電算化を進める、〈普遍図書館〉計画が推進された。
 二十世紀の〈普遍図書館〉計画は、ブエノスアイレスの図書館長でもあった南米の盲目の作家がフィクションとして描いた構造図をもとに、数学者と計算機学者の参加をえて具体化し、スイスの原子核研究所の物理学者たちの読書会のための超文書共有サービスとして最初の実用普遍図書館が実装された。
 今では、Alphabetを名乗る図書館業務会社が世界最大の企業で、その出発点は、その名も神の摂理を帯びた神童、Larry Pageクン君が、石渡Stanford大学の新図書館計画のために考案した、〈頁〉探しのための〈索引indexing技術の開発だった。学位論文の最初の頁に、彼は次のように書いている。

 この紙でできた論文は、どうしたら、[ボクたちの図書館の全ての本の網羅的な読み方の〈索引〉をつくるために]、超文章のなかにある、[図書館閲覧者が残す、落書きや下線や書き加えや頁の折り目や鼻くそ目くそなどの読書跡などの]追加情報を利活用できるようにする大規模な実用システムを作れるかを検討したものなんだ。ボクたちが、さらに、考えようとしたのは、誰でもが何でも出版できるようになっちゃっためちゃくちゃなこの超グーテンベルク期の世界で、このでたらめな超文書の寄せ集めのなかからどうしたら自分が読みたい頁を探し出したらいいのか、超-図書館における頁の探し方の問題にチャレンジしようとしたものだ。[4]

 頁クンが興した企業〈二乗百度Google〉の試算によると、人類が残した全書籍1億3千万点、その二割五分以上がいまでは、この普遍図書館に納入された[5]。〈万有百科検索〉が検索できる超頁数は、三千五十五億頁で、トルストイの『戦争と平和』二億一千二百万冊分、日々刻々と更新され増殖しつづけ、頁が頁を読み合っている[6]

 本稿の目的は、このようなかたちで建設が進む「普遍図書館」にとって〈本〉とは何か、〈記号論〉の問題にもどって考察することにある。〈本の記号論〉とは、あの南米の小説家図書館長が、かれが参照した『大英百科事典』の欠落した頁への註において、参考文献としてあげていた、ハノーヴァー公の図書館司書の〈普遍記号論〉から出発するものでなければならないだろう。
 じっさい、その図書館司書は、17 年に、「結合術」から出発して、「百科全書」が、「普遍学」を体現することになる「図書館」を構想していた。

 その図書館とは、一般目録、記憶の補助、印刷物集蔵庫、最も偉大な人物たちの最も優れた思考の要諦であるべきである。私のもくろみは、図書館の書物の集積において、百科全書、すなわち三室ないし四室に集められた普遍学を揃えるということであり、ひとはそこからかつての知識の総体、および想像しうる有益なあらゆる学知について知識を必要に応じて引き出すことができるようになる。

 かれは、しかし、次のようにも警告していた。



 私たちの学問探究から知の至福へのたいした御利益も引き出すこともできぬままに無闇に好奇心を浪費しようものなら、皆学問がいやになり運命の偶然から人びとが野蛮に舞い戻ってしまうのではないかが心配です。日々増え続ける、ろくでもない膨大な恐るべき本の山はそうした方向へと大いに貢献することでありましょう。なぜなら無秩序はもはや乗り越えられないまでに達して、まもなく無限ともなっていく書き手たちの数は彼らを全面的な忘却に置き去りにされる危険に曝すことになってしまっているからなのです。

今、記号学者に求められているのは、「ろくでもない膨大な恐るべき本の山」を前にして、この〈普遍図書館〉計画の行く末を見据えることであるだろう。
 本稿を通じて、情報化された世界を〈本〉の隠喩として物語る道を敢えて採るのは、「無秩序はもはや乗り越えられないまでに達して」、匿名性の淵に沈もうとしている無数の人びとがいま「野蛮への舞い戻り」の坂を降ろうとしているからである。しかし、そのためには、〈本の記号論〉の全面的な更新が求められているはずだ。



Ⅱ 〈本〉の存在論


〈笑う男〉 

 これから記すことになる、ある人物M F[7]との架空の対話は、私が当時かかわっていた大学の新図書館計画のための仮設建物の一室で行われた。
 大学の歴史上初めて、本を一冊も読んだことのない総長が選ばれて以来、その図書館計画は頓挫し、私は計画から完全に手を引くことを決めていたので、荷物を片付けに部屋に舞い戻っていたのである。
 プレハブ棟の居室入口のドア横の洗面台には粗末な鏡がしつらえてあって、そのなかでは、晩秋の夕暮れの光のなかに、訪れてきたMの姿がぼんやりと浮かび上がっていた。ビオイ=カサーレスの小説[8]を作品化したこともある友人は、一冊の本を携えていた。

I 「まるで『モレル』[9]の満ち潮の時刻だな、君がやって来たのは」と、私は冗談めかして呟いた。

M 「僕は、〈現れ〉なのかもしれない」。媒体芸術家のMは鏡のうす暗がりのなかで笑みを浮かべて応じた。

 かれが机の上においた〈本〉 – それをなお「本」と呼びうるとすればだが は、Mのこれまでの作品のすべてを収めた作品集とでもいうべきものに仕上がっていた[10]。〈拡張読書A R〉技術をつかって、作品のパフォーマンスをその拡張現実の動画イメージのなかに収めている。フランスの女美学者の構想になる〈否原理的収集体Anarchive〉というコンセプトでつくったのだという[11]。彼自身の全作品の収集体アルシーヴとでもいうべきだが、それ自体が新たな作品であり批評でもあって、いわば創作と収集が循環する構造体となっている。
 
 I 「これは〈本〉だろうかね」、と私がニヤッとしながら問いかけると、友人は、
 M 「ウフェ、ウフェ、ウフェ、ヘヘフェー」、と特徴のある乾いた笑い声を立てて笑った。
  私自身、その〈本〉のなかで、彼の作品「超頁Beyond Pages[12]について、「これは本ではないCeci n’est pas un livre」と題した文章を英日仏語で寄せていたからである[13]


 Mが「超頁」制作の頃に刊行した著作のテーマを借りて「未来の本の未来」という演習を私は図書館のなかで開講していた。現在の〈普遍図書館化した世界〉のなかで、私たちは計画が頓挫した時代遅れの図書館の一室にいたし、〈本〉はもはや本ではなくなりかけているわけなので、紙の〈本〉でもあり、電子の〈本〉でもあるがごとき、彼の〈作品〉を開きながら、私たちの会話が、〈本〉と〈図書館化した世界〉の過去と未来に及んだことはいうまでもない。
 Mの〈本〉は、バインダーで綴じられて、作品単位の〈章〉の順序を組み替えられるようになっている。どうじに、〈私板〉をマーカーにかざすと、実際の〈作品〉の動画– それもあらたな作品-- が浮かび上がる。これは紙の〈本〉なのか、〈動画〉が立ち上がる〈ヴァーチャルな本〉なのか、〈リアルな本〉と〈ヴァーチャルな本〉のあいだを、〈読み〉が循環する仕掛けになっている。

〈本〉という道具

 〈私板IPad〉をその〈本〉にかざすと、〈紙の本〉から〈電子の本〉が立ち上がり、作品「Beyond Pages」に「触れる」と〈頁〉が乾いた音を立ててめくられる。
 I 「コレはアレを殺したりはしないね」ハッハッハと笑い合うことから対話は始まった。
 じっさい、この〈私板I Pad〉と、〈紙の本〉および〈電子メディア〉や〈電子の本〉のあいだには、どのような幾重・幾通りの-- 〈関係〉と〈間隙〉があるのだろう?ARとは、凡庸な工学者の世界で信じられているような、VRが人間的な現実をたんに「拡張」するというようなことではない。むしろそれは、人間的現実とはまったく異質な電子的・情報的な次元が露呈する経験だろう。電子と情報の粒子が降り注ぐその〈界面〉は、なんともざらついてこそばい表面であって、そこにいつも触れているMはだからよく呵々と笑う男である。
 かれは、記号学者としての私の知識を少々買いかぶっているところがあって、いきなり本質的な問いを浴びせてくる。
 
 M 「あのイタリア記号学の巨匠のいう、〈本〉は究極の発明でそれを超えるものはないという見方には記号論的な根拠があるのかね」、と椅子に腰掛けるなり、訊ねた。
 片付けていた図書館計画関係の書籍には、当然その対談本[14]も含まれていたから、私は本の山から取り出して、該当箇所をすぐに探し出した。Mが参照したのは、「モノとしての本にはいろいろなバリエーションが起こったが、機能の点でも、シンタクスの点でも、五百年前となんら変わっていません。本は、スプーンやハンマー、車輪や鋏と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。」[15]という箇所だった。
I  その直前のパラグラフでは、巨匠Ecoは、「読みの支持体(support de lecture)」ということを言っていて、「読むための道具」は、依然として〈本〉でありつづけるか、本質的に〈本〉に似た何かでありつづけるだろうと言っている。「機能」と「シンタクス」というところが、記号学者の言葉遣いだね。「機能」は「読む」という活動のための機能ということだろう。「シンタクス」というところは、「読む」行為が結びついている他の活動や所作との連関と分節化いうことだろうね。「一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。」という箇所は、〈本〉は、読むための道具の技術進化の完成形といえる、というわけだね。そう言えるためには、読み書きと記憶をめぐって、一種、根源的な原理が、〈本〉には働いていると、巨匠は考えているように読めるが、それ以上は踏み込んでは言わない人だったね。
 ところが、僕らはそこまで踏み込んでみたいね。()

