『二一世紀の資本論』
フランスの若き経済学者トマ・ピケティの大著『二一世紀の資本論』が世界各国で話題をさらっている。今年初めに英語版が刊行されてノーベル経済学賞のクルーグマンらが取り上げ、アメリカで「ピケティ現象」に火が付いた。ニューヨーク大の講演会にはロックスター並みの聴衆が押し寄せメディアがこぞって取り上げている。
ピケティの仕事は、過去二〇〇年以上に及ぶ各国の膨大な歴史データを掘り起こして分析し、資本主義における富の分配の不平等の実相に迫ることにある。
二十世紀以降、人々は永らく、資本主義経済は平等化に向かうものだと無邪気に信じてきた。だが、先進各国の経済を調べると、一九一〇年には七百パーセントであった「富の蓄積(「資本」)」対「国内総生産(「所得」)」の比は、一九五〇年頃には二百パーセントまで下がったが、最近は五百〜六百パーセントまで戻している。二十世紀の平等化と見えたものは、二度の大戦で資本家の富が破壊されたことによる一時的な現象にすぎない。世界はいま富裕層に富が集中していた二十世紀初頭の「ベル・エポック(美しい時代)」に戻ったのである。
ピケティの計算の基礎には、資本収益率(r)と経済成長率(g)の不等式があり、資本収益率(投資による富の増加率)が経済成長率(国民所得の増加率)を上回れば経済格差は拡大する。第二次大戦後の復興期をのぞけば、不等式はつねに資本の蓄積を強める方向に作用しており、経済的不平等は拡大し続けている。いまや、ロボットやITにより資本は収益率を上げ、他方、国民の所得は切り下げられている。世界の富裕層が総資産に占める割合も増大を続け、上位一パーセントの層の資産が各国の総資産に占める割合は、じつに、二五〜三十パーセントを占める。上位十パーセントの高所得層の収入は、国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めている。
原著では九百七十頁(英語版六百九十五頁)の分厚い本だが、目からウロコの小気味よい明晰さにあふれている。マルクスの「資本論」のような思弁とは対極的で長い期間にわたる歴史的データを丹念に積み上げて論証していくという手堅い手法により、いままでの常識を次々と覆していく。
このような本が世界的なベストセラーになることにはむろん理由がある。高度成長により国民所得が増大し、累進課税によって所得格差は緩和され、国民が繁栄を等しく享受しうる福祉国家の時代は遠い過去のものとなった。
再び経済成長を取り戻せば所得は増大し、国民は等しく繁栄の果実をまた受け取ることができるというような無邪気な思い込みには、もはや根拠はない。経済格差は受け継がれ、教育格差や文化資本差として次世代に再生産される。自由主義社会の理想である、「実力主義(メリトクラシー)」が貫徹することは望み薄なのである。
資本主義は放置しておけば、まずます格差を拡大する方向へと向かう。政府は、法人税の引き下げをいうけれどこれも誰のためなのか。財務当局は財政再建というけれど、誰が誰のために行う所得移転なのか。民営化は、福祉国家が残した公共財を私的資本へと売り渡すことに他ならず、緊縮財政は国民所得を圧迫して格差を拡大させる。インフレ誘導は年金生活者や高齢者を直撃する。
ピケティが主張するのは富への累進課税である。資本主義の経済不平等の是正のためには、税制改革を行い富裕税を国際的に一致して科していくという方向が示される。現状では、やや「空想的」といえる処方箋かもしれず、この本の限界としてしばしば指摘されている。だがこのような問題提起の書が刊行されたことの背景には、現在の世界が行き着いた資本主義の閉塞がある。
そろそろ、一元的思考から脱するべきではないのか。資本主義の「前提」を疑うべきではないのか。第一次大戦から一世紀をへて、福祉国家がゼロ・リセットされ、経済的不平等は一過性のものではなく、経済成長が資産運用を上回ることもないとすれば、次に求められるのは、生活者のための政治経済の再構築だろう。メディアも政党も、資本主義についての前提を見直し、新たな政治的思考の在り方を探るべきときなのである。
2014年7月4日金曜日
2014年6月15日日曜日
「小泉純一郎:「変人」とも呼ばれた特異な政治家像」、週刊朝日百科『日本の歴史』No.48 2014年6月15日号 , p.7
小泉純一郎が首相だったころ(二〇〇一年四月〜二〇〇六年九月)の日本の政治には奇妙な明るさがあったと人びとは記憶しているにちがいない。永田町では「変人」とも呼ばれていたこの特異な政治家は、じっさい、稀有のメディア・アクターとして、劇場型政治のスタイルを日本の政治にもたらした。
