2020年2月25日火曜日

表象文化論14回 表象メディア論II コンピュータ:『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日 第14章 より

:『新訂表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日 第14章(pp. 209-221)

表象文化論14回 表象メディア論II  コンピュータ


 情報技術革命が20世紀後半以降の人類の生活を大きく変えたことは皆さんご存知のとおりです。インターネットを始めとする、コンピュータを媒介手段としたコミュニケーション技術によって、人間にとって「表象」が成立する条件は大きく変化しつつあります。進行しているのは、ただ単に世界の出来事のすべてが情報としてコンピュータに入力され、処理され、現実の出来事が電脳空間(サイバースペース)のなかに転位されるというだけではありません。世界の全ての与件(データ)が記号列としてヴァーチャル化され、その情報を変形したり合成したりする操作が可能になったということ、しかも、このヴァーチャル化の動きは情報やコミュニケーションの手段ばかりではなく、私たちの身体経験、感性の枠組み、知能の働き、世界における共生の在り方 ― コミュニティーや経済や政治の在り方 ―にも大きな影響を及ぼしつつあるのです。
 そこで、この章では、コンピュータが可能にした表象の問題をとりあげたいと思います。20世紀はメディア革命の世紀であったわけですが、このメディア革命は二つの革命から成り立っています。ひとつは映画、レコードやテレビを生み出した20世紀前半のアナログ・メディアの革命であり、そしてもうひとつが、コンピュータ技術の登場によって引き起こされた20世紀後半のディジタル・メディアの革命です。イメージであれ音声であれ、すべての記号を二進法の数字列に書き換えることによって、あらゆる事象を「情報」として処理する記号テクノロジーの登場は、「表象」の成立条件、そしてひいては「人間の条件」さえも変化させてしまいました。それはまた、ルネッサンス以後、相互に分離されることによって発達してきた「芸術」と「技術」との関係をも変容させ、アートとテクノロジーの新たな協働をも求めるものです。表象にとって情報とは何かを、具体例を通して以下に見ることにしましょう。

ポスト・ヒューマン

 メディア・アート作家ジェフリー・ショー(1944- )らによるコンピュータグラフィック・インスタレーション”conFIGUING The Cave”by Agnes HEGEÜS+ Jeffrey SHAW + Bernard LINTERMAN NTTInterCommunicationCentre所蔵、以下では「The Cave」と略称) は、正面、両側面、床面がスクリーンである小さな暗い部屋から成り立っています。中央に設置され体の関節部の随所にセンサーを埋め込まれた150センチのマネキン人形がインタフェースを作っていて、観客が3Dmメガネを着用してそのマネキン人形に触れて人形の姿勢や手足の位置を変えると、4つのスクリーンから浮かび上がる立体映像が次々に形を変え微妙に変化しつつ繰り広げられる仕掛けになっています。映し出される映像は7つの世界を表しているとされるのですが様々な映像や文字の組み合わせから成り立っています。空間は強烈な音響にみたされ、それもまたマネキン人形を操作することによって変化し、映像の運動との共感覚を生み出すようにできています。観客は人間の身体に擬されるマネキン人形の体位を変化させ様々な身振りをあたえることによって、人形の身体と連動してハイパーリンクする記号列が織りなすヴァーチャル世界のなかに没入していくのです。繰り広げられる光景は、あたかも人形の身体に宿っている記憶の場所のようでもあり、身体のなかに折り畳まれている潜在的な感覚の場が繰り広げられているかのようでもある。ここでは身体のインタフェースを通してヴァーチャルな記号の場の生成が主題化されているといってもいいでしょう。3Dメガネのような立体視インタフェースの使用、映像、文字、音響といった記号および記号成分のインタラクティヴな展開、身体のメタファーとしてのマネキン人形、こうした要素が示しているのは、感覚の合成に始まって、記号の獲得、そして身体と空間の関係性の場あるいは身体的記憶の場の成立をとおして、言語やイメージの世界の展開へといたる、ハイパーメディアによる表象世界の生成のパフォーマンスなのです。
 The cave(洞窟)というタイトルに注目してみましょう。これは、プラトンの『国家』に語られる「洞窟の比喩」を暗示的に参照しているように思われます。プラトンの対話篇においては、人間の本性と「真理」との関係について、洞窟に閉じこめられ、後ろを振り向くことができないように子供のころから手足も首も縛られて固定され、入り口から差し入る火の照明に照らし出され、洞窟の奥の壁に投影される、自分たちの像、および自分たちの背後の道を人びとが話したり物音を立てたりしながら運んでいく品々の像のみを見ることができる囚人たちの喩えが語られていました。人間たちは、背後から射す事物および自分たちの影および壁面に反響する事物の音をのみ知覚することに慣らされた状態におかれている。自分たちおよび事物の像と音を実体として捉えているのです。ところがこれらの像の元にあるのは事物の実相としてのイデアであって、究極的には光源である太陽に喩えられる<善>のイデアを見ることもできる真理の器官を人間たちは備えているのだというのが、プラトンよるこの比喩のモチーフなのです。これが、真理と表象の関係についての決定的なメタファーであることに注目しましょう。
 さて、このプラトンの「洞窟」との関係でいえば、「The Cave」でも、人間のメタファーとしてマネキン人形が部屋の真ん中に縛りつけられている。洞窟の壁面の役目をするスクリーンには様々な像がつぎつぎと光に照らしだされ音響や文字とともに送り込まれてきます。プラトンにおいて「真理」のメタファーであった、「火」(太陽)に、相当するのはここでは「コンピュータ」の装置であり、したがって「真理」とはここでは「計算」です。その「光源」から、つぎつぎとプログラムが送り込まれてきていて、観客は、プログラムの「影」を見ている。プラトンでは、暗がりに慣れていて外界の光に目が眩んだ囚人達は光に順応することで外界の実体を見ることができるようになるのだと言われていましたが、「The Cave」では、3Dメガネという補助具をつかって、コンピュータから送り込まれてくる「像」を立体的に視ることができるようになる、というわけです。
 だいたい以上のような並行関係を想定してみることができるわけですが、もちろん大きな相違点も存在します。そして、それこそが、「The Cave」が作品化している、コンピュータ時代における「人間の条件」についてのメタファーです。
 まず、太陽という宇宙的な光源と、洞窟という建築物のゼロ度、そして、事物の影の投影という、最もプリミティヴな自然的メタファー装置から、プラトンの比喩は成り立っています。他方、The Cave」は、徹底的に人工的で最もソフィスティケートされたテクノロジーにもとづくメタファー装置です。ここでは、コンピュータ・テクノロジーによって生み出される「空間」や「時間」とはどのようなものか、「身体」や「記憶」の経験とは何か、「イメージ」や「言語」や「音響」の表象作用はいかなるものか、といった一連の「問い」が、瞬時に形成されては消えていくテクノロジーの「洞窟」の場の「共形成」(conFIGURING)を通して問われていると考えればよいのです。
 さて、そこで注目すべきなのは、まず「身体」と「空間」との関係です。インタフェースとしての人形の身体は、「観客」(しかし、このインタラクティヴなインスタレーションにおいて観客はつねに「参加者」です)として「共形成」に参加する人の身体のメタファーなのですが、ここに形成されるのは固定的で一義的な空間では全くありません。センサーを埋め込まれた人形の身ぶりや体位の変化にしたがって、スクリーン上に繰り広げられる空間と場は刻々と変化するからです。しかも、それが3Dメガネを通して立体的に視覚化されて繰り広げられていきます。身体のなかに記憶のように宿っていた場が、ヴァーチャル・リアリティの表象空間としてスクリーン上に立ち上がり、一つの場は、さらに別の場をその裡に折り畳んでおり、つぎつぎと繰り広げられる襞のようにこのテクノロジーの洞窟の場は展開していくのです。
 「インタフェース」や「インタラクティヴィティ」という、コンピュータのメディアとしての特性がここには使われていることを見るべきです。人間はインタフェースを通して、コンピュータの世界へとアクセスするのですが、コンピュータが生み出す表象空間は、ユーザ自身をその中に身体的に記入してメッセージを動かさないかぎり成立しないものです。これはなにも「The Cave」のようなアート作品だけでなく、私たちが日常使用しているパソコン、インターネット、あるいはもちろんコンピュータ・ゲームなどコンピュータ・メディアに共通した最も基本的な特性です。コンピュータ・メディアにおいては、ひとびとは自分がつくる表象空間の中に身体ととともに入らなければ表象活動をおこなうことができない。それが「没入 immersion」というユーザのあり方なのです。したがって、そこでは、ユーザの身体の所作を通してしか表象空間は繰り広げられない。空間は、ユーザの身体活動の外に措定されたアプリオリな枠組みであることをもはややめるのです。私たちはそのつど自分自身で固有の表象空間を自分の身体を使って「共形成」せざるをえないのです。これが、コンピュータが繰り広げるヴァーチャル・リアリティの意味です。
 そのように考えると「The Cave」の空間的特徴がよりはっきりしてきます。マネキン人形の身体の部位とその所作には固有のコンピュータ・アルゴリズムが対応している。マネキンの動きによってアルゴリズムが発動され、身体のなかに折り畳まれていたヴァーチャル空間が呼び起こされ展開され、さらにその空間はそれ自身のなかに折り畳んでいる無数の別の空間をつぎつぎと繰り広げていく。このような「襞の展開」の構造も、アート作品に固有のものではありません。テクストのなかに他のテクストへの無数のリンクが張られた「ハイパーテクスト」は、すでにこのような「展開」の論理にもとづき、一つのテクストが別の無数のテクストをヴァーチャルに折り畳んでいる襞の編成体であるのです。インターネットは http (Hypertext Transport Protocol)というプロトコルが示すように、こうした「襞の展開」の原理に基づいて自己組織化されるコミュニケーション空間です。
 次に注目すべきは「時間」の経験です。次々と送り込まれてくるプログラムの「時間」は、目まぐるしく布置を変えていくVRに没入するユーザ主体にとって、彼の経験を収めるアプリオリで固定的な枠組みであるわけではない。「時間」もまた、ここでは、つぎつぎと「展開」を変える不連続な強度の経験として出現するのです。「時間」はもはや、カントが述べていたような人間の経験の「先験的形式」として、感性の経験が成立するためのアプリオリな枠組みとして成立しているわけではない。「時間」はここでは、プログラムによってそのつど生成されては一瞬のうちに移行し消えていく不連続な運動のなかに生み出される持続の断片の連なりとして現れているのです。現代フランスの美学者クリスティーヌ・ビュチ=グリュックスマン(Christine Buci-Glucksman)は、ショーに代表されるサイバー・アート作品が示す美学とは、時間の新しいかたちの創造を示すものであっって、サイバー・アートは「時間」のなかにかたちを生み出すものではなく、「時間」をダイレクトに創り出し「時間のかたち」を生み出すものであって、「機械状の時間」および「移ろいゆく流れの時間」をその本質的特徴としていると述べています 
 さて、以上をまとめてみると「The Cave」が提示している「人間の条件」についての問いとはどのようなものなのかが分かってきます。ここでは、作品世界への参加者である観客としての「人間」は、「マネキン人形」という「アヴァター(化身)」を通して「ヴァーチャル世界」へと「没入」していきます。「コンピュータ」という「計算的理性」が、「身体」の代理物をとおして、「人間」が表象する「空間」や「時間」をつぎつぎと繰り広げて、そこに現れる「現象」を「3Dメガネ」という補助具を通して「人間」が「表象」を「経験」するということになっているのです。このような「人間」の「表象活動」が置かれた存在状況を、私は、「ポスト・ヒューマンの条件」という言葉で表せると考えています。なぜなら、カントの「人間」理解に見られるように、近代における「人間」観の基礎には、「人間」こそ「表象活動」の主体であって、「現象」は「感性」をとおして人間に与えられるが、経験は「空間」および「時間」という「先験的形式」を可能性の条件として、「表象」されるものとされていました。「私が考える」とすることによって、すべての「表象」活動を、「私=人間」のところで総合して考えてきたのが近代的な<人間>理解なのです。<人間>は経験の主体であると同時に世界を構成する表象の先験的な主体としての位置を占める。カントは認識におけるこうした<人間>の位置を<経験的-先験的>二重体として定義しました。
『純粋理性批判』における「空間について」のカントの考察は次のように始まります  