原理アルケーとしての〈-archi-livre

I 〈本〉とは、スプーンやハンマーや鋏や車輪のような「道具」として、ヒトを補綴する補助具である。ただし、コトバやイメージを読み書き記憶し思考するという象徴活動を補綴する道具という点で、他の道具とは異なっている。500年以来替わっていないといっているからグーテンベルク活版術以来ということだろうが。紙とインクという材料でなりたつ記憶媒質としては、冊子体の本Codexがもっとも原理的なかたちだということかな。その本を〈本〉たらしめている原理を〈-Archi-livre〉と呼ぶとすれば、その〈原-本〉作用が、人間の文化生活において、「読みの支持体としての本」の「機能」と「シンタクス」を構成しているのだ、というわけだね。

M 君の〈-archi-livre〉というのはミステリアスな言い方だね。ミスティフィケーションでなければ

I まあ、そうかもしれないが、クロマニョン人は「原-シネマ」を描いていたという研究[16]もあるぐらいだから、〈文字〉の発生から、書記媒質としての〈紙〉の表面の発明へ、巻物から冊子codexへ、という、本の一連の進化は不可逆的で、そこには、〈本〉を生み出した〈文字化grammatisation〉の作用-- それが〈原-本〉-- が働いていると立論することもそれほど無謀ではないのだと思うのだね。
 その原理を考えるためには、〈文字〉とは何か、とか、〈行〉とは、とか、〈余白〉とは、とか、〈頁〉とは、とか、そして、それらを物理的に束ねて閉じた三次元立方体としての〈本〉とは、とか、を考えていく必要がある。
 
M なるほど。〈原-本〉とは、本を〈本〉として生み出す生成原理のようなことだね。〈文字化〉と君がいうわけだから、〈文字〉が書かれるようになった瞬間には、論理的にいえば、必然的に、〈本〉は生まれることになっていたのだというのが〈技術進化〉の法則というわけだね。
 僕は視覚表現についてはいろいろと研究もしてきたから、ラスコーやショーヴェの洞窟壁画が描かれるようになったときには、すでに岩の表面が人工的に磨かれた〈平面〉として生み出される必要があった、というようなところから始まって、〈記号〉と〈メディア〉つまり、記号が書き込まれる支持媒体との関係についてはいろいろと考えてきた。〈図像〉や〈文字〉は次第に安定した〈平面〉に描かれる/書かれるようになり、視覚メディアではそれはやがては〈スクリーン〉になっていくし、〈文字〉はまっすぐに〈行〉として書かれるようになり、〈図像〉は、視野におさまるように〈矩形〉の表面を分節単位とするようになり、というように、メディアは不可逆的に〈技術進化〉を遂げていくわけだ。

I まず、〈文字〉の発明。これについては、無数の研究があって、今整理しているこの部屋にもそれらの書籍がいっぱいちらばっている。事実史的研究は多数なのだけど、僕は軽薄な(?)記号学者なので、それを原理として整理して考えるのが仕事だ。その原理を、ごく手短に解説すると ・・・
 まず、自然界に〈signes-- -痕跡archi-traces-- があった。最近好んで引用する文献は、視覚認知神経学者のマーク・チャンギージーによる研究で、「文字のユニヴァーサル理論」のひとつ[17]。文字記号を構成する文字素の脳内情報処理は、空間認知の形態識別と対応しており、自然界を見分ける識別の徴と、文字を認知させる文字素とは緊密に相関していることが知られている[18]。自然界の情報を読み取る脳の活動を、文字を読み取る活動へと振り向けることによって、ヒトは「ニューロン・リサイクリング」の回路を形成して文字を情報処理している[19]
 ここから補助線を引くと、自然界の位置関係の見分けの徴-- -文字-- が転位されて〈文字〉が発明され、その文字記号が集められて記されるための物質的表面が、大脳皮質の外部化として、文字記入のための〈メディア〉として成立していく過程があったと推論される。次に、その記入表面は、次第に〈平面〉と化していったにちがいなく、しかも、ヒトの視覚意識の記憶化(=把持)の単位にしたがって、その平面も分節化されていく。つまり、文字を集める〈矩形〉の連続へと収斂していくだろうと推理されるわけだ。これが、〈-archi-page〉の成立の原理だね。

M そうなのだね。そのような表面の成立と矩形単位ができるについては、知覚と記憶の問題も関与していて、ショーヴェの洞窟壁画が〈動画〉のコマ割のように描かれているように、〈文字〉という記号単位が、書記のための表面にのぼり、どのように言語や思考と連動するようになるか、その表面がいかに〈原-頁〉として組織化されていくか。それは同時に、〈脳〉の認知活動を〈手〉が〈書く/描く〉という脳の活動の〈外在化〉なわけだから、本はどのように読まれるのか、とか、文字の読まれかた、読字や読書の認知活動と記憶の組織のされ方、とか、そうした面からも、〈本〉とはいかなる対象なのか、ということが明らかにされる必要がある。〈本〉はクロマニョン人の洞窟壁画からの進化の延長上にあると捉えることが重要だね。

〈時間対象〉としての本

I それな、それな。〈原-頁〉はスクロールの単位となって、巻物の場合には、その単位ごとに手で繰っていくわけだが、折り畳んだり、切り分けて綴じたりして、〈冊子体〉になっていく。これは、一見、空間化の理論に見えるけれど、同時に、時間化の理論でもある。
 アイトラッカーでひとがどのように文字を読むかを検証すると、行きつ戻りつ、眼球のサッケード運動によって意味単位を読み取りながら〈記憶〉に送り込んでいることがわかる。サッケード運動を繰り返して眼球が文字を情報処理していくあいだに、ヒトの意識の方では、現象学的にいえば、現在時における〈予持〉、〈過去把持〉、さらに〈記憶化〉、という、〈意識の流れ〉にしたがって、〈時間対象〉として本を〈内的時間意識〉の経験をとおして〈読む意識〉を構成していく[20]。認知心理学のタームをつかうなら、〈短期記憶〉で現在読んでいる文を処理して、〈長期記憶〉の方へ送り込んでいく[21]。いずれにしても、本を〈時間対象〉として、内的時間意識をとおして、捉えていく。これが、〈本を読む〉というヒトの活動だね。
 文字列は、決してリニアにのみ読み下されるのではなく、もう一度もどったり、先の展開を予持したり、頁をもどって長期記憶を呼び戻したり、あるいは、本を外部から俯瞰することで、自身の記憶形成を俯瞰したり、という行程を繰り返していくわけで、それは、目の読む活動と頁をくる手の活動が協働することで、成り立っているわけだ。
 西洋の本のように横書きの本を例にとると、今読んでいる頁が〈現在〉の頁、これまで読んできた左側の頁の厚みが〈過去〉、右側の厚みが〈未来〉、〈現在〉の頁でも、今読んでいる数行なりパラグラフに相当する時間の拡がりが、〈原印象〉、〈過去把持〉、〈予持〉という〈現在時の意識〉を構成している[22]。現象学的にいえばこのような時間意識の拡がりとして〈本〉は読者の手で頁を繰られていくわけだね。この時間性は、右、左、正面というように、空間性とも連動していて、まさしく〈思考〉と〈記憶〉の〈方向付け〉の道具だというわけだね。イタリア記号学の巨匠がいうように、これこそ一度発明されたら、それ以上はうまく作りようがない。

〈アーキテクチュア〉、〈アーカイヴ〉、〈アルケー〉

M また、〈章〉とか、〈目次〉や〈索引〉とか、とかという具合に、〈本〉の内部の構築性architecture、つまり〈構造体としての本〉について考えたりする必要もあるだろうね。その辺は、〈本の歴史〉ということになるのかな。
 
I それに、〈アーカイヴ原理的収集庫〉〈もその延長上にある、ということになると思う。
 洞窟絵画があり、それは動画の〈コマ〉の分節化からなり、次に〈文字〉の発生があり、文字は記入しやすい〈表面〉を求め、その表面が視覚単位として〈矩形〉となり、やがて羊皮紙や紙を得て〈頁〉となり、さらに、その頁という記憶単位を束ねて綴じた〈本〉となり、さらに、その構築性の延長上に、〈図書館〉や〈アーカイヴ原理的収集庫〉が構築され、という具合に〈アーキテクチュア〉が組み上がっていく。
 君の否原理的収集体Anarchiveが、この〈原-本〉Archi-livreの作用とどんな関係にあるのか、そこに僕は興味を惹かれるね。