田中真紀子と組んだ街頭演説で都市無党派層に訴える直接民主主義的な手法で「小泉旋風」を巻き起こして自民党総裁選挙に勝利。「改革なくして成長なし」、「米百俵」、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチで、伝統的な派閥政治や官僚主導の政治を打破。ぶらさがり取材によるワンフレーズ・ポリティクスなどによるメディア効果は絶大で、国民の側にも政治への関心を超えて「コイズミ・ブーム」が訪れた。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた。
二〇〇五年九月には、「郵政民営化」法案が参院で否決されると、衆院を解散。郵政民営化に反対する「抵抗勢力」に対して自民党の公認を与えず、女性やタレントの「刺客」候補を立てて、「小泉劇場」と呼ばれた解散総選挙に打って出て地滑り的な勝利を収め、劇場型政治の頂点となった。
バブル崩壊後の日本経済の閉塞状況、日本型福祉国家の行き詰まり、グローバル化による構造改革課題の浮上、官僚主導政治への不信、都市無党派層の増大、小選挙区制による政党政治の変化、などが、小泉劇場政治の構造因にある。
テレビや大衆紙にターゲットしたメディア戦略が、小泉という非伝統的な政治指導者を効果的にプロモートすることで、「官から民へ」、「聖域なき構造改革」、「自己責任」など、分かりやすいスローガンで、ネオリベラリズム的な政策課題を結晶化させ、選挙民の支持を調達することに成功したのである。
メディアの方でも、視聴率をとれる政治に誘惑され、それがさらに政権への支持を拡大するという循環が起こった。
この時代、世界各国で、同じようなメディア政治のフォーマットが確立した。アメリカのブッシズムと呼ばれるメディア露出やジョークで知られたブッシュJr.米大統領、イタリアの「メディアの帝王」ベルルスコーニ首相、メディア戦略を基軸に据えた「第三の道」イギリスのブレア首相、後に大統領となる当時フランスのサルコジ内相らである。
情報化しグローバル化する世界では、メディアをとおした統治が、政治運営の基軸的な技術となったのである。
スペクタクルにうったえるメディア政治は、政治の情動化をもたらした。「靖国参拝」や「北朝鮮訪問」もメディア・イベントとして演出された。スペクタクルの政治は、政治を理性の問題から情緒の問題へと変質させる。メディア・ポピュリズムが批判されるゆえんである。
熱狂の時代の後には揺り戻しがやってくる。その後どの政治家も小泉のようにはメディアを通した政治を演じられなかったし、そもそもアメリカの戦争や市場のグローバル化を背景とする、ネオリベラリズムと新保守主義を基調とした政治が各国で成立する条件はもはや過去のものといえる。
小泉改革の後には、雇用の非正規化、格差の拡大、新しい貧困の問題が生まれた。社会国家の再生が唱えられ、日本では政権交代が起こりアメリカではオバマ政権が登場したが、世界はまだ次の政治の姿を見いだせずにいる。
劇場型政治は地方政治に及び、ネットの発達とともに社会の底辺にまでメディア・ポピュリズムが拡大した。現在の第二次安倍政権は小泉メディア政治の遺産を受け継ごうとしているようにも見える。メディア政治の光と影はこれからも続くのである。
●石田 英敬(いしだ ひでたか)
東京大学大学院教授
53年千葉県生まれ。パリ第十大学大学院博士課程修了。専攻は、記号学・メディア論。著書に、『自分と未来のつくり方』(岩波書店)、『現代思想の教科書』(筑摩書房)、『記号の知/メディアの知』(東京大学出版会)、など。
田中真紀子と組んだ街頭演説で都市無党派層に訴える直接民主主義的な手法で「小泉旋風」を巻き起こして自民党総裁選挙に勝利。「改革なくして成長なし」、「米百俵」、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチで、伝統的な派閥政治や官僚主導の政治を打破。ぶらさがり取材によるワンフレーズ・ポリティクスなどによるメディア効果は絶大で、国民の側にも政治への関心を超えて「コイズミ・ブーム」が訪れた。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた。
