2019年8月30日金曜日

「夏休みのためのフランス語 ひよこ自習クラス」プロジェクト(第4回)

石田フランス語 2017/08/29
 「夏休みのためのフランス語 ひよこ自習クラス」プロジェクト(第4回) 
    
うーん、ご無沙汰してしまった、申し訳ない。
お盆明けから丸二週間大学院の入試期間でね。なかなか時間がとれなかった。
うーん9月か、ペースを取り戻さねば!
「フランス語の自主夏期講習」第四回だ。
 前回に読み始めた、『カンディード』の第一章の後半です。ベリーエキサイティングな箇所! 下のマンガのとおりなのだ。
https://drive.google.com/open?id=1KRFCGsWFA3S8IzidCpzMfaFRvSBEmHmw

I.

『カンディード』第1章(おわり)



まず、今日の全文は以下のとおり。第6パラグラフから第9パラグラフまでだ。
   Candide écoutait attentivement, et croyait innocemment ; car il trouvait mademoiselle Cunégonde extrêmement belle, quoiqu’il ne prît jamais la hardiesse de le lui dire.

   Il concluait qu’après le bonheur d’être né baron de Thunder-ten-tronckh, le second degré de Bonheur était d’être mademoiselle Cunégonde, le troisième, de la voir tous les jours, et le quatrième, d’entendre maître Pangloss, le plus grand philosophe de la province, et par conséquent de toute la terre.

   Un jour Cunégonde en se promenant auprès du château, dans le petit bois qu’on appelait parc, vit entre des broussailles le docteur Pangloss qui donnait une leçon de physique expérimentale à la femme de chambre de sa mère, petite brune très jolie et très docile. Comme mademoiselle Cunégonde avait beaucoup de dispositions pour les sciences, elle observa, sans souffler, les expériences réitérées dont elle fut témoin ; elle vit clairement la raison suffisante du docteur, les effets et les causes ; et s’en retourna tout agitée, toute pensive, toute remplie du désir d’être savante ; songeant qu’elle pourrait bien être la raison suffisante du jeune Candide, qui pouvait aussi être la sienne.

   Elle rencontra Candide en revenant au château, et rougit ; Candide rougit aussi ; elle lui dit bonjour d’une voix entrecoupée, et Candide lui parla sans savoir ce qu’il disait. Le lendemain après le dîner, comme on sortait de table, Cunégonde et Candide se trouvèrent derrière un paravent ; Cunégonde laissa tomber son mouchoir, Candide le ramassa, elle lui prit innocemment la main, le jeune homme baisa innocemment la main de la jeune demoiselle avec une vivacité, une sensibilité, une grâce toute particulière ; leurs bouches se rencontrèrent, leurs yeux s’enflammèrent, leurs genoux tremblèrent, leurs mains s’égarèrent. Monsieur le baron de Thunderten- tronckh passa auprès du paravent, et voyant cette cause et cet effet, chassa Candide du château à grands coups de pied dans le derrière ; Cunégonde s’évanouit ; elle fut souffletée par madame la baronne dès qu’elle fut revenue à elle-même ; et tout fut consterné dans le plus beau et le plus agréable des
châteaux possibles.
この一頁をさっと読めるぐらいになると、「仮免」を脱して、路上に出られるぐらいなんだがね。パラグラフごとに進もう。学習する文法知識は少しずつ減っていくはず。


[1] 第一章 第六パラグラフ 
   Candide écoutait attentivement, et croyait innocemment ; car il trouvait mademoiselle Cunégonde extrêmement belle, quoiqu’il ne prît jamais la hardiesse de le lui dire.

  Candide écoutait attentivement, et croyait innocemment ;
  ここは問題ないね。直接法半過去の表現
 「カンディードは注意深く聞き無邪気に信じていた」:パングロス先生の言うことを信じ切っていたというわけだね。
car il trouvait mademoiselle Cunégonde extrêmement belle,
ここも問題ないね、「というのも彼はキュネゴンド嬢をとても美しいと思っていたのだから、」
6 〈~ qn/qc+属詞〉…を…と思う,判断する.
trouver qn gentil [intelligent]
…を親切だ[賢い]と思う.
trouver son travail amusant
仕事を楽しいと思う.
Je vous trouve fatigué.
お疲れのようですね.
Il a trouvé ce film excellent.
彼はこの映画を素晴しいと思った.
quoiqu’il ne prît jamais la hardiesse de le lui dire.
これから長い長い文法説明が始まりますから、まずひとまず、この部分を訳しておきますね。ここ「彼女にそれを思い切って言うなどという大胆な行いに彼には決して出なかったのだけれど…」という譲歩構文なんです。quoique は英語でいえば、although にあたるような、譲歩を導入する接続詞なのだ。そして、その譲歩節のなかに現れる “prît”、これが動詞prendreの「接続法半過去」という まだ勉強していない、新文法知識です!

 文法のお勉強のまえに、第六パラグラフをいったん訳してしまうと、「カンディードは(パングロス先生のいうことを)注意深く聞き、無邪気に信じ込んでいた﹆[←このコンマは「白ゴマ」というもの、これもレアな食材(‘-‘*)]というのも、彼には思い切ってそれを彼女に言うなんていう大胆な行いには決して出なかったわけだけど、キュネゴンド嬢がとってもキャワイイと思っていてのだからね。」(つまり、こいつはパングロス先生のいうことはじつはあんまり注意深く聞いていなかった、って、言外に、この文は書いているよね。)

 さて、本日のお勉強メニューのアントレの目玉はこれ!:“prît”
      prendreの「接続法」仕立ての、「半過去」風 !
 これはなかなか、フツーのその辺の安いフレンチでは出していない超高級食材! 今の日本のフレンチで「接続法」の「半過去」風味を出せるのは、三つ星以上の高級フレンチ文法だ。
 では、その蘊蓄とは…

新文法知識3「接続法半過去 l’imparfait du subjonctif 」
 じつは、石井文法では、最後の最後、p.79にちょこっと出てきます。でも石井シェフ、高級食材を惜しんでいるからな、これだけでは分からん。それに坂本先生の授業もここまでは辿りつけないのではないかな。だからこそ勉強しておこう。
 で、まず、その文法的概要を知るには、またしてもあの鎌倉の高級フレンチ『北鎌フランス語』のお世話になりましょう。(石田ミシュランでは『北鎌フレンチ』は☆☆☆)
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語の条件法と接続法
(URLにリンクがうまく行かない場合は、「北鎌フランス語講座 - 文法編「条件法と接続法」をgoogleで探してみてください。」
 ついでに「条件法」もまだ勉強していませんが、石井文法の13課 (p.65 sq.)、秋学期に坂本さんと勉強することになります。そこも君たち自身で予習をしておこう!

 a. 一般言語学講義:「モダリティ」とは何か:
 まず、基本的な言語知識として、「法」とは何か、を知りましょう。「法」は、法学部の法(law, loi )ではなく、ここは、「モード(英、仏)mode、あるいは(英)mood」の訳語です。
 一般言語学にかかわる知識(「一般言語学」とは、英語とかフランス語とか日本語とか、個別の言語ではなく、あらゆる言語一般にかかわる知識という意味だよ)ですが、ひとが何かを述べるときに働いている文法カテゴリには、「時制・相・法」というものがあります。英語ではTAMと略称したりします。Tense-Aspect-Mood です。Tenseはすでに知っているとおりの「時制」(述べられたことが、話し手から見て、過去なのか現在なのか未来なのか)、Aspectは「完了相・未完了相」(すでに完了しているのか、まだ続いているのか、繰り返し起っているのか: ex.フレンチの 複合過去 vs 半過去)、Mode はフランス語では「直説法・条件法・接続法」あるいは「命令法」などのモード(法)で、話者が述べられた内容に対して「どのような態度」をとっているのか、意識の志向性の「様態(モード)」のことです。
(Cf.「モダリティ (modality) または法性(ほうせい)、様相性(ようそうせい)[1]とは、話している内容に対する話し手の判断や感じ方を表す言語表現のことである。」Wikipedia 「モダリティ」20170829 13:50 https://ja.wikipedia.org/wiki/モダリティ)
 それでフランス語についていえば、多くの場合、動詞活用がモダリティをコントロールしています(日本語もかなりそう、助動詞とか助詞もそうだけど、学校文法で勉強したよね)。
 これまでみんなが習ったのは、「直説法 l’indicatif」で、これから上述のように「条件法 le conditionnel」、そして「接続法 le subjonctif」を勉強します。
   それらの概念については、やはり、『北鎌』の説明がいいね!それは次のとおり:
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語の条件法と接続法
から引用:
「3 つの法の根本概念は、次のように要約することができます。
直説法:事実を述べる時に使う。
条件法:事実に反することを述べる時に使う。
接続法:事実か事実に反するかは別として、頭の中でイメージして述べる時に使う。」

 この説明のとおりなんだ。
 「直説法」っていうのは、「le mode indicatif」って言うんだけど、indiquer という動詞は、指し示す、指示するということだから、事実を事実としてそのまま述べるということですね。
 「条件法」というのは、「le mode conditionnel」で、もしこういう条件であれば(現実にはそうじゃないのだけど)、という仮定のうえで、何かをいうときに使われます。
 それに対して、「接続法」は、「le mode subjonctif」というフランス語なのですが、subjonctif って結びつける、あるいは、従えられる、従属的っている意味だね。原則として従属節(la subordination)のなかに現れる。

豆知識:英語にも「接続法(叙想法)」はあった。
  ヨーロッパ言語のうち英語しか知らないと、「接続法」なんて知らないよ、って思うかもしれない。
 しかし、フランス語だけでなく、ドイツ語にもスペイン語にもイタリア語にも、もちろんラテン語、古典ギリシャ語にもある。というか、インド・ヨーロッパ語族には属する言語で、こうした法がないのがおかしい。そして、じつは英語にも接続法はあったんだ。英語のsubjunctive moodは「叙想法」なんて訳されています。God save the Queen。のsaveはsubjunctive moodです。しかし、下の理由で、仮定法に取って代わられる傾向が生まれた。
 英語は、かなり特殊な歴史的な経験を経て現在にいたっている。元はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派の言語だった英語(「古英語Old English」の時代 5世紀半ばから12世紀にかけて)にも接続法はあった。名詞に格変化もあったし、動詞だって体系的な活用があった。でも、英語は「ノルマン・コンケスト」(西暦1066年)と呼ぶフランスのノルマン人により征服され、支配と被支配の言語が折り重なっていくうちに、文法的な体系が解体されて、極端に単純化されていったのだ。授業でも言ったと思うけど、英語は「クレオール化」された「クレオール言語」だっていう説は有力な仮説になっている。
Cf. https://en.wikipedia.org/wiki/Middle_English_creole_hypothesis


 b.「接続法 le mode subjonctif」
 基本的には、従属節のなかで接続法は使われます。しかも、従属節を導入する動詞は決まっています(辞書に、該当する動詞には、「+ 接続法」、とか「 + subj.」とか 書いてあります)。
 直説法に、「現在 le présent」と「複合過去 le passé composé」、「半過去 l’imparfait」と「大過去 le plus–que-parfait」があったように、条件法にも接続法にも単純形(助動詞avoir 、être を用いない形)と複合形(助動詞avoir かêtre の活用形+過去分詞)があります。 
 接続法にはしたがって、「現在 le présent du subjonctif」と「過去(完了形) le passé du subjonctif」、「半過去 l’imparfait」と「大過去 le plus-que-parfait du subjonctif」があります。その用法については、『北鎌』の頁を下の方まで読んでいってください。

 c. 「接続法現在 le présent du subjonctif」と「接続法過去 le passé du subjonctif」
 直説法現在が直説法の起点であったのと同じように、接続法現在から接続法の勉強を開始しましょう。
 その活用と用法については、石井文法では、14課に出ています(p.69 sq.)
 活用形についても、『北鎌』の上の頁からリンクを辿りましょう:以下のページです。
http://verbes.kitakama-france.com/index.php?フランス語の接続法#navigator
 ここを見て勉強をしてください。

 さらに、その接続法の複合形として、「接続法過去(le passé du subjonctif)」があります。これは上に説明した「相(aspect)」でいうと、完了相(parfait)になります。
 その活用と用法については、石井文法では、同じ14課のp.72以下です