M 君もよく知っているように、〈アーカイヴ原理的収集庫〉については、さんざん議論が起こされてきているからね。あの禿頭Foucault先生とか、誰彼Derrida先生とか[23]。ギリシャ語のArcheが、起源であると同時に方向付け、統制の原理を意味する言葉であったとすれば、〈原-本〉は、その始まりや原初的把持とかかわっている。AnarchiveArchiveの統御原理からの逸脱、離脱だろうかね。その離脱作用– 誰彼Derrida教授の用語でいえば「差延différance-- を、電子が担うのか、紙が担うのか、とか、そういう一連の問いがぼくの〈否原理的収集体Anarchive〉の実験からは引き出されてくるね。禿頭Foucault教授なら、〈本〉の「アルケオロジー」と「アナルケオロジー」の問題と言っただろうかね。

I 君の〈否原理的収集体Anarchive〉の場合、バインダーが可動的な〈アルケー(統御)〉の役割を果たしているね。バイダーが〈アルケー〉だとすると、それぞれの作品に対応する冊子fasciculeは、それに従うようでいて、その原理と〈戯れる〉ようにして組み替わる。そして、更に紙の〈頁〉からは〈イメージ〉が〈アナモルフォーズ〉のように立ち上がる。じつに精妙な仕掛けだね、この〈本〉は。

M バインダーが〈アルケー〉というのもなるほど、と。今までの全作品の〈記憶〉を紙の文章も動画イメージも含めて〈バインド(束ねて)〉しているわけだからね。で、イタリアの巨匠の言葉に戻ると、〈読む〉という「機能」は、まず、〈紙の本〉を読む・めくる・本の背や腹をいじる、もどって読み返す。閉じて、本棚や書庫にしまう、また再び、あるとき取り出す、など、いくつもの動作の「シンタクス」をつくることで成立している。
 
I この〈本〉では、そのシンタクスと並行して、〈並行統辞parataxe〉を作るのが、電子メディアのセミオーシスで、私板I Pad〉をとおして動画を読む、指で私板をいじる-- これらは、ヒトが〈読む〉わけだね。他方、〈私板〉自身が〈マーカー〉を〈読む〉という〈読み〉もここには働いている。そして、私板が〈マーカー〉を読み始めると、私板は次々に動画を勝手に〈読ん〉じゃう。その〈読み〉をとおしてヒトに〈読ませ〉ちゃう。

M その辺からが僕の出番なんだろうな。(ムフェ、ムフェフェーイ・・とまた笑う。)

I そこから、意外なことなんだが、〈技術的対象〉として本をとらえ返せば、紙の〈本〉も〈読ませ〉ている、ということがいまさらのように、浮かび上がってくる。僕たちは普段、紙の本を〈読んでいる〉と思っているんだが、実は、紙の本に〈読ませられ〉ている、というレヴェルがあるわけだ。
 電子の〈本〉による紙の本の拡張というのは〈原-本〉の〈読ませる〉活動を〈拡張〉しているということが分かってくるわけだ。そこが、電子メディアの道具性・代補性ということの核心なんだね。(ア、ハ、とつい笑いの感染)


Ⅲ 〈本〉の記号論


 記号論に興味を抱いたらしいMは、「本の記号論」の研究はいったい存在しているのだろうかと問うた。

M 君は〈本〉というメディアの存在論を語ってきたわけだと思うけど、メディアについては映画の記号論、写真の記号論など、さまざまなメディアの記号論が存在しているのだけれど、〈本の記号論〉はどうなっているの。把瑠都Roland Barthesは、記号論とは、〈読み〉に関わる研究だと述べていたはずだけど。だとすれば、〈読み〉のための「それ以上うまく作りようがない」道具である〈本〉こそ、記号学の特権的な対象であるはずだ、と。だから、本の記号学は非常に栄えているはずなんだろうけど・・・。

I うーむ。さすがに鋭いことを言うねえ。ところが、そこはじつにビミョーなんだな。〈本の記号論〉が存在しているか。となると、うーむ。
 二十世紀の記号論は、じつは、〈文字〉と〈本〉の問題を括弧に入れたところから出発したといえるかもしれない。記号論は、文字ではない〈テクノロジーの文字〉をベースに立ち上がったのだし、〈本〉ではなく、〈テクスト〉や〈言説〉や〈物語〉を対象とすることで発達したということがある。〈文字〉と〈本〉の問題を認識論的にはスキップして成立したわけだ。
 哈里斯Roy Harrisも言っていることだけれど、ソシュールもパースも「文字の問題」にまともに取り組んだ形跡がない[24]。〈本〉はといえば、「作者」や「作品」、そして、「本の形而上学」や「エクリチュール」は問題とされるけれど、技術的対象としての〈本〉とは何か、というような問題は、記号論において技術存在論的な問いを阻まれている。記号論には、技術論が欠落しているので、「メディア・オントロジー」の問いが立たないのだね。
 記号論はひとことでいえば〈本〉に対してアンビヴァレントな態度をとりつづけた。そのせいで〈本の記号論〉は二十世紀にはついに成立しなかったと思うと私は答えた。じっさい、ノースにも、ブイサックにも、「本(書物)」の項は立てられていない[25]。唯一、日本の『記号学大事典』が「書物の記号論」の項を掲げているのだが、それは日本の記号学会が、はからずも混淆主義的な編集方針を採用したことによる例外ケースだろう。

 私は片付けようとしていた部屋の書籍の山のなかから、一冊の日に焼けた小さな本を引っ張り出した。それはT・ズビエルスキの『書物の記号論』の日本語翻訳だった[26]

ズビエルスキ『書物の記号論』

I 例えば、この本は〈本の記号論〉に生真面目に取り組もうとした数少ない例のひとつだとおもう。著者のズビエルスキはポーランド人で、図書館学を修得のうえ人文科学を専攻、情報科学を副専攻とある。
 かれが依拠するのはワルシャワのpraxiology 学派の流れを汲むpraiosemioticsで、その「実用論的な(prasiologic)」アプローチにとくに興味は覚えないが、出版活動を、メッセージ発信者(著作家)、メッセージ(書物)、受け手(読者)、媒介者(編集者等)、等価物(生産インセンティヴ)、情報対象(参照世界)という要因からなる「コミュニケーション協働因子(Kooperator)」の概念で複合的にとらえる視点には、一定の独創を見ることができるとおもう。
 本論の方では、書物の「構造」と「機能」というオーソドックな組み立てを採用していて、「書物の構造」論では、ソシュール派の「シニフィアン/シニフィエ」の二分法にしたがって、書物のメッセージの「シニフィエ」の部分に、「科学的メッセージ」、「美学的メッセージ」を例に、メッセージの構造を分類している。他方で、「シニフィアン」の部分に、「言語的メッセージ」、「図像的メッセージ」という区別、「コミュニケーションのコード」として「自然言語のコード」、「文字言語のコード」、「専門用語のコード」等をあげて分類している。この分類は、やや混乱した印象を受けるんだけど、現在の記号論・コミュニケーションの展開との関係で整理しなおすとすれば、著者は、シニフィエの部分に、言説の諸ジャンルを、シニフィアンのレベルに、記号の種別と、記号の体系を見ていると理解しなおせばよいだろう。とくに面白いところはない。
 他方で、モノとしての書物の記号作用を、「情報負荷体」として区別して論じているところは多少面白い。書籍の判型、頁のレイアウト、カヴァー、タイトルページ、出版社のロゴ、装幀、デザイン等、こちらは、メッセージの支持体としてのメディアに関わる部分の概念化で、さきほど君の言っていたアーキテクチャーとも関連しているね。この「書物の構造」論からは、理論化の緻密さと粒度はともかく、多様な記号から構成される、記号の構造体としての〈本〉の記号論が構想できたかもしれない。
「書物の機能」を検討した第二部では、「情報源としての書物」、「コミュニケーション用具としての書物」の構成をとっていて、こちらはよりメディア論的な考察が前景化しているともいえるのだけど、「情報源としての書物」は、サイバネティクスのコミュニケーション理論を下敷きに、「書物のコミュニケーション」が伝達する「情報量」を議論していたりする。他方で、「コミュニケーション用具としての書物」の項では、コミュニケーション技術の観点から書物と他のメディア機器との比較の議論、書物を複写、読み取り、コンピュータで情報処理する可能性をも議論の射程に入れてもいる。
 ズビエルスキのこの研究は、生真面目な試みなのだけど、20世紀の記号論が〈本〉を捉えられない限界がむしろはっきり見えると思うのだね。

記号論のアポリア

I ズビエルスキは「記号論」とは「コミュニケーションの一般理論」だと言っている。そして、「書物の記号論」とは、「コミュニケーション事実」としての「書物」の記号論なのだと。その基礎理論は、ヤコブソンのコミュニケーション図式にみられるような1960年代の記号論で、そのどこが問題かといえば、コミュニケーション図式のような電話モデルでは、書物が書物である所以、その時間性(潜勢性)が説明できないわけだね。このアポリアはズビエルスキ自身によってではなくて、すでにソシュールにおいて、かれの言語記号学の成立と同時に決定されてしまっていたんだね。ソシュールの言語記号学をつくりだしたのが、この〈電話モデル〉だったのだから。

