2016年2月19日金曜日

『デジタル・スタディーズ討議 2016 デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉 』

iii Digital Studies Conference  2016
情報学環『デジタル・スタディーズ討議 2016

Dream and Power in the Digital Age
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉


スリープ・モードの浅い眠りの下で駆動しつづける夢の機械状ネットワーク・・・。デジタル・テクノロジーはいまやヒトの〈夢の領域〉へ侵入し、〈24/7〉の生の管理を貫徹しようとしている。
自動化するハイパー・コントロール社会において、〈ヒト〉の意識、身体、記憶の再-布置化は可能なのか?予測不可能なカタストロフィーに脅かされ、コミュニケーションが感染化する社会において、個と集団、労働と生、時間-空間の、リビドー経済的- 政治経済的な再-組織化の条件とは何か?
  『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』、『デジタル・スタディーズ3 メディア都市』(東京大学出版会 2015)全三巻刊行を記念し、内外の代表的理論家・クリエーターを迎えて「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」を徹底討議する。


開催日:
312日 () 13:00-18:00
313日 () 13:00-18:00

会場:
東京大学本郷キャンパス 福武ラーニングシアター B2

使用言語:
日本語 / フランス語(日仏同時通訳付き)

申込み:
事前申込制(先着順) 定員170   
*定員に達し次第締切

申込方法:
下記、フォームよりお申し込みください。
*申込後、数日経っても返信がない場合は下記へお問い合わせください。
        E-mail: iii.digital.studies.conference@gmail.com
        TEL: 03-5841-2613

会費:
無料

資料代:
1,000円(希望者)

主催:
東京大学大学院情報学環メディアコンテンツ研究機構
共催:
東京大学大学院情報学環駒場


【プログラム】

第一日目 2016 312()

総合テーマ
デジタル現象とメタ美学

導入講演 - 13:00~13:30
石田英敬(東京大学)
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」

基調講演 - 13:30~14:30
ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーIRI
「自動化社会」

ラウンド・テーブル1 - 14:45~16:15
藤幡正樹(アーティスト)
「藤幡正樹作品 アナルシーヴ: デジタルアートのアナルケオロジーのために」

ラウンド・テーブル2 - 16:30~18:00
三輪眞弘(IAMAS)+佐近田展康(名古屋学芸大)
「フォルマント兄弟の15年: デジタル・ボイスの器官学のために」


第ニ日目 2016 313()

総合テーマ 
ハイパー・コントロールと自動化社会

オープニング・アドレス - 13:00-13:40
キム・ソンド(高麗大学校)
 「『感染』の超域研究のために: 記号学人類学的アプローチの視座」

ラウンド・テーブル3 - 13:45~15:15
伊藤守 (早稲田大学)+吉見俊哉 (東京大学)+ キム・ソンド
「破局・感染・記憶」

ラウンド・テーブル4 - 15:30~17:00
ベルナール・スティグレール北野圭介(立命館大)+西兼志(成蹊大)
「ハイパー・コントロールと自動化社会」

総括セッション - 17:00~18:00


Program

1st Day - Saturday, March 12  2016


General theme
Digital Phenomena & Meta-Esthetics

Introduction- 13:00~13:30
Hidetaka Ishida (U-Tokyo)
Dream and Power in the Digital Age

Keynote - 13:30~14:30
Bernard Stiegler (IRI-Pompidou)  
Automatic Society

Round Table1 - 14:45~16:15
Presentation: Masaki Fujihata (Artiste)
Anarchive for Masaki Fujihata’s Work:
         Toward an Anarcheology of the Digital Art

Round Table 2- 16:30~18:00
Presentation: Masahiro Miwa(IAMAS) & Nobuyasu Sakonda (NUAS)
The 15 years of the Formant Brothers:
          Toward an Organology of the Digital Voice


2nd  Day   Sunday, March 13  2016

General theme
Hyper Control and Automatic Society

Opening Address - 13:00-13:40
Kim Sungdo (The Korea University)
‘Contagion' une recherche transdisciplinaire:
                     une perspective sémio-anthropologique”


Round Table 3 - 13:45~15:15
Mamoru Ito (Waseda Univ.), Shunya Yoshimi (U-Tokyo),Kim Sungdo
Catastrophe Contagion Memory

Round Table 4 - 15:30~17:00
Bernard Stiegler,Keisuke Kitano (Ritsumeikan Univ.),Kenji Nishi (Seikei Univ.)
Hyper Control and Automatic Society