 これを全部説明していると長くなるので、上の『北鎌フレンチ』と石井文法14課をざっと見てください。

 d. 「接続法半過去 l’imparfait du subjonctif」と「接続法大過去 le plus-que-parfait du subjonctif」
 さて、その接続法の「現在」と「過去」という基本形を知ったうえで、つぎに、「半過去」と、その完了時制である「大過去」があります。
 (『北鎌』の該当頁を見てください。次頁に貼り付けますけど、ここはサイトからのコピーですから『北鎌』にcopy rightsがあることをお断りしておきます。
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語の条件法と接続法#content_1_4 )
  「直説法半過去」と「直説法大過去」の関係を思い出してもらえば、これらの時制の相互関係は分かるはずです。

e. 「接続法の用法」の概要
 以上は、「法」と「時制」についてのおおまかな説明でした。
 次に、接続法はどんな風に使われるか、その「用法」の簡単に説明します。
 1.接続法現在 le présent du subjonctif
1) まず、「接続法現在」を使って説明しましょう。
 石井文法の70頁を見てください。
石井さんの説明は以下のとおり
【用法】直説法があることがらを現実として提示するのにたいし、接続法はあることがらを単なる観念として提示する主観的な法である。
 (表現は異なるが、『北鎌』と同じことを言っているね。)
 そして、
「(1) 名詞節において
①意志・願望・要求・必要性などを表す語句・表現の後で
 Je veux qu’il vienne.
  Il faut que je parte. 」 ・・・ 
というように説明をして行っているね。(70頁〜71頁)
 この二つの文例で説明すると、
 Je veux(私は欲する) は直説法現在だけど、que 以下の名詞節は接続法現在で表された私の願望内容で、事実ではない観念内容というわけだね。そのように「あることがらを[…]観念として提示する」、あるいは「頭の中でイメージして述べる」(『北鎌』)のが接続法なのだ。
 Il faut que って、習ったよね。非人称構文il の構文だけど、 « falloir »を辞書で引くと、例えば、小学館『ロベール仏和大辞典』には次のように出ている。
  2 〈Il faut+inf. //Il faut que+subj.〉…しなければならない,すべきである,する必要がある.
 ここの Il faut que+subj. が学習事項なんだ。
 Il faut que je parte. は、だから「私は出発する必要がある」という意味だね。

2. 接続法過去 le passé du subjonctif
2) 次に、単純形である「接続法現在」に対して、複合形である「接続法過去」があって、それについては、石井さんの72頁
【活用】助動詞の接続法現在+過去分詞
   danser : j’aie dansé, tu aies dansé, etc.
      arriver : je sois arrivé(e), tu sois arrivé(e), etc.
 【用法】主節の動詞にたいしてそれ以前に完了している(はずの)ことがらを表す。用いられるケースは接続法現在と同じ。
 Elle est fâchée que nous ne l’ayons pas invitée.
  Il est possible qu’il ne se soit aperçu de rien. 」 ・・・ (72頁)
 上記のIl faut que+subj. を使って例文をつくると、
「接続法現在」が Il faut que je parte. であるのに対して、(例えば、「リヨンに正午に到着するためには、私は今出発必要がある。Pour arriver à Lyon à midi, il faut que je parte maintenant. 」)
「接続法過去」は Il faut que je sois parti(e). と複合形となる(「私はもう出発してしまっている必要がある。」例えば、「リヨンに正午に到着するためには、私はもう出発してしまっている必要がある。Pour arriver à Lyon à midi, il faut que je sois déjà parti(e).」)

 さて、「接続法」についてずいぶんと長い説明を行ってきましたが、これでやっと最後のパートに辿りつくので、もうひとがんばりして勉強しよう。
 
  主節が過去時制のときの、従属節の接続法の時制について・・・
 以上の「接続法現在」および「接続法過去」の説明は、主節が「直説法現在」のときの、従属節のなかでの接続法についての説明でした。
 で、主節が直説法「複合過去」、あるいは直説法「半過去」、あるいは直説法「単純過去」、あるいは、直説法「単純未来」、あるいは、(これはまだ勉強していないけれど、これから勉強することになる、もう一つの「法」である、「条件法」[英語の「仮定法」])の場合には、従属節の中の「接続法」は、どのような「時制」となるのか、という問題が生じます。
 それで、現在の日常のフランス語(話し言葉では)と簡単な書き言葉では、主節の時制に関係なく、従属節のなかでは、「接続法現在」と「接続法過去」を使います。
 他方、現在でも文語体では、主節が直説法の過去時制(複合過去、単純過去、半過去)、および、条件法(これまだ勉強してないけど、条件法現在と条件法過去)の場合には、「接続法半過去」と「接続法大過去」を使います。
 ちょっと前までは、日常的な話し言葉でも(ちょっと前というのは、18世紀ぐらいまでかな)同じように、「接続法半過去」と「接続法大過去」を使っていたらしい。
 次のような18世紀のエピソードが残っている;
 « Madame Beauzée couchoit avec un maître de langue allemande. M. Beauzée les surprit au retour de l'académie. L'Allemand dit à la femme : Quand je vous disois qu'il étoit temps que je m'en aille. M. Beauzée, toujours puriste, lui dit : que je m'en allasse, monsieur. »
 「ボーゼ夫人がドイツ語の教師と同衾していたちょうどそのところへ、アカデミーからご主人のボーゼ氏が帰宅した。そこでドイツ人はご婦人に曰うて曰く:「だからもう帰らなきゃ je m'en ailleと言ったんだ」。ボーゼ氏は、文法潔癖派であったので、聞き逃さず:「ムッシュー、もはや身罷らむとje m'en allasse、申すべきじゃ!」」
 je m'en aille が接続法現在、je m'en allasse が接続法半過去 (s’en aller はaller のイディオムで、「立ち去る、いなくなる、退出する」という意味)。アカデミーは、アカデミー・フランセーズで、17世紀からフランス語の国語辞典を編纂しつづけている、王の学術機関(https://ja.wikipedia.org/wiki/アカデミー・フランセーズ)。Beauzéeはアカデミー会員で文法学者。
 本当の話かな? フランスらしい艶話だからね、事の真相よりも、ドイツ人が文法の間違いをして、アカデミシャンの文法学者が間違いを指摘するというところが噺のミソだね。この当時から、接続法半過去は日常語では、使用がおぼつかなくなっていた、というわけだ。(ここで、いずれにしても、conjugaisonの問題だよね!とか、コメント出来るようになると、フランス的エスプリに少し近づける!)

 さて、そういうわけで、主節が過去の場合には、従属節のなかの接続法は、「接続法半過去」か、主節の時制に対して完了相で捉えられる事態については「接続法大過去」で記される、というわけなのだ。
 やっと、これで、「接続法半過去」の説明にたどり着いた。
 それで、やっと、第六パラグラフの最後の文:
il trouvait mademoiselle Cunégonde extrêmement belle, quoiqu’il ne prît jamais la hardiesse de le lui dire.
主節が(il trouvait…)が直説法半過去だね、だから、譲歩節のなかは、接続法半過去になるわけです。というわけで、prît は動詞prendre の接続法半過去の三人称単数の活用なのだ。(山がたアクセント ^ が付いていることに注意 石井教科書の活用表で確認しておこう)。
譲歩構文というのは、それを導入する「副詞+que +subj.」というセットが決まっていますから、そのセットを知っている必要があります。
encore que+subj.
bien que + subj.
quoique + subj.
これらがよく使われる譲歩節を導入する表現ですから覚えましょう!

 そこで、やっと、
 第一章 第六パラグラフのまとめ:
   Candide écoutait attentivement, et croyait innocemment ; car il trouvait mademoiselle Cunégonde extrêmement belle, quoiqu’il ne prît jamais la hardiesse de le lui dire.
 カンディードは注意深く先生の話を聞き、無邪気に信じていた。なぜって、キュネゴンド嬢がとってもキャワイイと思って見とれていたのだからね。もっとも、彼女にそう打ち明ける勇気が沸いたなんてことは一度もなかったんだけどね。

  最後のla hardiesse de le lui dire ですが、prendre la hardiesse de の表現は、
◆ prendre [avoir] la ~ de+inf.|大胆にも[あえて]…する,失礼を顧みず…する.
Il a la hardiesse de résister au pouvoir.
彼は勇敢にも権力に反抗する.
Excusez-moi si je prends la hardiesse de vous contredire.
意見が食い違ってお気に障ったらお許しください.

le lui dire の le luiが分かんないかな。
le は、石井11課の56頁 
「1.中性代名詞 le
文や節の内容を受ける
J’ai pris ma retraite le mois dernier. – Je ne le savais pas.
(ぼくは先月リタイヤしたんだ。—— 知らなかったよ、それ。) 」
 このleは前に言われたことを指す代名詞なんだ。英語のthatとかと思えばいい。人称代名詞(pronom personnel)」が、特定の名詞(あるいは名詞句)に置き換わるというのに対して、「中性代名詞(pronom neuter)」は、文脈を指示する、と説明します。
 より詳しく、坂本先生と秋学期に勉強することになるでしょう。
 それに対して、lui のほうは、間接目的補語に置き換わる人称代名詞elleの間接目的格だ。dire à Cuégondeという代わりに、lui dire と言っているわけだ。
 そして、このように二つ代名詞が併置される場合、どっちが先に来るかというシンタックスの規則は、石井の48頁にようになり、leが中性代名詞であっても、同じルールです。

[2] 第一章 第七パラグラフ 
   Il concluait qu’après le bonheur d’être né baron de Thunder-ten-tronckh, le second degré de Bonheur était d’être mademoiselle Cunégonde, le troisième, de la voir tous les jours, et le quatrième, d’entendre maître Pangloss, le plus grand philosophe de la province, et par conséquent de toute la terre.

 やっと、次のパラグラフに進むことができた!
ここは問題ないはず。

Il concluait qu’
(1) après le bonheur d’être  né barod de Th. ,
  (2) le second degré de Bonheur était d’être mademoiselle C.
      (3) le troisième                     de la voir tous les jours,
      (4) le quatrième                     d’entendre maître Pangloss
というようにque の節のなかで、était を省略して、列挙を繰り返すことで行われ、
そして、 Pangloss にたいて、同格で、le plus grand philosophe… et par conséquent de toute la terre. という表現が行われている。

 かれは、トゥンデール・テン・トゥローンク男爵に生まれる幸せに措けば、それに次ぐ第二の幸せとはキュネゴンド姫である幸せなのであり、第三の幸せは、毎日姫を目の当たりする幸せであり、第四は、この国で最も偉大な、ということはしたがって、この世で最も偉大な哲学者でおられるパングロス先生のお話を拝聴する幸せなのであると、結論づけていていた。(la provinceは地方といっても、ここでは日本語でも「お国」というようなときの国、toute la terreは全地球だけど、ま、「この世」の方が分かりやすいだろう、マドモワゼルも「姫」と訳してみた。)

 よかった、ここ簡単だったね。とくに大きな新知識も必要なく、すっと理解できた。


[3] 第一章 第八パラグラフ 
  Un jour Cunégonde en se promenant auprès du château, dans le petit bois qu’on appelait parc, vit entre des broussailles le docteur Pangloss qui donnait une leçon de physique expérimentale à la femme de chambre de sa mère, petite brune très jolie et très docile. Comme mademoiselle Cunégonde avait beaucoup de dispositions pour les sciences, elle observa, sans souffler, les expériences réitérées dont elle fut témoin ; elle vit clairement la raison suffisante du docteur, les effets et les causes ; et s’en retourna tout agitée, toute pensive, toute remplie du désir d’être savante ; songeant qu’elle pourrait bien être la raison suffisante du jeune Candide, qui pouvait aussi être la sienne.
 そして、このパラグラフ、ここも難しくない。でも、お話においては、とっても肝心なところだ! 注意深く観察することにしよう。

 勉強ポイントとしては、前に少し勉強した「代名動詞」、それから「現在分詞」、すでに勉強した「直説法単純過去」、関係代名詞「dont」、中性代名詞の「en」、これらすべて、もう勉強したんだけど、そして、上に言及した「条件法」がこのパラグラフには出てきている。そういう意味でも、これまでの知識の復習と新知識の勉強にはとても言い箇所だね。

 まず、訳してみよう。

 ある日、キュネゴンド姫がお城の近く、園と呼ばれていた小さな森を散歩していると、植え込み茂みの間からパングロス博士の姿を目にしたのだった。博士は、姫の母君の小間使いである、とても美しくもたいへん従順な、いと可愛らしい茶髪の娘に、実験身体学のレッスンを講じている最中であった。キュネゴンド姫はいろいろな学問に大変な興味をお持ちの方であったから、息をひそめて、彼女の目の当たりで、繰り返される実験をじっと観察し、パングロス博士の充足理由、その結果と原因とを明晰に見てとった。それから、とても興奮してどきどきしつつ、物思いにふけりつつ、物知りになりたいワクワク感にすっかり満たされて、館へと戻ってきたのだった。彼女の頭を満たしていた考えは、アタシもあの若きカンディード君の充足理由になりえりのではないかしら、そしてあのヒトもまたアタシの充足理由でありうるのだ、ということだった。

 分かった?