 「我々は(我々の心意識のひとつの特性としての)外感(外的感官)によって、対象を我々のそとにあるものとして表象する。つまりこれらの対象を空間において表象するわけである。対象の形態、大きさおよび相互の関係は、空間において規定せられ、もしくは規定せられ得る。また心は、内感(内的感官)によって自分自身を、或いは自分の内的状態を直観する。」

ところが、The Caveが繰り広げて見せるように、事物の経験を可能とする「表象」の先験的形式としての「空間」が計算論的に書き換えられるとき、そして、そもそも「事物」そのものがシミュレートされるとき、そして事物をとられる感性の経験としての「感覚」が合成されるとき、<人間>の<経験と超越>の条件は大きく書き換えられることになる。 私たちは、サイバースペースの出現とともに、<ポスト・ヒューマンの問い>を前にしているといえるのです。<ポスト・ヒューマン(人間-以後)の問い>とは、<人間>という形象において統合されていた、世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が、もはや<人間>という統一体を経由しなくなっているのではないかという問いです。
事物や現象は次々と<ヴァーチャルな計算論的空間>のなかに転位され、<人間のアヴァター化>が進み、人々が<脳のなかでの生活>を始める。事物についての<アナログ的な認識>を担う<意識論的主体>としての<人間>は、いままさにディジタルな記号列を演算処理する<計算論的主体>である<ポスト人間>に席を譲ろうとしているのだともいえます。<ポスト人間>とは、人間が終焉してサイボーグ化するというようなことをいうのではありません。<ポスト人間>とは、人間たちの生がサイバースペースの計算論的プロセスのなかに組み込まれ、人々が自らの分身として<ヴァーチャルな主体>を自らの影のように従えて生きるようになった人間たちのことを指す用語です。

II 情報が素材になるとき

 The Caveが実験的に作品化して見せたようなVRの表象経験だけではなく、コンピュータ・テクノロジーによる情報化は今日では、私たちの日常の現実の具体的なモノのレヴェルにまで及んでいます。コンピュータは人間と表象との関係を変化させるだけではなく、表象の素材としてのモノの成立にまで大きな変化をもたらしているのです。モノがコンピュータとなり、具体的な個物が情報を担うコンピュータのあり方を、ユビキタス・コンピューティングと呼びます。ユビキタス・コンピューティングが可能にするのは、「具現化したヴァーチャリティ(embodied virtuality)」と呼ばれる、ヴァーチャリティの新しい成立の仕方です。
 「考えるモノたち」や「触ることができるビット」のプロジェクトで知られる石井裕MIT準教授のラボラトリーが開発した、Topobotという遊具、I/Oブラシという電子絵の具ブラシを見てみましょう。これらは、コンピュータをつかった新しい「表象の道具」とでも言うべきものです。そして、表象と素材との関係を大きく変更するものであることが分かります。
 Topobothttp://tangible.media.mit.edu/projects/topobo/)は、子供のブロック積み木「レゴ(LEGO)」に似た、組み立てブロックによる遊び道具です(図 参照)。ブロックにはメモリが埋め込まれて加えられた運動を記憶するパーツ、また記憶された運動を再現するモータを備えたパーツがあります。例えば、動物の姿を組み立てて、四肢や関節部に引っ張ったり捻ったりという運動を加えると、加えられた運動を再現して、歩いたり尻尾を振ったり首を動かしたりというように、運動を自在に記憶させて生みことができるのです。積み木やレゴ・ブロックが、物の立体的なかたちを分節化して組み立てることから成り立つ遊びであるとしたら、Topobotはかたちだけでなく、運動をも分節化することができるブロック遊びなのです。Topobotは目下のところ遊具としてプレゼンテーションがされていますが、しかし、表象の道具が、運動の造形を可能にしていることに注目しましょう。運動の記憶をモノたちが持ち始めることによって、今までに現実には存在しなかった運動を「造形」することができるようなるのです。モノが「情報」をになうことによって、運動を「素材」として、新しく運動を「造形」する可能性が生まれたのです。
 I/Oブラシ(I/O Brush http://tangible.media.mit.edu/projects/iobrush/)は、私たちの日常生活にある素材の色、肌理、運動を取り込んで、それを使って絵を描くためのドローイング・ツールです。一見、どこにでもあるペイント・ブラシのかたちをしていますが、内部にはライト付きの小さなビデオカメラおよび接触センサーを備えていて、身の回りにある素材にブラシをかけることによって、その色彩や肌理や動きを情報として取り込み、その情報を「絵の具」として、タッチパネルのキャンバスに出力して絵を描くことができる情報装置です。私たちの周りにある日常的なものをそのまま「素材」として「絵」を描くことができますし、また静止したものを取り込んで運動を加えて描くこともできます。
 これらの事例が示しているのは、情報技術がもたらした「表象」と「素材」との関係のラディカルな変化です。情報化が物のレヴェルにまで及ぶことで、物が情報とほとんど等号で結ばれるような関係が成立するのが、ユビキタス・コンピューティングによってもたらされた世界です。そこでは、リアリティを構成する物たちとはすでに情報でもある。Topobotによって動く対象を構成するとは、Topobotを素材として立体的運動体を組み立てるということではあるのですが、しかし、その場合の「素材」とは、それ自体が情報と化した素材であって、表象とはその情報を使って運動体を組織することを意味しています。I/Oブラシにおいても、絵の具のかわりに私たちの周りのあらゆる物たちの「情報」が、絵を描くことの「素材」になっています。そこでは絵を描くとはそのような情報を使って「表象」を組織するということを意味しています。「表象活動」は「現実」を「再現=代行」するのではなく、物や運動の「情報」を組織する活動へと転位しているのです。これが、私たちの現実界それ自体が情報化することによって、私たちの表象活動に起こりつつある大変化なのです。

III 人工物と自然 

 情報テクノロジーは、VRやロボットのような人工物にのみ関係しているわけではありません。遺伝子のような生命・生物現象にまで働きかけて、自然を操作するところにまで、その技術が及んでいることは皆さんも知っているとおりです。人間は自然に働きかけることによってそれを変形し、人工的な営為としての文化を生み出してきたと考えられるわけですが、「情報」のパラダイムはこうした「自然」と「文化」、「自然物」と「人工物」という区別自体に重大な変更をもたらしつつあります。
 現代日本のメディア・アーチスト藤幡正樹(1956年生まれ)とバイオ・メディア・アーチストの胴金裕司(1957年生まれ)によるコラボレーション「Orchisoidプロジェクト」は、環境によって変化する蘭の生体電位を植物の「脳波」のように測定し、植物の蘭が動かされたり、人が近づいたり、あるいは他の蘭を近づけたりするときにあらわれる波状の変化をとらえることによって、植物の「コミュニケーション」を想定し、植物の「脳波」にもとづいて植物の「意志」にもとづいて動くロボットを作ったり、あるいは、蘭を進化させて1万年後には「歩行する」蘭を作り出そうという、思考実験的なアート作品です。2001年に科学未来館の「ロボット・ミーム展」では、温室のようなコーナーにつるされた何種類もの蘭たちが植物同士であるいは環境とコミュニケートする電流波形がパソコンのモニター上に映し出され、また鉢植えの蘭が車輪型ロボットに載せられ、植物の生体電流の値にもとづく運動パターンにしたがって動く、「Orchisoid(蘭もどき)」として展示されました。藤幡によれば、ドーキンスの「ミーム(文化遺伝子)」論がいうように「人間」とは「ミーム」の「乗り物」であると考えられるとすれば、ロボットは「人間」のミームが「機械」に乗り移った姿である。その考え方を植物にまで適用していくと「蘭」のミームを仮定してみることができるのであって、その振る舞いを測定することができれば、蘭の「意志」行動に働きかけることができるだろう、というのです。
 このような「実験」としてのアート作品に表れているのは、「情報」がもたらした、「機械」と「生物」、「動物」と「植物」、「人工」と「自然」を分ける境界の消滅です。「人間」も「機械」も「動物」も「植物」も、ひとしく「情報」の「乗り物」という視点からとらえ、「情報」のプログラムをとおして、自然物をふくむあらゆる生き物とコミュニケートしうるというヴィジョンを提示することを通して、人間中心の人工物の世界を脱し、植物的な生命との連続性へと向かおうとする批評的意識を、そこに見て取ることも不可能とはいえないのです。