M 要するに〈本〉は電話じゃないんだよね。リアルタイムでリニアな信号伝達である〈電話モデル〉と文字の読み書きの理論は異なる。〈本〉については〈記憶の形成〉についての理論も必要だし、「言語モデル」によって〈本〉を理論化することはできないというわけだね。〈本〉は、〈現在時のコミュニケーション〉ではない。〈本〉は、むしろ、〈コトバ〉を〈止める〉〈遅延させる-- 装置だからね。〈現在時〉を〈潜勢化〉する装置だということだね。
 君が説明したみたいに、〈本〉は〈時間対象〉ではあっても、読むヒトが〈手〉で〈頁〉をめくって先に進んだり戻ったりしながら、〈記憶〉を作り出していく。だから、本の本質は開いて読んでいるときだけに顕わになるのではなくて、閉じているときのことも本の本質なんだね。いつ開かれるか分からないし、いつ読まれるか分からない、そのように内部に〈時間性〉を蓄えている-- 潜勢化している-- 誰彼Derrida教授のいう「差延」している。だから、本をよむには世界の時間から離脱して、本の時間に沈潜しなくてはならない。それこそ〈読むこと〉による〈個体化〉の時間というわけだね。それは、作者が〈書くこと〉によって〈個体化〉するプロセスと向き合うことでもある。
 でも、これは、考えてみれば、全てのメディアについてもいえることなのではないかともぼくは思うのだね。あるいは、記号とはそもそもそのような潜勢化が生み出すものではなかったか、と。

I ますます鋭いね。きみのアナルシーヴも、バインダーで綴じられ、閉じているときこそがアルシーヴの本質で、そこから文字テクストの読みの時間とか、マーカーが読み込んだ動画の時間とかが、ある時引き出されて現働化する。ARの本も本質的に時間と空間を潜勢化して折り畳んで綴じているわけだからね。
 ところが、二十世紀はどんどん〈現在性〉のコミュニケーションのメディアの時代になっていった、ということがあったわけだ。しかも、ソシュールにはじまる〈電話モデル(コミュニケーション・モデル)〉を通して。「シャノン・モデル」などその典型だ。
 つまり、エピステモロジックにいえば、二十世紀の記号学は、ソシュールはもちろんパースにしても〈本〉の時間の外に出ることによって可能になったのだと思う(かれらがついに本を書くことがなかったのはひょっとしてそのせいかもしれない)。ハリスが述べているように、ソシュールやパースは〈文字〉を深く考えなかった。本の外に書かれている〈記号〉のコトバを発見することで、〈本〉のエピステモロジーを問わずに、二十世紀の記号論は発達してきたといえる。
 ソシュールにおいては、言語学の認識の単位を、文字から〈テクノロジーの文字〉へ移行させたことが、「言語記号」を発見させたのだったと、石田は言っている[27]。ヒトが読み書きする〈文字〉とはちがって、〈テクノロジーの文字〉によって書かれた〈記号〉のコトバが、構造主義の記号学者たちの〈読み〉の対象となったというわけだね。

M でも、記号論は、〈テクスト〉や〈言説〉や〈物語〉を対象とすることで、理論を発達させたということがある。それでも〈本〉の問題をスキップしているのかな。

I 〈本〉の問題を括弧にいれることで、逆に、〈本〉が成り立たせていた〈作者〉や〈作品〉という〈言説〉の制度、〈本〉に限らない〈物語〉、本が覆い隠してきた〈テクスト〉、〈インターテクスト〉や〈エクリチュール〉の運動がクローズアップされたのだともいえるね。〈本〉を単位に考えているかぎりは、〈作者〉も〈作品〉も、あるいは〈思想〉や〈精神〉といった存在も疑問に付されないからね。
 それに〈本〉を括弧に入れることで、〈本〉以外のメディアにも、〈記号のことば〉が書かれているということも分かってきたというわけだ。そのようにして、記号論がメディアの多様性を射程に入れることによって、〈読み〉-- つまり〈批評〉-- の活動の対象はたしかに広がった。イタリア記号学の巨匠もさきほど話題にした対談で映画についてそう語っている。
〈本〉の外に〈読み〉の対象を見出したことが、記号学者たちの新たな仕事をうみだしたのだった。把瑠都は、記号学者の仕事とは、〈記号〉の「分類目録タクシノミア」であると再三語っていたし、〈記号〉が人間文化の構成要素であるかぎりにおいて、その〈知〉は、〈記号〉の観点から社会を整理分類する「一般学」(「社会における記号の生活を研究する学」)の性質を帯びざるを得ず、畢竟、百科全書的な性質を持つというわけさ。だから、〈記号論〉とは、あのハノーヴァー公の図書館司書の大計画以来、それ自体が〈百科全書的な知〉のプロジェクトだったし、百科全書という〈本を横断する本〉のメタな活動としての〈記号分類〉の問題に出会っていたといえる。オールーが『百科全書の記号論』を著したこともまことにむべなるかな、と[28]
 二十世紀の記号論は、メディア化する世界で、メディアを構成する用途としての〈記号〉を発見することで、その〈一般学〉の計画をメディアの世紀を通して、やり直そうという動機づけを持っていたと思うんだね。

 

脱構築派によって裸にされた〈テクスト〉、さえも

M 〈本〉に関していえば、〈脱構築〉についてはどうなんだろう。誰彼Derrida先生は、〈本〉の形而上学を〈脱構築〉することを哲学的テーマにしたと思うけれど。かれの『文字学について』の第一章は、「本の終わりと文字の始まり」だったし[29]、『散種』は、「これは(だから)本ではないのだ」と思いいれたっぷりに、「本の外」から緒言を始めている[30]。『弔鐘』は、本の弔鐘を鳴らすタイポグラフィで複数のパラレルな読みを可能にする試みだったし[31]誰彼Derrida先生における〈エクリチュール〉や〈テキスト〉の戯れは、本を〈脱構築〉することから開始されたのだったね。

I 二十世紀に記号論を基礎に展開した、構造主義者・ポスト構造主義者にとって、〈本〉は君のいうとおり〈脱構築〉の対象だったんだ。〈作者〉や〈作品〉の制度性、〈言説〉の構築性、〈題名〉や〈署名〉の行為性が、全般的に審問に付されたのは、それらの審級において、〈本〉が、「形而上学」を体現していると解釈されたからだろう。「百科事典(エンサイクロペディア)」が、知の綜合のプロジェクトだったことは、歴史的によく知られているが、ヘーゲルに代表されるような思弁哲学において〈本〉は、〈知の綜合〉そのものだったからね。『ポストモダンの条件』[32]でリオタールが言う「大きな物語」とは、歴史的には、最初に「百科全書」という「大いなる書物」による〈啓蒙〉の言説だった。
 ソシュールが〈本〉の外に措定した〈音声〉のエレメントが、アルファベットの表音文字体系を通して〈本〉の「現前の形而上学」をも動機づけてきた、というのが誰彼先生の主張だった。フォノグラフという〈テクノロジーの文字〉が、その〈記号〉性を発見させたことが、「音声中心主義」を捉え返すことを可能にしたわけで、そういう意味で、ソシュール革命とは、〈テクノロジーの文字〉の革命だったと石田は考えている。誰彼先生による「文字学」は、「記号学」のプロジェクトを「文字学」のプロジェクトに置き換えることによって、〈テクノロジーの文字〉をふくむ〈文字の一般学〉の地平を拓こうとするものだったと解釈できるというわけだ。
 
M 〈本〉が抑圧してきた〈文字〉や〈テクスト〉の運動を解放しようという意気込みが〈脱構築〉の前衛性だったね。
 いつも自然の全体性と参照関係をつくろうとする〈本〉の観念は、〈文字エクリチュール〉の意味とは根本的に相容れない。〈本〉の観念とは、〈文字〉の破砕的な侵入、「文字」のアフォリズム的なエネルギー、さらには、〈差異〉一般に対して、神学とロゴス中心主義を保護しているものなのである。私たちが〈本〉と〈テクスト〉とを区別するとすれば、今日あらゆる領域で起こりつつある〈本〉の破壊は、〈テクスト〉の表面を裸出させるものなのである。

 〈本〉が破壊され、テクストの表面が裸出する。〈作品〉や〈作者〉に疑問符が付されて、〈テクスト〉の一義性が否定され、「テクストの外にテクスト外はない」とされる。そういう意味では、〈本〉の脱構築は、一貫した戦略として遂行されたといえるね。ある意味で、ソシュールに始まる記号学が導入した、〈本〉の〈外〉が、〈テクスト〉として裸出したのだともいえる。
 じっさいに、二十世紀を通じて、メディア革命は、そのように進行したようにもみえるね。ところが、その「裸にされたテクストの表面」には続きがあった。誰彼先生の企ては、アナログ・メディアの〈テクノロジーの文字〉の革命と対応していると君は考えている。ところが、その同じ頃に進んでいった〈テクノロジーの文字〉の第二革命というのがあって、それが、〈ハイパーテキスト〉だったね。