二〇〇五年九月には、「郵政民営化」法案が参院で否決されると、衆院を解散。郵政民営化に反対する「抵抗勢力」に対して自民党の公認を与えず、女性やタレントの「刺客」候補を立てて、「小泉劇場」と呼ばれた解散総選挙に打って出て地滑り的な勝利を収め、劇場型政治の頂点となった。
バブル崩壊後の日本経済の閉塞状況、日本型福祉国家の行き詰まり、グローバル化による構造改革課題の浮上、官僚主導政治への不信、都市無党派層の増大、小選挙区制による政党政治の変化、などが、小泉劇場政治の構造因にある。
テレビや大衆紙にターゲットしたメディア戦略が、小泉という非伝統的な政治指導者を効果的にプロモートすることで、「官から民へ」、「聖域なき構造改革」、「自己責任」など、分かりやすいスローガンで、ネオリベラリズム的な政策課題を結晶化させ、選挙民の支持を調達することに成功したのである。
メディアの方でも、視聴率をとれる政治に誘惑され、それがさらに政権への支持を拡大するという循環が起こった。
この時代、世界各国で、同じようなメディア政治のフォーマットが確立した。アメリカのブッシズムと呼ばれるメディア露出やジョークで知られたブッシュJr.米大統領、イタリアの「メディアの帝王」ベルルスコーニ首相、メディア戦略を基軸に据えた「第三の道」イギリスのブレア首相、後に大統領となる当時フランスのサルコジ内相らである。
情報化しグローバル化する世界では、メディアをとおした統治が、政治運営の基軸的な技術となったのである。
スペクタクルにうったえるメディア政治は、政治の情動化をもたらした。「靖国参拝」や「北朝鮮訪問」もメディア・イベントとして演出された。スペクタクルの政治は、政治を理性の問題から情緒の問題へと変質させる。メディア・ポピュリズムが批判されるゆえんである。
熱狂の時代の後には揺り戻しがやってくる。その後どの政治家も小泉のようにはメディアを通した政治を演じられなかったし、そもそもアメリカの戦争や市場のグローバル化を背景とする、ネオリベラリズムと新保守主義を基調とした政治が各国で成立する条件はもはや過去のものといえる。
小泉改革の後には、雇用の非正規化、格差の拡大、新しい貧困の問題が生まれた。社会国家の再生が唱えられ、日本では政権交代が起こりアメリカではオバマ政権が登場したが、世界はまだ次の政治の姿を見いだせずにいる。
劇場型政治は地方政治に及び、ネットの発達とともに社会の底辺にまでメディア・ポピュリズムが拡大した。現在の第二次安倍政権は小泉メディア政治の遺産を受け継ごうとしているようにも見える。メディア政治の光と影はこれからも続くのである。
●石田 英敬(いしだ ひでたか)
東京大学大学院教授
53年千葉県生まれ。パリ第十大学大学院博士課程修了。専攻は、記号学・メディア論。著書に、『自分と未来のつくり方』(岩波書店)、『現代思想の教科書』(筑摩書房)、『記号の知/メディアの知』(東京大学出版会)、など。
2014年6月13日金曜日
「新たな理論展開:伊藤守・毛利嘉孝『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評」、『週刊 読書人』2014年6月13日6面
『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評
デジタル時代のメディア批判理論の基軸を示そうという野心的な論集が刊行された。一九九〇年代以降日本でも盛んになったメディア文化研究の学際的な動き、「メディア・スタディーズ」をヴァージョンアップし、新たな枠組みを設定しようという企てである。
インターネットと情報端末の急速な普及、グローバル化と新自由主義的経済は人々の生活世界を大幅に変質させた。書名が示しているのは、ポスト・テレビのメディア状況だが、メディア・スタディーズの批判的射程を二一世紀の情報メディア状況のなかで受けとめ発展させようという決意表明と理解できる。
三部構成で、全十三本の論考が収められている。どれも力作である。
デジタルメディア時代の公共圏やデモクラシーを問う第一部では、ソーシャルメディアの時代の資本主義とそれに対抗するコモンズの実践が説かれ、クリエイティブ産業と呼ばれるようになった現代の文化産業を批判的に捉え返す新たな批判理論の見通しが語られている。あるいは、ポスト・マスメディア時代の市民社会の変化に応じた公共圏の構造転換とジャーナリズムが提起され、あるいは9・以後を踏まえたアーレント的公共性が考察されている。ネグリ・ハート、アドルノ・ホルクハイマー、ハーバーマス、アーレントといった社会理論を現代のメディア状況において賦活する企てである。