キュネゴンド姫が目の当たりにした、パングロス先生の「実験身体学 la physique expérimentale」のレッスンとは、これ:


で、繰り返し、こんな、こんな、だった。それで、よーく「観察」して、「自分も実験をして勉強しなきゃ」、と姫も思って、お城に戻った、というわけ。



分かるよね。シチュエーション自体は。

そこで、「言葉 la langue」のお勉強と、「思想 la philosophie」のお勉強をしましょう。

まず、文法の復習とお勉強。
Un jour Cunégonde en se promenant auprès du château, dans le petit bois qu’on appelait parc, vit entre des broussailles le docteur Pangloss qui donnait une leçon de physique expérimentale à la femme de chambre de sa mère, petite brune très jolie et très docile.

主文:
Cunégonde  vit(直・単過去) le docteur Pangloss
                              関係代名詞節:qui donnait(直・半過去) une leçon …
                        
ここは問題ないね。

en se promenant: ここがちょっとしたお勉強新知識
これフランス語文法で「ジェロンディフ」といいます。
詳しくは、石井文法の63頁を見てください。
形としては、前置詞のen に 動詞の現在分詞をつづけることで表現します。
【形】en+現在分詞
danser → en dansant  finir → en finissant
【用法】常に副詞句として主文の動詞を修飾する。主語は主文の主語と同じ。
時・同時性
  En arrivant à Paris, j’ai téléphoné à mon mari. (パリに到着するや、私は夫に電話しました。)
・・

ここのen se promenantは、代名動詞 se promenerのジェロンディフで、同時性を表す表現。(代名動詞は前回勉強したよね)。

 * なぜ ジェロンディフ le gérondif という耳慣れない用語がそのままカタカナで使われているかというと、その説明は込み入っています。
 フランス語のle gérondifは、元は、ラテン語の gerundivum(動形容詞) という文法用語です。ただし、ラテン語のgerundivum とフランス語のle gérondifとは相当異なった文法機能をもっていて、それを区別するために、たんに「ジェロンディフ」とフランス語そのままで呼んでいます。詳しく言い始めるとまた長くなるから以下をとりあえずどうぞ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/動形容詞

つぎの文、
Comme mademoiselle Cunégonde avait beaucoup de dispositions pour les sciences, elle observa, sans souffler, les expériences réitérées dont elle fut témoin ;

ここも問題ないね。関係代名詞の dont は初学者にはわかりにくいけど、いいね。石井の第8課43頁思い出してね。先行詞と関係詞節の述語être témoin de がdeを介してつながるから、dont が使われている。

disposition n.f. は
5 ((多く複数で)) 能力,素質,資質.
dispositions innées [naturelles]
天賦の才.
avoir des [manquer de] dispositions pour l'étude
学問に向いている[いない].

elle vit clairement la raison suffisante du docteur, les effets et les causes ;
ここも問題なし。意味内容の「充足理由」「結果と原因」については後で述べる。

et s’en retourna tout agitée, toute pensive, toute remplie du désir d’être savant;
ここのenですが、石井第11課56頁を見てください。
 2. 特殊な代名詞 en と y
(1) en
  一般の補語人称代名詞と同じく動詞(複合磁性では助動詞)の直前に置かれる。
① 〈前置詞 de + 他の諸要素〉を受ける。
a) de + 名詞(原則として物)
Venez-vous de Belgique ? – Oui, j’en viens.

このen と同じ。
et elle se retourna de là (そこから戻ってきた)という意味がこのen には込められている。tout agitée, toute pensive, toute remplie du désir d’être savant は、彼女にかかる属詞表現、tout はこの場合、très と同じ、意味を強める副詞、toutは次に母音がくるとtout、そうでない女性形単数が来るとtoute となります。

songeant qu’elle pourrait bien être la raison suffisante du jeune Candide, qui pouvait aussi être la sienne.
ここは現在分詞句 songeant que 〜 

で、もう一個重要な文法学習事項があって、elle pourrait のpourrait はpouvoirの「条件法現在」です。

で、「条件法」とは何か、というお勉強をここで始めると、また大変な量の頁が必要になってしまう。
その動詞の形を説明するには、「直説法単純未来」の話をしないといけなくなる。
「直説法単純未来」は、石井教科書では、第9課で、秋学期の最初に坂本先生と勉強しましょう。予習をするひとは、石井50頁です。その複合時制は「直説法前未来」といって、その次の頁51頁です。

それで、「条件法現在」について、この箇所での用法について最小限の説明をしておくに留めましょうね。
「条件法現在」のお勉強は、石井先生の第13課で、僕たちのこの箇所での用法については、66頁の次の箇所を見てほしい。
 「②」に「推量」を表す。とあって、
『カンディード』のこの箇所の、songeant que (頭の中で想像をたくましくしながら)は songer の現在分詞とque の従属節なわけだけど、ここの「接続法現在」は、「確かではないけれど、ひょっとして〜ではないかしら」という「推量」を表している。elle pourrait bien être la raison suffisante du jeune Candide (彼女はあの若いカンディードの充足理由にきっとなれるのではないかしら)と推量しているわけだね、他方、
若きカンディードを先行詞にして、du jeune Candide, qui pouvait aussi être la sienne. と、こちらは直説法半過去で書いてあるね。こちらは断定しているね。それは彼女が自分自身で自分のことを巡って考えているわけだからだね。「あの方だって、アタシの充足理由でありうるのだし」と、自分の気持ちなわけだから、こっちは確実性が高いわけです。

これで、言葉の問題は解決し、まとめると、こうなる。

ある日、キュネゴンド姫がお城の近傍、園と呼ばれていた小さな森を散歩していると、植え込み茂みの間からパングロス博士の姿が目に入った。博士は、母君の小間使いである、たいそう美しくもたいへん従順な、いとキャワイらしきの娘に、実験身体学のレッスンを講じている最中であった。キュネゴンド姫はいろいろな学問に大変な興味をお持であったから、息をひそめて、目の当たりで、繰り返し催される実験をじっと観察いたし、パングロス博士の充足理由、その結果と原因とを明晰に見てとったのだった。それから、とても興奮してどきどきしつつも、物思いにふけりつつも、物知りになりたいワクワク感にすっかり満たされつつ、館へと戻ってきたのだった。彼女の頭を満たしていた想念とは、アタクシもあの若きカンディード殿の充足理由になりえるのではないかしら、そしてあの方もまたアタクシの充足理由になりうるのだし、ということだったのだ。

哲学のお勉強コーナー
 ま、そういうわけですが、次に「哲学 la philosophie」のお勉強をしておきましょう。
「la raison suffisante」という言葉が飛び交っていますが、これを「充足理由」と訳すにつけては、この言葉が、パングロス先生のモデルである、ライプニッツ大先生の哲学用語である、ということがあるわけです。
 それについて、詳しく述べることは、僕には興味があるが、君たちには、いま、興味があるかは分からない。それで、最小限のことだけを述べて、あとは、興味のある人は自分で追求してもらうことにしましょう。
 これについて最小限のことだけをいえば、つぎのようなことだ。
 ここでいう「la raison suffisante」とは、平たくいえば「十分な理由」という意味です。「何かが起こる」、「何かが存在する」、「誰かが何かする」、「A君(さん)がBさん(君)を好き(嫌い/好きでも嫌いでもない/考えたこともない、etc. )になる」、「ネコがネズミをとる」、「犬が棒に当たる」、「ネコが転ぶ」、 etc. etc. この世界はありとあらゆる出来事が起こり続け、いろんな事態に満たされている、わけでしょ。で、それらすべてには、それなりの理由がある。その「それなりの理由」というのが、「十分な理由」、つまり「充足理由 la raison suffisante」です。そして、「すべてのモノ・コトには理由がある」というこの世界(というか、この宇宙)の原理のことを、「十分理由の原理」、あるいは「充足理由律」、あるいは「根拠律」といいます。元になっているライプニッツの言葉は「le principe de raison suffisante」といいます。その原理はとてもシンプルなもので、「すべてには理由がある」、「理由のないことなどない」、という原理です。
 すべてには理由がある。そんなの当たり前だろ、って思うでしょ。ぼくが夏学期のフランス語の試験がよく出来なかったのは、その前の日の帰り道に車に轢かれたカエルの死骸が目に入って、それ以来、そのカエルの生涯について考えていたので時間をとられて、フランス語の試験の勉強時間がたらなかったからだ、とか、そういうのも「十分理由」のひとつで、そのようにカエルのことが気になったのには、幼児記憶としてはオタマジャクシを飼っていたことがあって、それは小学生の頃で、隣の家には、同学年のミッチャンという女の子がいて、その子のお母さんのことを僕は好きで …他方、轢かれたカエルにも理由があって、その晩は雨でカエルは…、さらにカエルを轢いた車にもその晩そこを走行していたことについては理由があって… みたいに、「十分理由」の連鎖はどんどん伸びていって、最後にはよく分からなくなって、それで、またそんなことを考えていると君の勉強の時間が足らなくなる、とか、そういうすべてのことが、「十分理由の原理」のなかに収まって、この世の出来事は、いつもそれなりの十分な理由があって次々と起こり、世界は運行されて行っています。つまり、すべてには理由があり、原因があり、結果がある、と。
 じつは、この「十分理由の原理」には、それとペアになるもう一つの原理があって、それは、「起こりえないことは、起こりえない」、「ありえないことは、ありえない」という原理です。そして、「起こりえないことが、起こりえる」、「ありえないことが、ありうる」とする考えは「まちがい(偽) le faux」で、「起こりえないことが、起こりえる」ということは「起こりえない」、「ありえないことが、ありうる」ということは「ありえない」という考えが「ほんとう(真) le vrai」だ、ということになります。このような考え方のもとにある、宇宙の原理を、「矛盾の原理 le principe de contradiction」と言います。この矛盾の原理にしたがうと、「まちがい」は「ありえない」、ことになります。
 なんか、当たり前じゃない? そんなことどうでもいいんじゃない、と思ったかな?この宇宙に生きている僕たちにとっては、それは問題なく当たり前のことのようなんだけれど、それを「式」にしようと思い立ったのが、じつはライプニッツ大先生だった、というわけなのさ。それについては、またそれで、十分な理由があるのだけれど、これ以上君たちを疲れさせるのはやめておこう。
 で、いくつかの関連する引用をしておくよ。
 一つ目は、木田元先生の執筆した、平凡社『世界大百科事典』第二版の「根拠律」の項:

根拠律
こんきょりつ
principle of sufficient reason
くわしくは充足根拠律。充足理由律,理由律とも言われる。矛盾律と並ぶ二大原理としてライプニッツによって提唱されたもので,〈何ものも根拠のないものはない〉という形で表現される。その意味するところは〈一つの事物が存在し,一つの事件が起こり,一つの真理が生ずるためには,十分な根拠がなければならない〉ということであり,したがってこれは論理学的原理であるとともに形而上学的原理でもある。たとえば主語概念を分析し,そこに述語概念が含まれているかどうかを単に理性によって確かめるだけで真偽が決定されるような理性的認識は矛盾律を原理とするが,そうした操作では真偽が決定されえぬ経験的認識の真理性を支えるのが根拠律なのである。こうしてライプニッツは真理を2種に区分する。矛盾律に基づく永遠の真理ないし必然的真理と,根拠律に基づく事実の真理ないし偶然的真理とである。偶然的真理と見えるものも,事実の無限の系列をたどることができれば,したがってその系列を一瞬に直観しうる神の目には必然的と映るにちがいないのだが,それをなしえぬ人間はその真理が成立するのに十分なだけの根拠があると想定するしかないのである。のちにショーペンハウアーがこの根拠律を生成,認識,存在,行為の4領域に即して精密に規定しようと試み,近くはハイデッガーが根拠律を手がかりに根拠の問題を問い深めようと試みた。
[木田 元]

つぎに、ライプニッツ大先生の『モナドロジー』(Gottfried Wilhelm Leibniz, La Monadologie  1714) から、「充足理由律 le principe de raison suffisante」と「矛盾律 le principe de contradiction」が語られる、パラグラフ31番と32番のフランス語原文からの引用とその英訳と日本語訳:

31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes, celui de la contradiction en vertu duquel nous jugeons faux ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictoire au faux.
32. Et celui de la raison suffisante, en vertu duquel nous considérons qu’aucun fait ne saurait se trouver vrai, ou existant, aucune énonciation véritable, sans qu’il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement. Quoique ces raisons le plus souvent ne puissent point nous être connues.