Closing Session - 17:00-18:00

2016年2月15日月曜日

北海道新聞コラム「各自核論」2016.02.13

北海道新聞コラム「各自核論」2-16.02.13



「メディアと政治」

    権力介入に監視の目を

 安倍自民党のメディア戦略は相当に狡猾で組織的である。政策はつねにメディア戦略と表裏の関係で打ち出され、選挙を意識してプランニングされている。
 自民党の対策チームは、ネットの動向をつねにウォッチしているし、独自の世論調査にもとづいて政治プログラムのタイミングを見計らっている。小泉時代のような政治家個人の資質ではなく、大手広告代理店がつき、専門家集団が組織として実行しているメディア戦略なのである。
 そのような政治のあり方は、国際的には現代政治の常識ともなっているプロパガンダ広報技術なのだが、問題なのは、野党や市民社会やメディア・ジャーナリズムが、受け身の対応に終始して、いいように「なされるがままになっている」ことである。
 「アベノミクス三本の矢」にしても、「女性が輝く社会」にしても、「一億総活躍社会」にしても、メディア・ジャーナリズムは、アジェンダ(政策課題)を鵜呑みにせずに、もっと、それらのプロパガンダとしての側面を鋭く分析して、政府自民党のメディア戦略の狙いを示すべきである。
 他方、そのようなある意味で「巧妙」なメディア戦略と並行して、「粗暴」なメディア界への介入の際立っている。
 それは、二〇一四年にNHKの会長に、安倍首相に近い、放送法の基本をもわきまえていない人物を任命し、側近を経営委員に据えて、公共放送に公然と介入をおこなったことに始まった。
 同じ一四年には、「従軍慰安婦」報道と福島原発事故「吉田調書」報道をめぐって起こった「朝日新聞」問題では、首相に近い右派メディアによる朝日バッシングが沸騰し、新聞ジャーナリズムの存立が問われた。
 昨夏には、安全保障関連法案をめぐって、国会の内と外で近年にない政治的な対決が繰り広げられメディア界の論調も二分されたが、その間にも、やらせ問題やコメンテータの発言問題をきっかけに、政府自民党によるテレビ界への介入が目立つようになった。
 その結果、衆参ダブル選挙もささやかれ、憲法改正が争点として浮上しつつある、今夏の参議院選挙を控えて、リベラル系とみなされるテレビ局のニュース番組で、キャスターがいっせいに交替するという奇妙な光景を私たちは目にしている。
 実際、NHKの「クローズアップ現代」は、二十年以上継続してきた社会報道番組であり、テレビ朝日系列の「報道ステーション」は、一九八五年開始された久米宏の「ニュースステーション」を受け継いだ報道番組。TBS系列の「News23」は、一九八九年開始の『筑紫哲也ニュース23』を受け継いできた看板番組である。これらは、日本のテレビ・ジャーナリズムの屋台骨を支えてきた代表的な報道番組である。
 「クローズアップ現代」の国谷キャスターは、日本のテレビでは数少ない、外国要人への直撃インタビューもできる実力派のテレビジャーナリストである。「報道ステーション」の古館キャスターの番組は、多様なコメンテータによる立体的な構成が売りであった。ところが、「News 23」の岸井キャスターに対する右派キャンペーンのように、現政権に近い右派勢力からの攻撃のなかで起こった、それぞれの番組の模様替えである。
 昨年来、自民党は、NHKやテレビ朝日を呼び出して聴取を行うなどのほか、NHKと日本民間放送連盟でつくる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)について政府が関与する仕組みの創設を検討するなどの介入を行ってきている。
 それぞれの番組の個別の事情は異なるのであろうが、この二、三年来の第二次、第三次安倍政権とメディアとのマクロな流れからいえば、今回の動きは、明白にジャーナリズムの自律性を抑制する力学のなかで起こってきているものであるといえる。
 巧妙な広報戦略により政権党が一人勝ちし、メディア界が露骨な介入により「自発的隷従」に追い込まれる。そのような閉塞に陥らぬためにも、メディア関係者も市民も、十分な監視の眼差しを現在起こりつつある権力とメディアの問題に向けるのでなければならない。

2016年1月5日火曜日

石田英敬 オリジナルブログ記事 連載(1)


〈21世紀ファシズム〉の集団心理学


Ur-Fascism speaks Newspeak.
Umberto Eco  

 昨年秋にブログを公開して以来、ときどきはオリジナルのブログ稿を載せると宣言していながら、前回掲載から数ヶ月を経てしまった。一年の計は元旦云々というが、今年はもう少し頑張れればいいと思う。
 「〈21世紀ファシズム〉の集団心理学」という暫定的に擬古風な総題で、何回か分載してみることにしよう。
 〈21世紀ファシズム〉は山括弧(〈 〉)付きで、新しい世紀はどうやら新たな形態の〈ファシズム〉に向かいつつあるのではないのか、という、いま物を考える世界の人びとが、共通に危惧している問題の提起である。
 集団心理学には、引用符(” “)をつける。この捻(ひね)くれた引用符は、二一世紀のネット時代に「集団心理学」のようなものはどのようなかたちをとるのだろうかという認識論の疑問を含意している。フロイトの「集団心理学と自我分析」(1921)を意識している。しかし、そもそもフロイトの用語ではない。かれが集中的に参照しているGustave Le Bon (ヒトラーもゲッペルスもムッソリーニもルーズベルトもバーネイズも「熟読」した)や、あるいはGabriel de Tardeの提起した問題系が参照されている。
 私は決してフロイディアンはない。しかし、それでも、今日あらためて、一世紀前にフロイトに「集団心理学と自我分析」(1921) を書かせた動機を捉え返しつつ、一世紀後の今の時代に起こりつつあることを理解すると、今の世界を理解するため重要な手掛かりが見つかると思っている。
 いずれまとまった論考として刊行するかも知れないが、一種の準備稿のようなものだと、ご理解いただければと思う。随時改稿していくので決定稿ではない。
 
さて 第1回の今回は、

 「フランスの〈11・13〉以降」の世界


 フランス、パリの2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件は、あらためて世界が迷い込んだ暗闇の深さに人びとを震撼させた。
 私も大きな衝撃を受けたが、それはフランスのパリを仕事柄、比較的よく知っているからとか、じっさいに親しい友人・知人や親族がそこで暮らしているからだけではない。リアルタムで事件のネット中継を見ている東京の私たちの現実とそこが地続きで経験されていることを実感しているからである。たんにコミュニケーションとして接続しているからというのではなくて、そこで噴出している問題そのものが、いまここ日本で起きている問題と地続きなのである。
 本稿はその「問題の地続き」について書くものだが、その前に、幾つかの傾聴すべき声を紹介しておく。

