メディア分析とディスクール理論
フーコー「言表-モノ」理論をめぐって
石田英敬
「出来事にしてモノであるという言表の逆説的存在…」[1]
I. ディスクール理論のメディア論的契機
20世紀後半以降のメディアをめぐる問題圏においては、<記号>、<技術>、<社会>の次元が相互に分かちがたく結びつき、わたしたちがメディアを考えるときには、それら三つの次元はトポロジーのいう「ボロメオの輪」のようにお互いに内も外もない位相的連続性において現れることになる。すくなくともソシュールによる「ことばの回路」以来、わたしたちはそのような知の枠組のなかでコミュニケーションとメディアを考えるようになってきたのである。そのなかでは、言語学や記号学は、<技術>や<社会>の次元を還元することで、<記号>の次元に特化して人間の意味活動をとらえようとする。他方、社会学のような<社会>の学の方では、<記号>の交換や<技術>の発達・使用の社会的被決定性にもとづいて、コミュニケーションの社会性を主張するようになる。また、<技術>に注目する理論は、メディアを技術ととらえてメッセージを生み出し運ぶメディア技術との関わりにおいてコミュニケーションおよび社会を論じようとする。
フーコーのディスクール理論の場合、メディアをめぐる以上のような問題圏とどのように切り結ぶことになるのか、本稿ではその点について考察することにしよう。
従来、『言葉と物』[2](1966)から『知の考古学』[3](1969)そして『言説の秩序』[4](1970)へといたるフーコーの言説理論は、構造主義的な「記号」の理論を排して、言語・記号活動の歴史的・社会的な実践態としての「言説(discours)」[5]の概念を提唱するものであると受け取られてきた。人間の抽象的言語能力とは区別された、言語・記号活動の歴史性と制度性が認識の対象となったのである。これを社会・文化理論の「言説理論的転回」と呼ぶならば、それは、言語モデルにもとづいた構造主義から、言語モデルがはらむ形而上学的公準を批判し人間の社会・文化知の脱構築へと向かうポスト構造主義の成立のメルクマールのひとつと解釈することもできるだろう。
しかし、フーコーのディスクール理論は、言説自体の自立的で内在的な規則性(フーコーのいう「言説の秩序」)を前提とする点において、むしろソシュールの「内的言語学」以来の「内在主義」を延長するものであるという見方はむしろ支配的である。一時代の言語活動にとっての「言表可能性」は、その時代の言表総体の生産を規定している言説の体制(「言説編成(formation discursive)」に統御されているのであって、その規則性とは言説間あるいは言表間の相互関係を規定している言説生産の内的規則性のことである。このような言説の歴史的内在論が、1960-70年代には言説を社会や文化の「表現」としか考えない従来の歴史研究や社会研究の図式を突き崩す認識論的衝撃となったとしても、1980-90年代以降、文化生産の場やメディア理解が人文・社会科学の理論的探求の焦点となるにつれて、フーコーの理論は、上記の<記号>・<技術>・<社会>の認識論的なトポロジーの環に沿うかたちで、<社会>や<技術>の次元にそれぞれ依拠する他の理論の側からは、<記号>の次元に依拠する「内在主義」として限界を批判されるようになる。いまそれらの立場を二人の思想家に代表させるならば、<社会>の次元に根拠をもとめるP. ブルデューの社会学、<技術>の次元に理論的重心をとろうとするR. ドブレの「メディオロジー」をあげることができるだろう。
ブルデューはフーコーの「知の考古学」を文化的営為の歴史性を言説システム史にのみもとめる「象徴的構造主義」としてその限界を批判する。
[フーコーは]記号学者たち、例えばトリーアのように、「意味場」といった概念を記号学者が使用するのとちかく、「ディスクールの場」に編入されている個々のディスクールを解明する原理を、その「ディスクールの場」以外にもとめることを拒否する。[…]
かくして、かれはその点においてソシュール的伝統とその伝統がうみだした内的言語学と外的言語学とのあいだの断絶に忠実なのであって、かれはあの「戦略的可能性の場」の絶対的な自律性を主張するのである[…]。そのことによって、かれは生産者たちの間の諸関係に根をもっている対立や葛藤を観念の天空へと移しかえてしまう。そのようにして、作品を、作品を生産する社会的諸条件へと関係づけることをいっさい拒絶してしまうのである[…]。[6]
ブルデューにとっては文化作品を生み出す「行為者」によって構成された「文化生産者の場」および行為者それぞれの「ハビトゥス」にもとづく創造戦略のゲームという<社会>の次元こそが言説の生産を説明する原理とされなければならないのである。
他方ドブレが批判するのは言説の非物質性という前提であり、言説の問題の定立を可能にしているメッセージの伝達組織と技術的下部構造にこそ注目すべきであるということになる。
例えば、ミシェル・フーコーの有名な本、『言説の秩序』をとってみよう。[…]実際のところこの分析が理論化しているのは言説の権力の非物質性である。というのも、言説は自らの保護の手続き、禁止、暗黙裡かつ創設的な諸々の分割(理性/狂気、タブー/合法、真/偽、など)などを全面的に自らのうちに体内化しているように見えるからだ。語る者には全てを言う権利はない。厳然たるエピステーメの機能として内在的なコードが存在するからである。[7]
こうしたディスクールの内在主義に対してディスクールの内在性を措定するのではなく、コミュニケーションを可能にする「技術的無意識」を問い、技術が作り出す「伝達」の「物流」と「物質的組織化」に焦点を当てることをドブレの「メディオロジー」主張する。においては、ここで前景化しているのは<技術>の次元の問いである。
以上は<社会>と<技術>の次元にそれぞれ依拠する立場から向けられた<言説>の次元の自律性と中心性に対する批判であり、このような論争の構図こそこんにちフーコーの「知の考古学」を取り巻いている基本的な状況であるといえる。とくに注目したいのは、この論争が、科学史や思想史といった<知>の問題系ではなく、<メディア>や<メディエーション>の問題を浮上させるかたちで起こっていることである。
じじつ言説の理論をめぐる状況は、1960年代後半にフーコーが「知の考古学」を提唱した時代とはほとんど一八〇度逆転している。1969年のフーコーにとっては、ディスクール理論の目標は、一方で記号学的なモデルから文化理解を脱却させることであり、他方ではイデオロギー論から言説の次元を切り離すことでもあった。こうした<言説の次元>の純化は、表象の図式、作者、記号の批判などの一連の複雑な手続きをともなうものであったが、そこではまさに中心的な課題であったといってよい。ところが、その後に起こったのは、大きくいえば象徴論的パラダイムの文明論全般への拡大である。ブルデュー社会学におけるように<社会>は象徴闘争の場として読み込まれる。ル・ロワ=グーラン[8]に出発する最近の技術論[9]のように、<技術>そのものも、意味なしの物質力の問題としてよりは、象徴効果の媒介システムとして読み解かれるようになる。そのときに、象徴化された社会システムや物資化され組織された象徴力の視点から、ディスクールの形式性・観念性が批判されるようになる。<象徴決定>をめぐる上記の三つの問題系の交錯がここでは認識論的な結び目をつくることになるのである。そしてそこに<メディアの問題系>が浮かび上がることになる。
フーコーのディスクール理論について、<メディア論的契機>を問うとは、以上のような問題系の交錯のただなかにフーコーをいまいちど据え直して理解することを意味しているはずである。生前刊行された主要著作を一読しただけではフーコーにはメディア論は存在していないと思われるかもしれない。しかし、本シリーズ第一巻『言語態の問い』[10]においてその一端を紹介したように最近の研究によれば、『知の考古学』の完成へと至る理論化の作業にはメディア論的基層ともいうべき草稿群が存在していることがわかってきた。本稿では、『知の考古学』プレオリジナル稿の読解からこの層の輪郭をやや詳しく提示したうえで、フーコーの「記録態」論のメディア論的射程に検討を加えることを試みることにしよう。
II.言説、言表、記録態
『知の考古学』刊行版におけるフーコーのディスクール論は、二つのレヴェルにもとづく理論構成から成り立っている。1)一つは、「言われたこと(choses dites )」一般をマクロな集合のレヴェルでとらえる「言説 discours 」の理論であり、第II章「ディスクールの規則性」にまとめられている。「ディスクール」とは、ある時代において「言われたこと」を秩序づけている規則の体系であり、それぞれのディスクールは固有の「対象」、「言表様態」、「概念」、「戦略」の形成をともなうものであるとされる。ある時代において言われたことの総体は、その無数の言われたことを歴史的・文化的に統御しているディスクールの単位によって括ることができるとされる。2)それに対して、個々の「言われたこと」に関わるミクロなレヴェルは、決定版では第III章「言表と記録態」にまとめられた「言表 énoncé」の理論である。言説を構成している個々の「言われたこと」の最小単位、「言説の単子」であるとされる「言表」は、言語学的な文(phrase)とも、論理学的な命題(proposition)とも、言語行為(speech act)とも区別される記号の存在であり、言表とともにはじめて言語・記号現象が存在しだすという意味で、言表の働きとは「存在機能(fonction d’existence)」であるとフーコーはいう。言表によって記号は時空間のなかに存在しはじめる。言表は文法や論理や言語行為が成立するための前提として言語・記号活動の実定的な基盤をつくっている。
言表とはしたがって構造[…]ではない。言表とは記号に固有に属する存在機能であって、この存在機能を起点にしてその後はじめて、ひとは分析や直観を通じて、記号に「意味があるのかどうか」、どのような規則性により記号が連続したり併存したりしているのか、記号は何の記号となっているのか、記号を表現することによってどのような行為が実行されているのかを、定かにすることができるのである。[11]