メディア・スタディーズが依拠してきたメディア論、テクスト理論、記号論、メディア美学のパラダイムから踏み出して、ソフトウエアやアーカイブ、メディア技術に照準して、メディア理論のデジタル・シフトをはかるのが第二部である。マノヴィッチやハンセンの論文が訳出されたうえで、日本の論者によってマクルーハン理論の更新、デジタル・アーカイブと公共的理性の行使をめぐる考察が展開されている。目下、世界では、ソフトウェア・スタディーズやデジタル・スタディーズと呼ばれる研究動向が勢いを持ちつつあるが、本書に訳出されたマノヴィッチやフラーは、その代表的な理論家である。『ニューメディアの哲学』のハンセンが述べるように、キットラーやスティグレールらのメディア哲学を経由して、現在メディア理論は新たなメディア論のパラダイムを提起しつつある。その最先端の動向とシンクロしつつ本書も新たな理論的展開を目指しているのである。
あらゆる人々が情報端末を携帯しリアルタイムで世界の情報に結びついて送受信を繰り返すという、人類史上いまだかってなかったメディアの生態系のなかで生きている私たち現代人にとって、身体と権力はどのような関係を切り結び、情動や集団心理はいかに形づくられつつあるのか。第三部では、デジタル時代の性のアイデンティティーやサイバーフェミニズムを問い、デジタルメディアのメディア・エコロジーが提起されている。文化研究の特徴は、それ自体が、ラジオやテレビの「受容」をモデル化することから作り出された「オーディエンス」論であったわけだが、メディア文化がデジタルな情報の流れのなかに成立するとき、情動のポリティクスが浮上してくる。
メディアの批判理論の現在を知るためには不可欠な理論的達成がコンパクトに提示され、外国文献と日本の研究者の論考を編み合わせることで、理論の最前線を示すことに成功している。現代のメディア状況を考えるための格好の論集となっている。
2014年4月10日木曜日
『大惨事と終末論』レジス・ドブレ著 西兼志訳 2014年4月10日、明石書店 石田英敬 解説「カタストロフィーと未来への責任」pp. 137-148
二十一世紀はカタストロフィーの世紀として幕を開けた感がある。大地震や津波やハリケーンのような自然災害であろうと、戦争や宗教対立、科学技術や産業化のもたらす破壊であろうと、金融危機のような情報化や金融化による経済破壊にせよ、私たちはますます巨大なリスクと隣り合わせの生活を強いられることになった。大災厄のサイクルは周期を狭め、人災であれ天災であれ、短い間隔で繰り返すようになった。
現在の世界の不幸は、この混迷を深める時代にあって、私たちが世界の向かう方向を見定める羅針盤をさえ失いかねない精神的、思想的な閉塞のなかにあることにある。
本書はフランスの哲学者レジス・ドブレによって、二〇一一年三月十一日の東日本大震災〈三・一一〉の直後に発表された小冊子の翻訳である。 ドブレ自身が述べているように、三・一一の直後に日本人が示した反応が、このエッセイを書かせるきっかけになっている。
日本人たちが世の無常という仏教的パラダイムをよりどころに大惨事を「平静さと我慢強さ」をもって受けとめ、「あらゆるものの儚さと移ろいやすさに対する仏教的感情」(本書十九頁)を、転変地異に立ち向かう絆のよりどころとしたのをまのあたりにして哲学者は問う。
西欧の精神的伝統を受け継ぐ自分たちは、カタストロフィーに見舞われる世界なかでいかに生き、いかに思考すべきなのか。繰り返される悲劇をどのように乗り越えればよいのか。破壊された世界の廃墟のなかでは、そのように悲しみに打ち勝ち、宿命論や絶望を乗り越えられるのか。それは、人類が経験してきた大災厄のなかで繰り返し問われてきた問いである。しかし、その問いが今また新たに問われるべき時代であると、ドブレは言うのである。
長い歴史をもつ文明は、それぞれカタストロフィーへの向き合い方、乗り越え方を異にしている。
日本人が仏教的無常観をよりどころに大惨事に立ち向かったのとは対比的に、ますます不確実化する世界にあって、ドブレは、西欧人が捉え返すべき精神的態度をユダヤ・キリスト教的な伝統のなかに見いだそうとする。それはカタストロフィーを、現在世界への警告と、次なる世の将来を予告する象徴的なメッセージとして解釈することである。聖書の「黙示録」がそのような世界の捉え方の拠り所となる。そのような精神的態度を賦活するためには、「預言」という活動をあらためて見直すことが必要とも考えている。...