Ⅳ 電子の〈文字〉と〈文字空間〉


電子の文字

I そう、このあたりからが、君の本当の出番なんだけど。
 〈文字〉が〈電子の文字〉となることによって、文字通りの〈脱構築〉が可能になったかに見えた時期が一瞬あった。暴利取Bolter博士の『文字空間』の第一版が出た頃だね[33]。この本はその後、第二版で改悪されてつまらない本になってしまったけれど、第一版は面白いものだったとぼくは思うのだね。ぼく自身は共感できるところが多い本だった。例えば、記号論の位置についての次のようなくだりとか。

コンピュータが約束するのは言語とコミュニケーションに関する記号論的な観点の具体化である。つまり、パース、ソシュール、エーコといった人びとの観点である。そしてこれは驚くにあたらない。記号論そのものが、コンピュータを生み出したのと同じ知的な力の産物だからだ。それには、記号論理学、言語学、哲学も含まれる。コンピュータは数学的、言語的、図像的、いかなる形であるにせよとにかく、記号を創造し操作するためのマシーンである。コンピュータ・プログラミング、否それどころかコンピュータによってなされるあらゆる種類のライティングや読解は実のところ応用記号論の実践なのである。[34]

さらに次のくだりも。

記号はいつもメディアに根ざしている。記号は多かれ少なかれ或る一つのメディアの特質に依拠していると言える。程度の差こそあれ、記号は別のメディアに移植されうるだろう。だが、メディアを持たない、すなわち特定のライティング・スペースを持たない記号は存在しない。このことは、記号が、それが書かれる表面と書き込む道具を考えに入れなければ、ライティングの本性を理解できない、ということにほかならない。[…]コンピュータは際立って、流動的なライティングが書き込まれる表面であり、書き込むための道具であることによって、記号に大きな影響を与えるのである。記号過程セミオーシスとは、参照作用acte of referenceにおいて、一つの記号から別の記号に移動することだが、コンピュータの中でそれは具体化しており、まさしくそのように具体化されていることがライティングの歴史においてユニークなのである。コンピュータでは、記号は記号論の研究者が期待する通りに振る舞う。コンピュータ。メディアの中では記号論は自明になる、いやまったく当たり前の真実になる。活字本のようなかつてのメディアでは、記号は単に潜在的にのみ他の記号を参照していた。しかし、自ら読みかつ書いているように見えるテキストとしてのコンピュータは、それ自身の記号論をも提供しているのである。[35]

ここのところなんかは、読んでいて我が意を得たりといまでも思うところだね。ぼくの持論は、コンピュータは「記号論マシン」であり、コンピュータというメディアは、メディア×メディア、すなわち、メディアの二乗だというもの、メディアの再帰化のマシンだ、というものだが、ここから、面白いことがいっぱい出てくると同時に、今の世界の問題点もはっきり見えてくると思えるのだね。

M それは、端的に、コンピュータ以後の世界において、記号はプログラムである、というふうに言い表せるわけかな。

I そうだね。コンピュータにおいては、二つの〈文字の解放〉-- 理想化-- が起こっている。ひとつは、文字の電子化。すなわち、文字を消したり点けたりすることができるようになった。一箇所に書いてもそれが消えて別のN個の箇所に瞬時に-- リアルタイムで-- 書き写すことができるようになった。二つ目は、文字が数字になった。こちらは計算論化で、つまりは、究極的にはすべてが0と1で書かれるようになった。このことの御利益は、すべての文字は他の全ての文字との関係づけのみによって定義されるようになった。誰彼先生が、「シンタクティクスのセマンティクスに対する還元不可能な過剰」[36]と呼んでいた事態が理想状態で実現したわけだ。この二つの御利益で、文字は場所から自由になり、N次元の〈潜勢的な頁〉を持つようになった。
 このうち、二つ目の原理の発明は、ハノーヴァーの来仏尼陀Leibniz師が起源で、それがかれの「普遍記号法」。一つ目についていえば、その工学的な発明はフォン・ノイマン型マシンということだと思うね。
 この問題は、フロイトも考えていたアポリアで、どうしたら、書いた文字を保存したまま、同時に新しい文字を同じ表面に書き込むことができるかを、かれは考え続けていた。かれの「不思議のメモ帳についてのメモ」[37]がその代表的な論考だね。そして、それは、「心の装置」をいかにモデル化するか、という問題ともつながっていた。石田がそれについては書いているね[38]
 
M あの石田の論文なら読んでいるよ。フロイトの「不思議のメモ帳」は、「私板」の一歩手前にある「心の装置」のモデルだという論考でしょう。じっさい、「私板」は、いまでは人間の心の補助具となってしまっているからね。僕のAnarchiveも「私板」を通して見るわけだし。第二の「計算論化」が、フロイトにはないね。つまり、フロイトはアナログ・メディアの革命期に属している、というわけだね。
 他方、暴利取博士の議論にしたがうと、コンピュータによる〈参照〉は、パースのいう記号過程であって、記号列の関係づけによる連続から成り立っていると。パースのいうように、心は記号の連続による推論だというわけだが、その推論はコンピュータにおいては〈計算〉である、ということになるね。

I そうなんだね。図書館に「リフェレンス(参考)係」ってあるでしょ。コンピュータの〈参照〉というのは、リフェレンス係の仕事と同じで、ああ、その本ならあそこの部屋のあの列のあそこの棚にあります、ということをやっているのだよね。本に書かれていることが分からないので、これはどんな意味なんだろうと訊きに行くと。そのテーマやその言葉ならこのような別の棚のこの辺りの本に出てきます、と、延々と答え続けてくれる、とても親切な司書みたいなものを想定するといいわけだよね。でも、ぼくが知りたい言葉の意味とか知識の中身とかは決して教えてくれない、そういう仕組みになっていると思えばよい。
 それこそがコンピュータに媒介された〈普遍図書館化した世界〉の原理なのだけど、みんなそれを忘れているのではないか、ということで、ぼくは「コンピュータを図書館に戻す計画」というのを構想していたんだ、僕がこの大学で新図書館計画を行っていた頃は。それは、あの美輪朝宏三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」に想をえたプロジェクト「逆シミュレーション図書館」で、全図書館員が、コンピュータの動作を、ヒトのレフェランス係の動作として「実行」する「演算」で、毎月、図書館蔵書整理の日には、全図書館員総出で「かえしませ」と命名された儀式を行うことを制度化しようという改革だったのだけど、全学図書行政商議会で私の図書館改革に反対する反動勢力によって否決されてしまった。「知性の改革」はいつの時代も難しいのだね(泣)[39]

M 暴利取博士は、この第一版では主に「ハイパーテキスト」を議論していたわけだけど、ハイパーテキスト論のどこがまずかったですかね。

ハイパーテキスト

I 時間と空間との両方に関して、「ハイパーテキスト」と「フレンチ・セオリー」との相性はあんまりよくなかったように思うのだね。つまり、そこには、美しき誤解というよりは、成就されなかった婚礼というようなものがあった、と。

M (興味を示して) といいますと・・・

I 暴利取博士と同時代にやはりハイパーテキストをさかんに称揚した文学者に常時乱道George Landow教授がいたことを覚えているかな。彼は、1992年にこんなことも書いていた。

コンピュータの設計者がデリダの『弔鐘』や『文字学について』 を手に取るとすればハイパーテクスト論者としてのデリダを発見するだろうし、文学理論家たちが『リテラリー・マシン』を手に取れば脱構築派やポストモダニストとしてのネルソンを見出すだろう。数十年にわたって文学理論とコンピュータ・ハイパーテキストは相互に一見無関係な探究分野において、ますます同じ方向へと向かっていたことになる。[・・]お互いを知らずに、それらの分野での書き手たちは、重大な変化にある現代的なエピステーメの転換を示しているのである。[40]

 現代批判理論とテクノロジーが手を携えて、「文字空間Writing Space」のユートピアを語りうる条件が整えられつつあるという予感が、垣間見えたかに思えた瞬間だったね。

M 尼爾森鉄人Ted Nelsonのようなコンピュータ・ヴィジョナリーの革命と、誰彼先生や把瑠都の脱構築や新批評ヌーヴェル・クリティークの出会いは、スリリングなものだったと思うんだけど、いまは「黙示録の四騎士GAFA」が支配する、反動の時代で、「夢機械Dream Machine」の夢が忘れられているからではないかな。
 鉄人Tedが考えていたような「ハイパーテキスト」であれば、もっと、誰彼先生や把瑠都に近いところまでWWWが降りていくことができたと僕は思うのだがね。
 「文学機械Literary Machine」のようなハイパーテキストであれば、あらゆるドキュメントのヴァージョンがパラレルに成層していて、そこから、新しいドキュメントが生成していくダイナミズムまでが、アーカイヴ的な記憶の成層圏を作り出していたのだと思うね。でも、柏納豆添李Tim Berners-Leeが提案したWWWのハイパーテキストはあくまでも結果ヴァージョンを指し示しているだけの、一方通行のN次元マトリクスなんだね。いまのhtml httpWWWのハイパーテキスト空間では、抽象的でリニアーな時間が光にちかい高速で流れている。同時に、その時間の流れは、電子の流れとして無限のメモリに溜め込まれていっている。