31. Our reasonings are based on two great principles, that of contradiction, in virtue of which we judge that which involves a contradiction to be false, and that which is opposed or contradictory to the false to be true.
32. And that of sufficient reason, by virtue of which we consider that we can find no true or existent fact, no true assertion, without there being a sufficient reason why it is thus and not otherwise, although most of the time these reasons cannot be known to us.

三一 われわれの思考のはたらきは、二つの大きな原理がもとになっている。ひとつは矛盾の原理で、これによってわれわれは、矛盾を含んでいるものを偽と判断し、偽と反対なもの、すなわちそれと矛盾するものを、真と判断する。

三二 もう一つの原理は、十分な理由の原理である。これによると、AがなぜAであって、A以外ではないかということを、十分に満たすにたる理由がなければ、どんな事実も真ではない、存在できない。またどんな命題も、正しくないということになる。もっともこのような理由は、十中八九、われわれは知ることができないのであるが。

 (英訳は、Stanford Encyclopedia of Philosophy “Principle of Sufficient Reason”
Copyright © 2017 by the authors Yitzhak Y. Melamed and Martin LinFirst published Tue Sep 14, 2010; substantive revision Wed Sep 7, 2016)
 (日本語訳は、「モナドロジー」清水富雄 竹田篤司 訳 『モナドロジー 形而上学叙説』 (中公クラシックス 中央公論新社 2005年 Kindle版 位置情報 No. 875/3890)


で、その「充足理由律」についての、
パングロス先生の「実験身体学」講義は、
具体的には、どうだったのか? 
それについては、このマンガ(というか、フランスでは la bande dessinée 通称BDというのだけど)を描いている、Joann Sfarが、描いてくれているね。
(この人、有名な漫画家なんだよ。https://fr.wikipedia.org/wiki/Joann_Sfar)
上のp.16の吹き出しを訳してみよう。

「ウイ、神様と球体とモナドのご加護でな」
「モナドってなあに?」
「極微細な目に見えぬ坊主たちがおってな、せわしく立ち働いておるのじゃ」
「その微細な坊主たちがお前から私へと、私からお前へと、行ったり来たりしておる。その立ち働く往き来がね、お前の頬を赤らめてな、そして、ワシのなかの幾つかのコミュニケーション器官をな、目覚めさせおる。触ってごらん。」
「あら、それなら、知ってるヮ。」
「その器官はな、このちょっとした瓢箪のようなものじゃがな、その原因と充足理由を知っておるかな。もっと近くで見てご覧。」
「それしたら、何をくださるの」
「厚かましい女じゃな、ワシはお前を教育しとるというに、要求までするとは」
「Allons !」
「Allons !」
「Allons! Allons!」


つまり、これが、「充足理由」だった、というわけさ。もちろん、すべてには理由があるからね。

というわけで、最後のパラグラフに移ります。


[4] 第一章 第九パラグラフ 
  Elle rencontra Candide en revenant au château, et rougit ; Candide rougit aussi ; elle lui dit bonjour d’une voix entrecoupée, et Candide lui parla sans savoir ce qu’il disait. Le lendemain après le dîner, comme on sortait de table, Cunégonde et Candide se trouvèrent derrière un paravent ; Cunégonde laissa tomber son mouchoir, Candide le ramassa, elle lui prit innocemment la main, le jeune homme baisa innocemment la main de la jeune demoiselle avec une vivacité, une sensibilité, une grâce toute particulière ; leurs bouches se rencontrèrent, leurs yeux s’enflammèrent, leurs genoux tremblèrent, leurs mains s’égarèrent. Monsieur le baron de Thunderten- tronckh passa auprès du paravent, et voyant cette cause et cet effet, chassa Candide du château à grands coups de pied dans le derrière ; Cunégonde s’évanouit ; elle fut souffletée par madame la baronne dès qu’elle fut revenue à elle-même ; et tout fut consterné dans le plus beau et le plus agréable des
châteaux possibles.

 いままでのお勉強の甲斐があって、もうそんなに新しい文法知識は出てこないよ。
Elle rencontra Candide en revenant au château, et rougit ; Candide rougit aussi ; elle lui dit bonjour d’une voix entrecoupée, et Candide lui parla sans savoir ce qu’il disait.
 ここの文の時制は、基本は「単純過去」だ。rencontra  rougit  rougit  dit  parla
これら主文の時制はすべて直説法半過去。 ce qu’il disait ここだけが半過去。
 en revenant au château ここが上でお勉強した「ジェロンディフ」

訳してみよう。
城へと戻ってくる途上で彼女はカンディードに出くわして、顔を赤らめた。カンディードのほうでも頬を真っ赤にした。彼女は彼にボンジュールと、途切れ途切れの声で言い、カンディードのほうは自分が何を言っているのか分からないままに彼女に話しかけた。
どきどきしちゃっていたわけだね。

Le lendemain après le dîner, comme on sortait de table, Cunégonde et Candide se trouvèrent derrière un paravent ;
訳:
その翌日、夕食の後、食事の席を立ったところで、キュネゴンドとカンディードは屏風の後ろで鉢合わせしたのだった;

ここの接続詞のcommeは、「〜しているとき」という時間を表すcommeです。みんなが一緒にご飯を食べているテーブルの席を(食べ終わって)立つことを、sortir de tableといいます。
comme 接続詞
 ((動詞は多く直説法半過去)) (ちょうど)…のときに.
Elle entra (juste) comme le rideau se levait.
彼女が入ったのは(ちょうど)幕の上がるときだった.
Comme je commençais à m'endormir, j'entendis du bruit dans la maison.
眠りかけたとき家の中で物音が聞こえた.

se trouvèrent は、ここでは、trouver の代名動詞用法の、相互的用法です(石井文法の53頁の②を見てください)。時制は単純過去ですね。

Cunégonde laissa tomber son mouchoir, Candide le ramassa, elle lui prit innocemment la main, le jeune homme baisa innocemment la main de la jeune demoiselle avec une vivacité, une sensibilité, une grâce toute particulière ;

使役動詞 laisser は、初めてかな。
〈~+inf.+qn/qc// ~ qn/qc+inf.〉…に…させておく,させる.
laisser partir qn=laisser qn partir
…を引き留めない.
ne laisser entrer personne
だれも中に入れない.
laisser tomber de l'eau sur le pantalon
ズボンに水をこぼす.
Ils ont laissé échapper le prisonnier.
彼らは囚人に脱走されてしまった.
Laissez-moi vous parler sans ambages.
単刀直入に言わせてください.
L'analyse de la situation laisse prévoir d'innombrables difficultés pour cette entreprise.
状況を分析すると,この計画には無数の障害が予想される.

laisser tomber で「落とす」:(tomberが自動詞なので、文字どおりに訳すと「落ちるままにする」という意味だ。)

elle lui prit innocemment la main 彼女は無邪気にも彼の手を取った。
ここも説明が必要かな。身体部位に関する表現。

誰かの手を取る。 prendre la main à quelqu’un
手(身体部位)の所属主を間接目的補語格において、身体部位は定冠詞をつけて直接目的補語格に置きます。
そこから、代名動詞表現でも、「自分の顔を洗う;se laver la figure 」というように、「自分に」を表す再帰代名詞を間接目的補語格にして、「顔」を定冠詞つきで直接目的補語格にします。直訳すると、「自分に顔を洗う」みたいな意味になるわけ。

その次の文では、le jeune homme baisa innocemment la main de la jeune demoiselle
となっていて、「la main de la jeune demoiselle お嬢さんの手」に接吻した、と手が直接目的補語で、手の所有者のお嬢さんはそのシンタグムに所属していますが、これは、この文になると、すでに「手」が主題化しているからで、前の「彼女の手をとる」という、対人的な動作とはすでに違うレベルの記述なのだ。

それで、訳ですが、
キュネゴンドははっとしてハンカチを落としてしまい、カンディードがそれを拾った。彼女は清らかな様子で彼の手を取った。青年も清らかな様子でお嬢様の手に口づけした。あつく、やさしく、妙なる気持ちを込めて。

それで、どうなったか?
leurs bouches se rencontrèrent, leurs yeux s’enflammèrent, leurs genoux tremblèrent, leurs mains s’égarèrent.
二人の唇は出会い、目は燃え上がり、膝はがくがくと震え、お互いの手はあてどなくお互いを求めてさ迷った。

で、どうなったか?
Monsieur le baron de Thunder-ten- tronckh passa auprès du paravent, et voyant cette cause et cet effet, chassa Candide du château à grands coups de pied dans le derrière ;
トゥンデール・テン・トゥローンク男爵がその屏風のそばを通りがかられて、この原因と結果をご覧になり、カンディードの尻に一蹴とばし、お城から追放してしまわれた。

で、どうなったか?


Cunégonde s’évanouit ; elle fut souffletée par madame la baronne dès qu’elle fut revenue à elle-même ;
キュネゴンド姫は気を失って、我を取り戻すやいなや、男爵の奥様から平手打ちをくわされることにあいなった;

まあ、そうだろうねえ・・・
で、ちょっとだけ文法事項ですが、
dès qu’elle fut revenue à elle-même ここの時制ですが、主文が直接法単純過去なのに対して、dès que … (「… するやいなや」という時間差を表す接続詩句)の従属節の時制は、「前過去 le passé antérieur」、すなわち、主節の過去時点において、すでにそれ以前に完了していた事態を表す完了相の複合時制:「助動詞の単純過去+過去分詞」です。それについては、石井さんの78頁を参照しょう。

で、どうなったか?
et tout fut consterné dans le plus beau et le plus agréable des châteaux possibles.
そして、可能な城のなかの最も美しく最も心地よき、かのお城においては、すべてが茫然自失の態と打ちなりき。

つまり、だれもが目をむき、気絶してしまいそうな、大スキャンダルと受けとめられた、ということさ!