「言説」は言語・記号活動のミクロな単位としての「言表」の集合として存在し、さまざまな言説はさらに集合して編成されることによってひとつの歴史的時代の「文化」は「言説編成体(formation discursive)」として成り立っている。このような二つの部門から成る理論構成によって、フーコーの「知の考古学(l’archéologie du savoir)」は、他の諸学との境界を画定しようとする。歴史学、観念史、科学史、心性史などとの境界を確認するのは「言説」の理論の役割であり、とくに言語・記号活動の理解にかんして言語学、論理学、言語行為論などと基礎理論上の区別を確認するのが「言表」の理論の役割とされている。
ところが、フーコーの理論には、もうひとつの基底的な次元が存在している。それが「知の考古学」の「考古学(archéologie)」語源となっている「記録態(archive)」論である。言説も言表もイデアルな実体として中性的で均質な「言説の表層」としての本の頁のうえで「言説編成」を繰り広げているわけではない。ある時代のディスクールの実定性とは、けっして紙の上の言説の実践ではなく、紙というメディアのうえに書かれたものとしての言表だけが構成するのではない。話されたものとしての言表、石の上に刻まれたものとしての言表、ラジオで放送されるものとしての言表、などなど、言表においてはさまざまな異質な存在様態がせめぎ合い、お互いに一致しない固有の規則や実践が入り組んだ複雑な厚みをなしている。そのような言説実践の領域を「記録態」と呼ぶことをフーコーは提唱する。『知の考古学』刊行版第II章のV「歴史的アプリオリと記録態」で、フーコーは「記録態」の概念を次のように提起している。
歴史の偉大なる神話的書物のうえにかつて他の場所で構成された思考が目に見える文字となってつづられるのを目の当たりにするのではなく、言説実践の厚みにおいては、言表を(出現の固有の条件と領域をもつ)出来事および(使用の固有の可能性と領域を備えた)モノとして成立させているようなシステムをひとは相手にしているのである。そうした(一方では出来事であり、他方ではモノである)システムすべてのことを私は記録態と呼ぶよう提起する。[12]
『知の考古学』刊行版で「記録態」の概念についてまとまった記述が読まれるのはこれに続く数頁であるが、それを要約すればおよそ以下のようになる。フーコーのいう「記録態」とは、過去の時代が残した古文書の総体を指すのではなく、またそうした資料を保存している図書館や古文書館のような制度一般にことでもない。フーコーの「記録態」とは、それぞれの時代の社会と文化において、「言表」が「出来事」および「モノ」として所属している規則性の体系のことである。ひとつひとつの言表が記号や言語の活動の出来事として出現するとき、その「言表—出来事(l’énocé-événement)」は、それがどのような言説に所属するのか、どのような他の言表との関係において出現した言表なのか、どのような言表とグループをかたちづくり、どのように維持され、あるいは消え去るべきものとされるのか、などなど、様々な規則にしたがっている。「記録態」とはそのように、「言われうることの法則であり、単一の出来事としての言表の出現を統御しているシステム」[13]であるとされるのである。個々の言表の出来事をディスクールの規則に帰属させ、ひとつの時代の「言表可能性のシステム」をつくりだしているとされるこの「記録態」の規則性はしかし「言表—出来事」の出現のレヴェルにおいてのみ働いているわけではない。「記録態」は、言表をモノとして扱う規則の体系でもあって、言表がどのようにモノとして生産され、所有され、どのような持続と使用の形式を指定され、どのように扱われるかという「言表—モノ(l’énoncé-chose)」の体系でもある。
記録態は非活性化した言表たちの埃を受け容れそれらの言表の復活の秘蹟を許すようなもののことではない。記録態は言表—モノの活性様式を決めているものであって、言表—モノの働き方のシステムなのである。[14]
このように「言表—出来事」と「言表—モノ」の両面からなるシステムとして「記録態」はディスクール実践を規則づけているのである。
可能な文の構築のシステムを決定しているラングと、発せられた言葉を受動的に収集するコーパスの間にあって、記録態は固有のレヴェルを決定している。すなわち多数の言表を、それぞれ規則的な出来事であると同時に処理および利用されうるモノとして出現させるような実践のレヴェルである。… 伝承と忘却の間にあって、記録態は言表が残留すると同時に規則的に変化することをゆるす実践の規則を明るみに出すのである。記録態とは言表の形成と変形を司る一般システムのことなのである。[15]
ひとつの時代において「言われたこと」の在り方は、「言表を[…]出来事および[…]モノとして成立させているようなシステム」としての「記録態」によって「歴史的アプリオリ」を決定されていると考えられる。ところで一つの時代を対象とした「記録態の記述」は、それ自体が記述をおこなう側の歴史的アプリオリに捉えられた行為でもある。わたしたちが自分たちの文化の記録態を捉えている歴史的アプリオリを相対化することができるのは、わたしたちの記録態に近くしかも異なった他の記録態と接する境界においてである。以上のような「記録態 archive」を対象とする学こそが、フーコーの「アルケオロジー archéologie」なのである。
ひとつの社会および文化においては、無数の言表を出来事およびモノとして秩序づけ記録化している記録態のレヴェルが想定されるのであり、その記録態の規則性にもとづいて、言表が語るコト、語り方、考え方、語りうることの範囲の統一性が、ディスクールの単位をつくっている。このように述べられた「記録態」論に読まれるのは、一つの時代の記号活動の総体をコト(言表の出来事)とモノ(言表の物質性)の両面の混在と絡み合いとしてとらえる理論レヴェルである。しかし、それを言表の理論において基礎づけるはずの「言表—出来事」と「言表-モノ」の理論対はこの刊行版においては十分な理論的展開を与えられたとはいいがたい。とりわけ「言表-モノ」の理論は、フーコーのディスクール理論を言説の内在主義の外へと導く可能性を秘めているにもかかわらず萌芽的な状態に放置されている。「言表の物質性」、言表の「モノ」としての側面、その作用と使用を組織するシステムとしての「記録態」というメディア論的な契機は、ディスクールの出来事性の理論の下に隠されたままとどまっているのである。
III. 『知の考古学』プレオリジナル稿の言表理論
すでに別稿[16]で示したように、『知の考古学』プレオリジナル稿は、全六章からなり、
Ⅰ (全体のタイトルをもたない4つのセクションからなる序章)
Ⅱ 言述されたことを言述する(Dire ce qu’il a été dit)
Ⅲ 言表を定義する(Définir les énoncés)
Ⅳ 言表行為を分析する(Analyser l’énonciation)
Ⅴ 考古学(L’Archéologie)
Ⅵ 知の考古学(L’Archéologie du savoir)
という構成になっている[17]。
このうち別稿で検討した序章は四つのセクション[18]から成り立っているが、ディスクールの理論が求められる理由を二十世紀における「一般化した言説性の時代(l'âge de la discursivité généralisée)」の到来に見ていたこと、そこではすべての<言われたこと>が記録、保存され、「普遍的記録態(l’archive universelle)」を組織し始めているのだと述べられていたことは思い起こしておこう。現代のメディアや情報技術の展開によって「言われたこと」の存立条件、すなわちわたしたちの文明における「記録態」の在り方が大きく変化したこと、そのことによって「言説一般」の問い — 言説の歴史的アプリオリの問い — が浮上したのだというのである[19]。
プレオリジナル稿の第Ⅱ章以降で、ディスクール、言表、記録態の原理論が展開されるのは、「知の考古学」の方法論および認識論へと向かう後半部(刊行版の第Ⅳ章「考古学的記述」の原型となった第Ⅴ章「考古学」、第Ⅵ章「知の考古学」)を除く、第Ⅱ章から第Ⅳ章にかけてである。それらの章を要約すると次のような内容になっている。
まず第2章の構成は以下のとおりである。
II 言述されたことを言述する(Dire ce qui a été dit)
A. 論理学、言語学、分析 ( logique, linguistique, analyse)
B. 観念の歴史 (histoire des idées)
C. 到達点から再出発すること (Repartir du point d’arrivée)
D. (無題)
このうち「A. 論理学、言語学、分析」で扱われるのはフーコーのディスクール理論における言表の記述と論理学、言語学、言語分析とのちがいである。論理学が、言表の記述において扱おうとするのは、その命題的な骨組みをつくっているものであり、そこから導かれる命題が普遍的で真である真理条件である。したがって、真理条件の問題へと言表を書き換えることだけがそこでは問題となる。言語学、文献学など、言語科学一般との差異もまたここでは確認されている。フーコーの言説理論における言表の記述が、言表の生成を可能にする言語体系の研究という言語学とは基本的にことなる水準に定位するものであることは、すでに序章でも確認されているし、『知の考古学』の刊行版においても確認されることになる(cf. 刊行版第2章1「言説の規則性」)。さらにまた、「分析(analyse)」と呼ばれているのは「イギリスの分析哲学」であって、言語行為(Speech Acts)論との区別がここでは行われている。のちに語用論(Pragmatics)の支柱ともなる分析哲学による言表のアプローチとフーコーとの対比は、一方が言表はどのように使われのかという「道具性」において言表を記述するものであるのに対して、フーコーの方は、言説が生み出された場所においてその言説の固有の「働き(fonctionnement)」とはいったい何であったのかを示すことにあるのだとされている。
さらに次のセクション「B. 観念の歴史」は、「観念の歴史」が従う、「資料(ドキュマン)」、「作品」、「因果性」、「継起性」の四つの原則との、方法論上の区別を述べるが、これもまた決定版にその対応テーマを見いだすことができる(序章、および、第4章の1)。「観念の歴史」と自己の著作との対比をあらためて確認して、自らの方法の特徴を述べる第2章の第3セクション「C. 到達した点から再出発する」をへて、最後のセクション(「4.(無題)」)では、すでに序章で述べられていた「一般化された言説性」の時代の到来、「普遍的記録態」の成立の動きこそが、「言われたこと」の一般理論としての言説理論を要請するのだという、認識論的根拠の問題が再び詳細に繰り返されている。