(以下は本書をお読みください。)
2014年3月7日金曜日
「世界が危惧する安倍政権:普遍的価値 見誤るな」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年03月7日(金曜日)朝刊9頁
あなたの国は、いま大丈夫なのかと、外国の友人から心配顔で聞かれることが多くなった。中国と戦争をしたりするのか、韓国とはそんなに仲が悪いのか。今の政権はいったいどんな勢力なのか、など懸念する声は強い。
アジアの同僚たちが参加する国際会議でも、政治や外交がこんな状態だからこそ、学術や文化の交流でお互いに頑張っていこう、私たちの友情は何も変わらないし、知性は愚かさに打ち克つはずだからと励まし合う。危機感はいや増してしているのである。
安倍自民党は昨年七月の参議院選挙に圧勝して両院のねじれを解消し政治的フリーハンドを手中にした。安倍政権が加速させたのは、日本版NSCを発足させ、特定秘密保護法を制定する安全保障体制の整備、さらに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更へという一連の動きである。これらの動きは、四月の消費税増税による景気の減速を見越して依然として高い内閣支持率を維持しているうちに、政治的に争点となるアジェンダをこなそうという意図が透けて見える。
原子力政策の転換、国家主義的色彩の強い教育改革への流れ、十分な議論も行われないままに矢継ぎ早に推し進められている。
クローズアップされてきたのは、安倍首相本人のイデオロギー的地金ともいうべき超国家主義的な傾向である。
もともとそれ自体が保守的な外交戦略である「価値観外交」を主張してきた安倍内閣だが、それでも前提されてきた価値とは、「普遍的な価値」と呼ばれるものであったはずだ。端的に、立憲主義、民主主義、基本的人権、平和と自由という基本的価値のことである。それは歴史的には、第二次世界大戦後の世界秩序を基本構図とするものである。
安倍政権が不分明な態度をとりつづけている論争点はいずれもこの基本的な価値の軸に触れる可能性がある問題ばかりである。
マクロに見れば、「従軍慰安婦」問題は人権問題、「靖国問題」は戦後処理の問題、「領土問題」もまた第二次大戦後の世界秩序の問題である。ミクロに見れば、それぞれについて議論の余地はあろうが、国際政治は何よりも大局であり、基本的な価値軸を見誤るべきでない。
ところが、近代的な「立憲主義」を理解していないような憲法観を首相が表明したり、時の内閣判断で事実上の改憲を行いうるようなことを実行したり、靖国参のような第二次大戦後の世界秩序に挑戦するような行為に踏み切ったりすれば、世界から疑惑の眼差しを向けられること必定である。
首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、どうやら、かなり特殊な価値観にもとづく極端な主張であって、まさしく「普遍的な価値」からの離脱ではないのか、それが国際社会が抱き始めている疑念である。
この意味で、「靖国参拝」は決定的なエラーだったのであり、国際的危惧のレベルは一挙に上がった。
他方、都知事選では極右の候補が六十万票を獲得し、書店に「嫌韓」や「反中」本のコーナーができ、外国人に対するヘイトスピーチが繰り返されたり、「アンネの日記」などの反ユダヤ事件まで起き、極右的オピニオンに対する若者たちの支持が多いと聞けば、政治の上からの右傾化と、社会の下からの右傾化が、呼応しているとも映る。いや映るどころでなく、じっさいにこの国はそこまで来てしまっているのではないかという不安が国内外で一気に拡がっている。
首相が公共放送の経営陣に送り込んだ会長や経営委員が、放送についての無定見な発言をしたり、南京虐殺や極東裁判批判で極右候補を応援したり、天皇の神格性の主張、言論へのテロさえも容認するような発言をしていたとなると、この国の政治状況には、すでにオレンジに近い黄色の危険信号が灯っているのである。
心配なのは、一般世論までがこの政治的な閉塞の袋小路に捉えられてしまいかねないことだ。じっさい、保守系紙は右傾化を煽るか、少なくとも及び腰、週刊誌 扇情的な嫌韓・反中を「売り」物にさえし始めた。メディアのなかに、進歩系日刊紙を狙い撃ちにするような見出しが並び、メディアには反知性主義の気分が蔓延してきている。