まとめ
 城へと戻ってくる途上、姫はカンディード君にばったりと出くわして顔を赤らめた。カンディード君のほうでも頬を真っ赤にした。姫は彼に、かろうじてボンジュールと途切れ途切れの声で言い、カンディードのほうは自分がいったい何を言っているのやら分からないまましどろもどろに姫と会話を交わしたのだった。その翌日、夕食の後、食事の席を立ったところで、キュネゴンド姫とカンディード君は、屏風の後ろでまたしても鉢合わせしたのだった;キュネゴンド姫ははっとして驚きのあまりハンカチを落としてしまい、カンディード君がそれを拾った。すると彼女は清らかな様子で彼の手をそっと取った。青年も清らかな様子で、お嬢様の手に接吻した。あつく、やさしく、妙なる気持ちを込めてね。そして、二人の唇は出会い、瞳は燃え上がり、膝はがくがくと震え、お互いの手はあてどなくお互いを求めてさ迷いまさぐり合った。そのときちょうど折悪しく、トゥンデール・テン・トゥローンク男爵が屏風のそばを通りがかられて、この原因と結果をご覧になり、カンディードの尻をおもいっきり一撃蹴とばし、お城から追い出してしまわれた。キュネゴンド姫は気を失ってしまったが、我を取り戻すやいなや、こんどは男爵の奥様から平手打ちをくわされる羽目にあいなった。そして、可能な城のなかでも最も美しく、最も心地よき、かのお城におかせられては、すべてがこの大スキャンダルに茫然自失、この世の終わりかとも受けとめられたのであった、とさ。

というわけなのだ。



 つまり、この第一章で、カンディード君の幸福なお城での幼少時代が終わることになったわけ。そして、彼は、これから、世界の冒険に出発することになります。

  この第一章は、「楽園追放 le Paradis perdu 」のエピソードというわけなのだ。













 さて、これで、やっと『カンディード』第一章が終わりだ。

 思ったより、時間がかかった。というか、これをこのように書き下ろしてくるのは、先生にとっても結構大変だったよ。

  他の本に執筆作業に影響が出て、編集者に文句を言われてしまった。
  ともあれ、九年ぶりのフランス語教師の経験としては端的に面白いね。
  で、今後どうするかな。

 それを、考えるためにも、みんなから第一章の感想を書いて送っておくれ。
どんな、観点からでもいい。分かんなかったところ。フランス語として難しいところ。
少し自信がついたところ。

 まだ、しばらくは続けたいと思うが、みんなのリアクションをみてから考えることにするよ。

  リアクションペーパーは「課題コーナー」に設定しようね。
  では、また。


                    2017年9月3日 

                             石田英敬

ps. 長いテクストなので、タイプミスなどバグがあると思う。それからリンクが効かないところも出る可能性がある。その場合は、自分で検索をかけてみて、それでも難しいようなら連絡してくれば何とかするよ。

2019年8月19日月曜日

2019 08/20 [Tue] ゲンロン主催イベント Is a Post-European Philosophy of/in Technology possible? 石田資料集

2019 08/20 [Tue] ゲンロン主催イベント
石田英敬 × 許煜 × 東浩紀
Is a Post-European Philosophy of/in Technology possible?──On Hui's The Question Concerning Technology in China and Ishida and Azuma's New Semiotics.
のための資料集

石田が言及するかもしれない関連資料を以下に挙げます。あくまでも予定です。本番直前まで随時更新します。

1 石田のトークの元になるテクストは以下です。
石田 英敬(編集), 吉見 俊哉(編集), マイク・フェザーストーン(編集)
『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』東京大学出版会、2015年、332頁、責任編集、第1章「新ライプニッツ派記号論のために-- 『中国自然神学論』再論」(pp.13-44) のための未定稿原稿ですので、番組終了後はすぐに取り下げます。できれば、刊行書籍の方を買っていただけるか、大学図書館等で購入していただけるとうれしい。(笑)

2 Yuk Hui の三著作を読みましょう。
·  On the Existence of Digital Objects , pref. Bernard Stiegler, University of Minnesota Press, 2016, ARG. Review: Larivière (Parrhesia).
o  论数码物的存在, trans. 李婉楠, Shanghai: Shanghai People's Publishing House, 2019, 305 pp. (Chinese)
·  The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Falmouth: Urbanomic, 2017
o  중국에서의기술에관한물음, trans. Hyung-Joon Jo, 새물결, 2019, 400 pp. (Korean)
·  Recursivity and Contingency, London: Rowman and Littlefield, 2019

3 藤幡正樹個展『E.Q.』を観に行ってください。Yukのいう「Existence of Digital Objects」とは何か、を考えるためのよい機会になるはずです。
トークもあります。
2019年 8月21日(水)18:00-19:30 ディアローグ・イベント 
Yuk Hui氏(哲学者)X  藤幡正樹 

次の講演会も。
森美術館 アージェント・トーク036:「テクノダイバーシティ」論
2019年8月22日(木)19:00~20:30
https://www.mori.art.museum/jp/learning/3413/index.html

4 Yuk Hui  の中心概念cosmotechnicsについては以下の論文が分かりやすい。
 On Cosmotechnics: For a Renewed Relation between Technology and Nature in the Anthropocene” in Techné: Research in Philosophy and Technology 
ISSN: 1091-8264 21:2–3 (2017): 1–23 DOI: 10.5840/techne201711876

5 Contingency Formal language の記号問題についてまで、話を進めることは明日はできないと思いますが、議論の中で言及されるとすれば、たとえば次の論文となります。
QUENTIN MEILLASSOUX 
“Iteration, Reiteration, Repetition: A Speculative Analysis of the Meaningless Sign” 
Freie Universität, Berlin, 20. April 2012  www.spekulative-poetik.de

メソポタミアのclay tokenの研究で有名なDenise Schmandt-Besseratのサイト

***
(以下随時更新の予定)
 


2019年8月15日木曜日

「夏休みのためのフランス語 ひよこ自習クラス」プロジェクト(第3回)

石田フランス語 2017/08/15
 「夏休みのためのフランス語 ひよこ自習クラス」プロジェクト(第3回) 
    
みんな元気かな。
今年はどうやら秋が早そうだね。稲穂がもう色づいている。
クマが出るという注意の放送がときどきあってクマ鈴をつけて朝の散歩にでかける。
お盆休みで、UPが少々遅れました。
でも、ほぼほぼ毎週というペースで、「フランス語の自主夏期講習」第三回を始めましょう。
 前回は、『カンディード』の第一章を読み始めたが、今回からはもう少し速く進めるはず。

(図版を参照するためには 配布資料をDLしてください。PDFファイル版

I. 『カンディード』第1章(つづき)


[1] 第一章 第二パラグラフ 
Monsieur le baron était un des plus puissants seigneurs de la Vestphalie, car son château avait une porte et des fenêtres. Sa grande salle même était ornée d’une tapisserie. Tous les chiens de ses basses-cours composaient une meute dans le besoin ; ses palefreniers étaient ses piqueurs ; le vicaire du village était son grand aumônier. Ils l’appelaient tous Monseigneur, et ils riaient quand il faisait des contes.

とくに難しい文法事実はないパラグラフだね。直接法半過去で語られているのは、過去における状態の記述だからだ。一文ずつ見ていこう。

1 Monsieur le baron était un des plus puissants seigneurs de la Vestphalie, car son château avait une porte et des fenêtres.

- 授業ですでに言ったと思うけれど、Monsieur はMon sire, あるいはMon seigneur が語源の尊称。称号とともに使うときには、称号には定冠詞をつけます。
Monsieur le Président (大統領閣下), Monsieur le maire(市長殿) のようにね。Madameについても同様。

- un des plus puissants seigneurs: “un de”については以下。
━un, une; ((複数形)) uns, unes
[不定代名詞]
1 …の一人,の一つ.
un des hommes les plus remarquables de ce temps.
現代で最も注目すべき人物の一人.
un de ces jours
近いうちに.
Gide est un de mes écrivains préférés.
ジッドは私の好きな作家の一人だ.
Je vous enverrai un de mes ouvriers.
私のところの工員の一人をお宅へやりましょう.

- “car” :
[接続詞]
なぜなら,というのは,その証拠には.
Il n'est pas venu aujourd'hui, car il est malade. (= parce que)
彼は今日は来なかった,病気だからね.
L'ordinateur ne sera jamais capable de faire face à toutes les situations imprévues, car il ne possède pas l'aptitude d'adaptation spontanée du cerveau. (= en effet)
コンピュータがあらゆる不測の事態に対処しうるということはまずあり得ない.というのも,コンピュータには人間の頭脳のもつ当意即妙性はないのだから.
[注]car は parce que よりも因果性が弱い.原因,理由よりも説明,確認を示す場合が多い.また,car が parce que と置換可能の文でも car によって始まる節が文頭に来ることはなく,必ず後置される.

Monsieur le baron était un des plus puissants seigneurs de la Vestphalie, car son château avait une porte et des fenêtres.
男爵殿はヴェストファーレンの最も権勢ある君主のお一人であった、なぜなら彼の城館には扉が一つ、それに窓が幾つかあったのだから。
もちろんこの文章はアイロニカルで、「扉が一つに…」以下は風刺だね。

2 Sa grande salle même était ornée d’une tapisserie.
これも難しくないね。
- être ornée de :これは受動態の復習だね。前置詞がdeの場合(石井 p.39)
- même :ここは副詞で、Sa grande salleにかかるんだよ。下の二番目に近い用法で、語順は、後ろの語句にかかったり、前の語句にかかったりするから、最初は少し戸惑うかもしれない。所有形容詞のsaなんだけど、ここは男爵様のということ、つまり「彼の」
 Même sa grande salle était ornée d’une tapisserie. と語順がちがってもここはほぼ同じ意味になる。

même
[副詞]
1 …でさえも,…すら;であっても.
Son habileté étonnait même les professionnels.
彼の腕前は専門家さえ驚かせた.
Même les plus sages [Les plus sages même]se trompent parfois.
どんなに分別のある人でも時には間違える.
Même pour lui, c'est impossible.
さすがの彼もそれは無理だ.
Elle ne me parle même plus.
彼女はもう私に口を利いてくれさえしない.
Il aime sa femme, je dirais même qu'il l'adore.
彼は妻を愛している,崇拝していると言ってもいい.
Cette décision a été prise sans même que les employés soient informés.
従業員に知らせることもせずに,この決定が下された.
Même par beau temps, je n'aime pas le bateau.
天気がよくても船はご免だ.
だから、
Sa grande salle même était ornée d’une tapisserie.
そのお城は大広間にさえ一幅の壁掛け(タペストリー)が掛けられていたのである。
(お城にはフツー掛けられているんだよ!だから皮肉な表現)。

3-1. Tous les chiens de ses basses-cours composaient une meute dans le besoin ;
 basse-cour は、お城の構造を分からないと理解できないので、少々解説。


 他人のサイトから借りてきた図像なので精度が悪いのだけど、ヨーロッパ中世のお城(城砦 le château fort )は、だいたい左のようになっています。
 外敵から守れるように出来ているので、お堀に囲まれています。


 入り口は跳ね橋(le pont-levis)になっていて、戦いのときには閉じこもることができる入り口になっている。そのゲートからはいって一段低い中庭(la cour)に入ってくる。そこ低中庭(la basse-cour)。そこからさらに上がると高中庭(la haute-cour)になって、そこに天守閣(le donjon)と領主の館がある、というのが基本構造。
 領主一家は上の高中庭の方を生活空間にしていて、低中庭(la basse-cour)のほうは、普段は、住民たちが出入りして馬や家畜・家禽を飼ったり農作物をつくったりという空間でもある。下の図を見て欲しい。
 そこから、次第に、la basse-courは、『ロベール仏和大辞典』がいうように、ニワトリを飼っている家畜小屋などを指すようになった。
basse-cour [bɑs-kuːR];
((複数形)) ~s-~s
[女性名詞]
(←bas1+cour)
1 (家禽(かきん)や家畜の)飼育場;家畜小屋,鶏小屋.
2 ((集合的に)) 家禽,家畜.
3 勝手用中庭,側庭.
4 騒々しい人.
そこで、
Tous les chiens de ses basses-cours composaient une meute dans le besoin;
男爵様の低中庭の犬たちは必要時(dans le besoin)にはこぞって(tous les …)猟犬の群れとなるのであった。
つまり、固有の猟犬を持っていなかった、というわけだ。

3-2 ses palefreniers étaient ses piqueurs ;
旦那様の馬丁たちは猟犬係となり
つまり、馬丁たちが急ごしらえの猟犬係に扮したというわけ、

3-3 le vicaire du village était son grand aumônier.
村の助任司祭は旦那さまお付きの宮廷司祭となり
つまり村のお坊さんが宮廷司祭に扮した

要するに、つまり、そういうわけだったわけだ!(^_^)

4. Ils l’appelaient tous Monseigneur, et ils riaient quand il faisait des contes.
彼ら(馬丁たちやお坊さんたち)はみんな旦那様をMonseigneur(殿様)と呼んでいたし、旦那様が小話をするときは、(しらけたそぶりなんてせず)さも可笑しそうに皆笑っていた。

分かるね!
l’appelaient の人称代名詞直接目的格のl’(le)については、下の「代名動詞」と一緒に説明してあるから見てください。
tousが分かりにくい、それについては、以下のURLをどうぞ。
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語形容詞#content_1_2
「北鎌フランス語」いいね! 誰だろうね、このサイトをやっているひと(^_^)。

以上まとめると、
Monsieur le baron était un des plus puissants seigneurs de la Vestphalie, car son château avait une porte et des fenêtres. Sa grande salle même était ornée d’une tapisserie. Tous les chiens de ses basses-cours composaient une meute dans le besoin ; ses palefreniers étaient ses piqueurs ; le vicaire du village était son grand aumônier. Ils l’appelaient tous Monseigneur, et ils riaient quand il faisait des contes.
男爵さまはヴェストファーレンの最も権勢ある君主さまのお一人で、なぜなら、旦那様のお城には門がひとつに窓もそなわっていたからであります。旦那様の大居間ときたらなんとタペストリーが打ち掛けられておりました。平庭の犬たちときたらその時が来たら猟犬の一群と相成りて、馬丁たちは猟犬係に扮しまして、村の坊主が旦那様の宮廷司祭をとなっておりました。みなで旦那様を殿と呼び、旦那様がお話になる小話にゃ、欠かさず陽気な笑い声で応えておりました。
ま、こんなところだね。

[2] 第一章 第三パラグラフ 
Madame la baronne, qui pesait environ trois cent cinquante livres, s’attirait par là une très grande considération, et faisait les honneurs de la maison avec une dignité qui la rendait encore plus respectable. Sa fille Cunégonde âgée de dix-sept ans était haute en couleur, fraîche, grasse, appétissante. Le fils du baron paraissait en tout digne de son père. Le précepteur Pangloss était l’oracle de la maison, et le petit Candide écoutait ses leçons avec toute la bonne foi de son âge et de son caractère. 