第3章「言表を定義する」の構成は以下のとおり:
III. 言表を定義する (Définir les énoncés)
A. 既に言われたこと、言説、言表 (Le déjà-dit, le discours, l’énoncé)
B.言表の物質性 (La matérialité de l’énoncé)
C. 言表とシークエンス(L’énoncé et les séquences)
D. 言表機能 (La fonction énonciatrice)
E. 超越でも構造でもなく、機能を (Fonction, ni transcendance, ni structure)
この章は、題名(「言表を定義する(Définir les énoncés)」)の「言表」の語が複数形である点を除けば、『知の考古学』決定版の第三章「言表と記録態」中の「I 言表を定義する(Définir l’énoncé)」と同題である。じっさいかなりの部分が刊行版と対応している。ここまでは、言説の問いにできるだけニュートラルな出発点を確保するために、「言表」、「言説」といった用語を定義せずにフーコーは論述を進めてきた。対象となる事実は、「言われたこと」とか「既に言われたこと」といった日常用語を術語化することによって一般的に指されてきた。この章にいたって、それらの概念の明確化が図られることになる。第1セクション「既に言われたこと・言説・言表」では、「既に言われたこと(le dejà-dit)」が、言表の事実性・出来事性・有限性に焦点を当てた概念であり、「言説」が、一方における既に言われたことの集積と、他方における語る主体やテクストや話し言葉が導入する意味の更新との間にあって、すべて言われることがそこに収まり秩序づけられることになる中間的なシステムを表す概念である。「言表」が、場所と時間の一点に位置づけられる「出来事」であると同時に、ある場所を占め一定の時間保持され続ける「モノ」という二つの側面をもつことを示すとともに、関係性のなかでの作用の要素という言表の「働き」を指すものである。こうした基準がここで示されることになる。「言表—モノ」という決定稿では消されることになるテーマを除けば(この点については以下IVに詳述)、この第2章の展開はほど決定版との対応箇所を確認できる。この章の第二セクション「2 言表の物質性」は、決定版の第III章「II 言表機能」のd)[20]に対応を見いだすことができるし、言表を構成する言語単位とシークエンスの問題を論じた、第三セクション「3 言表とシークエンス」も、決定版の第III章の「1 言表を定義する」にほぼ対応している。さらにつづく第四セクション「4 言表機能(La fonction énonciatrice)」は、刊行版では「言表機能(La fonction énonciative)」と用語を換えているが、ほぼその対応箇所を、さまざまな興味深い概念の異同や変化をへたのち、第III章の「2 言表の機能」[21]に見いだすことができる。さらに、言表についてのこの章での考察の認識的なまとめである第五セクション「5 機能、超越でもなく構造でもなく」は、言語活動の「存在の機能」と「客体化の審級」をになうものとしての「言表」が、言語と存在をめぐる「超越」の存在論とも言語の「構造」主義とも区別されるべきものであることを確認している。
序章と並んで、プレオリジナル稿中もっとも顕著な異同が見られるのは、第四章「IV 言表行為を分析する」である。この章の構成は、次のようになっている。
Ⅳ 言表行為を分析する (Analyser l’énociation)
私が念頭に置かねばならないこと (Ce que je dois garder à l’esprit)
言表-出来事 (l’énoncé-événement)
A. 出現の領域 (le domaine d’apparition)
B. 述行為のタイプ (Les types de formulation)
C. 存在の様態 (Les modes d’existence)
言表-モノ (L’énoncé-chose)
A. 伝播 (Expansion)
B. 制辞的関係 あるいは 共存 (Rection ou Coexistence)
C. 反復 (Répétition)
この章は、決定版では、第Ⅱ章「言説の規則性」を構成することになる理論的内容および、第Ⅲ章における「Ⅲ 言表の記述」以下の展開を予告するものだが、プレオリジナル稿に読まれる諸概念の理論構成は相当ことなった状態を示している。前章で、記号の「存在機能(fonction d’existence)」としての「言表機能(fonction énonciatrice)」という「言表」の定義に辿り着いたのち、第Ⅳ章の位置づけは、言語・記号活動の言表としての存在様態の記述に見通しを与えることにある。ここでの言表の記述は、「言表行為(énonciation)」の理論というまとめられ方をされている。刊行版では、「言表行為énonciation」は書記や発話の具体的な述行為を指す用語としてしか使用されていないが、ここでは、言表を生み出す活動一般をさす用語として使われている。そして、その「言表行為」が生み出す言表は、「言表-出来事」(出来事としての言表)と「言表-モノ」(モノとしての言表)の二つの側面に分けて記述されるものであるとしている。
それ[=言表の分析]は、言表を、出来事とモノという二つの側面から問うことになる。それは、言表の闖入という、一瞬世界の表面に輝きにくるあの奇妙な出現を説明するのでなければならないし、また、あの重さ、あの遅延、あとに残りまた閉じられるのに時間がかかるあの航跡、要するに、言表を地上の事物のなかにあるモノとして残留させるすべてのことを説明するのでもなければならない。
この章の第2セクション「2 言表-出来事」では、「言表活動」を記述するに際して、「出来事」としての言表を、A. 出現の領域 B. 叙述のタイプ C. 存在の様態 の三つの観点から、整理している[22]。
言表の出来事であるかぎりにおいて、人間の死であれ、道具の制作であれ、隕石の落下であれ、戦争であれ、経済危機であれ、それら一連の他のタイプの出来事との関係におかれている。それらの出来事と言表とは出来事として同じ出現の条件をもたないし同じ存在基盤のうえに位置づけられるわけでもない。他の出来事と同様、言表の出来事もまた固有の出現領域をもつのであって、その出現領域を通して他のタイプの出来事の出現領域と複雑に結びついている。個々の「言表—出来事」は、言表の出現領域がつくる「参照系(le référentiel)」をとおして他の出来事の出現領域と関係づけられているのである。
出来事としての言表がそれぞれの「述行為のタイプ」を持つというのは、言表が書かれたり話されたりする場合にどのような発話が可能か、言表行為の分類とカテゴリーに関わっている。書かれたものであれ、話されたものであれ、本か日記か戸籍か行政報告かなどさまざまな記録様式、小説か医学か社会学か哲学か、法律解釈か、裁判の言葉づかいかなどのディスクールのジャンル、事実確認か告白か願望か政治計画かなどの言語行為、使用される文体や文法や語彙など、さまざまなカテゴリーによって言表は分類することができる。言表においてこれらのカテゴリーは複雑に入り組んでいるが、それらの組合わせには歴史的な規則性があり、「言表—出来事」の述行為のタイプをつくりだしている。これは、刊行版においては「言表行為の様態(modalités énonciatives)」として整理されることになる論点である。
最後に「言表-出来事」の「存在様態」というのは、「言われたこと」と「語る主体」との関係の在り方にかかわっている。言表はつねに「語る主体」をともなっている。「語る主体」とはディスクールを担う現実の個人のことではなく、言表のなかに現前している「声」のことである。言表におけるこの「声」の在り方は多様であり、代名詞を通してもあらわれずいかなる固有の視点もたない事実記述のアノニマスな声から、固有の視点をとって事態に密着し人称的に語る声まで様々な形態をとりうる。すべての言表はこのように「語る主体」の「存在様態」の指定をともなうものであって、それにしたがって「語られる事象」の存在様態と「語る主体」の存在様態とを複雑に結びつける連関が成立しているのである。
言表をその出来事において記述するとはしたがって、言表の出現領域、述行為のタイプ、そして「言われたこと」と「語る主体」の存在様態といったそれぞれを規則化しているものを記述することであるとされている。
IV. 「言表—モノ」の理論
第Ⅳ章「言表行為を分析する」の第3セクションの「言表—モノ」は、プレオリジナル稿のなかでもっとも注目される異同箇所である。フーコーの「言表-モノ」[23]理論について体系的な記述を読むことができるほとんど唯一のテクストだからである。素描されているのはひとつのメディア論とも呼ぶべき理論パラダイムであるのだが、ここでやや詳しく検討してみることにしよう。
「言表-モノ(l’énoncé-chose)」という用語で、「言表-出来事(l’énoncé-événement)」と対比させて考察されているのは、言表が言表行為によって「出来事」として存在し始めると同時に、どのような環境において言表は「モノ」として存在し保存され所有あるいは使用されるかという問題である。この論点は、ディスクール理論を要請する歴史的条件とされる二十世紀における「普遍的記録態」の成立および「一般化された言説性の時代」というライトモチーフと深く結びついている。