I  いま〈知性〉の声を聞く

 ド・ヴィルパン元首相

 フランスの元首相ドミニック・ド・ヴィルパンは、外務大臣時代に2002年の国連安全保障理事会でイラク戦争に真っ向から反対する演説を行って有名になった。彼は、昨年のシャルリ・エブド事件以前から、「テロとの戦争」を口にし始めたオピニオンに対して警告を発している。「テロとの戦争」という西側の爆撃は現地の過激派を増やすだけで、住民の被害を拡大し難民を増加させ出口のない憎悪の連鎖を招くだけであること。中東では、ドゴール時代から築かれてきた外交の遺産を活かしてアメリカとは一線を画した外交政治を展開して地政学的な安定勢力たれというのが、まさにシラクを継ぐドゴール主義者としての明確で説得的な主張である。とくに、20149月に放送されたテレビ番組(France 2 “Ce soir ou jamais” )での発言は〈1113〉後のフランスでは何度も視聴し直されている(http://www.dailymotion.com/video/x26sp1d_dominique-de-villepin-a-propos-de-daech-l-etat-islamique-et-la-guerre-dite-contre-le-terrorisme-6-mi_news)。
 フランスは「戦争状態」にあるとして、左も右も「テロとの戦争」へとひた走ろうとする現在のフランス政治界にあって、まさにこうしたドゴール主義の伝統を活かそうという明晰な知性の声がかき消されている現状をどう考えるべきだろうか。
 これを私たちの国が向かいつつある方向と比較して理解すると何が見えてくるだろうか。「戦争をしない国」という戦後の平和主義が蓄積してきた信頼資本をわけもなくなげうって、テロとの戦いなどに参加しようなどと愚かな政治家が登場している我が国の情況を重ねて見るとどうだろうか。

 2 経済学者トマ・ピケティ

 昨年、『二一世紀の資本』が世界的なベストセラーとなった経済学者のトマ・ピケティは、すでに朝日新聞にも抄録された記事(Le Monde紙 20151121日)で、治安と武力による対応では問題は解決できないことを説いて、背景にある地政学および経済社会の問題を指摘している(「朝日新聞」、2015121日付朝刊、ピケティ@コラム)
 テロの背景には中東地域の巨大な経済格差があり、西欧諸国にはそれを生み出した大きな責任がある。「イスラム国」を生み出したのも、もとはといえば、イラクをつくりだした1916年のサイクス・ピコ協定があり、それもまた西欧の責任だとピケティは言う。
 さらに、1991年の湾岸戦争以来の非対称な戦争があり、それはつまり、石油資源を中東の首長たち、つまりは西側資本に取り戻す戦いでしかなかった。中東地域の3億人の人口に対する富の分配を見れば、この地域の石油資源を有する人工1割に満たない君主国が地域GDP6割から7割を占めているという。それらの君主国の内部でも、一部の人びとが富を独占して、移民や女性など大多数は奴隷状態。そこでもまた西側の資本家たちが武器を売りつけたり、サッカークラブの運営資金を仰いだりと、結託しているわけだ。
 選挙で民主的に選ばれた政府を西欧の黙認下で軍事クーデタで倒したエジプト民主革命の顛末を見れば明らかなように、西側の民主主義の欺瞞性は中東地域では人びとの目に明らかだ。
 他方でヨーロッパとくにフランスにおけるアラブ系の失業や就職差別をみればテロリストをそのなかから生み出すことになっても不思議はない。リーマンショック以前の欧州経済では年間100万の移民を受け容れかつ失業は減っていた。各国政府の緊縮策が、国家のエゴイズムを高め社会的包摂を疎外して、アイデンティティの緊張を高めた原因である。
 このようにピケティは分析している。ここにもまた、私たちの国の状況との共通要素を幾つもみとめることができるではないか。中東で西欧と足並みをそろえることの歴史的意味、石油資源問題の含意を私たちはよく考えているか。社会的寛容の劣化、ネオリベラリズムの支配とナショナリズムの上昇もまた私たちの国に共通した状況ではないか。

 3  精神分析家 フェティ・ベンスラマ

 精神分析家のフェティ・ベンスラマはチュニジア出身で、イスラムおよび一神教の問題について精神分析からのアプローチに永年取り組んできた。1113日の事件が起こる直前の12日に応じたインタビューが(Le Monde 20151113日)、「ジハディスト」と呼ばれる聖戦のにわか戦士に突如変貌して、自爆テロに及ぶ、フランスの若者世代の「過激化」の心理を説明したものとして注目された(岩波『世界』1月号にその後訳出された)。「過激化」したと見なされた若者の大部分が一五才から二五才の若者たちで、アイデンティティ・クライシスのただ中にある年頃の若者たちだ。精神分析によるアプローチの特徴は、これを個と集団とを結びつけ人間の自己形成にいたる「理想」にかかわるトラブルと考えるところにある。
 ジハードへの誘いは、アイデンティティの深刻な欠如に悩む若者たちを捉えて、興奮剤ともなりうる。イスラムについてとくに詳しい知識はなくても、ネットで簡単に手に入れられる薬剤のようなものである。宗教にとくに興味を持っていなかった若者が、突如として、「超ムスリム」になったりするのである。
 他方で、その理想の危機の根源には、歴史的なトラウマとの関係もあって、1924年の「イスラム帝国」の滅亡のトラウマとの関係もベンスラマは指摘している(第一次世界大戦後のトルコ・オスマン帝国の解体とアラブの反乱とその結末)。そこに突如として、近代的価値を飛び越えて「超ムスリム」化する過激化の原理が潜んでいると述べている。
 大江健三郎の「政治少年死す」のような過激化の論理が働いているとも受けとめられるが、形は異なるとはいえ、過激化の心理的機制はむしろ普遍的なものともいえるのではないか。
 我が国においても「右傾化」する若者たちの動機に、アイデンティティ・クライシスと、それゆえの代償行為としても「日本」への回帰があるとすれば、その部分については、既視感のある分析が述べられているといえるだろう。