IV アートとテクノロジー

 この章では、コンピュータの情報テクノロジーが、人間の表象文化にどのような変化をもたらしつつあるのかを、三つの具体例を通して考えてきました。最後に、情報テクノロジーによって、アートの成立条件がどのように変化したのかを考えてみましょう。
 ショー等による作品「conFIGURING The Cave」は、VR技術を使ったハイパーメディア作品として、固定的な時空間、一つの身体、安定した文脈とシンボル体系といった、「人間」の「表象活動」の前提を覆す、ヴァーチャル世界の成立を示していました。強調しておきたいのは、アート作品がテーマ化していたコンピュータ時代の人間の条件とは、私たちの日常生活にも共通した一般的条件であるということです。じっさい、私たちは、インターネットというハイパーテクストによるコミュニケーションに「住まい」、自分たちの「身体」をヴァーチャル世界と「インタラクション」させながら生活しています。インターネットの「サイバースペース」における、私たちの「空間」は、次々に襞のように展開する構造をもち、「時間」も次々と「機械状」に連結し、しかも瞬時に「流れて」いきます。「アート」は、したがって、「テクノロジー」がもたらした人間の条件の変化を作品によって露呈させ、その意味を問うているのです。
 TopobotI/Oブラシが示しているのは、テクノロジーによってもたらされた、現実のなかの物や素材と人間の表象活動との関係の変化です。物と情報とが等号で結ばれ、リアリティーと情報とがマテリアルなレヴェルで等価になった状態が、これらの道具によってすでに実現され始めているといえます。I/Oブラシに関して言えば、具体的な物が素材としてまず存在し、人間が絵の具を使ってそれを再現し表現するものであるという、「再現前化」としての表象という考え方はここではもはや通用しないといえます。物自体が情報となることによっていつでも表象の素材として機能し始める。そのような、表象とその素材との関係の変容が起きているのです。Topobotについてみるなら、物の運動を、他のメディアに転写して再現するのではなく、物自体の運動として分節化し再現する、さらには合成するという、動きの「造形」が可能になったことを示しています。テクノロジーがもたらした、これらの新しい表象の道具の登場は、限定された素材や限定された担い手による表象活動ではなく、日常的なあらゆる物たち、日常生活のあらゆる所作も表象の素材となりうる時代の到来を意味しており、アートのあり方そのものを問い直すことにつながっていく可能性があります。
 藤幡らのOrchisoidプロジェクトが示していたのは、情報テクノロジーにもとづく人工と自然との境界の探索です。アートはそこではサイエンスとほとんど等価であり、「情報」を共分母に、人間と人工物、動物と植物、人工と自然との区分を揺らがせ、植物を「歩かせる」進化を引き起こすにまでいたる、仮説的な実験系として提示されている。アートとサイエンス、文化と自然との関係の全般的な再定義にまでいたるような問題系がそこには表れているのです。
 
 以上のように、情報テクノロジーは、「人間の条件」を全面的に書き換えつつあり、表象の経験の成立のための制約をはずし「あらゆること」を可能にしつつあるように見えます。しかし、私たちはまだ、その意味をまだ十分に理解できているとはいえない状態にあります。アートは、テクノロジーの「意味」を実験したり発明したりする「感性の実験」という性格をもち、さらには、文化全般がよって立つ認識の枠組みに及ぶ問題系を提起する役割を果たしているといえます。
 「アート art」とは、その語の原義からも分かるように、人間の「作為、技 ars」でした。その「作為」は、現在ではすでに、人間文化の対立項としての「自然」や「物質」に働きかけるものではなくなっています。「作為」が「人工物」に働きかけること。そこに「アートが置かれた新しいコンディション」があるといえるのです。
 私たちは第一章で、ルネッサンス期の「透視図法」をとりあげ、「表象」が自立する近代の世界の始まりを考えることから出発しました。「表象」の自立にともなって、「人間」が「自然」を均質な時空間座標のなかにとらえて解明し支配することが可能になったのです。空間や時間における経験の成立の条件を認識として法則化し、自然や人間の経験を統御する「科学」の視座が生み出されたのでした。他方、人間が、「文化」において生み出す、固有の感性経験や意味経験の組織化は「芸術」として形式化され、文化の基本に位置づけられることになりました。「表象」をめぐって、「芸術(アート)」と「科学(サイエンス)」との分離が起こったのです。
 情報テクノロジーは、大きく言えば、ルネサンス期に発した、「表象」の形式化による時空間の数学化が生み出した窮極の技術なのですが、そのテクノロジーはいまでは私たちの意味や感覚の経験のあらゆるディテールにまで及び、それぞれの主体によって、そのつど定義され生きられるしかない固有の経験と、テクノロジーの経験とが一致するようになってきています。ハイパーメディアに関して見たように、固有の「場」を離れて時空間は存立しえないことになった。時間や空間は、厳密にいえば、私たちの外にあると前提される経験の一般的枠組みとして成立することはもはやなくなっているのです。だれでもが固有の時間や空間を日々選び取り発明することが不可避になったテクノロジー環境を私たちは生きているということなのです。
 そこに、テクノロジーとアートとのまったく新しい関係があると私は考えています。テクノロジーが、人間の主観や意味活動に捕らわれない、表象の一般的条件を規定し、アートが人間の固有な意味や感性の経験を提示するという、テクノロジーとアートとの分離は、もはや不可能になっているのです。VRのインタフェースについて見たように、テクノロジー環境は今日では単独な主体の位置からしか動かし得ないという成立の仕方をしています。固有の感性的経験、主体の単独な意味活動を離れてテクノロジーが作動しないということは、すべてのテクノロジーがアートを求めるものであること、テクノロジーとアートとはいまでは切りはなしえないものであることを示唆しているのです。


2020年2月24日月曜日

表象文化研究 第13回「表象メディア論(I):テレビを考える」

「表象メディア論(I):テレビを考える」(pp.193-208)、『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日 第13章

テレビを考える


2001.9.11. グラウンド・ゼロからの「問い」

 皆さんは、2001年9月11日を憶えているでしょうか。
 ニューヨーク貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込み、事故であろうかと現場映像が映し出されている最中に二機目の飛行機が突っ込んでテロ攻撃であることが判明、さらにツインタワーの崩壊の大惨事へといたるという、まるでハリウッド映画を見ているようだと多くの人が喩えた、世界に同時中継されたテレビ映像のシークエンスを見た瞬間から、<世界史>がリアルタイムで世紀を転換させ、世界がもう全く別の世界に突入していたのです。そして、この事件につづくアフガン戦争、そしてイラク戦争へという経緯は、みなさんご存知のとおりです。 <9.11>は21世紀がその日から「新たな戦争の世紀」として始まった日付として記憶されることになってしまいました。
 1991年の湾岸戦争の際に、CNNのようなグローバルメディアが配信するテレビ映像だけとなってしまった現代の戦争の「現実」について、「湾岸戦争は起こらなかった」と書いたのは、フランスの思想家のジャン・ボードリヤールでした。現在の世界では、「私たちの現実」は、多く「テレビ」をとおして作り出されている。「テレビ」の「表象再現」作用は、「すでにある現実」を「再現」して「伝える」のではなく、「現実を産み出す」効果を持っているわけです。
 「テロ攻撃」さえもが、全世界にリアルタイムで映像を配信するテレビを念頭にした、地球規模のシニカルでニヒリスティックな「リアリティー・ショー」として生み出されてしまっているのではないか。この章では、「テレビ的表象」の仕組みを考えてみましょう。それは、メディア化した世界における「現実」とは何かを、「テレビ的表象」の問題として考えることです。

I マクルーハンの問い:「メディアはメッセージ」

 ここで召還したい一人の思想家がいます。カナダのメディア思想家マーシャル・マクルーハン (Marshall McLuhan 1911-1980) です。マクルーハンは、前章で取り上げたウォーホルにおとらぬ、メディア・アクターであり、1950年―60年代のテレビ時代の幕開けの時期に、「メディア時代の教祖」としてもてはやされた人物です。もともとは中世文学の研究から出発した注目すべき文学理論家で、メディア文明を論じるときにも該博な人文主義的知識にもとづき警句にみちたアフォリズムを駆使した文体で書かれた彼のエッセーは一躍脚光を浴びることになりました。またテレビにもしばしば登場し機知にとんだ発言で名声を博しましたが、それだけに、メディア・アクターとしてのブームが去ると驚くほど早く忘れ去られていきました。しかし、マクルーハンの思想は、イデオロギー的にもてはやされブームとなった「メディアはメッセージ」、「クールかホットか」などの標語だけでなく、創意にあふれた明察を多く含んでいて、とくにインターネットに見られるようなメディア環境の世界的な展開を人類文明が経験した1990年以降、新しい興味からの読み直しが進められています。
 マクルーハンによると、そもそも人間が使う技術というものは、人間の身体の活動の延長と考えられる。メディアとは身体の延長としての技術が、特に表象活動を行う感覚器官を延長することにあり、その意味でメディアとは「人間拡張」であるという考えです。確かにメディアは、人間の表象活動の範囲を拡張します。映画やテレビは、視る、聞く、話すといった活動が、通信技術によって拡張されていると考えることができます。メディアは、人間の五感の活動を延長し、それにともなって人間の表象活動を拡張するということを可能にしたのです。これがメディアの「人間拡張」説です。
 メディアの発達によって、人間の表象活動の範囲は拡大していきます。生身の人間が視る活動を行うための眼(ルビ:め)は、例えば写真や映画やテレビなどの視覚メディアによって拡張され、肉眼では見られなかった、飛躍的に大きな規模、あるいはより高い精度において視るという活動を成立させることになります。じっさい、わたしたちはテレビの画面を通して、何万キロも離れた地点で起こっている出来事を即座に視ることができます。電話というメディア技術は、話す活動の範囲を飛躍的に拡大し、対面や声の届く範囲内で成立していた、話すという活動の条件を全面的に変えてしまいました。
 マクルーハンの文化理解の基本にあるのは、それぞれの文明を特徴づけている「感覚比率 ratio sensorium」という考え方です。人間は五感を通して経験を構成し世界の意味づけを行っているわけですが、どのようなメディアを通して人間が自分の表象活動を拡張するかに応じて、拡張される感覚経験の配分が異なってくる。口承メディアに多くを負っている文化においては聴覚表象に重きが置かれるのに対して、活版印刷技術が発達させた黙読の文化においては視覚表象に重点が置かれるようになる。どの感覚が重要性を帯びるかは、どのようなメディアが発達しているかに応じて変化するものであり、文化を特徴づけている感覚モード間の比率も変化して文化の経験が異なってくるというわけです。マクルーハン理論の基本にあるのは、「世界の表象」を構成する「人間」の「尺度」の変化の問題なのです ― 