それでは今度は、出来事としてではなく、モノとして考えられる言表について考えてみよう。言表がモノであるということは、言表機能が、記号の出現や言表されたことがらや語る主体にたいする存在様態の付与とともに消えてしまうわけではないということだ。言表機能はこの最初の出来事をこえて働きつづけ、空間と時間のなかに通路をひらき、ひとびとが読みうるテクストの肉のなかや、聞くことができるような声の振動のなかで働くように導かれ、そうした多様な形式において、言表機能は受け取られ、収集され、ときに保存され、自然の諸形象や文化の諸対象のなかに堆積され、諸実践や諸制度と絡まり合うことになる。つまり、モノとしての言表は、言表の出来事としての性格を、残留という性質によって二重化するということなのだ。さらにそれは、言表を反復したり、伝達したりすることから始まって、現実や事態とか、規則の体系とかとつき合わせたり、言表を無効化したり忘却のなかに放棄する、あるいは排除するときにはそのすべての物質的痕跡を抹消するなどにいたるまで、言表がモノとして、一定数の多様な処理や操作の対象ともなりうるということも意味している。それはついには、言表をあれやこれやの変更を課すことで変形することをも目指す操作にまでいたる。こうした点において、私は、言表機能はある種の活性化と再活性化の対象となりうると述べることにしよう。言表に残ることをゆるす残留と、言表を再活性化する操作が言表にモノとしてのステータスを付与するのである。
ここで述べられているのは、言表の記録および再製に関わる技術の問題系およびそれにともなった言表の使用と変形の社会的制度の問題系である。言表はモノとして残留するとしても、他の事物と同じように社会と文化のなかで場所を占めているわけではない。言表には固有な「残留(rémanence)」の性格があるのであり、その形式と法則、制度や社会実践との結びつき方は、他の事物に関わる惰性、保存、維持のそれとは異なっている。また、反復、注釈、批評、多様な変形などが行われる場合にも、「言表—モノ」の扱われ方は他のモノの処理とは異なっている。したがって、言表および言表の集合を記述するとは、「言表—モノ」の「残留の場(champ de rémanence)」と「再活性化の形式(formes de réactivation)」を記述することでもあるのである。しかも、その場合、残留の場と再活性化の様式との間には密接な連関がある。ひとつの文化が一定の言表のジャンルに与えている残留の場は、ある定まった種類の反復や注釈や検証や変更の形式を可能にするためにあるともいえるのだ。逆に、言表の再活性化はつねに再活性化が所定の形式で行われうるような、言表の残留の場の成立を前提にしている。したがって、双方は、相関関係にあり、可能な再活性化の基盤としての残留と、残留の可視的かつ操作的な形式としての様々な再活性化との、協働関係のなかで考えられなければならない。
このあたりの記述は、「言説実践(pratique discursive)」という用語で、決定版が理論化していく部分にあたると思われるが、例えば、読書という「再活性化」の形式と、それを可能にする読書クラブや図書館や学校といった「残留の場」を考えれば、この相関性と、社会的な実践の側面がより明快に理解できるだろう。「文化財」や「象徴財」といったシャルチエの文化史[24]やブルデューの文化社会学がその後理論化していく部分がここにははっきりと読みとれるのである。
A 伝播(Expansion)
それでは、このような「言表-モノ」の側面からの「言表機能」は、まず「言表-モノ」の時間的および空間的な「拡がり(Expansion)」の問題として記述される(「A 伝播」)。
フーコーがこの項に関して述べているのはおよそ以下のようなことである。
すべての言表は、「出来事」であるかぎりにおいて、時-空間系のどこかに現れるのだが、ただその現れた瞬間および場所という一点のみを占めるわけではない。言表が「モノ」としての性質をもつことによって、一度出現した言表は、「モノ」として一定の「持続」と一定の「空間」を占め続けるのだ。例えば、会話における言表のように、ほんの一時の持続と限られた場所を占めたあとは、すぐに消滅するものもあるかもしれない。また、墓碑銘のように、ひとつの場所に限定され刻まれた後は、言表がほとんど永遠に語り続けるというような「残留の場」もある。反対に、ラジオ放送による宣言のように、記録保存されていなければ、時間的には非常に限られているが、空間的には広い範囲に分散し同時に多くの場所で語るという言表機能もある。ポスター、新聞、本、回覧文書、手稿、手帖などはそれぞれが決まった「伝播」の型を言表行為に与えることになる。例えば、ポスターという言表行為の「伝播」については、フーコーは、次のような印象的な記述をしている。
ポスターは、一時的な記刻であって、それが貼られている建築と同じようにそれは不動だが、建築の方が堅牢で分厚いものであるのと対比的に、極めて薄くはかないものである。ポスターは、モチーフとしてあちらこちらに繰り返し現れ、多数的でしばしば不規則的な自己同一性のなかに、反復の奇妙な力を見いだすのである。ただ一つの同じポスターが、ある決まった地点において、複数の同時的あるいは継起的な眼差しに対して差し向けられる。それにくわえて、壁にそって繰り返し貼られることで、空間的に四散した読者たちに同一の解読を可能にする。そして、そのポスターの前を何度も通る者にとってはそのつど同じポスターが反復されるということになる。そのようにして、様々な反復の空間的-時間的雲状体を形づくるように、ポスターは自らの分散の偶然(ただし計算され組織化された)と、ことばの-- その総体においては規則的だが、個別的な経路においては偶発的な -- 可動性とをかけ合わせるのである。
言表は、ポスターや手稿や印刷本といった「モノ」としての「伝播」の形式をとおして言表の「再活性化」(具体的には、読解行為や読書)のあり方を決定している。そしてモノとしての言表の「伝播」はまた、言表の「残留」の初発状態でもある。一時的に保存されたり、すぐに消滅したり、あるいは半恒久的にとどめられたりといった言表の残留の仕方は、この初発状態に少なくとも部分的には規定されている。しかも、「伝播」に多様な様態が存在するということは、「言表-モノ」の分布に、様々な政治的、社会的制度や経済的関係、技術的問題が複雑に絡まり合うことも意味している。「言表-モノ」は、象徴財としての言説の流通、コミュニケーションのネットワークと政治的・社会的共同体、それらを可能にする技術的基盤の問題など、<社会>・<言説>・<技術>の次元の交錯を説明する概念としてここで理論化されつつあるのである。
さらに、これらの伝播の様々に異なった様態はすべて(あるいはほとんどすべて)諸々の物質的要素、諸々の実践、諸々の技術をともなっている。そうした諸制度、経済的あるいは社会的諸関係、政治的な諸構造および諸状況は、言表の存在を、ひとつの文化をかたちづくっている社会の布地の全体へと結びつけるのである。さらにまた、言表がいくつかの操作の対象となりえるのも、そうした伝播の形態から発しているのである。それらの操作のうち最も基本的で単純なものは、「消費」に類する操作であり、解読、読書、聴取、理解、コピーなどの操作である。私の考えでは、言表の「間主観性」とときにひとが呼ぶ事態が根ざしているのもそこである。じっさい、言表が誰か(あるいは何人か)に差し向けられ、読者たちによって次々と行われる様々な読書の行為によって言表がその同一性のままに捉え直され継続していきうるとすれば、言表が読者たちの間にあって、ときには厳格で一義的な、ときにはぼんやりとし、不安定で、あいまいな、沈黙の言語を語ることになるとすれば、言表が、共通で分有された意味作用になるためには、ひとつの眼差し、ひとつの耳、ひとつの注意を待っているものだとすれば、それが、身振りと眼差しの間、口と耳の間で、ひとつの理解というような何かを可能にするものだとすれば、あまりに的確であるがゆえにほとんど透明なものとなった表現をつかうとすると、ひとつの「コミュニケーションの道具」というようなもので言表がありうるとすれば、それは、世界の表面に、言表が時空の座標軸にのっとって出現することによって、言表が時間のなかで、ある場所を、たとえ数秒であっても、占めるということによって、言表が少しでも拡がりともちはかないものであっても一つの安定を得ることによって、要するに、言表が、微細なものであっても、ひとつのモノとして三次元を持つことによってなのである。したがって、私の考えでは、ひとが好んで想像したがるように、というのも、ひとびとは、言語の気高い尊厳、その精神的な秘密、その触知しえない痕跡の繰り返される謎、その音もなく歩く鳩の歩みにあまりに固執しているので、モノとしての言表の存在が、間主観的な意味作用に対立するものであり、それを汚し、物憂い闇のなかに沈めてしまうものだ、などと考えてはならないのだ。人間たちが言表によってコミュニケートするのだとすれば、それはまず言表が、彼らの傍らに、彼らの目前に、彼らの間に、モノとして存在しているからなのである。現代の情報技術がこの現前に極めて微細でわたしたちの知覚や通常の実践のスケールではとらえられない形式をあたえることができるという事実は、この消しがたいモノとしてのステータスに抗うのではなく、逆にそれを裏打ちするものである。
このように、「言表-モノ」理論が主題化しようとするのは、コミュニケーション回路の物質性と社会性であり、コミュニケーション回路の物質性を捨象し、言語と主体を純化し理想化する立場(言語・記号の内在主義)への批判がここにははっきりと読みとれるのである。また、情報技術(informatique)が参照されていることにも注目したい。この引用箇所中の「間主観性」についての議論からもわかるように、精神や記号やコミュニケーションはそれ自体観念的な実体として作用するのではなく、つねに言表のモノとしての側面に媒介され、不可避的に社会的・技術的な基礎を前提としているというメディア論的な視点がここでははっきりと打ち出されているのが分かる。
ここで当然問題となるのは、「言表機能」の二つの側面とされた「言表-出来事」と「言表-モノ」の関係である。