一文ずつほぐそう、
1 Madame la baronne, qui pesait environ trois cent cinquante livres, s’attirait par là une très grande considération, et faisait les honneurs de la maison avec une dignité qui la rendait encore plus respectable.


新文法知識2 「代名動詞 le verbe pronominal」
 この文における新学習事項はs’attirait(s’attirer)に出てくる「代名動詞」。石井文法では第10課(p.52 sq.)を見てほしい。
 「主語と同じものを表す目的補語人称代名詞(再帰代名詞)をともなう動詞」のことだ。該当部分だけを取りだそう :
Madame la baronne s’attirait une très grande considération
 直接法半過去を直接法現在に書き換えると
 Madame la baronne s’attire une très grande considération
  attirer (引きつける、引き寄せる)は、単独で使用されれば他動詞
5 〈~ qc+à, sur+qn〉…に〔判断,感情,事件など〕を招き寄せる,もたらす.
Ses discours lui ont attiré des sympathies.
彼はそのスピーチで人々の共感を得た.
Ses procédés lui attireront des ennuis.
あのやり方では彼は厄介な羽目に陥るだろう.
Sa mauvaise conduite a attiré sur lui toute la colère de la ville.
彼の不品行は町中のひんしゅくを買った.
Vous avez attiré à vous la vénération du peuple.
あなたは国民の敬愛を一身に集められた.
Il essaie d'attirer à lui (l'aide) d'anciens membres du parti communiste.
彼は旧共産党員を自分の味方に引き入れようとしている. 
             (辞典項目は断りのない限り『ロベール仏和大辞典』から引用)

この辞典項目を理解するためには、「代名動詞」と「再帰代名詞」の学習より前に、「人称代名詞 pronom personnel」(上記例文の青字)のシステムを学習しておく必要があるね。それは前回も一部参照(cf. 前回p.11)したのだけれど、石井文法では第9課(p.47 sq.)を参照。補足的には次のURLを見てください。http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語人称代名詞



 文例 Madame la baronne s’attire une très grande consideration にもどると、
例えば、
   Sa générosité attire à Madame la baronne une très grande considération.
   (彼女の寛大さは男爵夫人に大きな尊敬の念を引きつける。)
 この間接目的語句à Madame la baronneを人称代名詞に代えると、間接目的格のluiに置き換えられる。
 したがって、
 Sa générosité lui attire une très grande considération.
(彼女の寛大さは彼女に大きな尊敬の念を引きつける。)
 ここまでは「人称代名詞」の間接目的格のお勉強。
 これ以後が「代名動詞」と「再帰代名詞」のお勉強で、
 Madame la baronne s’attire une très grande considération
 のs’(se) のところが「再帰代名詞 pronom réfléchi」で、ここは再帰代名詞が「間接目的」格の用法(石井文法 p.53 [用法] ① b))。
(男爵夫人は大変な尊敬の念を彼女自身に引きつけている(一身に引きつけている))
 まとめると、
 Madame la baronne s’attirait une très grande considération
 男爵夫人は大変な尊敬の念を一身に浴びていた。

構文を原文に戻すと、
Madame la baronne, qui pesait environ trois cent cinquante livres, s’attirait par là une très grande considération,
 関係代名詞節 qui pesait environ trois cent cinquante livres, は良いかな?
-

“livre”は、男性名詞un livre , le livre (本、書物)ではなくて、女性名詞で、英語のポンドとほぼ同じ重量単位。フランスはメートル法の発祥の地なのだが、いまでも毎週街角で立つle marché()で売っている野菜や果物は、livre 単位で売っていることがしばしばなんだよ。

livre [女性名詞]
1 【計量単位】 リーヴル.
(1) 500グラム.
(2) [カナダ語法] 16オンス,0.435キログラム.記号 LB.
(3) [古語] 380~550グラム.旧重量単位で,パリでは489.5グラムとするなど地方ごとに異なっていた.
2 【計量単位】 ポンド(=pound):英国の重量の単位.
3 【計量単位】
livre poids
リベラ:古代ローマの重量単位.約327グラム.
4 ポンド.
(1) 英国の通貨単位.記号£(=sterling).
(2) キプロス,エジプト,アイルランドなどの通貨単位.
5 【歴史】 リーヴル:革命前フランスの貨幣単位.パリ系 livre parisis とトゥール系 livre tournois の2系列があった.
【語源】[<ラテン語 lībra 秤(はかり)(→litron)]

男爵夫人はおよそ350リーヴルの体重があったが、そのせいで、大変な評判を一身に集めていた。 environ は副詞で「およそ、訳」、par là 「そこから、そのせいで」
350リーヴルは、170キロといったところか

文の続きは、
et faisait les honneurs de la maison avec une dignité qui la rendait encore plus respectable.
- 直接法半過去はもう慣れたかな。honneur (n.m.)は名誉だが、ここはイディオムで、
◇ faire les honneurs de la maison (à qn)
(来客を)主人自ら家の中を案内して歓待する.
- avec une dignité qui la rendait encore plus respectable
ここの前置詞句の関係詞節のla が(Madame la baronne)に代わる人称代名詞直接目的語格だね。
   rendre は
   6 〈~ qn/qc+属詞〉…を…にする.[注]属詞として過去分詞を用いるのは古用.
rendre qn heureux
…を幸せにする.
rendre qn responsable de qc
…に…の責任を負わせる.
Le jugement a été rendu public.
判決が公表された.
La spéculation immobilière rend difficile l'acquisition d'un logement et contraint à s'installer loin du lieu de travail.
不動産投機のせいで住宅の取得が困難になり,職場から遠い所に住まわざるを得ない状況になっている.
((目的語なしに)) Ce travail rend nerveux.
この仕事をするといらいらしてくる.

したがって、
「そして、彼女が客たちを堂々と歓待していた、その威厳ぶりが男爵夫人をなおいっそう敬うべき方のように思わせるのだった。」とか、そういう感じでしょう。

だから、まとめると、
Madame la baronne, qui pesait environ trois cent cinquante livres, s’attirait par là une très grande considération, et faisait les honneurs de la maison avec une dignité qui la rendait encore plus respectable.
男爵夫人はおよそ350リーヴルの体重があったが、そのせいで、大変な評判を一身に集めていたし、客たちを堂々と歓待する、その威風は彼女をなおいっそう敬うべき方のように思わせるのだった。

次の文に行こう、
3. Sa fille Cunégonde âgée de dix-sept ans était haute en couleur, fraîche, grasse, appétissante.
ここも文法的には特に難しいことはないよね。語彙表現が少し説明が必要かな。

- était haute en couleur: être haut en couleur
couleur はここでは肌の色ではなく「顔の色」、顔の色が「高い haut」というのは、「血色がよい」という意味です。
 ◇ haut en couleur(s)
(1) 精彩[色彩]に富んだ;変化に富んだ.
personnage haut en couleur
精力的な人物;傑出した人物.
Les récits de J. Kessel sont toujours hauts en couleur(s).
ケッセルの小説は常に波乱に富んでいる.
(2) 血色のよい,赤ら顔の.
  -   fraîche は形容詞 fraisの女性形
frais, fraîche
[fRε, fRεʃ]
6 ((名詞の前またはあとで)) 〔人が〕若々しい,撥剌(はつらつ)とした,元気な,健康な.
une femme de trente ans, belle et encore fraîche
美しく,まだ若々しい30歳の女性.
avoir le teint frais
顔色が生き生きとしている.

- grasse、はgrasの女性形、肉感的な、ぽっちゃりした
- appétisssantは「食欲をそそる、美味しそうな」、ではなく、「魅力的な、情欲をそそる」[初心者は(まだ)女性に言ってはいけません!]
      grasse, appétissante
  une fille grasse et appétissante
  グラマーで肉感的な娘.
だから、
Sa fille Cunégonde âgée de dix-sept ans était haute en couleur, fraîche, grasse, appétissante.
彼女の娘、キュネゴンド(ちゃん)は、17歳で血色よく(美肌で)、若々しく(ピチピチして)、ふくよか(グラマー)で魅力的(セクシー)だった(キャハハ !(^_^))。

そして、次、
4. Le fils du baron paraissait en tout digne de son père.
これも問題なし。
 - être digne de 〜 
2 〈~ de qn/qc〉…にふさわしい,似つかわしい,うってつけの;釣り合った.
roman digne d'un grand écrivain
大作家の名に恥じない小説.
un adversaire digne de soi
相手として不足のない敵.
attitude peu digne d'un juge
裁判官にふさわしくない態度.
vin digne d'un si fin repas
このような高級な食事にぴったりのワイン.
Une telle réponse est digne de lui.
((皮肉に)) それはいかにも彼らしい返答だ.

- en tout : すべてにおいて

だから、
Le fils du baron paraissait en tout digne de son père.
男爵の息子はすべてにおいて父君にふさわしい方のように見受けられた。

5. Le précepteur Pangloss était l’oracle de la maison, et le petit Candide écoutait ses leçons avec toute la bonne foi de son âge et de son caractère.
ここもとくに問題はないように思う。
 - oracle は、ここは「ご託宣を告げる人物」、つまり、「大権威」という意味。
oracle
[ɔ-Ra〔ɑː〕kl]
[男性名詞]
1 (古代ギリシアの)神託,託宣;神託[託宣]所.
l'oracle d'Apollon à Delphes
デルフォイのアポロン神託(所).
Les oracles s'étaient rendus par l'intermédiaire de la pythie ou de la sibylle.
神託はピュティアやシビラなどの巫女(みこ)の口を通して告げられた.
2 神託[神意]を伝える人,巫女,祭司;預言者.
3 (絶対的な)権威者;(その道の)大家,最高権威.
Cet écrivain est l'oracle de sa génération.
あの作家は同世代に絶対的信望[影響力]がある.
Mon grand-père est l'oracle de la famille.
我が家では祖父の言うことは絶対である.
parler comme un oracle
威厳をもって語る.
Ce professeur est considéré comme un oracle de l'économie marxiste.
あの先生はマルクス主義経済学の最高権威[神様]だ.

- foi (n.m.)は、信仰,信心のことだが、ここは la bonne foi 誠意、善意、誠実
 ◇ bonne foi
(1) 誠意,善意.
abuser de la bonne foi de qn
…の善意につけ込む.
homme de bonne foi
善意の人.
être de bonne foi
誠実である.
agir de bonne foi
誠実に行動する.
 