政治は決して情動的気分ですませられる問題ではない。政治とは、もっとも根本的な部分で、「理性の営み」であるべきである。戦後政治を築いてきた基本的で普遍的な価値の継承のために、責任あるメディアはいまこそぶれることなく政治的価値判断の基軸を示すことを求められている。
アジアの同僚たちが参加する国際会議でも、政治や外交がこんな状態だからこそ、学術や文化の交流でお互いに頑張っていこう、私たちの友情は何も変わらないし、知性は愚かさに打ち克つはずだからと励まし合う。危機感はいや増してしているのである。
安倍自民党は昨年七月の参議院選挙に圧勝して両院のねじれを解消し政治的フリーハンドを手中にした。安倍政権が加速させたのは、日本版NSCを発足させ、特定秘密保護法を制定する安全保障体制の整備、さらに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更へという一連の動きである。これらの動きは、四月の消費税増税による景気の減速を見越して依然として高い内閣支持率を維持しているうちに、政治的に争点となるアジェンダをこなそうという意図が透けて見える。
原子力政策の転換、国家主義的色彩の強い教育改革への流れ、十分な議論も行われないままに矢継ぎ早に推し進められている。
クローズアップされてきたのは、安倍首相本人のイデオロギー的地金ともいうべき超国家主義的な傾向である。
もともとそれ自体が保守的な外交戦略である「価値観外交」を主張してきた安倍内閣だが、それでも前提されてきた価値とは、「普遍的な価値」と呼ばれるものであったはずだ。端的に、立憲主義、民主主義、基本的人権、平和と自由という基本的価値のことである。それは歴史的には、第二次世界大戦後の世界秩序を基本構図とするものである。
安倍政権が不分明な態度をとりつづけている論争点はいずれもこの基本的な価値の軸に触れる可能性がある問題ばかりである。
マクロに見れば、「従軍慰安婦」問題は人権問題、「靖国問題」は戦後処理の問題、「領土問題」もまた第二次大戦後の世界秩序の問題である。ミクロに見れば、それぞれについて議論の余地はあろうが、国際政治は何よりも大局であり、基本的な価値軸を見誤るべきでない。
ところが、近代的な「立憲主義」を理解していないような憲法観を首相が表明したり、時の内閣判断で事実上の改憲を行いうるようなことを実行したり、靖国参のような第二次大戦後の世界秩序に挑戦するような行為に踏み切ったりすれば、世界から疑惑の眼差しを向けられること必定である。
首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、どうやら、かなり特殊な価値観にもとづく極端な主張であって、まさしく「普遍的な価値」からの離脱ではないのか、それが国際社会が抱き始めている疑念である。
この意味で、「靖国参拝」は決定的なエラーだったのであり、国際的危惧のレベルは一挙に上がった。
他方、都知事選では極右の候補が六十万票を獲得し、書店に「嫌韓」や「反中」本のコーナーができ、外国人に対するヘイトスピーチが繰り返されたり、「アンネの日記」などの反ユダヤ事件まで起き、極右的オピニオンに対する若者たちの支持が多いと聞けば、政治の上からの右傾化と、社会の下からの右傾化が、呼応しているとも映る。いや映るどころでなく、じっさいにこの国はそこまで来てしまっているのではないかという不安が国内外で一気に拡がっている。
首相が公共放送の経営陣に送り込んだ会長や経営委員が、放送についての無定見な発言をしたり、南京虐殺や極東裁判批判で極右候補を応援したり、天皇の神格性の主張、言論へのテロさえも容認するような発言をしていたとなると、この国の政治状況には、すでにオレンジに近い黄色の危険信号が灯っているのである。
心配なのは、一般世論までがこの政治的な閉塞の袋小路に捉えられてしまいかねないことだ。じっさい、保守系紙は右傾化を煽るか、少なくとも及び腰、週刊誌 扇情的な嫌韓・反中を「売り」物にさえし始めた。メディアのなかに、進歩系日刊紙を狙い撃ちにするような見出しが並び、メディアには反知性主義の気分が蔓延してきている。
政治は決して情動的気分ですませられる問題ではない。政治とは、もっとも根本的な部分で、「理性の営み」であるべきである。戦後政治を築いてきた基本的で普遍的な価値の継承のために、責任あるメディアはいまこそぶれることなく政治的価値判断の基軸を示すことを求められている。
2013年12月18日水曜日
「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 日本記者クラブ