少し考えてみると、私が言表機能の伝播の領域といま名付けたものは、私が言表を出来事として記述しようとしたときに、その出現の領域として示したものと対部になっているように思える。言表の存在はそのときには、それ自体が固有の境界、区切り、諸機能、透過性と堅固性の様々な徴を持った、可能な言表行為の場に結びついているように私に思えた。ほぼ同じように、言表をいまモノとして考えるとすると、言表は、固有な道具、回路、固定点、流通のネットワーク、閉域、自ら選び取る、あるいは外部から課される、あるいはまたその発展が止んだときには自ずと出会うことになる固有の形式などを持った出現の場に結びついているように思われる。すべての言表が結びつけられているこうした二つの領域のあいだには、差異と類似がある。言表の出現の領域は、言表によって言われうることの総体をカバーしている。この領域が自らの範囲として切り取っているのは、言われたこととして与えられうることがらであり、それにしたがって事象が「言表可能なもの」と化すシステムを定義しているのである。伝播の領域の方は、言表の総体がとることができる現前の諸形式をカバーしているのであって、言表をモノとすることのすべてを自らの範囲として切り取っている。言表がいわば「モノ化しうるもの」となる、その諸形式の規則体系を定めているのである。言表行為の場(言表-出来事を司る諸規則の第一次集合としての)は、伝播の場(言表-モノを司る諸規則の第一次集合としての)に対応すると同時に対立するのである。したがって、言表はまず出来事であって、突如として出現し、いくつかの規則(それが言表の出現の規則である)にしたがって姿を現すのであり、その次に、この言表の出現の突然性に対して、それが一段落したときに、残留が、物理学者たちがヒステリス(hysteris)と呼ぶような何かが後から付加されることになるのだ、言表の出来事は次第に凝固し、固体化し、その溌剌さを失い、その意味作用の透明性を失い、自らのうちに輝いていた活き活きとした秘密は色あせ、言表がモノの惰性のなかに頽落するのだ、などと考えるのは(そのような考えは私が書いてきた数頁のなかでもしばしば起こったように思えるが)間違いである。じっさいは、言表においては、出来事であることとモノであることとは同時なのである。言表機能は、同じ程度に、同時に、一つの言表に特徴的な、出現の規則と伝播の規則とを伴うものなのである。
このように、「言表-出来事」と「言表-モノ」とは、完全にシンメトリカルな理論化を受けている。「言表-出来事」論が、言説の「言表可能性」の内在的規則性を対象としているのに対して、「言表-モノ」論は、言表の支えとしてのメディアの伝播-流通-分布の規則性を対象とするといえる。「言表—出来事」の「出現の場」と「言表—モノ」の「伝播の場」とは同時的に言説の活動に関与しているのであって、一方は他方なしには成立しない。例えば客観的な描写のような言説の実践は、小説や新聞記事などの言説のジャンル、それに対応した語る主体と語られる事態との存在様態というような「言表—出来事」の「出現の場」の規則にしたがっている。同時にそれは、印刷紙や印刷本のような「言表—モノ」の「伝播の場」の規則性にもしたがっている。ただし、これら二つの場を統御している規則のシステムは相互にゆるやかな相関に結ばれているにすぎず、それぞれが独立に記述しうるものであるとフーコーは述べている[25]。
B. 制辞関係 あるいは 共存
言表の「残留(rémanence)」の問題を考えるうえで、第二の側面としてフーコーが挙げるのは、「制辞関係(rection)」[26]である。言表がモノとして存在するということは、言表がモノとしての「伝播」をもつと同時に、つねに他の言表と共に存在しているということを意味している。個々の言表は言表の総体がかたちづくる布置の一部をなしているのであり、個々の言表の出現の出来事はたとえわずかにせよこの配置を変化させることになる。一個の言表に続く他の言表は、無効を宣するにせよ、括弧に入れるにせよ、迂回するにせよ、その言表の存在を考慮にいれざるをえないのであって、それが存在しなかったというわけにはいかないのである。
また、言表はモノとして他のモノたちと共存してもいる。「言表-モノ」は、諸々の制度、実践、社会関係、経済プロセスなどに属する事物の総体の中に存在するのであり、そのなかで社会的・文化的に準備され、指定され、あるいは許容された場所を占めることになる。言表はしたがって、それらの事物の総体がかたちづくっている布置の一部をなしてもいるのであって、言表のモノとしての存在はそうした布置をたとえ極めて微小にであっても移動させることになる。事物の存在もまた言表の存在に左右されることになるのである。すべての言表は、他の言表の帯域のなかに捕らえられていると同時に、事物の世界によって包囲されてもいるのである。言表の存在を他の言表および他の事物と結びつけているようなこうした決定作用の相互性の関係を、フーコーは「制辞関係」のシステムと呼ぼうとする。それは言表と他の言表群との共存の問題を指すとともに、言表と言表以外の事物群との共存の問題をも指しているのである。
まず言表間の共存の関係について言えば、言表は出来事として出現するやすぐに消え去ってしまうわけではない。言表は、なんらかのかたちでモノとして「残留」するのであって、その残留をとおして他の言表と関係を取り結ぶことになる。こうした関係の例として、フーコーが挙げるのはフィクションや小説の物語の例である。物語はそれ自体が連続した言表のまとまりから成り立っており、最初の言表から最後の言表にいたるまで言表の出来事の連続をつくっている。と同時に、物語はその総体において一種の同時性を帯びた出来事の集合を成している。あらゆる物語において、物語を構成する一連の言表のあいだには相互影響のシステムが存在している。そのような相互影響の関係性を記述する既存の方法としては、命題間の両立可能性、判立関係、矛盾関係などに引き直して考える「論理学的分析」[27]の方法、文および文要素のあいだの統辞的関係や時制の構成、語彙分析、意味論的領野、コノテーションなど、物語を連辞関係との構成の構造と比較して分析する「言語学的分析」[28]などが考えられる。それに対して、フーコーが「制辞関係」と彼が呼ぶのは、論理的分析や言語学的分析が取り出してみせるシステムとは異なった言表と言表とを結ぶ関係のシステムである。
ところが、私の考えでは、言表のあいだには、別の共存のタイプが存在しているのであって、<制辞関係>は、それを一般性において理解するとすれば、そうしたシステム(=論理学的および言語学的関係のシステム)とは異なったいくつものシステムを示すことができる。たったひとつの同じ物語の連鎖を形づくる、ひとつの言表ともうひとつ別の言表の間、あるいは二つの言表のグループの間には、さまざまな関係があるに違いない。その関係とは、対称関係(一人の登場人物の記述と、その相手の記述との場合のように)、照応関係(一人の登場人物の性格を述べる言表のグループには、かれの生涯のエピソードを成すような言表のグループが照応するといった関係)、類推(アナロジー)関係(一人の人物の身体的特徴の描写が示すことは、別の人物にとっては彼の生涯の描写が示すことになるような関係)、対立関係(内的独白と対話、エピソードの連続と複数の事件の同時性、外部から語られる事実と主観的な印象などの関係)、類似の順序だてあるいは逆転された順序だての関係(描写的言表が話し言葉で語られて印象の言表によって終わるという集合に対して、同じモデルあるいはそれと鏡像関係にあるモデルによって書き言葉の集合が呼応するというような)、展開の関係(一つの言表があるとすると、その言表が開いた空間の中から、他の諸言表が繰り広げられていくような関係)、想定の関係(ひとつの言表グループがあると、その帰結として他の言表グループが現れるというような関係)、語られた事象に対してとられる距離におけるグラデーションあるいは交替の関係(言表作用が、その事象から遠く離れているかのように、遠くから語るあるいはそれを要約するか、反対に、それに近づき、その中に入り込み、周囲にそれをいっぱいに拡がらせ、その事象の過剰な大きさによって逸脱されてしまっているかのようになる関係)などの関係となる。こうした働きの全体は、諸々の言表をお互いに、それらが述べる真理や整合性(つまり、論理的な連鎖や従属の関係)だけによって結びつけているわけでもないし、それらの言表の真理や意味や意味作用の要素がこうした分析においてそれらの言表の相互の繋がりを保証するのでもない。じっさいに存在している、それぞれが決まった述言のタイプに属するものとしてのそれらの言表それ自体において、それらの言表は、お互いに対立し、繰り返し出現し、逆転し、従属関係に入り、一方が他方を従え、というように、共存のシステムを構成しているのである。
命題でも文でも言語行為でもない、「言表」という言語活動の「存在」の単位がどのように具体的に考えられているのか、をこの引用箇所はよく示している。ひとつひとつの言表が開く「参照系」が寄り集まってどのような相互配置の「共存のシステム」を作り出していくのかという、「言表行為」のトポロジカルな分析がここでは考えられていたことがわかる。
私には、ここで私がかろうじてそのプログラムを描いてみせるような記述が、論理学的分析を特徴づける厳密性や、言語学的分析にあるような細部の綿密さを欠いていることはよく分かっている。しかし、そのような分析がもつやや緩く粗雑な性格については、正当化できるものだとは思っている。というのも、第一には、形式のシステムを定義することが目的ではなく、共存のシステムを定義することが目ざされているのであり、共存のシステムは、形式のシステムほどに密なものではありえないからである。それにまた、形式的分析がそれ自体として十分に自足していられるのは(例えば、ひとつの数学理論を形づくっている諸言表を連ねているシステムを記述するとき、あるいはまた、もう少し不確かとはいえ、ひとつの哲学的言説を形づくる諸言表を連ねているシステムを記述するとき、あるいはまた、言語学固有の用語によって、ソネットの構造や、ソネットを構成する詩行の継起だとか相互反響を記述するときのように)、言表がひとつだけの存在様態しかもたず、ひとつだけの述言のタイプに従っている特殊ケースであるからにすぎない。そうした場合には、明らかに、諸要素の共存のシステムを記述する必要もないし不可能であって、というのも、そうした諸要素の存在は均質なものであるからである。言表の存在の様態における多様性が、そこでは(形式的システムの要請によってか、表現作用の統一性によってか)中和化されてしまっているのである。しかし、私がとくに思うのは、共存のシステムの記述は、あまりに厳密な関係の作用を使うことがないという意味において、ずっと広い言表の諸集合を記述することをゆるすのである。それは、ひとつの物語とかひとつの理論とかひとつのテクストとかひとつの作品とかをそれらの単独性において記述することに限定されない。外観上は不均質な諸要素からなる諸領域を対象としてとらえることができるのである。