 4  哲学者 ベルナール・スティグレール

 哲学者のベルナール・スティグレールは、フランスの「われわれ」が「戦争状態」にあるという認識自体を忌避している(ド・ヴィルパンも「戦争」と考えることを拒絶している。それこそISが望むところだ、と。)。戦争があるとして、それは「経済戦争」であり、「私」のではなく「彼ら」の戦争である、と( Le Monde 1119)。言わんとするのは、ネオリベラリズムの世界化が引き起こしている「彼ら」の戦争であって、その被害者が「私」および「私たち」なのだという。
 世界的な経済戦争人びとを巻き込み、世界全体が内戦化しつつある。
 これは、経済の戦争であって、雇用が崩壊しとくに若い世代にとって大失業時代が待ち受けている(最近日本でもようやく議論が始まったが、ロボットや人工知能の発達によって、今後20年のあいだに先進産業国では雇用の50パーセントが失われ、中産階級が消滅すると予測されている)。絶望が暴力を生む。希望がない世界こそが、自爆攻撃という名の「自殺」の意味であり、若者たちは未来に希望がないことをよく見抜いている。オランドもサルコジも若者たちに未来への本質的展望を与えようとしない。その愚かさこそ、真の原因であり、それに向き合わぬからスケープゴートを探すことになる。
 ジハディストの『わが闘争』の書と言われる、アブ・バクル・アル=ナジ(Abu Bakr Al-Naji サダム・フセイン時代の工作員でイスラム原理主義者となった複数の著者によるものとの説もある)の『野蛮のマネジメント(The management of savagery)』という書を読むと、地域市場で企業が代理店をどのように開けばいいのかを教えるマニュアルと同じ書かれ方をしているのが分かる。暴力のフランチャイズ化。蛮行でまず地域をカオスに陥れ、主導権を握り、権力を丸取りせよという指南の書なのだ。
 このアグレッシブなやり方は、情報化時代のそれだ。デジタル革命はあらゆる産業の前提をひっくり返して、技術革新による社会システムの「破砕」が、猛スピードで暴力的に進んでいる。『野蛮人襲来 Les arbares attaquent』というサイトがあるが、そうしたやり方の指南マニュアルを掲載している。『黙示録の四騎士』と呼ばれるGoogle, Apple, Facebook, Amazonの支配が急速に拡がり、技術革新が猛スピードで進んでいて社会システムが追いつかない。この「大断絶」のなかで、人びとが何が起こっているのか分からない大混乱のうちに、市場を丸取りしていくIT化が進行しているのだ。UBER(自動車配車ウェブサイト及び配車アプリ)のようなサービスの進行がその例である。
 テロの問題は宗教問題ではなく、フランスの地方議会の銃撃大量殺人やアメリカやカナダやヨーロッパ各地で起きている大量殺人のことを考えればわかるように、「絶望」問題なのだ。
 デジタル革命という未曾有の技術革新の大変化による社会基盤の崩壊、大失業時代の到来、希望の喪失、そこにこそ現在の世界の混迷の文明的原因があるという見方は、私たちの国にも十分に実感される。私たちの社会も経験してきた、希望のない若者による無動機殺人、大量殺人、あるいは、暴力的に進む市場原理の支配。市場原理の貫徹と加速と鏡的に反映しながら、暴力のスパイラルも競り上がってきているのである。

II  〈世界危機〉の構造

  1 同じひとつの〈危機〉

 以上、昨年11月の事件直後に聴き取られた何人かの発言を不十分ながら要約してみた。
 それ以後、フランス政府は、ロシアとさえ手を結んでシリアのISへの空爆を強化してきた。オランド大統領は、西側諸国の同盟をアピールするとともに、「非常事態」を継続すると同時に、非常事態条項の強化のための「憲法改正」をアジェンダ化して、そのなかには「国籍剥奪」条項の拡大による二重国籍者の排除等が盛り込まれ論争を呼んでいる。
 その間にも、シリア難民問題がヨーロッパではナショナリズムの台頭に拍車をかけ、フランスの12月の州議会選挙では極右政党FN(国民戦線)が第1回投票の得票数において事実上の第一政党となった。
 あるいはさらに中東地域では、ロシアとトルコとの紛争、より最近は、イランとサウジアラビアの対立の拡大というように、中東の火薬庫はさらに危険な様相を呈してきている。
 この稿の目的は、しかし、11月のフランスのテロを説明することを主たる目的としているわけではない。むしろ、その「フランスの危機」を題材としたときに見えてくる、ここ日本を含む、私たちの世界の共通した危機状況を考える手掛かりを見いだそうという目的でこれを私は書いているつもりだ。
 すでに上の要約中でも随所で言及したように、彼の地で起こっていることは、ここ日本でいま起こっていることと、文字通りに地続きの関係にあることが見えてくる。