「いかなるメディア(すなわちわれわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい尺度に起因する。」(マクルーハン、「メディアはメッセージである」)。

 メディアが人間の文明にとって、決定的に重要な意味を持つことを指摘したマクルーハンですが、「活字人間の形成」という副題を持つ主著『グーテンベルクの銀河系』において、グーテンベルクの活版印刷術が作り出した活字文化圏(=「グーテンベルグの銀河系」)、それ以前にあった口承と写本に基づいた「声の文化圏」、そして活字文明を今や過去のものにしつつある「電子メディア」の文化圏という、三つの時期を「galaxy星雲、銀河」という喩えで語り、メディア技術の変化に基づいた人間の文明の変容を説明しようとしました。これは「メディア成層」という考え方で、1990年代にフランスの哲学者レジス・ドゥブレなどが提唱した「メディオロジー」における「メディア圏」論などに受け継がれていく文明理解です
 マクルーハンによれば、活版印刷術が作り出した文化圏としての「グーテンベルグの銀河系」は視覚を優位に成立した文化なのですが、その世界が、19世紀末から20世紀の電子メディアの発達によって別の文化の圏域――これが「電子メディアの星雲」(あるいは「マルコーニの銀河系」)と呼ばれるものですが――に移行しつつある。ラジオやテレビに見られるように口承性を回復させより全体的な身体性の回復を伴った、別の「感覚比率」にもとづいて人間の経験が組織される新たな文化圏に突入しつつあるというのです。一つの文化圏は、一つのメディア技術一対一の関係で結ばれているというわけではなくて、いわば層が重なり合うように、一つのメディア圏はそれ以前のメディア圏の上に折り重なって成層していく。一つの星雲に別の星雲が覆いかぶさるように、メディアの文化圏は相互貫入しつつ、新たなに相互の関係を作り出していく。例えば、テレビという電子メディアの登場によって活字本は消え去るわけではないのですが、活字本や新聞は、テレビという新しいメディアが導入する新しい感覚比率に基づく経験との相互関係の中に位置づくようになる、というわけです。

 メディアはメッセージ

 マクルーハンがテレビ時代の幕開けを告げた有名な定式があります。それは、「メディアはメッセージ」(“The Medium is the Message”)という言葉です。これは電子メディアの時代、テレビ時代の幕開けを告げる標語として有名になったのですが、この多義的な定式が意味しているのは、第一義的には、メディアというのは、決してメッセージを運ぶニュートラルな乗り物であるというわけではない、メディアは単なる道具ではないということです。メディアはメッセージの単なる伝達手段ではなく、メディアこそ、むしろ文化におけるメッセージの成立の条件および組織のされ方そのものを変化させる、あるいは決定する力を持っているのだ。そこから人間の感覚や経験の成立の仕方を変容させる可能性をメディアが持っている。メディアの変化に伴って、人と人との結びつき、人と技術との結びつき、さらには社会の在り方、文明の在り方全般をも変わりうるということを述べた標語だったのです。この観点から、『グーテンベルクの銀河系』では、活字メディアが生み出した「活字人間」という近代的な人間の尺度がもうすぐ終焉するだろう、テレビに見られるような電子メディア圏の到来によって、人類の文化に大きな転換が準備されているという文明診断が述べられたのでした。
 「メディアはメッセージ」を定式化した論集『メディアの理解』(1964)では、この標語のほか、当時発達しつつあったシャノンらの情報理論における熱力学のエントロピー概念を援用して、情報媒体の精度(“definition”)をめぐって、「クールなメディア、ホットなメディア」という有名な区別を行うなど、マクルーハンは刺激的な命題を次々と打ち出し、にわかに世界の脚光を浴び、新メディアの時代の予言者としてもてはやされました。これは日本でも1960年代に「マクルーハン旋風」と呼ばれた流行を引き起こしました。
 マクルーハンの思想は、テレビに代表される新しいメディアの時代について楽観的な見通しを与えるものであると受け取られました。活字メディアの時代が作り出した視覚優位の文化に対して、テレビのような電子メディアは口承的なもの、人間の聴覚に基づくような身体的な感覚を復活させて、活字文化が抑圧していた五感の比率を回復させ、個人の中に閉じ込められていた人間たちに、相互の連帯のきずなを取り戻させることができるのではないか、メディアの発達によって人びとの間の距離は縮まり経験を分かち合う「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」が実現するだろうと受け止められたからです。たしかに、マクルーハンにも、そのような理解を助長した側面があります。しかし、彼の著作を丹念に読むと彼のいう「グローバル・ヴィレッジ」の内実については、複雑で両義的でより複雑な理解を持っていたことが分かります。例えば、すでにマクルーハン・ブームの出発点となった『メディアの理解』の序文は、次のように始まっていたのです ― 

「西欧世界は、三〇〇〇年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発(explosion)」を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発(implosion)」を起こしている。機械の時代に、われわれは身体を空間に拡張していた。現在、1世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれは自分たちの中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、私たちの地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に私たちは人間拡張の最終相に近づいている。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という想像的なプロセスも集合的、集団的に人間全体に拡張される。さまざまなメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。」

 身体と技術をつねに重ね合わせるメタファーによって成り立つマクルーハン的思考をとおしてここに述べられているのは、感覚的経験を含めた、人間の表象世界の全面的な変容のプロセスであるのです。しかも、情報コミュニケーション技術の革命という人類文明の「内爆発」が20世紀後半には、じっさいにテレビやインターネットを通して起こったことを考えれば、マクルーハンの「預言」はかなりの確度をもって実現したともいえます。
 マクルーハンの問いは、テレビ時代の幕開けとともに提起されたものでしたが、その後半世紀をへて、その問題提起を捉え直し、電子メディアと私たちの世界の現実との関係を全体的に問い直そうという「マクルーハン再読」の気運は近年盛んです。

II テレビ記号論からの接近

 そこで、ひとつの仮説的な理論枠組みとして私が提示してみたいのが「テレビ記号論」です。テレビは、他の視聴覚メディアと同様に表象装置です。そこで、テレビ的表象を産み出す要素単位を「テレビ記号」と定義し、その特徴を定義するところから、世界の<現在>をつくる社会的表象装置であるテレビの表象作用を分析的に理解する方法を探ろうという研究動向です。

 テレビ記号

 私たちはテレビを視ているとき、テレビカメラで撮影され、放送局から電波や光ケーブルをとおして送られてきた画像と音声を視聴しています。カメラに入力された経験は画像と音声として、機械信号に換えられて送信され、伝達回路をへたのち、電気信号が、テレビ画面の走査線上に出力され復号化されることによって、私たちのもとにとどけられます(図1参照)。この入力から出力までの工学的プロセスは、「シャノン・モデル」によって示されるような技術的回路に相当しますが、そこをとおして送られてくる画像と音声は「記号」であると考えることができます。じっさい、私たちはテレビ受像機のモニターをとおして毎秒約30画面(フレーム)分ものの画像を受けとっています。その画面に映し出される映像と音声は、テレビカメラが写し出す対象である被写体の経験(風景やスタジオ、人物や事物、言葉や文字など、テレビカメラが映し出したりマイクが採音している全ての事象の経験)の代わりをしているものですから、映像と音声は被写体の経験を表象(represent)している「記号」であるということができるのです。これが「テレビ記号」の基本的な定義です。

 テレビ的経験

 テレビカメラをとおして被写体がテレビ画面に映し出されているという状況を考えてみましょう。この場合、テレビカメラの向こう側にある<経験>と、テレビ画面に映し出されている<画像>、再生される<音声>とのあいだには、原因・結果の経験的連続性が存在しています。被写体の形や色を視聴者の私がテレビ画面をとおして視ることができるのは、被写体を照らし出している光がテレビカメラに入力され、上述したような符号化と復号化をへて私の眼の網膜へと届いているからです。被写体の音や言葉を私が聞くことができるのも、その音声の音波がおなじような機械処理の回路を経たのちに私のもとに届いているからです。ですからテレビのモニター画面上の画像とスピーカーから流れる音声からなるテレビ記号は、光源・音源としての被写体を「指示」しているということになります。その意味するところは、画面上に写し出された被写体の像(イメージ)はここでは被写体の経験と物理的に連続しているということです。これがテレビ記号の指標的な特性です。テレビ画面は、人差し指が事物を指すように、被写体を指し示すのです。このとき、私たちはテレビ記号の指示作用にしたがって対象を現実に経験しつつ視ている、あるいは対象と物理的(=光学的・音響学的)に「接触」しているのだと言った方が正確かもしれません。