-  tout, toute, tous, toutes は慣れるのに少し時間かかるかな?
tout, toute [tu, tut];
((複数形)) tous [tu], toutes [tut](tout は形容詞,代名詞,副詞のとき,母音,無音の h の前でリエゾンして[tut];tous は形容詞のとき[tu]と発音するが,母音,無音の h の前でリエゾンして[tuz],代名詞のとき[tus])
[不定形容詞]
I ((単数で))
[1] ((定冠詞,所有形容詞,指示形容詞を伴って))
1 …全体,…中,全部の…,すべての….
toute la journée=tout le jour
1日中.
tout le temps
ずっと,いつも.
tout le monde
すべての人々,皆.
toute cette ville
この町全体.
tout cet été
この夏中.
toute sa vie
生涯を通じて.
Il était malade pendant tout le voyage.
彼は旅行中ずっと病気だった.
Je ne connais pas toute l'histoire.
私はその話を全部知っているわけではない.
C'est (là) toute la question [tout le problème].
そこにすべての問題がある,それがただ一つの問題だ.
Tout mon espoir est de le revoir.
私の唯一の希望は彼に再会することだ.
de tout son cœur
心の底から.
dormir tout son soûl
思う存分眠る.
J'ai tout mon temps.
私には時間がたっぷりある.
Cet écrivain exprime l'esprit français dans toute sa finesse.
この作家はフランス精神をそのごく微妙な点に至るまで描き出している.

だから、
Le précepteur Pangloss était l’oracle de la maison, et le petit Candide écoutait ses leçons avec toute la bonne foi de son âge et de son caractère.
家庭教師のパングロス先生は一家の大権威で、若僧カンディードは彼の教えを彼の年令と彼の性格に由来する全幅の信頼をもって聞き入っていたのである。
こんな感じだ。

で、この第三パラグラフ全体をまとめよう。
Madame la baronne, qui pesait environ trois cent cinquante livres, s’attirait par là une très grande considération, et faisait les honneurs de la maison avec une dignité qui la rendait encore plus respectable. Sa fille Cunégonde âgée de dix-sept ans était haute en couleur, fraîche, grasse, appétissante. Le fils du baron paraissait en tout digne de son père. Le précepteur Pangloss était l’oracle de la maison, et le petit Candide écoutait ses leçons avec toute la bonne foi de son âge et de son caractère. 
男爵夫人は、体重が約350リーヴル、それだけの重みの方であったゆえ、非常に大きな尊敬を一身に集めておられたし、一家への訪問客のおもてなし方は威厳たっぷりでござったから、奥方様をさらにさらにご立派な尊敬すべき方にしておったのである。お嬢様のキュネゴンド姫は齢17才、美顔美肌かつとして、ほどよく、殿方をあり。男爵さまのご子息は万事に非の打ち所なくお父様にふさわしき方。お抱え家庭教授のパングロス師は一家の大権威で、若きカンディード君は師の教えに、弱き齢とまっすぐの心根ゆえの全幅の信頼を寄せて聴き入っておったのである。

ま、こんな、かな。


[3] 第一章 第四パラグラフ 
   Pangloss enseignait la métaphysico-théologo-cosmolo-nigologie. Il prouvait admirablement qu’il n’y a point d’effet sans cause, et que, dans ce meilleur des mondes possibles, le château de monseigneur le baron était le plus beau des châteaux, et madame la meilleure des baronnes possibles.

 だんだん、文法的解説は不要になってきたと思われる。だから、加速しよう。分かんないところがあったら質問してね!

1. Pangloss enseignait la métaphysico-théologo-cosmolonigologie.
- la métaphysico-théologo-cosmolonigologie:
la métaphysique(形而上学), la théologie(神学), la cosmologie(宇宙論), そして、la nigologie(愚学、間抜け学)を連ねたデタラメ語。la nigologieは、le nigaud(間抜け、愚か者) からの造語。これとかはその学の系譜とはいえるね、この本結構面白いよ。http://www.shinchosha.co.jp/book/610490/
  
  訳:パングロス先生は形而上学的-神学的-宇宙論的-間抜け学を教えていた。

2. Il prouvait admirablement qu’il n’y a point d’effet sans cause,
  彼は見事に原因がなければ結果は全くないということを証明していた、

3. et que, dans ce meilleur des mondes possibles, le château de monseigneur le baron était le plus beau des châteaux, et madame la meilleure des baronnes possibles.
  - et que は、il prouvait que の繰り返しだよ。
 そして、可能世界のなかの最良のこの世界において、男爵閣下のお城は可能な城の中でも最も立派、奥方は可能な男爵夫人のなかでも最良のご奥様であることを証明していた。

はい、したがって、第四パラグラフをまとめると、
   Pangloss enseignait la métaphysico-théologo-cosmolo-nigologie. Il prouvait admirablement qu’il n’y a point d’effet sans cause, et que, dans ce meilleur des mondes possibles, le château de monseigneur le baron était le plus beau des châteaux, et madame la meilleure des baronnes possibles.
 パングロス先生は形而上学的-神学的-宇宙論的-間抜け学を教えていた。彼は原因なくば毫も結果ありえず、また、可能世界中のこの最善世界において、男爵閣下の城は可能城の中で最善のもの、奥方は可能夫人のなかで最善の方であることを証明してみせていた。

知識の註:「最善世界論 le meilleur des mondes possibles」と「充足理由律 le principe de raison suffisante」
ここでちょっと知識の註です。
第一回ですでに紹介したように、『カンディード あるいは楽天説』は、ライプニッツの「最善世界説」を論駁するために書かれています。そのライプニッツの形而上学の代弁者がパングロス先生なんです。ちなみにパングロス Pangloss という名前なんですが、Pan は「全て(汎)」、glossはギリシャ語のglossa「舌」、つまり「口舌」、ということは「口舌の徒」と日本語でいうように、「ことば」だけということだね。Panglossはだから「すべてはことば」という意味だ。ライプニッツは「la métaphysique 形而上学」、「la théologie神学」、「la cosomologie 宇宙論」を得意としていた大哲学者だったから、「la métaphysico-théologo-cosmolo-nigologie 形而上学的-神学的-宇宙論的-間抜け学」と皮肉っている。「il n’y a point d’effet sans cause 原因のないところに結果なし」は、ライプニッツの「le principe de raison suffisante充足理由律」を述べている。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Meilleur_des_mondes_possibles
https://en.wikipedia.org/wiki/Best_of_all_possible_worlds
https://fr.wikipedia.org/wiki/Principe_de_raison_suffisante
https://ja.wikipedia.org/wiki/充足理由律
Wikipediaをとくに勧めているわけではない。哲学について詳しい正確な知識を調べるためには、The Stanford Encyclopedia of Philosophy を勧めます。PDFでダウンロードするのでなければ、無料だよ。https://plato.stanford.edu/index.html
https://plato.stanford.edu/entries/sufficient-reason/




[4] 第一章 第五パラグラフ
Il est démontré, disait-il, que les choses ne peuvent être autrement : car tout étant fait pour une fin, tout est nécessairement pour la meilleure fin. Remarquez bien que les nez ont été faits pour porter des lunettes, aussi avons-nous des lunettes. Les jambes sont visiblement instituées pour être chaussées, et nous avons des chausses. Les pierres ont été formées pour être taillées, et pour en faire des châteaux ; aussi monseigneur a un très beau château ; le plus grand baron de la province doit être le mieux logé : et les cochons étant faits pour être mangés, nous mangeons du porc toute l’année : par conséquent, ceux qui ont avancé que tout est bien ont dit une sottise : il fallait dire que tout est au mieux.

そろそろ、いちいち一文ずつ解説する必要はなくなってきたように思います。
このパラグラフは、disait-il, (彼は言っていた)という挿入句が示しているように、パングロス先生の言葉の直接話法的独白です。だから、現在時制なんだよ。

Il est démontré, disait-il, que les choses ne peuvent être autrement :
書き言葉では、ne… pas の否定文で、pas を書かないことはよくあるんだ。とくにpouvoir やsavoirといった動詞や助動詞的動詞が使われる場合に。
ここもそのケース、il est démontré que les choses ne peuvent pas être autrement.
「物事が別様ではあり得ないことは証明されている」

car tout étant fait pour une fin, tout est nécessairement pour la meilleure fin.
この文で、tout étant fait pour une fin この現在分詞句が初出だね。

新文法知識 3 「現在分詞 participe présent」
フランス語にももちろん「現在分詞 participe présent」があります。石井文法では第12課での学習事項です(p.61 sq.)。
 [形]としては半過去の語幹に語尾 –ant を付けます。avoir はayant、savoirがsachant だけが例外。
 [用法]については石井さんの該当箇所を読んでください。(p.61 sq.)。
複合形もあって、それも難しくはない。(p.62)
 さて、ここのtout étant faitは、厳密に言うとじつは意外と難しい現在分詞の用法でね、石井先生のp. 62 「(3) 絶対分詞節」をまず見てください。
「(3)絶対分詞節
現在分詞節が主文の主語とは異なる主語を独自にもったものを「絶対分詞節」と言い、多くのケースでは理由を表す副詞節に相当する。
 Son père étant malade, il est resté à la maison toute la journéee.
 ( = Comme son père était malade, …) 」(石井 p.62)
 「彼のお父さんが病気だったから、彼は一日中家に残っていた。」
現在分詞句はson père を主語にしていて、主文のil はお父さんではなく、息子の彼(il)というのが、この石井教科書の例文だ。普通の現在分詞句を副詞句的に使った構文では、現在分詞の主語と、主文の主語が一致しているから、ふつう現在分詞の主語は文のなかには明示されない。
 石井さんのその前の頁(p.61)の③の一番目の例文を見てみよう。
  Etant malade, il est resté à la maison toute la journée.
  病気だったから、彼は一日中家に残っていた。
 こういうのが普通の現在分詞構文で、現在分詞句は「理由」を表している。

 ところが、私たちのカンディードの文、
car tout étant fait pour une fin, tout est nécessairement pour la meilleure fin.
「というのも(car)、全てはある一個の目的のために作られているのだから、全ては必ず最善の目的のためである。」
この文、文法的にちょっと変な文なんだ。
現在分詞句の主語 tout と主文の主語toutは同じなんだから、絶対分詞構文ではなくて、現在分詞句の主語toutは現れる必要がないはずなんだ。
 これはなぜなんでしょうか?


 我思うに、ここには文法的な齟齬以上の内容面に関わる理由が影響しているように思います。
 「全ては何らかの目的をもつことになっている、したがって、全ては必然的に最善の目的のためにある」、ここには論理的な飛躍があって、したがって、二つのtout は内容的には同じtoutではないわけなんだ。パングロス先生の論理のなかでは、「すべては最善の目的のためのものである」という最善説のドグマがあるので、「あるひとつの目的のために une fin」ために作られている、行われている、ということの全てが、「最善の目的のため」と同値とされてしまっているのだね。だから、文の上でも二つの「全て tout」はちがう「全てtout」であって、その論理的な段差を示すために、簡単に現在分詞の主語を省略するわけにはいかない、というわけ。
 ベン図でいえば、B「全てはなんらかの目的をもつ」、A「全ては最善の目的のため」という二つの集合の「全て」の構成メンバーは同値にならないのに、パングロス先生のなかでは一致するというわけだ。なぜだと思う? 「全て」とは何か? という形而上学的、神学的(そして、たぶん「間抜け学」的な)な問題がそこにはたぶん顔をだしているね。
 
Il est démontré, disait-il, que les choses ne peuvent être autrement : car tout étant fait pour une fin, tout est nécessairement pour la meilleure fin.

Il est démontré que ... の Il は que 以下を受ける形式主語。(石井文法 p.44)

だから、
彼(パングロス先生)は言っていた:「物事は別様にはありえないことは証明されておる。なぜなら全ては一定の目的のためにつくられておるのであるから、全ては必然的に最善の目的のためにあるのじゃ。」

むーん、本当かなあ?