 2  世界化する〈愚かさの政治〉

 2002年の国連安保理でドゴール主義者の面目躍如とする戦争反対演説で世界に知られた元首相は、私などから見れば、フランスの現在の政治家のなかでも群を抜いて明晰で知性に富み、最もフランス大統領にふさわしい人物と思われる。しかしながら、彼の地でも、政治家に知性と教養が求められる旧き良きフランスの時代は終わり、ポピュリスト政治家が実権を握るようになった。ド・ヴィルパンを追い落としたのは、実に品のないポピュリストでネオリベ政治家のサルコジだったし、そのサルコジに代わって大統領に就いた社会党のオランド大統領もまた思慮と教養に欠けるなんともカリスマ性に欠ける凡庸な政治家でしかない。政治家の質の劣化が甚だしいのである。
 凡庸な政治は、一元化した世界を前に、思考停止している。ド・ヴィルパンが言うように、現在の世界の混迷は、第一次湾岸戦争にまで遡る。ブッシュ父子の「アメリカの平和」に随伴することが、フランスの外交ではなく、アメリカとは異なるドゴール外交による中東地域での外交的信頼という遺産を活かせ。政治的・外交的努力にフランスは注力せよ。武力での攻撃は、暴力の連鎖を引き起こすばかりで解決にならない。そう繰り返す、ド・ヴィルパンの発言は、それをそのまま、私たちの国の議論に書き換えることができる。
 「湾岸戦争のトラウマ」に突き動かされて、歴史的にも地政的にもまったく異なる文脈に属する日本が、アメリカの「テロとの戦争」に随伴することは、平和への貢献ではない。帝国主義期の歴史的過去の負の遺産をこの地域でもたず、戦後は平和主義によって外交的信頼を蓄積してきた国が、その信頼というキャピタルを無闇に投げ出して、アメリカの戦争と歩を合わせるようなことは、平和への貢献ではない。
 そのような基本的判断力を政治家たちが失って、気骨のある戦後政治の政治家たちが退場し、ポピュリスト政治家たちが跋扈して、思慮を欠いた「価値観外交」などを主張するようになった。
 直近の中東情勢と見るにつけ、中東の火薬庫化に歯止めはかからず、ふたたび「テロとの戦争」の名のもとに、ISへの空爆からさらに多国籍軍の派兵のようなことへと発展しかねないだろう。
 NATOはすでに「集団的自衛権」を発動してISに空爆を加えているが、私たちの国の昨年夏の「安保法制」問題は、じつにタイミングよく(!)、現下の世界情勢に応えようとするものだったというわけである。
 それはまた、私たちの国もまた、思慮を欠いたポピュリスト政治家たちの一元的思考にミスリードされて、平和国家としての歴史的信頼を投げ出して、出口のない世界の暴力の連鎖へと呑み込まれていくことを意味している。
 そしてまた、愚かなポピュリスト政治家たちほど、「非常事態」を好む傾向があって(ブッシュJr. を想い出そう)、オランドはフランス共和国憲法を改正して、「非常事態」状況を強化して、さらに、二重国籍者からは「国籍剥奪」を可能にする改正を導入しようとしている。
 ときあたかも、どのかの国の愚かな首相と与党もまた、「憲法改正」の糸口に、「緊急事態条項」を導入しようなどと考えるにいたっている。
 「特定秘密保護法」、「安保法制」、「緊急事態条項」.. と、その間にも知性を欠いたポピュリズム政治によって、立憲主義・民主主義・平和主義という戦後日本政治の根幹がなし崩しにされていこうとしているのである。

 3 世界規模の〈格差〉が生むテロ

 いかなる理由にせよ、無実の人びとが平穏に暮らしているのを銃撃して無差別に殺戮することが、どの世界であろうと許されるわけはない。
 残念ながら、そのような無差別の殺戮は他の場所でも頻繁に起こっており(例えば2014年夏のパレスチナ・ガザ地区)、それが世界的なニュースになるか否かにも、「平和」な先進国と、世界の紛争地域との非対称性は顕著である。しかしながら、ひとつの虐殺が別の虐殺の犯罪性を打ち消すことはない。
 あくまで、問題としたいのは、原因と理由についてである。すべての出来事には、それが起こる理由がある。その理由を理解しようとすることが、倫理的に断罪したり、あるいは逆に弁護したりすることに先行するべきである。
 そして、イスラム原理主義とそのテロには、やはり、はっきりとした、歴史的、構造的な理由がある。
 ピケティもベンスラマも言うように、中東地域が火薬庫であることには、はっきりとした歴史的理由がある。専門家をのぞけば、それを、日本の私たちは、あまりに知らなすぎる。第一次世界大戦とアラブの反乱、オスマン帝国の解体と帝国主義的分割による国境線の画定、英仏による保護国化、イスラム帝国の滅亡・・・。パレスチナ問題の起源でもある、このつい最近の世界の歴史の理解は欠かせない。
 そしてさらに、ピケティの言うように、その中東地域において石油資源が一部の王族の手に握られて、地域の富の分配は極端に不平等であり、それに欧米先進国の多国籍企業が群がり、民主主義という価値もエジプト革命のようにダブルスタンダードであるという構図があれば、この世界の「正義」とは何かが、ド・ヴィルパンの言うように、地中海の此岸と彼岸では、正反対の感覚を持つということが起こっても、とくに不思議はない。
 歴史的な不正義と世界的な格差がテロを生み出す元の構図にはあり、さらに、そのために紛争や迫害や貧困を逃れてヨーロッパへと逃れた移民の第二第三世代を差別や経済的および文化的な格差が待ち受けているとすれば、このいかにも何重にも「重層決定された矛盾」が、現在の暴力の連鎖を生み出していることは理解するに難しくないのである。