 社会的ダイクシス装置

 テレビ記号において際だっているのは、指示対象の経験と記号の成立とが同時であることです。テレビ記号は、今まさに起こりつつある接触の記号であるという特徴をもっています。これは、例え、録画したテレビの画像ということを問題とするときにも原理は同じです。写真や映画の記号は、かつて起こったことを指示する痕跡として成立するのに対して、テレビの場合は記号の成立と、指示の<現在>とが完全に一致した指標記号という特性をもっているのです。指標としてのテレビ記号の特性とは、現在において対象を指さすということにあるのです。テレビ記号は、<いま・ここ>における<これ>を次々に指さしつつ、刻々と映し出される現実の経験と視聴者を結びつけていくのです。そして、テレビ画面による<あなた/わたし>のコミュニケーションをとおして、視聴者は映像・音声の<いま・ここ・わたし>のなかに引き込まれていきます。これが、指示詞についてヤコブソンが述べた「シフター」に似た、テレビ記号がもつ<いま>・<ここ>・<わたしたち>を生み出すメカニズムです。これをテレビの「ダイクシス(指示装置)」といいます。テレビは、私たちの世界の<いま・ここ・わたしたち>を刻々と産み出し更新している、社会的な「ダイクシス」なのです。マクルーハンは、「メディアはメッセージ」といいましたが、その意味は、メディアはコミュニケーションの枠組み(フレーム)自体をまず指示するものだと解釈できます。これはとくに「テレビ」についてよくあてはまる考え方です。

 テレビ映像の「貧しさ」

 テレビ記号の映像としての特徴は、おもにその「貧しさ」にあるといえます。それはテレビ画面の小ささと、指標機能に対する図像機能の従属という二つの要因からなる二重の貧しさである。映画と比較すると明かですが、テレビの画面は小さいという特徴をもっています (最近のテレビ受像機はたしかに大きな画面のものがあるが、それでも映画の画面に比べれば小さいし、テレビ映像は小さな画面で見られることを前提に視野が作られている)。例えば、人物の映像を写すという場合、原寸大の人間に対してテレビ画面はその6分の1とか7分の1の大きさの画像を与えることができるにすぎません。人物像においてさえそのような制約があるくらいだから、ましてや風景や背景、複数の人物間の連動といった場面に関しては、さらに大きな限界をテレビ画像はもつことになります。マクルーハンはテレビを「クールなメディア」としたが、こうした技術的制約は、テレビ記号に独自の表現体系を与えることになります。
 テレビ映像のもう一つの特徴は、それが刻々と更新される<いま>への指示に従属している点にあります。映画の映像が、かつてあった被写体の経験の残像として指標性をむしろ消すことによって図像性を掬い取ろうとする傾向が強いのに対して、テレビ的コミュニケーションにおいては刻々と更新され続ける指標の働きは、画像の図像性を享受する時間を与えません。テレビにおいては指標性が図像性を圧倒しているということができるのです。私たちはカメラの<いま・ここ>において対象を視ることをつねに求め続けられる。それは、かつてあったものが残した残像を像として眺めるという映画の時間経験が可能にする像に対する接し方とまったくことなった態度を私たちに求めることになります。テレビの画像はつねにいつでも<アド・ホックな>(ad hoc, ココデノ、つまり「間に合わせの」)映像としいう性格を持つことになるのです。スポーツ中継などの未だ完結していない時間性においてあらわれる「つねに間に合わせ」の映像使用こそテレビ的図像の正当な使い方なのです。写真や映画がかつてあった現在の経験の喪によって図像となることができるのに対してテレビの画像は、つねに図像になる前の図像、未生の図像であるということができます。テレビの画像は、そういう意味では図像的な芸術として、写し出される現実から自立して芸術として聖別化されることがありません。テレビの画像はその意味で徹底的に世俗的なイメージなのです。

 テレビ視聴する身体

 「映画」において、観客の「身体」は、暗室のなかで半ば「催眠」状態におかれ「外界」との「コンタクト」(=指標性)の契機を「オフ」にされています。そのとき、観客の身体は、「かつてあったもの」の「残像」の「投影」に「図像的」に立ち会う「ポジション」におかれている。これが、「映画を視る身体の配置」です。それに比して、「テレビ」を視聴する「身体」は、現実世界の活動のなかに位置づけられ、「ながら視聴」といわれるように日常的な所作の経験的連関との連続性のなかにおかれています。それ自体が家電として発光するテレビ画面は、生活空間の延長のなかで「指さされる」限定された場所であり、そこを通して「外界」との同時的コンタクトへと開かれた「窓」でもあります。空間-身体の「配置(ディスポジティフ)」こそが、「テレビ」を「指標的記号」にするのです。

 テレビ的リアリティ

 テレビは映画とちがって、特別な時間・空間において視聴されるわけではありません。
 例えば、テレビ記号の指標性は、<いま・ここ>に基づいた意味活動に好んで焦点を当てることになります。ニュース番組、野球やサッカーなどの実況中継、さまざまな即興的なバラエティやおしゃべり、さまざまなイベント中継など、テレビは<いま・ここ>を原理として人々の記号活動に関する表象の体系を編成することになります。テレビはまた、次々と新しく提示される<いま・ここ>を通して<わたしたち>をつくり出すコミュニケーション活動ですから、いつも新しい<いま・ここ>において視聴者に語りかけています。テレビ記号の指標性にもとづいて、視聴者はテレビの向こう側に写し出された世界と経験的に結びつくことになります。マクルーハンの「人間拡張論」 はまさにテレビにおいて文字通りの適用を見いだすことになります。さらにまたテレビ記号の図像的な特性について上に見たように、そうした世界との身体的接触は、ステレオタイプ化された図像記号の体系をとおして行われます。世俗的なメディアであるテレビは、したがってステレオタイプの映像をとおして世界の<いま・ここ>の経験を与えるということができます。

III 日常世界の「いま」をつくる「表象装置」としてのテレビ

 さて、「テレビ記号」がどのように日常生活の「いま」の表象を作り出すのかを考えてみることにしましょう。

 ニュース番組

 まず、「ニュース」や「報道番組」が、私たちの日常世界をつくるやり方を考えてみましょう。ヘーゲルは、「近代人は朝の礼拝の代わりに新聞を読む」といいましたが、ニュースは、その日その日の「世界の物語」を「媒介」することによって、「世界の<今>」を生み出す「社会的ダイクシス装置」そのものです。その媒介システムは、図(t1)のようになっています。ひとびとはテレビの同時的コミュニケーションをとおして、スタジオのダイクシス空間に接続する。視聴者はスタジオの<いま・ここ>において発話するキャスターやアナウンサーとの擬似的な「対話関係(interlocution)」によって二人称複数の「私たち」の関係のなかに記入され、スタジオと視聴者の「今・個々・私たち」は、ニュースが伝える「三人称」の世界の出来事へと媒介されていくのです。ニュース番組のスタジオの背後に開かれた画面は、その三人称の「世界」への窓となっています(NHKニュース番組のスチール写真参照)。参照されるべき三人称の世界には、報道のためにさらに、特派員のレポートやルポルタージュによる証言などさまざまな「ニュースの話法」を組み合わせた「発話の配置」がとられてもいます。ニュースは、さらに、世界の出来事の「トピック地図」でもあります。キャスターやアナウンサーの「語り」をよく聞いてみましょう。ニュースにはつねに「話題(トピック)」の文脈があります。「大きなニュース」は、文脈構成が複層的な配置をもつ語りが選ばれ、幾つもの観点から「話題」を照らし出すという大規模な語りが採用されています(「イラク戦争」報道のトピック文脈の図t-2参照)。そしてそれらの複層的な「トピック文脈」の構成が、さまざまな「発話の配置」を駆使して報道されるのです。さらにアナウンサーやキャスターが一人だけでなく、複数のキャスターによって報道が行われる報道番組や情報バラエティーにおいては、キャスター間で発話行為のパートが決められ、複数の声のフォーメーションをとおして世界の出来事と視聴者を「媒介」するシステムが成立しています(図 t-3参照)。このように、ニュース番組とは、「今の世界」の「表象」を刻々と生み出している「媒介のシステム」なのです。

 テレビ・ドラマ

「今の世界」の表象装置としてテレビが昨日するのは、ニュースや報道番組だけではありません。例えば、テレビ・ドラマのように、コンテンツとしての自律性が強いとおもわれているテレビ番組のジャンルにも、人びとの日常生活をつくり出し、社会生活をレギュレートする機能が認められます。
 「お茶の間のテレビ」といわれるように、テレビは、家庭の生活空間と社会や共同体の空間とを媒介する環の役割を担っています。「テレビ番組表」を見れば明らかですが、テレビ的指標性は、社会的時間の流れのなかに埋め込まれ、それを組織化する重要な一部となっているのです。一例を挙げれば、NHKの「朝ドラマ」(「朝の連続テレビ小説」)は、多く女性の主人公のライフストーリーを題材として取り上げ、家庭内の生活と多くは地方に設定された地域的共同体、多くは首都東京に象徴された国民生活とを説話的に媒介していく物語を繰り返すことによって成立しているジャンルです。生産や労働へと向かう「朝の時間」に、国民的表象空間を立ち上げ分節化する時間帯として番組が機能していることが分かるのです。他方、しばしば「トレンディー・ドラマ」と呼ばれ夜の9時代に設定された民放のドラマは、都市生活者の恋愛や人間模様を描くことによって消費の時間を方向付ける役割を果たしてきたといえます。このようにテレビ・ドラマは、視聴の時間を起点として表象の世界を繰り広げることが基軸となった表象ジャンルであって、作品としての自立的価値を主張する映画作品などとは根本的に異なった表象文化のジャンルなのです。

 バラエティー

 さて、<今>のダイクシスを基本とするテレビ的コミュニケーションにとって、もっとも基軸的なメタ・ジャンルともいえる、番組ジャンルがあります。それが、「バラエティー」です。テレビでは、スタジオのダイクシスにおける一・二人称のコミュニケーションが基軸となって同時的コミュニケーションが成立することが基本であるとすれば、バラエティはこのコミュニケーション基軸を使って成立する最も基本的な番組形式であるといえます。いまスタジオのダイクシスにおけるコミュニケーションをC、三人称世界への参照をRで示して略号化するとすれば、TV的コミュニケーションにおいてはCの部分が基軸となって、同時的コミュニケーションが成立しますが、CとRとの絶えざる往還のゲームが<おしゃべり>というコミュニケーションであり、Cをいかに活性化し続けるか、Cを活性化して1・2人称的コミュニケーションを維持し続ける「共通の話題」(thema: common places)をどのように配置するか、どのように気の利いた「話題転換」によって話を「転調」するか、等を、即興的コミュニケーション・ゲームとして向自化すると「バラエティ」がジャンルとして生まれることになります。