「言表-出来事」のセクションにおいて述べられていた、様々な述言タイプの共存と「語る主体」の声をめぐる「存在様態」のゲームは、「言表-モノ」の理論においては、様々な言表が同時的に混在する場とそれら言表間の相互関係のゲームが作り出す「言表—モノ」の布置の問題として考えられている。そこから『言葉と物』において扱われた、一般文法、博物誌、富の分析という相互に異質な領域における言表の共存の規則の問題が説明されているのである。
以上が、言表と言表との間の共存のシステムの問題であるとすると、言表と非-言語的な事物との共存のシステムについては、どのように考えればいいのだろうか。これが次に考察される点である。
だが、言表は非-言説的な共存のシステムにも属しているのである。言表は世界や事物の外で、触れることもできないものとして非物質的かつ自律的なものとして浮遊しているわけではない。言表は物言わぬ事物たちのネットワーク全般の一部を成しているのであって、そうした物言わぬ事物たちの間に言表は入り込み、それらの事物と絡み合い、それらの事物にあらゆる方向から取り囲まれ、浸入され、他方では、言表の方でも、それがいかに目立たずしかも一瞬のやり方であったとしても、例え少しでも、事物の配置を変更し、変質させ、それらの事物の、要素、組織化、調整、情報の側面、統御の道具として、事物の一部となるのである。言表は、言説の帯域のなかで機能するのと同じく、事物の絡まり合いのなかでも機能するのであり、それぞれにおいて別の決定のシステムに従っているようなのである。
言表と言表以外のモノとの関係、言説の次元と言説以外のモノがつくる次元との関係、あるいはさらに、言語活動と言語活動以外の秩序との関係、これらの関係についての伝統的な記述を支配してきたのは「表出(expression)」モデルである。それは言表をつねに観念的な存在だと考え、言表の存在とそうでないもの存在との関係を、モノのモノに対する関係として問うことがないことを共通点としている。
言表は、モノとして、他の言表たちのただ中に存在し、それらの他の言表が存在していないかのごとくふるまうというわけにはいかないように、[…]、またそれらの言表は、意味あるいはそれらの形式の規則性によってのみでなく、それらの言表の存在のレヴェルにおいて、複雑な相互影響のシステムによって結ばれているのと同様に、言表は、モノとして、その周囲にあるモノと結びついている、しかも、単に表出する意味作用によってではなく、その存在そのもののレヴェルにおいて、私がやや便宜的に前者と区別するために、包囲のシステム、あるいは非言説的共存のシステムと呼ぶことにするものによって結びついているのである。
この「言表-モノ」と非言説的なモノたちとの共存のシステムの例として、フーコーが挙げているのは、「経済的言表行為」の例である。国内総生産量だとか、国別経常収支、国民一人あたりの所得、一国の資本計算だとか、一つの国家の経済活動計算だとかとは、20世紀の新たな経済的な言表行為である。こうした経済的言表行為と、それを取り巻く現実とのあいだには、表出という関係だけではなくもっと多様な関係が成立している。じっさいそうした経済的言表は、幾種類かのデータ、それらの数値化、パラメーターの定義、恒常的要素の定義、相互連関の検証などによって、それまでに存在しなかった認識論的かつ技術的な道具となっており、目に見えなかったり介入することができなかったプロセスに注目し、場合によってはそれらを操作したり変化させたりすることができる。国民所得は、幾つかの抽象的な計算の結果にすぎないという意味ではそれ自体としては存在していないといえるが、国民所得の言表は存在しているのであって、幾つかの現象の数字化された抽象的として存在するものである。そして、企業や国の経済の責任者にとっては、それは情報メッセージとして存在するのであり、資本の保有者にとっては最も儲かる投資の指標として存在するのであり、国家や公共機関がどこに介入すべきかを示す表としても存在するのであり、政府の政治的成果、その選挙キャンペーンにおける要素としても存在するのであり、個々人にとっては観測や様々な操作の対象であり、大量の書類やデータとしての存在であり、というように、言表をとりまく経済的および政治的現実とリンクして存在しているモノの性格をもっている。逆にまた、このモノとしての経済的言表がなければ経済的あるいは政治的現実は成立しない。言表はこのように非言説的なコンテクストとモノとして共存していると考えられる。
モノ(残留を帯び、操作の対象となるモノ)としての言表のこうした分析において、私はしたがって二つの新しい与件、というか二重の与件を前にしていることになる。言表は二つの共存のシステムをもつのであって、その一方は言表を他の言表のグループと結びつけ、その言表を次第に大きないくつもの言説空間のなかに位置づけていくのに対して、他方は言表を非言説的な要素に結びつけ、包囲の厚みのなかに位置させることになる。これら二つの共存のシステムは、完全にお互いに独立してもいないし、また完全に平行あるいは対称関係にあるわけでもない。
C. 反復
「言表-モノ」としての言表の第三の性質としてフーコーが挙げるのが「反復(répétition)」である。「言表-モノ」は、保存されることによって、様々な操作の対象となる。前項でのべられた言説の「共存」は、言表が「保存(conservation)」されるということによって可能になる。
言表が共存しうるということ、そして、言表が保存されうるということ、それらは、お互いに結びついた二つの性質であって、厳密に相互的なものである、と私には思える。保存なしには、共存もない、というのも私は、言説の本来的な線条性を忘れてはならないのだ。二つの言表が、ひとつの小説の内部や、形式的な演繹の連鎖の内部、記述的な手続きの内部で共存しているということは、事実においては、最初の言表が、その述言と同時に消え去りはしなかったということであり、また第二の言表の方でも、それより前にはいかなる痕跡も記されておらずいかなる筋道もつけられてはいなかったかのごとく完全な沈黙を背景として出現したわけではない、ということである。いかに凝縮された証明であろうと、想像しうるかぎりいかに短い物語であろうと、保存のような何かがなければ可能でない。だが反面、言表が保存され、その言表に再び現前と現在性とを再付与するような諸々の操作に差し向けられているということは、その言表が、諸々の新しい言表とともに共存の関係につねにとどまりうるということ、何千年もあとに言われた事物と同時代の関係になりうるということ、それらの事物とともに同時性の空間のなかに示されうるということを意味している。言説がつねに線条的であり、すべての言表が反復可能であるということは、保存と共存とが厳密に相互的であるということを意味している二つの事実なのである。この相互性は、パロールの継起的な性質と、ラングの潜勢的に同時的な性質との対比において、言表行為の空間的な性質を基礎づけるものなのである。言表は面(plage)状に存在するのであって、言表は、それらが出現した時を超えて、そこにおいて存在を維持される、一種の表面を構成しているのであり、その表面においてはお互いに交差し合うネットワークが一つの言表から他の言表へと拡がっているのである。
このように「空間性」が言表行為を特徴づけている。言表はモノとして保存されることによって空間的に「共存の場」をつくり、過去の言表の「反復」が可能になる。ソシュール以来の「言説の線条性」のテーゼに述べられているように、言語活動における記号の実現は継起的な時間においてあらわれるが、必然的に物質的な「痕跡」や「筋道」として生み出される「言表—モノ」はつねに「保存」の問題系をともなっている。まさしくそのことによって言表は完全に歴史の時間に所属しているのである。
言表の「空間化」の例として、フーコーは、西欧における言表行為の空間化の歴史をとりあげている。あらゆる言表が「保存」され、「記録態」化されることによって「並置」されうるものとなり、言表の「空間」がつぎつぎと繰り広げられ重ねられていく。フーコーが取り上げるのは、テクストの処理と記録態化の歴史的な進行である。そして、ここでは、「普遍的な記録態」の成立による「一般化された言説性の時代」へといたる「言表—モノ」のストック化とネットワーク化の歴史が次のように跡づけられている。
というのも私たちの文化の歴史においては、言表行為はいつもさらに空間化するということを続けてきたのである。私が語りたいのは、文字のことではまったくない。文字の出現、その機能、それはたしかに決定的なものであるが私たちにとってまだよくは分かっていない。私が注目したいのは、西欧においては、巻物であった手稿に次第に紙面がとって代わり、書写あるいは印刷されるテクストの長々とつづく奔放な流れは、文節や章立ての目に見える分節化に取って代わられてきたということであり、数世紀来本は空間的な目印づけの指標として機能するようなレフェランスのシステム(目次、総目次、テクストの頁、巻を指示した指示、書誌など)を、その本自体のうちに、また本から本へと持つにいたったということ、ひとつの言語において刊行されるすべての本が収められる、また法律によって収められることになった図書館の制度は、すべての書かれたものにとって同時性の空間の組織を与えるものであること、電子機械が物質的な記憶において情報、プログラム、すでに得られた結果のストック化を可能にし、そうした操作をどれこれとなく再開する手間を省いていることなどである。
こうしたすべては、言表の保存と共存とを二つの比較的独立した特徴であると分けたのは間違いであったと考えさせる。包括的に、言表とは加算的な存在の仕方をしているものであって、同時性のネットワークのなかに存在すべく存在を維持されているのであり、そうしたネットワークは保存の手続きによってしか成立しないのだと考えた方がよさそうなのである。
このように必然的にストック化されネットワーク化される「言表—モノ」は、その文化にとっての「言表のストック(réserve d'énoncés)」をかたちづくっている、とフーコーはいう。そして、貯えられた言表をひとつの時代の言説実践が「再活性化(réactivation)」する際に、文化には幾つもの言説実践のモデルが存在する。例えば、文学史にとっての文学作品や、ラテン語文法や文献学にとってのラテン語テクストのように、「言表のストック」は単に分析の対象であるという場合もある。その対極には、化学や物理学のような科学的言説の実践があって、それらの言説にとっては、「言表のストック」は仮説や実験の手続きの総体であり、それらを検証したり、演繹のなかに組み入れたり、他の実験の手がかりにしたり、という様々な処理を施されることによって「再活性化」されることになる。