 4 〈希望のない世界〉の若者たち

 昨年一月の『シャルリー・エブド』紙襲撃事件のときにも、すでに、私は以下のように書いていた -
 「事件が明るみに出したのは、一方における、訓練を受けたテロリストとしての手口の周到さ冷酷さ。他方における、それとは対照的な、犯人たちの驚くべき軽さである。
 まるでコンピュータ・ゲームを演ずるかのごとく、訓練を受けマニュアル通りに戦闘を繰り広げ、冷酷に警官や人質を撃ち殺すかと思えば、あまりに屈託のない声でインタビューに応じ、犯行ビデオを残して、最後はシナリオ通りに特殊部隊の銃弾の雨に向けて駆け込むように身を投げて「殉教」を果たす。このリアリティを欠いた行動の軽さに戦慄を覚えるのである。
 犯人たちは、フランスに生まれたアルジェリア系移民の子、マリ移民の子、それぞれ子どもの時分に親を失い孤児として育ったじつに哀しい境遇の若者たちである。被害者の側にもまた、マルチニク出身の見習い中の黒人女子警察官、倒れたところを冷酷に撃ち殺されたのは幼い頃に父を失ったイスラム教徒の警察官。被害者たちの無念が、事件の不条理さに折り重なっている。
 根底にあるのは、この世界の若者たちにとっての生きづらさである。民主主義が建前の先進国で育っても、教育格差、人種差別は顕著でまともな職はなく、社会的公正は見つからない。「第四世界」といわれるブラックホールに陥ってしまう。世界から見放されたと感じる者たちが辿り着くのは、死の彼方の聖性への跳躍の誘惑である。そこに「ホームグロウン(本国生まれの)・テロリズム」のつけ入る余地がある。
 私たちの社会はこの若者たちの生きづらさに、どのように手をさしのべればよいか。それは私たちの国にとっても決して無縁な問題ではないはずだ。」(『北海道新聞』コラム「各自核論」20151月 付 朝刊)。
 今回のテロリストたちの経歴もまた、おそらく、昨年1月の事件の実行犯たちと大差ないであろう。大人しい若者の突然の「過激化」が問題とされているが、ベンスラマのいうように、そこには、思春期から成年期への過渡期特有のアイデンティティの危機がある。それは、私たちの国の若者と変わりはない。経済成長の時代から遠く離れた、今の世界では、とくに若者たちに希望がなく、失業にしても、非正規化にしても、最初に犠牲になるのは若者たちである。日本の若者たちも久しく「右傾化」が言われてきたが、残された拠り所は、根拠なき「ナショナリズム」でしかない、ことにこの世界の悲惨がある。
 ベンスラマのいう「超ムスリム」化と同じように、ナショナリズムだけが糧となって「超国家主義」化する若者たちが増えてもまた不思議ではない。その全体的な若者たちの世界の隘路を捉え返そうという、新しい萌芽が、昨年夏の「SEALDs革命」のような動きなのだと私自身は考えているし、中東の「ジャスミン革命」にも確かにそういう目はあったのだが、権力と軍によって圧殺されてしまった。 

 5 〈ネオリベラリズム〉による破砕

 若者たちの「生きづらさ」(若者に限らないが、これから続く未来に希望がないのは絶望的である)の根底には、異常なスピードですすむ技術革新による社会システムの「破砕」があるとスティグレールは言う。シュンペーターが「創造的破壊」を語ったのは、二十世紀前半だったが、現在のデジタル革命は、比べものにならないスピードで「破砕」を進めている。
  現在でもサービス産業の奴隷化は甚だしい。「ブラック企業」問題等が示す通りである。情報化社会では、人間の単純労働はますます、機械と機械、情報端末と情報端末をつなぐ仕事へと還元されていき、人間の代わりにドローンが飛び交ったり、ロボットが運転したり、ロボットが肉体労働や介護労働を行うようになる。
 ようやく日本でも議論が始まったが、二十年後には半分の雇用がロボットや人工知能に取って代わられて、中間階級が消滅すると予想されている。
 フランチャイズのチェーン店が地域を支配かにおいて言ったように、IT企業の進行はすすんで、UBERのような配車システムが、それ以前にあったタクシーのようなサービス産業を破壊していく。
 現在のIT時代は、こうした世界規模での経済的な「内戦」が繰り広げられている世界なのである。このまま進行すれば、既存の産業社会の大規模な「破砕」が進んでいくことになるだろう。ネオリベラリズムがその「破砕」のドグマであり、それを裏返すかのように、この世界の暴力の連鎖のフランチャイズ化が進んでいるというスティグレールの指摘は鋭い。
 技術革新がもたらす「破壊」に対して、それに応えうるシステムを社会が合意的に形成するよりも前に、「市場」を占有しようとする「スピード」の戦略が進められ、それが「イノヴェーション」と呼ばれている。
社会が技術を自らのものとして組織していくことは「技術の人間化」だが、その「人間化」が起こるよりも前に、技術革新による「破砕」によって市場を占め、丸取りしようという、暴力的な戦争が進んでいるというわけである。
 市場化のための「ショック療法」を唱えたのはネオリベラリズムの祖ミルトン・フリードマンだが(ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』はそこを手掛かりとしている)、イラク戦争開始時の米軍作戦のコードネーム「衝撃と恐怖」に見られるごとく、衝撃とスピードに訴えて機先を制するというやり方が、あらゆる領域で進行していく。
 それが人間性の「破砕」にまで及べば、ISのような人間性の破壊によって、権力を取るむき出しの暴力による、世界の内戦化へと進むというわけである。
 これから進められていく、TPPの効果がいかに破壊的かを考えて見よ。安倍政権が「経済特区」で進めている日本版UBERサービスの実験、ドローン運用実験のような、イノヴェーションの実態を見よ。このロジックは、私たちの国でもすでに、あらゆる領域で進みつつある。経済社会、技術社会はすでに全面的に「内戦化」していっているのである。
 大量殺戮という「自殺」や「破壊」、「テロ」は、宗教や文明の戦争の問題とは言えないわけである。

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 以上のように見てくれば、フランスの〈1113〉は、決して、遠い国で起こった我が国の政治経済社会状況とは無関係の出来事では決してなく、同じひとつの〈世界の危機〉の多くは共通した現れが、テロという事件として噴出した出来事であることが分かる。
 そして、また、政治的・社会的・人間的争点も共通していて、であればこそ、私たちもまた、昨年来、「特定秘密保護法」から「安保法制」へと結晶化した、立憲主義と民主主義、平和主義の危機を経験して、それに対する知性の戦いを組織しているところである。
 この世界が、軍事的にも経済社会的にも文明的にも内戦状態へと沈む前に、私たちは明晰な問題地図を手がかりに、英知を集めてより良き次の世界のために共に戦うのでなければならないわけだ。




 

 
 
 
 
 

 
 





2015年12月10日木曜日

石田英敬(著)『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)




