2019年8月3日土曜日

「フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に対する批判に関する所感」(アンドレ・マルロー文化大臣 1966年10月27日フランス国民議会

アンドレ・マルロー文化相 1966年10月27日 フランス国民議会での演説


 1966年4月フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に関してアラブ人側からアルジェリア独立戦争を描いた内容が「反フランス的」であるとして元軍人、極右団体が押し寄せモノを投げつけ、ネズミを放つなど初日から上演を妨害、しかし劇場側は妨害行為に中断されながらも最後まで上演をつづけて、全期間開演を全うした。
同年10月の国会予算審議に際しても右翼議員、極右団体、元軍人らが国会前に押し寄せ、右翼議員らは国立劇場への補助金の停止を要求した。
 当時、ドゴール大統領の文化担当大臣で、『希望』、『人間の条件』、『空想の美術館』などで知られた作家のアンドレ・マルロー(1901-1976  https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドレ・マルロー)が国立劇場への政府補助金の停止の主張に対して行った1966年10月27日の国会演説が以下である。
(元のテクストは以下で読める。http://classes.bnf.fr/laicite/anthologie/47.htm


「フランス国立劇場オデオン座でのジャン・ジュネ作『屏風』の上演に対する批判に関する所感」


 皆さん、自由はいつも清潔な手をしているとはかぎりません、だが、清潔な手をしてないからといって自由を捨ててしまう前に、自由とは何かをもう一度よく考えるべきです。
 
 国から助成をえている芝居だから、と皆さんはおっしゃる。それについてはその通りです。しかし、議場で読み上げられたのは戯曲のほんの断片にすぎません。それも舞台のうえで演じられたのを観劇したわけではなく舞台の袖から観た程度のことでしょう。

 その断片の話が、「反フランスの芝居」だとかという感情をもたれている。もしほんとうに反フランスの芝居がおこなわれているとすればそれはそれで深刻な問題でしょう。ところが、この戯曲を読んだ人なら誰でもこれは反フランスの戯曲でないと分かります。それどころか、この戯曲は「反人間的な」芝居なのですよ。「スベテに反対する」戯曲なのです。ジュネは、ゴヤが反スペインではないのと同じで、反フランスではないのです。皆さんが話されているシーンはミュッセの芝居にだってありますよ。したがって、ここでの問題は、そして、それは皆さんも皆さんなりに提起されているのですが、皆さんがおっしゃる「ゴミ(腐った肉)」の問題なのです。(註:「ゴミ」と訳したマルローのもとのフランス語の言葉は la pourriture 腐ったゴミ、どうしようもない駄作とか、おぞましいもの、という意味。)

 しかし、この点においても、皆さん、どうかゆっくりと考えてください。なぜなら引用はなんとでもどんなふうにも解釈できるものだからです。

「そのときには、おお、美しき人よ、あなたを口づけするウジ虫に」などと書かれている一節を聞けば、なんていう「ゴミ(腐ったもの)」なんだ!、と皆さんはいうかもしれない。

 しかし、これは『腐った肉』というボードレールの詩の一節でして、19世紀の検事殿には『ボヴァリー夫人』同様にそれがたいそう気にくわなかったタイトルだったかもしれなません。(註: ボードレールの詩は「腐った肉 (la Charogne)」という詩で、『悪の華』所収。この詩の最後の二行をマルローは引いている。ボードレールの詩集『悪の華』もフローベールの小説『ボヴァリー夫人』も19世紀の出版当時は、猥褻の罪で起訴された。)

 皆さんがゴミ呼ばわりすることは偶然ではない。いつも(だれか芸術家)を逮捕するときはその作品がゴミだから逮捕すると言われるのです。私は何も、いや決して、ジュネが現代のボードレールだと言おうとしているのではありませんよ。ジュネが現代のボードレールだったとしても、私たちのだれもそれに気づかないでしょう。その証拠に、ボードレールの時代には彼が天才だとはだれにも分からなかっではないですか。

 確かなことは、「この芝居は私の気持ちを傷つける、だから禁止すべきだ」というようにみなさんが考えるとすれば、それは異常な考え方だということです。理にかなったまっとうな考え方とは、次のようなものです。「この芝居があなたの気持ちを傷づけるとおっしゃるなら、その芝居の切符を買うのはおよしなさい。他の芝居を観に行けばよいでしょう。必ず観なければいけないという義務はあなたにはないのです。(お芝居は)ラジオやテレビ放送とはわけがちがうのですからね」というよりリーゾナブルな考え方をすることです。

 もしひとたび皆さんが主張するような基準を当てはめはじめたら、私たちは、フランスのゴシック絵画の半分は美術館から撤去しなければなりません。なぜならグリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』はペスト患者たちのために描かれたものであり、それにゴヤの全作品もまたすべて美術館から撤去すべきでしょう。その影響は軽微どころではありませんよ。さて、先ほどのボードレールの話に戻しましょう。

 劇場というものは人びとがそこに自分たちの偉大さを再発見するために存在しています。しかし、フランス国立劇場は、ジュネの『屏風』のみを上演する劇場ではありません。たしかに、『屏風』も上演しますが。それはクローデルの『固いパン』や(ラシーヌやモリエールなどの)古典作品、そしてシェークスピアの上演の合間に上演しているのです。

 『屏風』を上演するために国が助成金を出すべきかどうかが問題なのではないのです。国立劇場のような劇場で、ある一定の方向に向かう作品だけを上演すべきかどうか、が問題なのです。
 いまから一世紀前だったら、公的な助成をうける劇場は例外的な劇場でした。ところが今では、公的な助成はほとんどすべての劇場を対象にしています。私が言っているのはパリの私立劇場のことではなくて、各地の演劇センターの話です。もし助成を行っていないパリの私立劇場に対して検閲しはじめると、地方の私立劇場にも検閲をするようになるでしょう。パリの助成対象の公共劇場に検閲を認めてしまえば、すべての地方演劇センターにも検閲を認めてしまい、フランス全体の活き活きと活動している劇場すべてに検閲を認めてしまうことにつながります。
 そのような道に踏み出すことには極度に慎重であるべきであって、私は公的助成を受けている劇場の自由をまったく無意味で無駄なことのためになくしてしまうというようなことは一切いたしません。まったく無意味で無駄」ということを強調しておきます。なぜなら、もし私たちが『屏風』を禁止したとしても、明日にはどこかで再上演され、それも三度ではなく、500回も再演されるにきまっているからです。もし万が一、私たちがすばらしい理屈をひねり出して、この芝居の上演を禁止する措置をとることができるのであると証明しえたとしても、私たちはけっきょく決して何も禁止したことにはならないだろうからです。
 皆さんが考えるべき肝心なことは、私たちの助成の3フランの行方がどうこうではなく、上演禁止によって、皆さんがカッパを水に投げ込むようなとんでもない解決法でその影響を抑え込もうとしているこの作品の栄光が、そのことでよけいに、どれほどとんでもなく大きなものになるかです。私にはそんなことが緊急の案件とは思えない。じっさいのところ、私たち文化省が『屏風』に助成の認可を与えているのは、皆さんがこの作品を非難しているそのような理由によってではないし、あるいは、みなさんの非難は正統なものかもしれません。しかし、私たちが皆さんの非難にもかかわらず、この作品の助成上演を認可しているのは、私たちが、あのボードレールの『ゴミ(腐った肉)』の結末をたいそう賞賛するものだからでして、(その作品が)死体を描いているからではないのです。

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