「 Communication (1・2人称) /  Reportage* (3人称)」
        (* Information やStory でもありうる)

 イベントと実況

 バラエティとならんで、テレビが、もっとも効果を発揮するのは、スポーツ番組のようなイベントの実況中継です。テレビは<いま・ここ>を焦点化する(ということは「同時」で「ライブ」の)メディアですから、テレビ映像の<いま・ここ>において、刻々と起きつつある出来事を伝えることがテレビ的コミュニケーションの真骨頂です。実況中継は、結末の分からない「偶然性」に向かって開かれています。と、同時に、テレビはアナウンサーや解説者の「語り」をとおして、そしてまた複数のカメラを切り換えて映像をコントロールすることにより伝えるべき出来事を「解釈」しつつ、その「筋(プロット)」を「即興的」に組み立てていきます。記号学者のウンベルト・エーコは、このメカニズムを「偶然性と筋」という概念で説明しています。「ディレクターはある意味において、出来事が現実に生起する瞬間に同時に出来事を創り出さねばならないのであり、しかもその出来事を現実に起こる出来事と一致させなければならない。」と実況放送におけるテレビ・ディレクターの役割をエーコは分析しています。このように、実況放送は「出来事」を伝えると同時に「出来事」を作り出している。テレビが「イベント」を生み出す仕組みとはこのようなところにあるのです。

IV「テレビ化する世界」とテレビ批判

 テレビがイベントを伝えると同時に創り出すものだ、というエーコの主張をさらに突きつめてみましょう。そこにあるのは、テレビは出来事を伝えるとまったく同時に出来事を不可避的に創り出してしまう、テレビにおいては偶然性に開かれた事象をリアルタイムで指し示すことと、即興的に構成される語りと映像を通して、社会的イベントとして事件を生み出すこととが同時であるという認識です。そこにテレビ的コミュニケーションの自己言及性の核心があります。私たちはテレビを通して出来事を視ているのではなく、テレビを通してテレビが出来事を生み出す出来事を視ているのです。マクルーハンによる「メディアはメッセージ」という定式の深い意味がここにあります。
 ウンベルト・エーコは1980年代初頭に民営化されたイタリアのテレビ放送に関して「パレオ・テレビ (旧-テレビ)」から「ネオ・テレビ(新-テレビ)」への移行を語りました。「ネオ・テレビの主たる特徴は、外部世界について語ることがますます少なくなることにある(パレオ・テレビは外部世界を語っていた、あるいは語るふりをしていた)。ネオ・テレビはテレビ自身のことを、そしてテレビ自身が観客と結びつつあるコンタクトを語る。」と述べています。これは、テレビ放送が、報道やドキュメンタリや教養番組のような外部の世界の現実を伝えるという公共放送時代の「透明性」の原則を消失させ、民営化、複数チャンネル化によって、スタジオのダイクシスへとテレビ的コミュニケーションを焦点化させ、それに伴う番組のバラエティ化、テレビ・アクターたちのタレント化、ジャンル・ミックスなどが進行する事態を表したもので、世界中のテレビ放送に共通した現象です。
 「ネオ・テレビ」は、リアリティー・ショーの世界的流行にみられるように、テレビが現実をつくりだすという方向へと向かいます。もはやテレビの外に現実世界があるのではなく、テレビのなかで自己言及的に現実が創られる。以上で見たように、日常生活の細部にいたるまで私たちの生活世界にテレビ的コミュニケーションが埋め込まれるようになると、私たちの「現実」全体がテレビによって生み出されるようになるのです。これが「世界のテレビ化」です。「湾岸戦争」にせよ、「9.11」にせよ、世界的な戦争までもがテレビを通して行われるようになるのです。テレビという電子技術によって「世界史」が「内爆発」を起こす、「部族的な地球村は、いかなるナショナリズムに比べても、はるかに分裂的です。紛争に満ちています。村の本質は分裂であって、融合ではない。…地球村は理想的な平和や調和を見いだすための場所ではない。その正反対です。」と「グローバル・ヴィレッジ」についてマクルーハンが警告を発したとき、今日の私たちの「テレビ化された世界」は預言されていたとさえ思われてくるのです。


 そこで重要なのが「テレビ批判」です。テレビの表象作用を認識することは、私たちの世界の「現実」が、日常生活の小さな出来事から戦争のような大きな出来事にいたるまでどのようにテレビ的表象として作り出されているのか、その仕組みを理解することです。「テレビ的表象」の批判は、21世紀のメディア社会を生きる人びとの「メディア・リテラシー」にとって必須の課題となっているのです。

表象文化研究 第12回 「表象の舞台(IV):摩天楼の文化、表面の美学と文化産業批判 : III ポップ・アートと文化産業批判」

『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日,  第12章「表象の舞台(IV):摩天楼の文化、表面の美学と文化産業批判」(pp.185-192)


III ポップ・アートと文化産業批判

 ウォーホルのポップ・アートの戦略が、大量生産される記号化された「商品」を「作品」として引用すると同時に、芸術家がオリジナルに産み出すとされてきた「作品」をむしろ大量に複製され消費されるべき「商品」と化すという二重のオペレーションで成り立っていたことに注目しましょう。しかも、このオペレーションを成立させる場が、「メディア」という記号テクノロジーの表面であったことにも注意しましょう。「メディア」の表層において、「作品」が「オリジナリティー」を失って無限定に増殖していく「コピー」となり、「キャンベル・スープ缶」や「コカコーラ」のような「商品」も実体を失って記号化した「モノ」としての姿を露呈する。「マリリン」や、「エルビス」他のスターたち、あるいは、メディアに登場する「有名人」たちもまた、すべてメディアの表層に転位され記号と化した存在です。「メディア」において浮かび上がる「記号化」のオペレーションに寄り添い反復することによってその操作を指さし、私たちを取り巻く存在の「記号性」を浮かび上がらせて見せるという微妙なしぐさがそこには働いているのです。そして、それこそ、「ポップ・アート」が、メディアが媒介する消費型資本主義の運動に対して行使しているクリティカルな身ぶりなのです。
 消費社会を論じたフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、「物が消費されるためには物は記号にならねばならない」[1]と述べました。「記号消費」を産み出す社会は、人びとの「欲望」を産み出すことによって成り立つ社会でもあります。 そして、欲望を産み出し、ひとびとの意識を「市場」化し、消費へと差し向ける産業、それが「文化産業」です。

「文化産業」

 「文化産業 (英 culture industry)」とは、映画やレコード、ラジオやテレビ、大衆紙や雑記や広告など、あるいはコンピュータゲームやアニメ、マンガなど文化内容を商品として成り立つメディア産業のことです。「文化産業」が産み出すのは、「イメージ」や「記号」そして「社会的ステレオタイプ」であり、それを通して、ひとびとの「意識」や「想像力」に働きかけ、「欲望」を産み出すという効果を持っている。人びとの、無意識に働きかけ、人びとの欲望を誘発し、リビドーを大衆社会の表象の回路に導き入れ、「欲望の主体」を生産する機能を果たしている。資本主義が産業品の生産をはなれ、消費の欲望を生産する新たな段階として、文化産業が支配する時代が20世紀には到来することになったのです。
 ハリウッド映画や商業ラジオ放送に典型的にみられる文化産業の発達と、それがもたらす「生活様式(ルビ:ライフスタイル)」の画一化を目の当たりにして、「文化産業」の支配をいちはやく問題視したのは、ドイツのフランクフルト学派の二人の哲学者テオドール・アドルノ(Theodor Adorno 1903-1969)とマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer 1895-1973)でした。第二次大戦中ナチスを逃れてアメリカに亡命した二人のマルクス主義哲学者が見いだしたのは、オートメーションの大量生産資本主義と同時に、文化産業が流布させる大衆文化に従えられていくアメリカ人たちの姿でした。二人は1944年に『啓蒙の弁証法』[2]を書き上げて、西欧的理性の歴史を人間の解放へといたる「啓蒙」のプロセスととらえ、その「啓蒙」がテクノロジーや官僚機構の道具的理性へと転化し、大衆社会の疑似「文化」がひとびとを画一的な支配へと従属させるプロセスが働き始めていることを告発しました。「労働」における搾取だけではなく、「余暇」や「消費」においても働いている文化産業による、ひとびとの意識や欲望に及ぶ支配の原理を問題にしようという提起でした。
 「産業社会の持つ暴力は、常に人間の心の奥底まで力を及ぼしている。文化産業の諸製品は、人が気を散らしている時でさえ、さかんに消費されることを当てにすることができる。しかし、一つ一つの製品をとって見れば、それはすべての人を、労働している時も、それと代わり映えしない余暇の間にも、息つく間もなく駆り立てている経済的巨大機械装置のモデルなのである。()文化産業が提供する製品の一つ一つは、否応なしに全文化産業が当てはめようとしてきた型通りの人間を再生産する。」(邦訳 195頁)
 ヨーロッパの古典的な教養に支えられたアドルノとホルクハイマーによる批判には、知識人にありがちな大衆文化に対する高踏的な態度もたしかに認められます。しかし、「表象文化」の観点から見れば、産業的に大量に産み出されて流通し消費される「表象」によって、ひとびとの意識が均質化し、欲望が整形されていくという、表象にもとづく支配を問う視点がそこにはあることが分かります。フロイトの甥のエドワード・バーネーズ(Edward Barneys  1891-1995)が発明したマーケティングの手法が一般化し、消費者の意識を市場と化すことによって資本主義が成立する段階に入った時代であることにも注目しましょう。
 アメリカ文化と思われていたものは実は、戦後には世界中に拡がった消費社会の文化であり、それはまた「ポップ・カルチャー」や「サブ・カルチャー」とも呼ばれるようになりました。ウォーホルが作品化した「コカコーラ瓶」シリーズのように、消費されるモノたちは、記号としての配置をメディアが流通させる文化のなかにイメージ化され、モノの消費の欲望のシナリオに人びとのリビドーを組み入れていくのです。文化産業はひとびとの生活世界全体を包囲するにいたるまで発達し、広告、娯楽映画、テレビ番組、ポップ音楽が大量に流通する世界に人びとが住まうようになる。人びとが消費者としてメディアを行きうそれらの大量の記号を共有し、そこから自分たちの生を意味づけるためのイメージを取り込み、欲望のシナリオを組み立てていく。ウォーホルが登場する1960年代以降は、アドルノやホルクハイマーの予想をはるかに超えて、文化産業が世界化していく時代でもあります。とくに20世紀後半以降は、テレビという強力なメディア・テクノロジーが、ひとびと日常生活の隅々にまで及び、テレビ放送をとおして記号やイメージの流れが社会全体をシンクロナイズしていくことになったのです。(「テレビ」については、次章を参照してください。)