「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 配布資料
「ディジタル時代に公共圏を再定義する」(抜粋)
石田英敬(東京大学)
0 現状分析 「世界の別の別の回転」
「帝国」以後/ 「ポスト帝国」以後
1) 戦争秩序の破綻 → ポスト帝国以降 (中東危機)
2) 生政治の破綻 → 「オバマ・チェンジ/日本の政権交代」失敗以降
3) 表象によるメディア統治(gouvermédiabilité)の破綻 → ポピュリズムの短期化
4) 主体性の危機/象徴的貧困の進行 (メディア変動と深く連関)
5) 金融資本主義の危機/リーマンショック後の世界(ソブリン危機の慢性化)
1 公共空間の転換期
「公共空間」とは、ここでは、ごく単純に、メディアを通して「公共の事がら(=政治)」を議論するための報道と言論による媒介空間のことであると述べておこう。
グローバル化とは何よりも情報〈の/による〉世界化だった。「グローバル経済とはリアルタイムで地球規模でひとつの経済として機能しうる経済」であり、「世界経済が情報コミュニケーション技術という新たなインフラストラクチャーによって真の意味でグローバルになったのは 二十世紀末をまって」 (Manuel Castells The Network Society) である。冷戦終結を起点にして現在にいたるまで形成されてきた情報の世界秩序もいま転換期を迎えている。
1) 世界市場化と画一化
2) グローバル秩序とイメージの力
3) ドメスティケイトされる公共空間
4) メディアによる統治(gouvernemédiabilité)
5) 情報秩序の再組織化
1990年代以降の情報のグローバル化は、もちろんインターネットの形成期でもある。情報コミュニケーション・テクノロジー(ICT)の革命なしに今日のグローバル化はない。しかし、およそ二十年間にわたって、およそあらゆる情報が投げ込まれネット上に浮かぶようになった結果、現在起こりつつある事態とは何だろうか。
インターネットの第一期とは異なり、現在進行しつつあるのは、ネット環境の「再組織化」である。そしてネットに限らず、あらゆるメディアがICTをプラットフォームに再組織化されていく。グーグルに代表される検索エンジンによって、グローバル化した世界の情報が技術的に秩序づけられていく。「セマンティック・ウェブ」と呼ばれる技術によって、意味論的に秩序づけられていくのである。グローバル化の意味論(セマンティクス)自体が、ウェブの組織原理の技術的再編と重なっていく。Web2.0や3.0とは、そのようなウェブの再組織化の動きだった。次に「ビッグデータの時代」が来て、「政治マーケティング」などが基本的な政治ツールとなった。
ネットが基盤となって公共空間の再編が進んでいく。放送と通信の融合にしても、新聞とネットとの連動にしても、ウェブを基盤として他のメディアが組織されなおされていくことを予告している。「公共空間」の大きな変容のモーメントがそこには見えているといえる。現在いえることは、放送・活字とネットという三次元の「公共空間」へと移行しつつあり、ネットは、グローバル化世界を意味環境化する基幹テクノロジーとして機能し始めているというぐらいである。
ネットへの移行はマスメディアのゆるやかな解体を伴っている。「情報はタダ」という時代をまえに、大メディアはビジネスモデルの不在に頭を悩ませている。アクセス数における「ショートヘッド」(アクセス数の集中する数少ないサイト群)の位置を占めるべく大メディアは競争を繰り広げている。 他方、確実に発達したのは、マーケティングの技術である。政治自体の「情報テクノロジー化」である。ネットがもたらしたのは、「情報空間の組織の仕方」自体が「政治の実践」となる時代の到来である。
(ネットに取材し、(マス)メディアが伝え、アジェンダ化する、という流れが、一定程度定着)。(この場合、ネットはオールタナティヴというよりは、ポピュリズムの温床)。
戦争とともに形成されてきたグローバルな情報秩序の綻び。内向化され消費文化に浸されてきた人々の意識の危機。さらに、金融資本主義が破綻し資本主義の大変動期を迎えることになった。それらは現在起こりつつある「公共空間の転換期」を示している。
2. <政治>の危機と<社会的なもの>の浮上、そして<ネット>の浮上
1)「権力のメディア的変容」の綻び(「大統領型」統治の終焉)
2)「テレビ的代表具現」
3)「テレビにおける公共性の再転換」?