I それでは、テクストがその裡に折り畳んでいる生成的な襞や、頁をめくったり戻ったりという時間の〈遅延〉の痕跡も消されてしまう。そうなるとテクストのヴァージョンを生み出す、生成的な層の運動は切り捨てられていることになるね。
 むかし栗捨婆Julia Kristevaが、「生成テクストgeno-texte」 と「現象テクストpheno-texte」を区別したことがあったけれど[41]、いまのハイパーテキストは、pheno-hypertexteであって、geno-hypertexteが見えないし、真にクリエイティヴなその部分が活用できないというわけだね。これでは、ほんとうの潜勢態virtualityとはいえない。ぼくたちは、WWWを批判して、もういちど、「コンピュータ・リブ」[42]を行う必要があるね。
 僕はそこにこそ、ハイパーテキスト論のアポリアがあったと思うのだね。ハイパーテキスト革命自体が、「裏切られた革命」とはいわないにせよ、「未完のプロジェクト」であるという。「成就されなかった婚礼」といったのはそういう意味なんだ。
 僕の図書館計画は、だから、いまの偽の「普遍書図書館World Wide Web」を脱構築して、真に創造的な新しい「普遍図書館」を構築する計画だったわけだが、このけちな国のこのけちな大学ではその構想力が理解されることはついになかった。

真の「普遍図書館」計画とは、 

M その真の「普遍図書館」計画なんだけど、それは、この肖像画をいつも君が部屋に掛けている来仏尼陀Leibniz師の構想に戻ろうというようなことなのだろうね、現代の「普遍記号学者」を名乗る君のことだからね。ムヘヘ

I そうなんだ。Memexってあるでしょう。僕たちのコンピュータ端末はそこから淵源している。そこから、WWWのようなネットワークに接続しているすべての端末がモナドであって、その固有の視点からすべての端末とむすびついて全体を反映しているというモナドロジーの宇宙が発展してきた。
 ところが、これまで僕たちが話してきたことは、来仏尼陀Leibniz師のモナドの構造についての問いを立てることをあらためて求めているといえるね。暴利取教授は、コンピュータ・マシンの構造はあらゆるレヴェルで「二分法(dichotomy)」から成り立っていて、ハイパーテキストにおける「参照」は、記号の記号への回付としての「記号過程セミオーシス」であって、それぞれの記号はそのアドレスの「ロケーション」ではあっても「値」とは無関係だといっていたね[43]。これがシンタクティクスとセマンティクスの区別だ。コンピュータにおいて、すべては、したがって、メタファー、つまり、転位である、と。それは記号論の実装ではあっても、記号にはセマンティクスは、仮想的(アブダクティヴ)にしか働いていないセミオーシスなのだという主張だよね。「力動的対象」から「表意体リプレゼンタメン」へのセミオーシスは、事後的にしか成立しないという。
 WWWに接続した記号論マシンとしてのコンピュータ端末は、そのようにして、モナドとして、すべてのモナドの宇宙を反映している。でも〈襞〉がまだだいぶ不足している。さっき言った、生成的な部分の襞が足らないと思うのだね。これでは、ブッシュがいっていたような「私たちが考えるようにAs we may think」にはならないし、鉄人がいうような「私たちこれから考えるようなAs we will think」道具にならない。来仏尼陀Leibniz師のモナドロジーの宇宙からはまだ相等に遠いように思うな。

M それは思考の道具としては、コンピュータは紙の本に大分劣るということかな。

I うん、その〈思考〉しつつ〈読む〉という部分-- そして潜在的に〈書く〉という部分も-- については、そう思うね。紙の本は、さっきもいったように、眼球運動の行ったり来たりに始まって、頁を読み返したり、徴をつけたり、書きうつしたり、メモやノートをとったり、本の厚みを触ったり、本を閉じたり拓いたり、複雑な進退所作で操作して読んでいるわけでしょう。そうした時間-空間の無数の〈襞〉のなかで読む活動は繰り広げられているわけだ。本をよむ活動は決して抽象的なリニアな時間ではないから。

M 暴利取教授は、「電子的なライティングは[・・・]「書物」と「百科全書のような大きな形態」と「図書館」という区別を崩してしまう。そしてこうした区別を崩して「書物」 と「百科全書」と「図書館」を一緒にしてしまう[・・・]」[44]と書いているね。じっさい、すべての「書物」はデジタル化されて全文横断検索をかけることができるようになり、そうなると書物を横断して知識をまとめ上げていたメタ書物としての「百科全書」との階層的な区別が消えることになり、すべての書籍を収めた図書館とは、じつは、巨大な一冊の書物と等価である、ということになるわけだね。

I そう、そうまさにそれこそ、WWWが実現した全ての宇宙規模の「普遍図書館」化なわけだけれど、それは、来仏尼陀Leibniz師の構想とは、まったく逆と思えるね。かれは次のように書いていた。

 その図書館とは、一般目録、記憶力の軽減、印刷物集蔵庫、最も偉大な人物たちの最も優れた思考の要諦であるべきである。私のもくろみは、図書館の書物の集積において、百科全書、すなわち三室ないし四室に集められた普遍学を揃えるということであり、ひとはそこからかつての知識の総体、および想像しうる有益なあらゆる学知について知識を必要に応じて引き出すことができるようになる。

つまり、ここでの図書館は、最も偉大な知性の思考のエッセンスの目録、要諦、普遍学による知の体系化だとされていた。
 さらに、来仏尼陀Leibniz師には、情報の氾濫は、野蛮への転化を招来することになるという警告も読める。かれの「百科全書」は、ディドロ・ダランベールの百科全書の原型だから、啓蒙の弁証法の原図がここにはあることになるね。そして諸学を整理する「普遍学」というところが、普遍記号法をベースにした知識学、普遍数学ということだね。ところが、啓蒙の弁証法がどんどん進化していって、普遍学も一方で情報学(もう一方は記号学)となり、普遍数学はコンピュータ工学となり、日々増殖し続ける無数の頁を頁くんの会社が刻々と「あらゆる情報を組織し整理する」[45]時代になった。

M 頁クンのクローラー・ロボットが頁を読むようになって、リンクを収集して、「頁ランク」のように、その日ごとの読むべき頁の序列を編集するようになった。これではウェブをボトムアップ型のコミュニケーションが発達するメディア基盤にはしないね。あらゆる頁が上位の頁を指さすようつくられているわけだからね。

I 現在のハイパーテキストのリンクは、無数のヴァージョンを多襞的マルチプルに繰り広げるのではなくて、一方向へとコミュニケーションの流れを累乗的に誘導していくことにしか役立っていないのではないか。鉄人Ted Nelsonのいうことは正しいと思うね。日々増殖し続ける全ての〈頁〉の編成を日々刻々と整理し続けていく、巨大な権力が、頁君の「図書館計画」からは出現したわけだね。
 同じことは、「本屋Amazon」のリコメンデーション・システムにもいえるし、「顔の本facebook」にも言える。
 また意識の流れと短期メモリだけで駆動できる「呟きtwitter」のような書記メディアも登場した。これらは、紙か電子かという、本の未来をめぐる矮小化された議論を超えて、いまや原理において〈普遍図書館化〉した世界における「図書館問題」なわけだよ。

Ⅴ 「AR」の部屋


I 君の「留守家ルスカの部屋」のレーザー光線ビームのようなコンピュータの光速度の電子の明滅によって、僕たちの時空間はスキャンされるようになってきている[46]。これも、ソシュールが〈電話モデル〉で言葉を考え始めたときから、そうなったわけだけど、文化を「共時態」としてスキャンするという計画が二十世紀には進められて、「通時態」が消される傾向が生まれた。
 君の「Beyond Pages」が示したように、本は、 電子的な「超 頁」と重ね書きされうるようになってきている[47]
 君の『モレルのパノラマ』が示したように、表象も記号列に置き換えれば内からも外からも見ることができる帯に替えることができる[48]
 君の『生きてる叫びVoices of aliveness』みたいに、時空のなかの〈生の叫び〉を彫刻化することもできるようになった[49]

M そんなふうに、「ハイパーテキスト」は、「ハイパーメディア」化へと進み、ここにまた、図書館化した世界にとって巨大な問題系が現れたわけだね。僕の〈本ではない本Anarchive N6〉は、じつは、この問題を考えてもらう取り組みなんだね。〈AR〉という技術をことさらに選んだのは実はそこなのだね。