「時間対象」

 ここで強調しておきたいのは、二十世紀以後の文化産業の中心にあるメディア・テクノロジーが、映画やテレビ、あるいはレコード、CDといった、フッサールのいう「時間対象」を商品として産業化するテクノロジーである点です[3]。じっさい、現在わたしたちの生活世界を包囲している音楽CDや映像DVD、テレビ番組といった「メディア・コンテンツ」は、フッサールが「時間的対象」と呼んだような、対象そのものの中に時間性が備わっている商品です。音楽や映像のような時間性において成立する現象は、意識がその時間性を内在的に構成することによってのみ経験しうるものです。そのとき、意識はそれらの現象を時間のなかに捉えることによってのみ自らを意識として構成する。例えば、音楽という「時間的対象」を「コンテンツ」として収めた商品が音楽CDであるとすると、それを聞く人はその音楽を聴く「意識」と化すのです。つまり、その人の「意識」とは、消費者の「意識」として自己を構成することになる。あるいは、テレビ番組を考えると、番組を見て「想像力」を働かせる「意識」として、視聴者は自らの「意識」を生み出していきます。彼/彼女の「意識」は、視聴者の「意識」として、番組を通して「産み出される」ことになるのです。これが、商品化された「時間的対象」を通した、消費者の意識の市場化のプロセスです。
 このように「時間対象」が商品になっていく。時間がパッケージ化され、商品化され、いつでも「再生」できる「記憶」として売られていく。あるいは電話のように、だれもが消費者として「同時」につながって、人々の意識が「同じ現在」の中に、消費の「時間」によって結びつけられていく。これがメディア産業によって支配されたわたしたちの社会の姿です。メディアが流通させるイメージや記号によって、私たちの意識は「消費者の意識」として産み出され共時態化(ルビ:シンクロナイズ)されていくのです。
 現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952- )は、文化産業の支配がもたらす「象徴的貧困」について警告を発しています。人びとの象徴世界がメディア社会の共時態のなかに呼び込まれ同じような記号化のプロセスに同期させられていくと、人びとはそれぞれの固有の生の通時的時間から切り離され、自らの特異性を消去させていく。人びとはだれでもない「みんな(仏語on 英語 man 独語 das Man)」となってしまう。そのことによってリビドーを搾取され、自分自身に固有な欲望のシナリオを組み立てるベースである「自己愛」の契機をも喪失する危険に見舞われるというのです。

   「コミュニケーション・テクノロジーは消費行動の画一化という変化を生みだし個人の「非特異化を引き起こします。個人が次第にそれぞれ個人としての過去の特異性を失い、隣人と非常に似通った過去と生活様式を共有するようになり、そのことによって、個人の特異性を主張する力がどんどん減少していきます。個人の特異性こそフロイト以後、原初的ナルシシズムとよぶものの条件だったのです。原初的ナルシシズムは、自己の尊厳、自らに対する尊敬のことであって、フロイトは、この自らを尊敬する力こそが、他者に向けられる尊敬の念の必要条件であると言っています。ですから、個人のリビドーを取り込もうとして、肯定的なイメージ、いわゆる個人が自分自身について持つ「自我理想」が、産業的に徐々に清算されてしますことで、個人は次第に自分自身を愛さなくなっていく。また自分自身を愛さなくなることで、他者をも愛せなくなるのです。そして、ついには欲望自体が消滅してしまいます。この事態こそ私たちが生きている現代の大きな危険であるのです。情報コミュニケーション・テクノロジーを介してあまりに管理されてしまったために、リビドーのエネルギーが不均衡になっているのです。」[4]

 すでにウォーホルの作品に現れるスターや有名人たちの記号化した存在を映し出すスクリーンの裏側にはネガのように「死」の影が差していましたが、情報テクノロジーがさらに生活世界の深部にまで及ぶようになった21世紀のメディア社会では、イメージの受け手である消費者までもが、欲望の崩壊やリビドーの不均衡に脅かされることになったというのです。


「オタク」

 さて、ここで、現在の私たちの社会の具体的コンテクストに以上の問題を引きつけて考えてみましょう。私たちが、ポップ・カルチャーやサブ・カルチャーと呼んでいる文化の大部分は、以上のように20世紀のメディア・テクノロジーの発達に伴って巨大化した文化産業によって産み出された文化です。現代日本の社会は、最も全面的に文化産業が支配する社会の様相を呈しているともいえます。「オタク」という言葉が現在では世界的に流通していますが、日本のアニメやマンガなども特にアメリカからもたらされたハリウッド映画、ポップ音楽、テレビ番組、ディズニー映画、スポーツイヴェントなどは、アジアや日本の基層文化と干渉しあって、独自の表現様式をうみだし、例えば、マンガやアニメやテレビ・ゲームに見られるような「オタク・カルチャー」とも呼ばれる、独特のポップ・カルチャーを形成するようになりました。それらはまた文化産業のグローバル化の動きと結びついて文化商品化され、「コンテンツ」として世界市場に輸出されるようにもなってきています。そこであらためて問われることになるのは文化産業とアートとの関係です。
 試みに、ウォーホルの「ミッキー・マウス」シリーズを見てみましょう。すべてのウォーホル作品の神話的存在と同じく、アーティストはここでも、映画的スクリーンをおもわせる記号の表層に、ディズニーという文化産業のキャラクタであるミッキーの姿を投射し浮かび上がらせています。スクリーン上に投射されたミッキーのアナログ的イメージの運動が、プロジェクタの光を思わせる背景色のずれた組み合わせと、ドローイングのずれをおもわせるなぞりの線によって強調されている。ミッキーを映画スクリーン上のアナログな記号存在として、シルクスクリーン上に解体して見せているのです。それが、すでに見たウォーホル特有のクリティカルなポップ・アートの身ぶりです。
  他方、現代日本のオタク・アートの代表的存在である村上隆による「たんたん坊DOBシリーズを見てみましょう。たんたん坊DOBはたしかにミッキーを連想させるキャラクタです。あるいは、たんたん坊DOBはミッキーを「脱構築」した姿であるともいえる。しかし、その脱構築の手法はウォーホルとはまったく異質です。オタク・アートにおいて批評性の基礎にあるメディア面は、グラフィックなものであり、ポップ・アートの「スクリーン面」に対してマンガのような書写面がベースとして使われています。また形象の生成原理もここではデジタル的であって、コンピュータ・グラフィクスを思わせるカオスや自己組織化による形態発生の技法がとられていることを見て取ることができます。このことは、オタク・アートが、マンガやアニメ、コンピュータ・ゲームのようなメディアにもとづくサブ・カルチャーを基盤としていることと無関係ではないのです。
 文化産業が流通させる表象文化に寄り添いつつ、その記号の働きを両義的なやり方で乗っ取り、批判し、脱構築していくアートの鋭く妙なる身ぶりを、これらの作品に私たちは見てとることができるのではないでしょうか。









参考文献
マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法:哲学的断章』、徳永惇訳、岩波書店、1990年刊
ジャン・ボードリヤール『物の体系:記号の消費』宇波彰訳、法政大学出版局、1980



[1] ジャン・ボードリヤール『物の体系:記号の消費』宇波彰訳、法政大学出版局、1980(原著出版は、1968年)。
[2] マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ『啓蒙の弁証法:哲学的断章』、徳永惇訳、岩波書店、1990年刊(原著出版は1947年)
[3]エドムントフッサール 『内的時間意識の現象学』、立松弘孝訳、みすず書房、1967(原典出版は1928年)
[4] 放送大学特別講義『知の記憶・知の未来』第1回「文化の記憶を求めて」(講師 渡辺守章、石田英敬)のために2003年2月にパリ、IRCAM行ったインタビューより抜粋。当該インタビューの抜粋は、ベルナール・スティグレール「記憶産業/記憶のテクノロジー:「象徴的貧困」を超えて」、聞き手 石田英敬 訳 西兼志『InterCommunication』 No.55 2006.winter, pp.90-100としても刊行されている。この他、「象徴的貧困」については、Bernard Stiegler La misère symbolique, tomes 1 et 2 éd: Galilée, 2003, 2004があるが、未邦訳。

2020年2月23日日曜日

表象文化研究 第4回  「詩と記号 : マラルメからソシュールへ」

表象文化研究 第4回 
『新訂 表象文化研究: 芸術表象の文化学』(共編著)渡辺保、小林康夫、石田英敬、放送大学教育振興会(日本放送協会 発売)240p.、2006年3月20日、第4章「詩と記号:マラルメからソシュールへ」(pp.53-76)