4)「社会」の再—発見(La nouvelle question sociale)
5)「ネット・ポピュリズム」の浸透
3. ジャーナリズムの情報オントロジー
現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介するというのが、規範的な意味での〈ジャーナリズム〉の活動。
私は、記号学・情報学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報存在論(オントロジー)」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
「新しい出来事」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は、「ニュース」という「新しい知らせ」の「主題(テーマ)」へと書き換えられ「伝達」の回路に導き入れられる。その「主題」は「話題(トピック)」となり、「交換」の場へ「流通」のために差し向けられる。「話題市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはおよそこのように出来ていると考えられる。
すぐれた報道やスクープには、新しい情報価値の「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。
現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出される。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を人びとに向けて開く契機が胚胎している。「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter -
esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」への開かれにあるだろう。発見された「問題」は、ニュースの「主題」になり、次に「話題」になり、ついには「社会」にとっての「課題(アジェンダ)」になるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
しかし、現代生活の「自己充足」したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される傾向がある。前回述べたような世界化の情報秩序は、そのようなニュースのグローバル市場化の動きを加速させた。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、原理的にいってそれらはすべて既知となった「情報」である。しかし、新しい情報や知識を抽出してくる生産のプロセスが、そこでは不可視化される。
「取材力」という資源
しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す能力に関して言えば、公共マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大な人的リソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題は情報流通の経済にある。
「事実」に対する合致を通して「情報価値」を生み出す力をメディアは源泉とすべきなのである。そこから逆算して、どのような情報の流れの集密度を達成するかが、それぞれのメディアの経済的なポジションを決めるだろう。現在のように社会が危機を迎え、ひとびとの生活世界にメディアが触れるときこそ、ジャーナリズムを再定義する「情報オントロジー」が求められているのだと思われてくる。
4. 公共空間の解体
1)「生活情報」化
2)紙面という「媒介システム」
3)「一覧性」や「実時間性」
4)「実世界性」
一覧性
新聞の情報一覧性についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
たしかに、社会の関心事を共有する平面をもつとは、「公共性」の条件である。右に述べた、紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。
ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられている。
こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動である。
問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生ー政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの公共空間の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。
いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。
実世界/実時間への現前
テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。ヴァーチャル化のメディアが登場するにつれて、テレビの特性とは、そのリアルタイム性、実世界との同時的な接触にあることはまちがいない。活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 バーチャル化の時代には、アーカイブを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。「時間」と「アテンション」のエコノミーが、語られる現在、これは極めて重要な社会の争点である。
5. 公共空間を編み直す
1)ボトムアップとトップダウン
2)ネットを編み直す
3)批判テクノロジーと参加型民主主義
ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。
ボトムアップとトップダウン
ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。
ネットを編み直す
情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられる。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべき。
批判テクノロジーと参加型民主主義
マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。「参加型民主主義 Démocratie participative」)が、争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。
参考論考:
(1) 「テレビ国家(1):権力のメディア的変容について」、『世界』、岩波書店、No.753, 2006年6月号,
pp. 49-57
(2) 「テレビ国家(2): 公共空間の変容について」、『世界』、岩波書店、No.754, 2006年7月号,
pp. 138-146
(3)「テレビ国家(3): 政治の変容について」、『世界』、岩波書店、No.756, 2006年9月号,
pp. 41-49
(4) 「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 2006年10月号,
pp. 104-112
(5) 「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 2006年11月号,
pp. 153-161
(6) 「公共空間の再定義のために(1)二〇〇八年の政治メディア状況」、『世界』、岩波書店、No.779, 2008年6月号,
pp. 71-80
(7) 「公共空間の再定義のために(2)回帰する社会」、『世界』、岩波書店、No.780, 2008年7月号,
pp. 103-112
(8) 「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年8月号,
pp.79-88
(9) 「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年9月号,
pp. 112-121
2013年12月9日月曜日
「読書の未来」、立花隆『読書脳:ぼくの深読み300冊の記録』巻頭対談、 350頁、2013年12月9日、文藝春秋 刊、pp. 13-45
石田
私は一九七二年に東大に入ったんですが、立花さんはよくご存じのように、その頃は学生運動がどんどん暴力的になって、対立するグループの抗争が激しくなった頃でした。実は、立花さんの『中核vs.革マル』(講談社文庫)に私の名前が出てくるんですよ。「石田君」と。
立花
えっ。
石田
インターネットで「石田英敬」を検索すると出てきますよ。当時の内ゲバで、中核派に友人が二人殺されました。その話が立花さんの本に出てくるんです。
立花
そうなんですか。石田さんとは何度もお会いしていますが、そういう過去をお持ちと
は、全然気づきませんでした。
石田
その事件の後、私は日本にいられなくなって、七五年にパリに留学したんです。
立花
そういうことだったんですね。留学中は、石田さんも相当ディープリーディングしたんじゃないですか。
石田
そうですね。生きていることの意味をかみしめながら、毎日、一人でひたすら本を読む日々でした。当時読んだもの中で、とくに印象に残っているのは、Deleuze の Nietzsche et la Philosophie(邦訳『ニーチェと哲学』河出文庫)です。そζこに語られていたのは、肯定の思想で、へーゲルやマルクスの否定の弁証法に親しんでいた私には衝撃的でした。当時のパリはいまでいうととろのポスト構造主義の絶頂期で、ミシェル・フーコーやドゥルーズが活躍していました。私もコレー ジュ・ド・フランス(フランス最高峰の高等教育機関。講義は公開)に出かけていってフーコー の講義を聴いたり、ヴァンセンヌの森の大学(パリ第八大学)に行ってドゥルーズの講義を聴いたりしたんですが、そうした経験のおかげで、私はパリで新たに思想を発見することができたんです。それがいまの自分の研究の出発点になっています。関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2013/03/2013318-nietzsche-et-la.html
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