I 『襞、ライプニッツとバロック』を書いた度怠男Gilles Deleuzeのいうように、バロックの時代の〈モナドの部屋〉は二階建てになっていて、地階では、質料の襞が、形として上階へと登っていくという構造になっている[50]。そこが、質料とか身体や本能とかのレヴェルと考えればいい。つまり、知覚-表象系の部屋は地階で、上階は意識-思考系の部屋とまあ考えればいい。
 来仏尼陀Leibniz師と度怠男Gilles Deleuzeは、〈本〉や〈読書室cabinet de lecture〉もモナドとしてとらえていて、これを今の時代に移すとすれば、それらすべてはデジタル建築と化していると考えてみよう。

M なるほど、思考実験の部屋をつくってみようということだね。「中国人の部屋」ではないとしても。

I 図書館を創ることはならなかったので、最近は田舎に隠遁して書斎の人になっているのでね、ライプニッツ、ドゥルーズにちなんだ「光の襞の家」に引きこもっている。で、そこを、思考実験の部屋にしようというわけさ。

M なるほど、なるほど。

I で、ここでの思考実験は、この君のARの〈本とは言えないかもしれない本〉を、〈未来の本〉と仮定して、その〈モナド〉の延長上で、宇宙と同値となった〈普遍図書館〉を映し出してみようという〈モナドロジーの試み〉なんだ。
 まずARなんだけどさ。僕の理解では、これはAugmented Reality というよりは、Augmented Readingと理解すべきなんだね。ここでRealityとして指されていたのは、〈紙の本〉ということでしょう? 紙の本は、Readingのための〈時間対象〉なのであって、リアルな空間にあるモノのリアリティとはちがうモノだよね。

M その通り。〈本〉は、石ころや草木や土のようなthingsという意味でのリアリティではない。君が今日言ったように、本は自然界のなかの記号を文字の記号に転化した記号のシステム、記号論的対象なわけだね。そのReadingのための対象instrument=モノを拡張するのがAugmented Readingのためのこの〈AR本〉というわけなんだ。

I うん、うん、いいね。
そこで、この〈AR本〉を〈未来〉の本と仮定すると、そこから補助線を引くと、その延長上で、いまの時代の〈モナドの部屋〉を構想することができるとおもう。
 いまでは、この世のすべてのエレメントは、ルクレティウスの原子のように、デジタルな電子粒子となって流れている。そして、君の「留守家ルスカの部屋」のレーザービームのような電子の明滅によって、僕たちの時空間はリアルタイムでスキャンされて〈像〉がつくられている。その像のつくられかたは、もはや、人間の目を通したものとは限らなくて、君の「モレルのパノラマ」のように、僕たちがいま見ている360度の四方のパノラマを同時に外側からも見ることが出来てしまうし、君のヴァーチャルな体を「無分別な鏡Unreflexive Mirror[51]に映し出してみることもできてしまうし、喜怒哀楽の「生の叫びVoices of aliveness」を実世界時間の彫刻の中に標本化することもできてしまう。これらすべての知覚と表象が可能になったのは、痕跡がデジタル化して、プログラムをとおして変換し、高速レンダリングできるようになったからだよね。つまり、計算マシンによって、僕たちの感性的経験をつかさどる知覚・表象器官のデジタルな補綴が可能になって、僕たちの感性的経験の成立条件が変容した。
 これを石田の「記号の正逆ピラミッド」の図式で解説すると、「逆ピラミッド」の部分が、このデジタルな補綴=前定立prosthesisを担当しているわけだよね[52]。これが、われわれの時代のモナドのメディア・コンディションということになる。

M そうだね、来仏尼陀Leibniz師の時代には、これがバロック様式でできていたから、光学装置がメディア基盤をつくっていたわけだね。度怠男Gilles Deleuzeがデッサンしているようにね[53]。知覚を表象に変える感覚器官の補助具としては、カメラオプスキュラとかレンズを使った遠近法とか鏡によるアナモルフォーズとかが基本技術になっていた。バロックの家には、地階の小さな孔から光が透過して五感に知覚されて表象に換えられていた。

I ところで、そうした〈身体〉の部分を地階だとすると、そこから間接光として採光された光が、階上の〈心〉の方へ昇っていく。そこには「幕」が張られていて、その幕には生得的な「襞」が・・・というのが、ライプニッツの持論だったよね。『新知性新論』のこの箇所だね[54]
フィラレート 知性は真暗な小部屋に似ていなくもありません。どんな小部屋かというと、外的で可視的な像が外から入ってこられるためのちょっとした小さな幾つかの孔があるのみの部屋です。そこでもしこの暗い小さな小部屋に彩りをそえるためにやってくるこれらの像がそこに残り、秩序正しく置かれ、機会に応じて見出され得るとしたら、この小部屋と人間知性との間には大きな類似がありましょう。

テオフィル その類似をもっと著しいものにするにはその暗室の中に物事の形質を受けとるための幕があると仮定しなければならないでしょう。そしてその幕は平らではなく、生得的認識を表現している襞によって変化がつけられているでしょう。おまけにこの幕ないし膜は、張られることによって一種の弾性力ないし活動力を持ち、過去の襞と同様に物事の形質の印象に由来する新たな襞に応じた作用ないし反作用をさえ持つでしょう。[・・・]。

M そう、まさしく、この〈モナドの部屋〉の地階から、膜が張られた上階へと「物事の形質の印象に由来する」「襞」が及んでいくというわけだね。ぼくの〈AR本〉にもどると、マーカーをとおして〈私板I Pad〉が読み込んでいた「像」が、折り畳まれた〈本〉の「襞」のなかに取り込まれていくという、そういうプロセスを考えればいいのかな。

I そうだね。石田の図式でいうと、そこは、「正ピラミッド」の部分で、マーカーという指示子indexからはじまって、iconから文字letterへと読み込まれていく過程だと理解することができるね。つまり、この君の〈AR本〉が、その内部に潜めている、〈モナド構造〉があって、ハイパーメディアからハイパーテキスト、さらに電子の本から紙の本へと、連続的に、〈読み〉のプロセス-- それをパースであれば「解釈作用」と呼んだだろう-- を成り立たせているわけだ。

M なるほど、君のいうAugmented Readingの意味がよく分かった。ハイパーメディア、ハイパーテキスト、電子の本、紙の本を貫いて、読みのセミオーシスを成り立たせるのが〈AR本〉というわけだね。
 本が折り畳まれているということが、記憶の襞をつくる仕掛けだということだったけれど、たしかに、本は読み込めば読み込むほど、よれよれになるほど、皺つまり襞が重ねられていって、何度も読まれるということは、それだけ固有な襞がつけられていくということだということはわかった。これは、電子のハイパーテキストに置き換えると、鉄人Ted Nelsonがいうように、それぞれの文書の読みの回がそれぞれ固有のヴァージョンであって、読みこむほどに、あるいは注釈をつけ、あるいは関連ドキュメントとリンクを重ね、あるいは上書きされるなどして、ハイパーテキストも読みの層と道筋を多数化していくということを意味しているね。そのように襞を重ねることで、モナドは明るさを増していく、と。ま、こういうわけだね。

I そうなんだね。だから、君の〈ARの本〉から外挿すると見えてくる、〈モナドの部屋〉のイメージがこれではっきりしてきたと思う。フィラレート、つまり、ロックは、心は何も書かれていない石板(タブラ・ラサ)のようなものだと捉えていた。〈私板I Pad〉には何でも映し出すことができる、という経験論の立場だね。ところが、テオフィルの考えでは、その部屋が「人間知性」の装置になるためには、そこには「生得的」および「新たな襞」が折り畳まれている必要がある。〈私板I Pad〉に任意の像やテキストを受けとっているだけでは、「人間知性」にはまだ不足しているというわけだよね。

M だから襞が必要である。あるいは、鉄人Ted Nelsonの「上都Xanadu」計画のように、双方向的なリンクによるハイパーテキストの複襞complex化が求められる。そのとき、はじめて、〈モナドの部屋〉が見えてくる。

I ところが、ぼくたちの〈私板I Pad〉はまだ、スレート状で、そこから、「黙示録の四騎士GAFA」の支配が進んでいるわけだ。書物が解体され、頁にバラバラにされたあげく、図書館も百科事典も書物も区別がつかなくなり、数理統計的にデータ処理される情報の流れに人びとが押し流されて、サーチエンジンを手掛かりに誘導されていく。そんな世界に行き着いてしまったのだが、この〈普遍図書館化された世界〉なんだ。

M で、どうすればいいかだが。君に考えはあるの?

