「トビウオのように」
https://cvb.be/fr/films/poisson-ne-voit-pas-leau
「ひとつの行為への移行の結果としてのサン=ミッシェル刑務所への私の投獄は、私のあらゆる行為の停止であり、またあらゆる行動の中断となりました。それが監獄というものの機能です。しかし停止と中断とは哲学の始まり(たとえばソクラテスのダイモーン daimonは彼を一時中断させるものでした)でもあり、私にとっては、行為への移行一般とはどういうことかを考えるモーメントとなりました。またそれは、私をそこに至らせたすべての行為を想起することでもあったのです。」(ベルナール・スティグレール『現勢化』ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ真紀訳 新評論 2007 44頁に対応 訳文を私の文脈に合わせて大幅に修正した。)
「アリストテレスは『魂について』の中では、ロゴスに場所をあたえる思惟の – 知性的 – 環境 を検討していません。(そのかわり『分析論』ではそれを扱っています。かれの論理学とはそのようなものでした)。 アリストテレスを読みながら、独房の中で私が何度も思いをめぐらしていたのは、知性的な魂の日常生活の境位(エレメント)としての、そのような思惟の環境の可能性そのものでした。私の独房のなかで、私は水から飛び出た魚のようだったのです。私は、感性的魂の五感にとっての環境と同様に、知性的な魂にとっての環境があるのではないかと考えたのです。」(同書に対応 50頁)
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アリストテレス『魂について』
『De Anima 魂について』
423 a 30
「このことに私たちが気づかないのは、ちょうと水のなかの動物も、濡れたものが濡れたものふれているのか気がつかないのと同じである。」
(講談社学術文庫『心とは何か』桑子敏雄 訳 p. 127)
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