この本は、メディアとヒトとの古くて新しい関係について書いた本です。大人のためのメディア論講義と断ってありますが、子どもが読んではいけないアダルトな本という意味ではありません。誰にでも読めるようにすべての〈文字を読み書きするヒト〉に向けて書いたつもりです。
 クロマニョン人だって、もし彼らが私たちの文字を読めたとしたら、この本を読んで、三万年後の現代のヒトのメディア生活のことを思い描いてくれたかもしれない。そして、彼らのメディア生活と比較したかもしれない。そんなことを考えながらパソコンを打ちました。
 なぜ、クロマニョン人かって?
 クロマニョン人たちは、すでに三万年前に洞窟という彼らのメディア装置をもち、そこで「原-シネマ」を読み書きしていたことが知られているからです。
 一九九四年に発見された、フランス南部のショーヴェ洞窟は、人類最古の動物の絵に覆われています。突進する牛の頭は何重にも輪郭線をかさねてえがかれ、疾駆する野牛や飛びかかるライオンの四肢は幾筋もの線を重ねて、いまにも動き出しそうに、文字通り動く画として描かれている。かがり火のゆらめく洞窟の暗がりに浮かび上がった動物たちの運動は、映画のショットの連続のように描き出され、物語的なコマ割の分節のなかに連らねられています。人びとのこだまする唄いと語りとともに、猛獣を追い狩りをする人間たちと群れをなしひしめき合い角を突き合わせる動物たちの疾走と鳴き声が、まざまざと目に見え耳に聴こえる、洞窟とは先史時代のシネマ装置だったのです。
 クロマニョン人たちとは、「ホモ・シネマトグラフィクス(運動を描(か)くヒト)」だったと、この洞窟を調査した洞窟先史学者のマルク・アゼマは書いています。〈シネマトグラフ〉の語源は、動きの(cinemato-)書き取り(graphe)ですから、クロマニョン人たちは、「運動の文字」を「書/描(か)」いていた。そのように、先史学者たちは結論づけているのです。

 クロマニョン人たちが教えること・・・

 クロマニョン人たちのメディア装置は、現代のメディア論に多くを教えます。
 洞窟は、集団的な〈心のメディア装置〉、〈夢の装置〉であったこと。地上の自然の光の下で繰り広げられた動物たちの戦い、人間の狩りの動きを、記録・記憶・再現して、時間を先取りするかのように投影する〈想像力の母胎(マトリクス)〉であったこと。かがり火のゆらめきの下で、生き物たちの動きをリアルに現出させ、谺(こだま)する音響とともにリズムに合わせて唄う〈語りの装置」でもあったこと。〈シネマトグラフ〉という文字は、文字プロパーの成立よりもずっと古く、運動という時空間の現象を、視覚要素に分解して〈分析〉すると同時に、視る/聴く意識を分節化して〈総合〉するものであったこと、など、など。私たちが、そこから引き出すべき知識はとても多いのです。
 それから三万年をへて、人類は、今度は、本物のシネマトグラフ(映画)を発明しました。
 1895年12月、ぞろぞろと出てくるリヨンの女工たちの行列が、リュミエール兄弟の最初のフィルム「工場からの出口」で撮影された時です。運動が、シネマトグラフという〈テクノロジーの文字〉によってはじめて書き始められた瞬間だった。しかし、それは同時に、機械が書/描(か)く文字が、ヒトには読めなくなり、人間の意識のコントロールを逃れていくメディア史的な瞬間でもあったのです。
 私たちは、一秒一六コマで流れる映像の一コマ一コマを視ることができないので、シネマトグラフが書き取り投影するフィルムの流れを運動として見ることができる。見えないから見えるという、メディアの〈技術的無意識〉の問題が、人類文明を捉えるようになりました。メディア・テクノロジーに支配される文明の危機が、二十世紀以降の人類社会に次第に濃い影をおとしていくことになったのです。
 この本は、そうしたメディア・テクノロジーの栄光と悲惨を、読者とともに深く考えることを目的としています。
 二十一世紀初頭の私たちの世界にいたるまでのわずか一世紀余りの間に、人類はメディア生活において、それまでの何世紀分にも、あるいは千年紀分にもあたる巨大な変化を経験してきました。
 今日、私たちは0と1の記号列が光速に近い速度でめまぐるしく計算され、すべてが情報として無限のメモリへと送り込まれていく、コンピュータの「数の行列(マトリクス)」からなる洞窟の住民となっている。
 そんな人類文明の変化を、二十世紀以降のメディア革命に照準して語ってみたのが、この本です。・・・・

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 第一章では、フロイトの「不思議のメモ帳」をとりあげます。メディアを手掛かりに「心の装置」を構想したフロイトと、二十一世紀にはスマートフォンやiPadのようなメディア端末が人びとと一対一の関係になった現代生活との関係を考えることから始めます。人間の心の働きと、それを補完するメディア装置とがびったりと対応するようになってきたことが現代の私たちの「メディアの問題」だからです。

 第二章では、メディアの問題と文字の問題とを直結させて考える私の基本スタンスを説明します。二十世紀以後、シネマトグラフやフォトグラフ、フォノグラフ、テレグラフといった文字〈テクノロジーの文字〉が人類文明を大幅に書き換えます。これが「二〇世紀のメディア革命」で、メディアは人類文明に〈技術的無意識〉という大きな課題をもたらしました。
そこで、メディアと文明とを考える学問的枠組みとして、「記号論」という学問について解説します。記号論は、二〇世紀の現代記号論をさらに遡って、コンピュータの思想的な設計図を書いたライプニッツのバロック期の記号論にルーツを求めるべきこと、新たにこの学問をつくりなおすことによって、現代のコンピュータの発達によって進みつつある、「世界の記号論化」を捉えることができる、という私の理論的立場を解説します。

 第三章では、大量生産・大量消費という二〇世紀の資本主義の構成要素として、テイラー・システム、フォーディズム、文化産業、マーケッティングの四要素を取り上げます。二〇世紀のアメリカ資本主義の発達を「欲望の経済」(リビドー経済)の側から支えたのは、映画やレコードのアナログ・メディア革命が可能にした意識の産業的な生産でした。それが「文化産業」の問題です。フォードがT型フォードをベルトコンベア・システムで大量生産していくのと並行して、ハリウッドの映画産業が、「夢の工場」で、大衆の夢を長編映画として組み立てていったこと、大衆心理の「心のなかの隠された市場」を操作するノウハウとして「マーケティング」のテクノロジーが、フロイトの甥エドワード・バーネイズによって確立されていったことを解説します。