I コンピュータにおける文字の理想化すなわち解放という、〈電子の文字〉と〈数字〉の話をしたよね。フロイトは、この問題に生涯こだわっていたんだね。かれの「失語症」論や「フリースへの手紙」という最初期から、『夢解釈』、そして、「不思議のメモ帳」論、あるいは「快感原則の彼岸」をへて後期の著作へとね、一貫してこの痕跡の「転記」の問題と痕跡相互の「連合」つまり「無意識」のリンクの問題は、フロイトのが「心の装置」を理論化するうえでつきまとっていた問題なのだね。それで、〈私板〉のような〈不思議のメモ帳〉を理想化したような装置を現代人は〈心の補助具〉とするようになった。
 ところが、先日亡くなったあのイタリア記号学の巨匠は、マッキントッシュというのはプロテスタントだ、という有名な喩えを残した人でもあるんだね。〈私板〉がスレート状で、その表面にいろいろな書き込みをシステムの方ができるとすると、それは、あのフィラレートの立場を具体化するためのインタフェースだと思えてくる。つまり、ジョン・ロックの「心はタブララサされた石板である」というね、そのアングロサクソン的な伝統の延長上で今日の〈普遍図書館化WWW〉は起こっていないだろうか。もし心が〈心の装置〉を通してタブララサ可能で、システムの方が書き込み可能だとしたら、現在の〈普遍図書館WWW計画〉は、全体主義に向かっている可能性が高いね。
 他方で、テオフィルの立場はひどくカトリック的なもので、心は石板ではなくて、〈襞をたたえた幕〉であるという立場だったよね。ぼくたちの対話でも語られてきたように、〈心の襞〉との界面を作りうるのは、タブララサ可能な平板な石板よりは、いつも折り畳まれ、しわくちゃになるまで襞を蓄えることができる〈紙〉なのだと思うね。それで、君のAR本が示しているように、〈私板〉との界面には、やはり当面のあいだは、襞をたたえることができる〈紙の本の頁〉が来なければいけないと思うね。それが、君が〈拡張読書Augmented Reading〉装置としてこの〈本〉をつくった狙いだったのではないかな。これからの〈本〉は、〈紙の本〉を〈電子の本〉で拡張する〈拡張された読書〉のための本である。電子時代の〈本〉はそのような〈心の襞〉の補助具でなくてはならない、と。それこそ、新しい時代に〈人間知性の改革〉へと導く道だとぼくは思うね。




 






[1]Este estudio es una ficción al estilo de Borges. Los personajes y organizaciones están relacionadas de alguna manera con personalidades y organizaciones reales.
[2]本論考では、記述に必要な場合に限り、「変態万葉仮名」で外来語や固有名を記している。読み方が分かりにくいときには原語ローマ字あるいは現代漢字と現代仮名遣いをルビで示してある。
[3]本論考では、カギ括弧(「」)と山括弧(〈 〉)を区別して使用している。カギ括弧は引用であり、山括弧は、自明性につき留保を付けて読まれるべきキーワードを括っている。
[4] Sergey Brin and Lawrence Page The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine
 Computer Science Department, Stanford University, Stanford, CA 94305    
 http://infolab.stanford.edu/~backrub/google.html
[5]Erez Aiden and Jean-Baptiste Michel  UnchartedUncharted: Big Data as a Lens on Human CultureRiverhead Books 2013 邦訳エレツエイデン(), ジャン=バティーストミシェル(), 高安美佐子(その他), 阪本芳久(翻訳)『カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する』2016年
草思社
[6]Caitlin Dewey , “If you could print out the whole Internet, how many pages would it be?” The Washington PostMay 18 2015
[7]ここでは架空の人物として登場してもらっている「MF」こと「藤幡正樹」は実在している。しかし、ここでの対話はじっさいの「虚構」であり、文中の対話のいっさいの文責は「作中人物」および「作者」にある。
[8]Adolfo Bioy Casares La invención de Morel アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』水声社2008年)
[9]藤幡正樹「モレルのパノラマ」
[10]Anarchive n°6 - MASAKI FUJIHATA, Éditions Anarchive, Paris, 2016 ISBN 978-2-9518132-3-6
[11]Anne-Marie Duguet ANARCHIVE - Archives numériques sur l’art contemporain,http://www.anarchive.net
[12]藤幡正樹「Beyond Pages
[13]石田英敬「これは本ではないCeci n’est pas un livre. This is not a book.in Anarchive n°6 - MASAKI FUJIHATA, op.cit.
[14]Umberto Eco, Jean-Philippe de Tonnac, Jean-Claude Carrière: N'espérez pas vous débarrasser des livres, GRASSET 2009 邦訳『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』CCCメディアハウス2010年
[15]原書pp.16-17(邦訳24頁、訳文を一部修正)
[16]Marc Azéma, La Préhistoire du cinéma. Origines paléolithiques de la narration graphique et du cinématographe
Paris, Errance, 2011
[17] Mark Changizi, The Vision Revolution: How the Latest Research Overturns Everything We Thought We Knew About Human VisionBenbella Books 2010 邦訳マークチャンギージー(), 柴田裕之(翻訳)『ひとの目、驚異の進化四つの凄い視覚能力があるわけ』–2012
[18]Mark A. Changizi,,  Qiong Zhang, Hao Ye, and Shinsuke Shimojo, “The Structures of Letters and Symbols throughout Human History Are Selected to Match Those Found in Objects in Natural Scenes”, vol. 167, no. 5 the american naturalistmay 2006
[19]Stanislas Dehaene : Reading in the Brain: The New Science of How We Read ,Viking Adult, 2009
[20] Edmund Husserl Vorlesungen zur Phänomenologie des inneren Zeitbewußtfeins
[21] Alan Baddeley Working Memory, Thought, and Action, Oxford University Press, 2007
[22] Peter Mendelsund What we see when we readVintage 2014 邦訳『本を読んでいるとき何が起きているのか』細谷由依子訳フィルムアート社2015
[23] Michel Foucault L’archéologie du savoir, Gallimard 1969 ; Jacques Derrida Mal d’archive : une impression freudienneGalilée 1995
[24]Roy Harris Signs of WritingRoutledge 1995, p.6
[25] Winfried Noth Handbook of Semiotics Indiana Univ Pr 1995 ; Paul Bouissac Encyclopedia of Semiotics  Oxford Univ Pr 1998 ; 坂本百大磯谷川野太田幸夫『記号学大事典』柏書房2002
[26] Teodor Zbierski Semiotyka ksiazki  Wrocław : Ossolineum, 1978 邦訳 T・ズビエルスキ『書物の記号論』谷口勇訳、創樹社1983
[27]石田英敬『大人のためのメディア論講義』ちくま新書 2016年
[28]Sylvain Auroux La Sémiotique des Encyclopédistes : Essai d'épistémologie historique des sciences du langage Payot 1979
[29]Jacqus Derrida De la grammatologie Minuit 1967
[30]Jacques Derrida La dissemination Seuil 1972
[31]Jacques Derrida GlasGalilée 1972
[32]Jean-François Lyotard La condition postmoderne Minuit 1979
[33]Jay David Bolter Writing Space: the Computer, Hypertext, and the History of Writing Lawrence ErlBaum Associates 1991 邦訳『ライティングスペース―電子テキスト時代のエクリチュール』ジェイ・デイヴィッドボルター(黒崎政男他訳産業図書1994
[34]同書341-342
[35]同書342-343
[36]La disséminationop .cit. p.250
[37] Sigmund Freud « Notiz über denWunderblock ‘»1925 「『不思議のメモ帳』についての覚え書き」 本間直樹責任編集『フロイト全集18 1922-24』岩波書店 2007
[38]石田英敬(編集), 吉見俊哉(編集), マイク・フェザーストーン(編集)『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』第4章「〈テクノロジーの文字〉と〈心の装置〉:フロイトへの回帰」東京大学出版会、2015 pp.95-131
[39]  三輪眞弘『三輪眞弘音楽藝術全思考一九九八-二〇一〇』アルテスパブリッシング 2010
[40]George P. Landow Hypertext  The Convergence of Contemporary Critical Theory and Technology The John Hopkins University Press 1992 p.2
[41] Julia Kristeva Semeiotike  une recherche pour une sémanalyse, Seuil 1969
[42] Ted Nelson Computer Lib/Dream Machines Tempus Books/Microsoft Press first edition 1974
[43] ボルター 前掲書 342
[44]ボルター 邦訳 前掲書 146
[45]"Google’s missionto organize the world's information and make it universally accessible and useful" https://www.google.com/intl/en/about/
[46]Masaki Fujihata Rusca’s RoomArt Space Kimura Tokyo 2004
[47]Masaki Fujihata Beyond Pages“The future of the book of the Future”, CIII SFC Keio University Kanagawa 1995
[48]Masaki Fujihata Morel’s Panorama (pseudo-self-reflectiveness) Art Space Kimura 2003
[49]Masaki Fujihata Voices of AlivenessStereolux Nantes France 2012
[50]Gilles Deleuze Le pli, Leibniz et le baroque,Minuit 1988
[51]Masaki Fujihata 「無分別な鏡(Unreflexive Mirror)Art Space Kimura 2005
[52]石田英敬『大人のためのメディア論講義』ちくま新書2016 p.129

[53]Deleuze 前掲書p.7
[54]G.W. ライプニッツ『人間知性新論』米山優訳 みすず書房 一九八七年 pp.113-114

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