Remarquez bien que les nez ont été faits pour porter des lunettes, aussi avons-nous des lunettes.
よく考えてご覧なさい(Remarquez bien que) 。鼻はメガネをかけるために出来ておる。したがって、我らはメガネというものを持っておるのじゃ。

aussi は、副詞と接続詞があります。接続詞は、文頭に置かれるとしばしば後ろの平叙文が倒置されます(aussi avons-nous) 。そして、ここでは 「したがって」という意味です。
aussi
[接続詞] ((文頭で)) したがって,だから,それゆえに;要は,つまるところ;何しろ…だから.[注]主語と動詞を倒置することもある.
L'égoïste n'aime que lui, aussi tout le monde l'abandonne.
エゴイストは自分しか愛さない.だから皆に見捨てられる.
Aussi est-il difficile de fournir des preuves matérielles.
そういうわけで物的証拠を示すのは難しい.
Tu n'as pas compris, aussi c'est ta faute: tu n'écoutes pas. (=après tout)
よく分からなかったのも結局は君が悪い.ちゃんと聞いていないからだ.

Les jambes sont visiblement instituées pour être chaussées, et nous avons des chausses.


脚は見るからにタイツを履くべく設けられておる、そこで我らはタイツを持つのである。
「タイツ chausses」といっても、フランスの18世紀のタイツは
https://ja.wikipedia.org/wiki/ショース
めずらしく日本語のwikiの記述がよい。
まだ履いたことないなあ〜。

因みに、現代の靴は chaussures 靴下はchaussettes です(共に女性名詞 普通は複数形で使います、もちろん)。

Les pierres ont été formées pour être taillées, et pour en faire des châteaux ; aussi monseigneur a un très beau château ; le plus grand baron de la province doit être le mieux logé : et les cochons étant faits pour être mangés, nous mangeons du porc toute l’année :
石どもは切り出されるべく、そして城をつくるべく形作られたのであって、そこで殿は素晴らしき城をお持ちなのであり、国のもっとも偉大なる男爵さまには最もよくお住まいいただくのでなければならないのじゃ。また、豚どもは食されるべく作られておるのであ〜るからして、我らは一年をとおして豚肉を食らうのである。

pour en faire des châteaux:この中性代名詞のen 分かるかな? (石井文法 第11課 p.56 sq.)
「北鎌フランス語」のお世話になりましょう。とても分かりやすいよ、この解説。ぜひ読もう。
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語中性代名詞#content_1

les cochons étant faits pour être mangés, nous mangeons du porc toute l’année
ここが、さっき上で、石井教科書を見た「絶対分詞構文」なんだよ。

par conséquent, ceux qui ont avancé que tout est bien ont dit une sottise : il fallait dire que tout est au mieux.
したがって、全ては善いと述べた者どもは譫(たわごと)を申したのである。なんとならば、すべては最善である、と言うべきであったのじゃ。


celui qui, ceux qui については、やはり「北鎌フランス語」の次を見てください。
「北鎌フランス語」いいな、やっぱり。
http://class.kitakama-france.com/index.php?フランス語関係代名詞%20II
このリンクなかなかアクセスできにくいようなので、
http://class.kitakama-france.com
へ行って、「関係代名詞II」を探し、
「先行詞 celui, ceux」を探してください。
ceux (「...な人々」)
  Ce cours est destiné à ceux qui souhaitent approfondir leurs connaissances en français.
   (この講座は、フランス語に関する知識を深めることを希望する人々に
   向けられている)
être au mieux : 「最良(ベスト)の状態である」

ま、ざっとこんな感じとなります。

第五パラグラフはしたがっておよそ以下の通りじゃ!

Il est démontré, disait-il, que les choses ne peuvent être autrement : car tout étant fait pour une fin, tout est nécessairement pour la meilleure fin. Remarquez bien que les nez ont été faits pour porter des lunettes, aussi avons-nous des lunettes. Les jambes sont visiblement instituées pour être chaussées, et nous avons des chausses. Les pierres ont été formées pour être taillées, et pour en faire des châteaux ; aussi monseigneur a un très beau château ; le plus grand baron de la province doit être le mieux logé : et les cochons étant faits pour être mangés, nous mangeons du porc toute l’année : par conséquent, ceux qui ont avancé que tout est bien ont dit une sottise : il fallait dire que tout est au mieux.
パングロス師曰く、物事は別様にはありえないことは証明されておる。というのも、全ては一定の目的のためにつくられておるのであって、したがって全ては必然的に最善の目的のためにある。考えてもみよ、鼻は眼鏡をかけるために出来ておる。したがって、我らは眼鏡というものを持っておるのじゃ。脚とは見るからにタイツを履くべく設けられておるのであって、そこで我らはタイツを持つのである。石どもは切り出されるべく、そして城をつくるべく形作られたのであって、而して殿は素晴らしき御城をお持ちなのであり、国のもっとも偉大なる男爵さまにはこの上なく最良にお住まいいただくのでなければならないのじゃ。また、豚どもは食されるべく作られてお〜るのであ〜るからして、我らは一年をとおして豚肉を食らうのである。それゆえ、全ては善いと述べた者どもは譫(たわごと)を申したのである。なんとなれば、全ては最善である、と言うべきであったのじゃからな。



 今日は八月一五日。
 この世界は本当に、「可能世界のなかの最善の世界 le meilleur des mondes possibles」なのだろうか?
 カンディード君と同じ問いの前に立つにふさわしい頃だね。

では、また、来週。



2019年8月3日土曜日

「フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に対する批判に関する所感」(アンドレ・マルロー文化大臣 1966年10月27日フランス国民議会

アンドレ・マルロー文化相 1966年10月27日 フランス国民議会での演説


 1966年4月フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に関してアラブ人側からアルジェリア独立戦争を描いた内容が「反フランス的」であるとして元軍人、極右団体が押し寄せモノを投げつけ、ネズミを放つなど初日から上演を妨害、しかし劇場側は妨害行為に中断されながらも最後まで上演をつづけて、全期間開演を全うした。
同年10月の国会予算審議に際しても右翼議員、極右団体、元軍人らが国会前に押し寄せ、右翼議員らは国立劇場への補助金の停止を要求した。
 当時、ドゴール大統領の文化担当大臣で、『希望』、『人間の条件』、『空想の美術館』などで知られた作家のアンドレ・マルロー(1901-1976  https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドレ・マルロー)が国立劇場への政府補助金の停止の主張に対して行った1966年10月27日の国会演説が以下である。
(元のテクストは以下で読める。http://classes.bnf.fr/laicite/anthologie/47.htm


「フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に対する批判に関する所感」


 皆さん、自由はいつも清潔な手をしているとはかぎりません、だが、清潔な手をしてないからといって自由を捨ててしまう前に、自由とは何かをもう一度よく考えるべきです。
 
 国から助成をえている芝居だから、と皆さんはおっしゃる。それについてはその通りです。しかし、議場で読み上げられたのは戯曲のほんの断片にすぎません。それも舞台のうえで演じられたのを観劇したわけではなく舞台の袖から観た程度のことでしょう。

 その断片の話が、「反フランスの芝居」だとかという感情をもたれている。もしほんとうに反フランスの芝居がおこなわれているとすればそれはそれで深刻な問題でしょう。ところが、この戯曲を読んだ人なら誰でもこれは反フランスの戯曲でないと分かります。それどころか、この戯曲は「反人間的な」芝居なのですよ。「スベテに反対する」戯曲なのです。ジュネは、ゴヤが反スペインではないのと同じで、反フランスではないのです。皆さんが話されているシーンはミュッセの芝居にだってありますよ。したがって、ここでの問題は、そして、それは皆さんも皆さんなりに提起されているのですが、皆さんがおっしゃる「ゴミ(腐った肉)」の問題なのです。(註:「ゴミ」と訳したマルローのもとのフランス語の言葉は la pourriture 腐ったゴミ、どうしようもない駄作とか、おぞましいもの、という意味。)

 しかし、この点においても、皆さん、どうかゆっくりと考えてください。なぜなら引用はなんとでもどんなふうにも解釈できるものだからです。

「そのときには、おお、美しき人よ、あなたを口づけするウジ虫に」などと書かれている一節を聞けば、なんていう「ゴミ(腐ったもの)」なんだ!、と皆さんはいうかもしれない。

 しかし、これは『腐った肉』というボードレールの詩の一節でして、19世紀の検事殿には『ボヴァリー夫人』同様にそれがたいそう気にくわなかったタイトルだったかもしれなません。(註: ボードレールの詩は「腐った肉 (la Charogne)」という詩で、『悪の華』所収。この詩の最後の二行をマルローは引いている。ボードレールの詩集『悪の華』もフローベールの小説『ボヴァリー夫人』も19世紀の出版当時は、猥褻の罪で起訴された。)

 皆さんがゴミ呼ばわりすることは偶然ではない。いつも(だれか芸術家)を逮捕するときはその作品がゴミだから逮捕すると言われるのです。私は何も、いや決して、ジュネが現代のボードレールだと言おうとしているのではありませんよ。ジュネが現代のボードレールだったとしても、私たちのだれもそれに気づかないでしょう。その証拠に、ボードレールの時代には彼が天才だとはだれにも分からなかっではないですか。

 確かなことは、「この芝居は私の気持ちを傷つける、だから禁止すべきだ」というようにみなさんが考えるとすれば、それは異常な考え方だということです。理にかなったまっとうな考え方とは、次のようなものです。「この芝居があなたの気持ちを傷づけるとおっしゃるなら、その芝居の切符を買うのはおよしなさい。他の芝居を観に行けばよいでしょう。必ず観なければいけないという義務はあなたにはないのです。(お芝居は)ラジオやテレビ放送とはわけがちがうのですからね」というよりリーゾナブルな考え方をすることです。

 もしひとたび皆さんが主張するような基準を当てはめはじめたら、私たちは、フランスのゴシック絵画の半分は美術館から撤去しなければなりません。なぜならグリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』はペスト患者たちのために描かれたものであり、それにゴヤの全作品もまたすべて美術館から撤去すべきでしょう。その影響は軽微どころではありませんよ。さて、先ほどのボードレールの話に戻しましょう。

 劇場というものは人びとがそこに自分たちの偉大さを再発見するために存在しています。しかし、フランス国立劇場は、ジュネの『屏風』のみを上演する劇場ではありません。たしかに、『屏風』も上演しますが。それはクローデルの『固いパン』や(ラシーヌやモリエールなどの)古典作品、そしてシェークスピアの上演の合間に上演しているのです。

 『屏風』を上演するために国が助成金を出すべきかどうかが問題なのではないのです。国立劇場のような劇場で、ある一定の方向に向かう作品だけを上演すべきかどうか、が問題なのです。
 いまから一世紀前だったら、公的な助成をうける劇場は例外的な劇場でした。ところが今では、公的な助成はほとんどすべての劇場を対象にしています。私が言っているのはパリの私立劇場のことではなくて、各地の演劇センターの話です。もし助成を行っていないパリの私立劇場に対して検閲しはじめると、地方の私立劇場にも検閲をするようになるでしょう。パリの助成対象の公共劇場に検閲を認めてしまえば、すべての地方演劇センターにも検閲を認めてしまい、フランス全体の活き活きと活動している劇場すべてに検閲を認めてしまうことにつながります。
 そのような道に踏み出すことには極度に慎重であるべきであって、私は公的助成を受けている劇場の自由をまったく無意味で無駄なことのためになくしてしまうというようなことは一切いたしません。まったく無意味で無駄」ということを強調しておきます。なぜなら、もし私たちが『屏風』を禁止したとしても、明日にはどこかで再上演され、それも三度ではなく、500回も再演されるにきまっているからです。もし万が一、私たちがすばらしい理屈をひねり出して、この芝居の上演を禁止する措置をとることができるのであると証明しえたとしても、私たちはけっきょく決して何も禁止したことにはならないだろうからです。
 皆さんが考えるべき肝心なことは、私たちの助成の3フランの行方がどうこうではなく、上演禁止によって、皆さんがカッパを水に投げ込むようなとんでもない解決法でその影響を抑え込もうとしているこの作品の栄光が、そのことでよけいに、どれほどとんでもなく大きなものになるかです。私にはそんなことが緊急の案件とは思えない。じっさいのところ、私たち文化省が『屏風』に助成の認可を与えているのは、皆さんがこの作品を非難しているそのような理由によってではないし、あるいは、みなさんの非難は正統なものかもしれません。しかし、私たちが皆さんの非難にもかかわらず、この作品の助成上演を認可しているのは、私たちが、あのボードレールの『ゴミ(腐った肉)』の結末をたいそう賞賛するものだからでして、(その作品が)死体を描いているからではないのです。

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