「言表のストック」にどのような「資料としてのステータス」が与えられるのかを区別する目安としては、「言表の成層(couches énonciatives)」を、再活性化をおこなう異なった言説タイプがどのように扱うかという視点からの区別も考えられる。テクストの文学的分析や文献学的分析のように、言表の成層を、それがかっていちども再活性化されたことはなかったかのように直に初めて訪れることができるものとして扱うような言説のタイプも存在する。他方、宗教的な釈義や法律の解釈の場合のように、規範(カノン)としてのテクストによる「言表の層」は、それ自体としては直接に対象としうるものではない。そのような場合には、判例や伝統の権威などのかたちをとった中間的な再活性化をとおしてしか、再活性化を企てる言表と「言表の層」との関係をつけることはできぬのであって、法律も神の言葉も、以前に何が言われてきたかということを考慮せずには解釈できないとされる。このように言説実践が「言表の成層」と取り結ぶ関係は多様であって、それらにしたがって、言表の「反復」の形式を分類することも考えられるのである。
「反復」はつねに二つの局面からなるプロセスを前提としている。まず言表は保存されなければならない。この保存は、様々な技術的手段と制度的システムによって行われる。それは石の上や羊皮紙や紙の上に記入される文字記号として保存されたり、話し言葉が蝋の上に保存されたり、コード化された情報要素が電子的に保存されたりすることによるだろう。しかしまた、保存は、教育技術(テクストの口承的習得から規範的作品の義務的な講読にいたる)、テクストの保存、その儀式的で定期的な朗読、瞑想、注釈、使用からなる宗教的実践、個人や国の行政に法律や施策や合意や決定や判例などの痕跡を残した文書を閲覧することを可能にする記録態の組織、あるいは、図書館や資料センターのように、言表の記されたものを貯蔵し登録し分類し流通させる特別な制度などをも含んでいる。
こうした保存に対して、言表を反復する言説実践の総体が対応している。それは、テクストの朗読とか演劇の脚本の上演のような単純な反復から、検証や批判や解釈にいたる複雑な手続きにまでいたる多様な形式をとることになる。しかし、保存のあり方と再活性化の形式との間には、むろん、それぞれに綿密な対応関係が存在することも明らかである。例えば、まれな儀式の機会にしか再活性化されないようなテクストは、誰でもが閲覧できる手引きのようなテクストと同じようには保存されない。
しかし、こうした言表の保存と反復との対応関係はつねに成り立っているとは限らない。ひとつの言表が、それが予定していたような様態とはちがったかたちで反復されるということが起こりうる。それは、ある時代において、言表のストックに与えられているステータスの体制が、べつの時代において変化を起こす可能性である。『イリアード』がギリシャ文法の評釈の対象となったり、新約・旧約聖書が文献学的な批判の対象とされるなど、あるいは、「新しい歴史学」における私的な商業文書や資料文書の扱いにともなう、歴史学者にとって公的な素材のステータスの変化など、はそのような例である。あるいは、火素(phlogistique)のように、化学の閉じられた言表のストックから歴史のある時点で排除された言表が、文献学や疑似科学の分析のストックのなかに姿を現すというような例もあるだろう。
あるいは、ありとあらゆる言表を保存して「言表の一般的なストック」を構成するという「普遍的な記録態」の成立にともなう反復の現象も考えられるとフーコーはいう。
十九世紀が創り出しはじめたもの、そして今日私たち自身をたじろがせ、私たち自身を押しつぶしかねない文化を前に自分たちはビザンチン派でしかないかのような印象を与えている熱情をもって私たちが繰り広げているもの、それは、すべての言表の一般的なストックを構成するという可能性である。すなわち、私たちは、特殊で領域的で閉じられたストックの外へとたえず脱落していくものをも含めて、あらゆる言表を保存しようと企てている、しかも、それらの言表を、その再活性化のタイプが必ずしもあらかじめ定められていないような様態において保存しようとしているのだ。言われてきたことはすべて保存し、それについてすべてを言えるようにしよう、ということなのだ。私たちに、どのようなものであれ、すべての言表を分析し、説明し、解釈し、形式化することをゆるすような、普遍的でニュートラルなストックを組織しようというのだ。もっとも微細なつぶやきにも意味を認め、現在時において形成される話し言葉の計画、意図、内密な誕生を復元し、宙づりされた灰色の光のなかに、もはや決して真理となることのない真理を呼び戻すこと、すべての消え去った言表に一瞬でも存在を再び与えることである。私たちは(私たちはひょっとすると世界においても歴史においてもそうしたことをおこなった唯一の文化だということになる)二次的なレヴェルのストック、他のすべてのストックのストックを作り出したのである。私たちは、私たちの周囲に(おそらくまた、私たちが言うことすべての上および下に)ニュートラルな空間を配しているのである。そのニュートラルな空間は、かつて存在し、出来事として出現し、語る主体によって横断され活性化され、事物を存在させた言語活動、いまではそれをうまくはとらええない私たちの目、それを理解しない私たちの耳にとって、事物たちの頑固な輪郭をおびて存在している言語活動、その言語活動のすべての可能な経路にむけて開かれているのである。
あらゆる「言表—モノ」を保存し「言われてきたことはすべて保存し、それについてすべてを言えるようにしよう」とする文明の成立をこのようにフーコーは現代に見ている。「すべての言表を分析し、説明し、解釈し、形式化することをゆるすような、普遍的でニュートラルなストック」の組織こそ、序章以来ライトモチーフとして述べられてきた「普遍的な記録態(l’archive universelle)」の時代なのである。
VI.記録態とメディア
以上に見たのは、プレオリジナル稿に読むことができるフーコーの言表理論である。じっさい『知の考古学』の刊行版においてとられた論述の組み立ては、非連続性の歴史の認識論から出発して、言説と言説編成の理論へとむかい、言表と記録態の定義をへて、知の考古学の方法へと向かうというものであった。この理論展開からは、「言表—モノ」についての体系的な記述、それに関連した「記録態」の定義、「言表—モノ」の「伝播」や「共存」の規則性の理論、「言表の空間化」についての省察といった重要な要素が省略あるいは消去されてしまっている。フーコー自身が1960年代の構造主義の転回期にあって自らの「ディスクール」概念を純化してしまったかのごとくなのだ。「知」の問題系はたしかにそのようなディスクール自体の内在的な規則性の認識論を促したにちがいない。またフーコー特有の「現代」との認識論的距離の取り方にしたがって、「歴史的アプリオリ」の相対化はやはり「古典主義期」との境界にもとめられて、プレオリジナル稿においてはあれほどまで雄弁に語られていた「普遍的記録態」の成立による「一般化した言説性の時代」の到来に関する記述は完全に抹消されてしまってもいる。しかし、それでも、「言表の物質性」について、言表の「存在機能」について、あるいは「記録態」について、いくつかの重要な残存箇所を1969年の『知の考古学』に読むことも不可能ではないのである。私たちの読解が明るみに出した「言表—モノ」の理論は、フーコーのディスクール理論のいわば不可視の層とでもよぶべき理論水準であって、『知の考古学』の推敲の過程でそれは否定されたというよりは、「言表」および「言説」の出来事の理論に焦点が絞られるにともなってついに完成されずに放置されたのだと考えることができる。『知の考古学』刊行版の「ディスクール」は「言説—モノ」の概念を核とする「記録態」論を暗黙の前提としているといえるかもしれないのである。
『知の考古学』の生成に関わるそのような判断の当否はともかく、私たちがプレオリジナル稿に読むことができた「言表—モノ」理論の射程を最後に確認しておくことにしよう。すでに刊行版第III章「言表と記録態」において「言表の物質性」[29]について述べられていたように、言表の存在は物質的な存在と切り離すことができない。それ自体としては抽象的な記号のシステムであるタイプライターのフランス語配列キーボードの文字の並び「A,Z,E,R,T」が,ひとたび紙に打たれることによって言表「AZERT」と化すように[30]、言表はつねに「記号の出来事」であると同時に「モノ」として生み出される。フーコーが繰り返すように、たとえ口頭の会話で交わされる言葉であっても、交わされる言葉は一瞬の「言表—モノ」としての存在をもちそれに対応する処理と使用の規則のなかにおかれているのである。このような「言表—モノ」の観点からの言語・記号活動の理解は本質的にメディア論的な性格をもっている。記号の次元と物質の次元の分節化によって成立する境位がメディアであると考えれば、「言表—モノ」理論とはまさにメディアの原理論であるともいえる。たしかに「伝播」の理論は、言表がモノとしてとる形態に規定された言表行為の型の分布、象徴財としての所有と社会的な使用によるネットワークの成立というメディアの問題を理論化しているといえる。言表間の「制辞関係」や「共存」の理論は、一方でメディアにおける言説の固有な配置を理論化すると同時に、他方ではモノとしてのメディアが非記号的な物たちとつくりだす連関を記述しようとしている。さらにまた言表の「空間性」の概念は、メディアにとって「保存」すなわち「記録」が二次的な問題ではなく本来的な問題であることを示し、「言表の成層」としてのメディアの成層の原理を与えるものである。言語記号活動が「言表」というかたちで実現するとき、それは必ず不可避的に言表の「保存」と「共存」の問題のなかに生み出されるのであり、言表はかならず「言表のストック」に対する「反復」の問題のなかにも同時に位置づけられることになる。こうしたすべてがフーコーにとっての「記録態」の問題系を構成するのである。文化とは、この観点から見るならば、「言表—モノ」の成層とそれらの「言表のストック」を「再活性化」させる実践のルール、「言表—モノ」の弁別と共存のルール、それらに対応した言表行為の型の規則などから成り立っているとも考えられるだろう。ひとつの時代の「記録態」を記述するとは – 通常理解されているようなディスクールの考古学であるよりも -- 文化を構成している“メディア態”を記述することであるという結論もここからは導かれうるかもしれないのである。