 第四章では、二〇世紀の第二のメディア革命である、デジタル・メディア革命について考えます。デジタル革命とは、全てのメディアがコンピュータになる大転換であること、人間の記号生活において、「記号」と「情報」とが表裏の関係になることを説明します。それを原理的に捉えるためにはライプニッツの普遍記号論にまで遡って、記号論を情報記号論としてつくりなおす必要があることを説きます。さらに、メディアの「デジタル転回」によって、人間と情報との間に、「検索人間」化や「端末人間」化、「言語資本主義」、「アルゴリズム型統治」、「アルゴリズム型消費」など、これまでにない問題が浮上してきていると問題提起します。

 第五章では、デジタル・メディア時代の意識資源の枯渇の危機と、「精神のエコロジー」について考えます。ヒトの情報処理能力を超えた、大量の情報が氾濫するメディア生活では、「注意力の経済」による意識資源の争奪が激化して、「ハイパー・アテンション」状態が常態化しかねません。情報生活においても、エコロジー的な視点の導入が必要です。そのためには、メディアを捉え返す知識技術の研究開発、メディアの生態系の設計とデザイン、公共空間の整備が必要なことを説明します。

 最後に、第六章では、「メディア再帰社会」と題して、メディアの再帰化の問題、メディアを捉え返す回路を社会が整備していく必要、精神のエコロジーのために、これからのメディア社会を私たちはどのように構想して生きてゆけばよいのかを、具体例を交えながら展望します。



大人のためのメディア論講義 
 〜 メディア再帰社会のために 

【目次】

はじめに

第1章 メディアと〈心の装置〉 
不思議のメモ帳とi―Pad/記憶を補完する/心の延長線――身体拡張論/記憶をためる・消す・呼び戻す/心の構造/プラトンとファラオの文字/メモリーとリマインダー/文字とドラッグ/コピペ学生の起源/メディアは心の装置/知覚と意識は作られる

第2章 〈テクノロジーの文字〉と〈技術的無意識〉 
ケータイがついて回る/手の解放は技術を、脳の解放は高度な言語活動・表象活動・記憶を/記号論とは――記号論は死んだ?/記号論を新しくつくりなおす/記号論がコンピュータを生んだ/記号論の二つのはじまり/コンピュータの「思想的発明」/ライプニッツの普遍記号論/哲学マシンとしてのコンピュータ/脳の活動を手が書く・機械が文字を書く/「原-メディア論」と「原-記号論」/ふたつのメディア革命①――アナログ・メディア革命/文字テクノロジー/遠隔テクノロジー/「テクノロジーの文字」の革命/ソシュールの言語記号学/「テクノロジーの文字」と「知の革命」/「技術的無意識」の時代」/技術的無意識/「私たちはテクノロジーの文字を読むことができない」/わたくしといふ現象/意識の産業化/「年代区分」と「3つのテーゼ」

第3章 現代資本主義と文化産業 
パースの記号論/資本主義の4要素/「テイラー・システム」/テイラー・システムからフォーディズムへ/夢の工場ハリウッドの誕生/「マーケティング」の創始者――欲望が消費を生む/軍事・ラジオ・コンピュータ/リビドー経済――「生きるノウハウ」を奪う/「消費」を「生産」する/コカコーラに脳を売る

第4章 メディアの〈デジタル転回〉 
ふたつのメディア革命②――デジタル・メディア革命/情報革命と意識の市場/デジタル革命の始まり/計算機による書換え/ライプニッツの発明/情報記号論/世界のデジタル化/デジタル・メモリー/「検索人間」と「端末人間」/すべてがコンピュータになっていく/ボルヘスの地図、忘却を忘れた人/デジタル革命の完成/モノのインターネット/グーグル化する世界/グーグルの言語資本主義/ことばの変動相場制/アルゴリズム型統治/デジタル化時代の消費/アルゴリズム型消費/人間を微分する

第5章 〈注意力の経済〉と〈精神のエコロジー〉
注意力の経済/「ハイパー・アテンション」状態の脳/チカチカする文字/ヒトの情報処理能力の限界/意味のエコロジー/メディアの気持ちになる/メディア・リテラシーの課題/テクノロジーの文字の「クリティー」は可能か/ニコ動は批評か?/目には目を、デジタルにはデジタルを/真のクリティークを目指して/わが国のデジタル・アーカイブ事情/批評空間を構築する/新しい図書館をたちあげる/東京大学「新図書館計画」/電子書籍/電子書籍vs 電子ジャーナル/理系の読書/文系の読書/人工知能と学問/電子書籍とノートの統合/文明の中心にある読書//読字と読書の脳神経科学本という空間/ハイブリッド・リーディング環境/社会に「精神のエコロジー」を保障する場所

第6章 〈メディア再帰社会〉とは何か 
メディア社会に再帰的になる/成長と消費から遠く離れて/日本の敗北/アメリカの情報資本主義/記号論の問いを立て直す/「デジタル転回」と再帰性/メディアから「プラットフォーム」へ/記号の再帰化/記号過程と情報処理/メディアの再帰化/生のアルゴリズム化/コミュニケーション文明の中の居心地悪さ/「象徴的貧困」の進行/「メディア再帰社会」という課題/クリティークの更新は可能か/認知テクノロジーとリテラシー実践/自分のプラットフォームをつくる/来るべきユマニスト

おわりに

参考文献


(以上は、著者校からのコピーですので、刊行本との異動があります 石田 記)http://www.chikumashobo.co.jp/blog/news/entry/1252/

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2016/10/journalism9.html

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