以上のような再読の後に、私たちが本稿の冒頭で述べた<記号>・<技術>・<社会>のメディア論的な円環に戻るとすると何が見えてくるであろうか。記号主義の延長上にあるディスクールの内在主義として括ることのできない次元をフーコーのディスクール理論がそなえていることは明らかである。「言表—モノ」の理論が示しているのは、言表の生産が<技術>と接している部分であり、また言表がモノとして<社会>の実践のなかに分節化されているすがたである。言表は記録技術を通してモノとして「空間化」され「伝播」され、また「言表ストック」として保存され「反復」に向けて差し出されている。言表はモノとして所有され社会的な使用のルールと保存の制度を指定されている。このように「言表—モノ」とは<記号>・<技術>・<社会>の循環の理論そのものなのである。
以上の点を含みながらも、プレオリジナル稿以後、フーコーのディスクール理論がはらむ<メディア論的契機>はついに日の目をみることはなかった。そこに窺われるのは、あの「普遍的記録態」による「一般化された言説の時代」についての一連の記述が消し去られたことが端的に示している1960年代末のフーコーによる理論的選択の身ぶりである。だが私たちにはここに残された「記録態」論の今日的な射程もまた明らかである。「言表のストック」自体もまた「ストック化」され「言表ストックのストック」を形づくろうとするような「デジタル・アーカイヴ」化の時代に私たちは生きている。すべての「言われたこと」が記録され、保存されて「普遍的なアーカイヴ」を構成し、反復可能なものとして使用と加工へと差し出されている。「言表—モノ」と「モノ」との境界がゆらぎ、自然の物言わぬモノたちもまた「コード」と「メッセージ」として読み解かれ「記録態」化されているような時代、フーコーが描き出していた「言表—モノ」の理論は、私たちの「一般化された言説性の時代」の地平を指さしているのである。
[1] 「科学の考古学について - <認識論サークル>への回答」(石田英敬 訳)(1968)、『ミシェル・フーコー思考集成 III』、筑摩書房、1999年、116頁
[2] Michel Foucault Les mots et les choses : une archéologie des sciences humaines, Paris, éd. Gallimard, « Bibliothèque des sciences humaines », 1966, 邦訳 ミシェル・フーコー(佐々木明・渡辺一民 訳 『言葉と物:人文科学の考古学』、新潮社 1974年
[3] L’archéologie du savoir, Paris, éd. Galllimard, 1969, 邦訳 中村雄二郎 訳 『知の考古学』、河出書房新社、 1981年
[4] L’ordre du discours, Paris, éd. Gallimard, 1970, 邦訳 中村雄二郎訳『言語表現の秩序』、河出書房新社、1972年
[5] 本稿では構造主義およびポスト構造主義の用語としてのフランス語のle discoursの訳語として「言説」を、フーコーの固有な文脈においてle discoursの概念をとくに問題とするときには「ディスクール」を使うこととする。
[6] Pierre Bourdieu, Les Règles de l’Art: genèse et structure du champ littéraire, éd. du Seuil, 1992, pp.278-279:邦訳 ピエール・ブルデュー『芸術の規則』II、石井洋二郎訳 藤原書店、199X年 x頁 (引用は原典による)
[7] Régis Debray, Cours de médiologie générale, éd. Gallimard, 1991,p.49; 邦訳 レジス・ドブレ『一般メディオロジー講義』、NTT出版、西垣通 監修 島崎正樹 訳 57頁 (引用は原典による)
[8] Cf. André Leroi-Gourhan, Le Geste et la parole I: Technique et langage, éd. Albin Michel, 1964
[9] 代表的なものとして、Bernqrd Stiegler, La Technique et le temps 1, La faute d’Epiméhée, éd. Galilée, 1994
[10] 拙稿 「フーコー、もうひとつのディスクール理論」、『シリーズ言語態1言語態の問い』山中桂一、石田英敬編、 東京大学出版会、2001年、311-342頁
[11] L’archéologie du savoir, ibid., p.115
[12] Ibid.,p.169
[13] Ibid.,p.170
[14] Ibid.,p.171
[15] Id.
[16] 註10に挙げた拙稿「フーコー、もうひとつのディスクール理論」を参照。プレオリジナル稿の扱いについてもこの別稿で採用した原則を踏襲することとする。なお以下では、このプレオリジナル稿との対比において、1969年ガリマール書店刊行の『知の考古学』を「『知の考古学』刊行版」と便宜的に呼ぶことにする。
[17] 他方、1969年の『知の考古学』刊行版の章立ては次のような構成となっている。
I (無題の序章:「認識論サークルへの回答」が基本になった非連続性の歴史についての導入)
Ⅱ 言説の規則性
Ⅲ 言表とアルシーヴ
Ⅳ 考古学的記述
Ⅴ (序章と対となるかたちで対話体による無題の結論)
[18] 序章の構成は以下の通り。
1.書物と主題(le livre et le sujet)
2.言説一般(Le discours en général)
3.言われたことの総体(L’ensemble des choses dites)
4.文化というやくざな言葉(Le vilain mot de culture)
[19]こうしたプログノシス的な自己の位置のとり方は刊行版からは消されている。フーコーの刊行著作においては、近代的言説編成の実定性をささえている歴史的アプリオリの相対化は、近代性の周縁部としての古典主義期との関係に求められたからである。ここから浮かび上がるのはフーコーの考古学が持っている歴史的な時代区分の見取り図である。「近代」を相対化する周縁部として、近代に接する近代以前の縁として「古典主義時代」があり、二十世紀後半以降は近代以後の縁を形づくっている、という図式である。
[20] Ibid, pp.131-138
[21] Ibid., p.116 et sq.
[22]これらは、決定版の第二章「言説の単位」においては「言説的出来事の記述の計画」、第三章「言表と記録態」においては「言表の記述」の問題として整理を受けていく論点だが、このプレオリジナル稿版では、理論形成の努力は「言表」の概念の練り上げを中心にすすめられ、序章においてはまだ「文化編成」という用語しか与えられていなかった、決定版においては「言説編成」となる中心概念の未成立によって、「言表作用」という中間的な概念を基本として、言表の「出来事」としてのあり方と「モノ」としてのあり方という、基本的な区別にもとづいて、言表作用の記述と分析が構想されている。理論的な推移としては、「言説形成」という概念に「言表作用」が次第に統合されることによって、「言説の出来事」の概念のなかに、「言表作用」全体が組み込まれ、結果的に「言表の出来事」という概念が、「言説の出来事」へと拡大発展したのに対して、「モノとしての言表」という視点は、「言説形成体」のなかに融合されたと理解できるように理論的な深化が図られたと読めるのである。
[23] 「言表—出来事」、「言表—モノ」という概念対は、『知の考古学』刊行版以前の刊行テクストとしては、1968年の「科学の考古学について - <認識論サークル>への回答」に「私は、古文書=記録態という言葉で[…]ひとつの文化において、言表の出現と消失を決定づけ、言表の残存と消去を決め、出来事にして物であるという言表の逆説的な存在を規定している規則のゲームを呼ぶことにする。」(『ミシェル・フーコー思考集成 III』、筑摩書房、1999年、116頁)という箇所に、概念としては表明されている。
[24] Cf. Roger Cartier, L’Ordre des livres, ALINNEA, 1992; 邦訳 ロジェ・シャルティエ、『書物の秩序』、長谷川輝夫 訳、文化科学高等研究所 1993年
[25] 言語形式や書く行為、あるいは書物や頁そのものを主題にした現代文学の実験は、むしろ、「言表-出来事」の側面と「言表-モノ」を相互に一致させ、突き合わせ、言表行為そのものを問うという言表のあり方の裸出の極限例であるとフーコーは述べている。
[26]「制辞関係(Rection)」とはもともと言語学用語であって、動詞・前置詞が次にくる補語の格を支配する現象をさす。「制辞関係」という概念は、決定版からは姿を消すが、1968年発表の「エスプリ誌への回答」においては、「言説編成体の変形」の一タイプを説明する概念として(これは『言葉と物』でフーコーが、一般文法と博物誌と富の分析のあいだの関係について記述したような言説編成体間の共存の記述に対応している)維持されているが、その後の著作からは姿を消している。邦訳『思考集成』第Ⅲ巻78頁を参照。
[27] Cl. ブルモンの『物語の論理』のことをフーコーはおそらく考えている。Cf. Claude Bremond, Logique du récit, éd. du Seuil, 1973
[28] R.バルトやA. グレマスのことを念頭においている。Cf. Roland Barthes, “Introduction à l’analyse structurale du récit”(1966), in L’Aventure sémiologique, éd. du Seuil, p167 et sq et A.J. Greimas, Sémantique structurale, éd. Larousse, 1966
[29] Ibid., p.131 et sq.
[30] Ibid., p.114 プレオリジナル稿にも第Ⅲ章「4言表機能」に同様の議論がある。