詩と記号 : マラルメからソシュールへ」


 「表象文化研究」は、人間の「文化」が、言語やイメージさらには身体の活動としての「表象」から成り立つことの研究ですが、「表象」を生み出す要素一般を、「記号(sign, signe)」と捉えることができます。「記号」とは、この場合、「意味を生み出すもの」のことですが、具体的には、言語、音声、文字、イメージやシンボル、身体動作やしぐさなど、意味活動を担う要素一般のことです。例えば、「文学」とは、言語を要素として成り立つ表象文化であり、「舞踏」は身体所作を要素として、「絵画」は図像を要素として、それぞれ成り立つ表象文化であると考えることができる。したがって、「表象」には、つねに「記号」の活動の次元が関与していると考えられます。
 意味を生み出すあらゆる種類の活動を「記号」ととらえて「表象」を論ずること自体が、20世紀とともに現れた新しい知の方法でした。映画や建築に関して、「映像言語」や「建築言語」を論じたり、「身体記号」を語ったりする認識の態度は、ほぼ20世紀と同時に始まった新しい態度であると考えてよいのです。そして、そのような「記号の知」と「表象文化」とがどのような関係で結ばれているのかを考えることも重要なポイントなのです。
 この章では、マラルメの「詩」とソシュールの「言語と記号の知」を題材に扱います。一方は「詩人」、他方は「言語学者」と考えられている両者ですが、 「文学」という表象文化の近代的枠組が、「ことば」や「文字・記号」の「問い」として浮上したのがマラルメにおける「文学の問い」であり、メディア化する二十世紀社会の表象文化を「言語と記号の知」を通して捉えようとしたのが、ソシュールによる「記号学」の構想です。
 マラルメやソシュールの出現には、「表象文化」の成立条件の大転換が掛けられていたことが分かってくるはずです。十九世紀末から二十世紀への転換点で、「文学」、「詩」、「芸術」と、「ことば」、「記号」、「メディア」が、どのような新しい関係性の布置を作り出したのか、なぜ「表象文化」の研究が「記号学」や「詩学」、「精神分析や「メディア論」と結びつくのかが明らにされます。



I.  マラルメ:グーテンベルク銀河系の「極北」としての「詩」
 そもそも「文学」とはどのような表象文化なのでしょうか。私たちは、「文学( literature  la littérature)」について、歴史を貫通して、例えば、ホメロスや万葉集の昔から存在しているものと考えがちです。しかし、それは、「近代」になって初めて成立した「文学」という表象文化を、過去に向けて投影したアナクロニックな見方にすぎません。「文学」とは、「近代」が生み出した、ラディカルに歴史的な「表象」の文化経験であって、「文学」を自明視したり永遠化するほど、じつは「文学」から遠い態度はないのです。
 ヨーロッパの「近代」に先行する「古典主義」の時代には、「文芸(英 letters  les lettres)」という表象文化が存在します。「文芸」においては、主題についての明確な規範(カノン)とジャンルが存在し、聴衆の指定があり、創作と鑑賞の「良き趣味」の規則が決められています。「文芸」という表象文化は、「古典的秩序」を映し出す「表象」の制度であったのです。ところが、古典主義的な表象の秩序が崩れて、「文芸=文字」による表象が「歴史」の奥行きのなかに引き込まれたときに「近代」とともに生み出されたのが「文学」という表象文化なのです。「文学」は模倣すべき古典的規範や固定的なジャンル規則をもちません。文学は、受け手・公衆を自ら作りだすものです。文学が描き出す「世界」はすでに存在している「永遠」の不動の秩序の再現ではなく、「歴史」の生成のなかで生み出されていく「現実」の「現在」です。「文学」の「作者」においては、今までに存在しない世界を想像しうる表現しうる「天才」と「霊感」が必要です。
 フランスの「文学」を例にとるなら、ヴィクトル・ユーゴーに代表される1830年代のロマン派の詩が、「世紀」を導く「歴史の見張り番」、「幻視者」としての「詩人」が霊感によって「超越の声」を聞き取り書き下す「詩」は、「読み手」としての「民衆」を生み出すものでした。「詩」のことばは、「世紀」を導くものであったのです。「文学」という表象文化は、「歴史」をとおした「世俗化」のなかに導き入れられたのです。
 またボードレールが、資本主義の絶頂期にあったパリの「永遠的なものと一時的なもの」とを含む「モデルニテ」の経験を詩や批評に結晶化させたとき、「詩」は「歴史的現在」のうつろいゆく瞬間からなる、「モデルニテ」の歴史内在的な「表象」だったのです。
 それに対してマラルメの位置は、「文学」という表象文化の存立全般を「ことば」や「文字」において問う「詩」の出現ということにあります。

1 マラルメの「危機」と「書くことのコギト」
 マラルメ(Stéphane Mallarmé 1842-1898)の「詩」が「文学」という表象文化の成立条件自体を問う「詩」であることは、最初期の作品にすでに顕著です。
 「第一次高踏派詩集」に収録されることになる「不遇の魔」や「鐘を撞く男」、「蒼空」などにおいて、マラルメは「不能力の詩人」をテーマに、文学場のなかに参入していきます。「理想」という言葉で指される「詩的発話の超越的審級」(詩の大文字の主体)の声を「詩人」はもはや聴き取ることができず、「民衆」に対して、「ことば」を差し向けることができなくなっている。ロマン派的な「詩的発話の回路」、「文学」の表象回路の危機をテーマとすることによって、詩を書き始めたのです。
 じっさい、1866年頃書いたと思われる「エロディアード舞台」、さらに1868年ごろの制作と見られる「エロディアードの古序曲」には、マラルメに詩的言語の実験が凝縮されて表現されています。
 「乳母によるincantation」という副題がつけられた「エロディアード」の「古序曲」は、声のみの亡霊と化して「新約の世界」の到来を告知する「聖ヨハネの声」と交感しようとする、「乳母」の憑依の「声」を、アクロバット的なシンタックスによる二十数行におよぶ長い一文の音楽的かつ幾何学的な構成によって繰り広げて見せます。語が音楽的に反映し合い、ほとんど人間の言葉とは思えないほど徹底的に考え抜かれた構築体として言葉の構成から成立しています。

 「大いなる作品」の夢
 このような徹底的な「詩の言葉」の動機づけの追求は、「絶対的な言語的構築体」の夢想へとマラルメを向かわせることになりました。それが大文字で書かれる「大いなる作品」(のちのマラルメの「書物」)の構想です。「世界のすべては一冊の書物に到達するように出来ている」と後に述べることになるマラルメですが、マラルメにとっての「大いなる作品」、「絶対の書物」とは、「偶然」に支配された人間の「言語」を「詩」によって「作り直す」ことによって、「世界」そのものを「詩」によって作り直すような、「宇宙的構築体」の構想なのです。「神話」や「歴史」にではなく、「言語」の象徴性に「文学」の根拠を見いだし、言語や象徴が可能にする「虚構(フィクション)」の力に、人間の社会や文化の根底にある「表象作用」の根拠を見いだそうとする考えがそこにはあるのです。

 マラルメの「危機」
 この制作過程を通して、自分は人間の言葉の意味を失い、自己像の消滅さえも経験したのだと詩人は述べ、「詩句を穿っていくことによって」、「虚無」を発見したと手紙に書きます。あるいはまた自分は「ついに神を打ち倒した」とも書きます。これが、有名なマラルメの「形而上学的な危機」です。
 さまざまな解釈がされてきたこのマラルメの危機ですが、ロマン派以来前提とされてきた、詩の表象原理を存在論的に組み替える、宇宙論的な詩学がこのとき生み出されたことはまちがいありません。ロマン派以後の近代においてさえ創作の前提とされていた神学的秩序や、超越的な詩人という個人の形象が否定され、言語を動機づける「偶然を廃棄する」企てとして、詩が「言語」との関係で再定義され、宇宙の創世原理としての神学的秩序を前提にもたない「詩学」が生み出されたのです。大きくいえば、この時代は、ニーチェが神の死をテーマに思考を進めつつあった時代に対応しますし、政治体制としても神権的秩序から切り離された「国民国家」としての「共和国」が成立していく時代にあったこととも深いレヴェルでそれは照応し合うものだったでしょう。

 「イジチュール」とエクリチュールのコギト
 形而上学的な危機を通して強度の神経症に見舞われるマラルメですが、その危機自体を作品化することを通して、危機からの脱出を企てます。その時に書かれたのが、「哲学的コント」とされる未完の作品「イジチュール」の草稿群です。詩人の種族の末裔であるイジチュールが、「時間の部屋」の真夜中の時が打たれる時刻に、蝋燭と呪文の書かれた書物を携えて、部屋を後にして、「人間精神の階段」を降り、先祖の墓となっている地下室で骰子を投げに行くという、「詩作」をめぐる難解な寓話的なテクストです。そこには、マラルメが経験した「書くこと」の「危機」と、それを通して到達した「詩学」とが、極めて難解なフランス語の散文によって書き込まれています。なぜ難解かというと、「ことばの自己反省(=自己反映)」とでも言うべき方法によってテクストが書かれているからです。
 「真夜中 Le Minuit」の「時」が打たれると同時に、鏡に映し出されていたイジチュールの「私」は、ego-echo heure-heurt miroir-moi-voir などのシニフィアンの反映を通して、姿を融解させ「夜」と溶け合っていきます。エクリチュールの「私」が、シニフィアンのなかに姿を消していく様子が文字通りに演出されるのです。エクリチュールの主体になるとは、自己像の消失さえも伴って、シニフィアンのなかにとけ込むような主体へと変貌することである。そのような主体論のパラダイムがそこには分節化されるのです。さらに、非人称化した意識は、「人間精神の階段」のなかで、言語の自己反省を通して、デカルト的な方法的懐疑と演繹を実行し、言語的意識によるコギトの明証性へと達しようとします。そして、最後に、詩人の祖先たちの「作品」を完成させるべく、詩の行為のメタファーとして「骰子の一投げ」を行い、詩の企てを完成させ、「世界」の絶対的な動機づけに成功する。そのような詩の行為のアレゴリー劇によって、マラルメは、「詩」の形而上学的な意義を書き記したのです。
 現代フランスの前衛作家フィリップ・ソレルスは、これは「エクリチュールのコギト」であると評しましたが、詩を書く「私(ego)」とは誰かという問いが、シニフィアンのネットワークの「相互反映」を通して、言語意識の「自己反省(autoreflexion)」として省察されているのです。
 当時計画をすすめていた「言語学」の研究のための「ノート」に、「言語の自己反省」を「方法」とするという表現が読まれますが、文字通り語と語との反映関係を作り出すなかで言語表象を作り出していき、そのような言語宇宙を生み出す行為とは何かを言語の中から形而上学的に自己反省していくというオペレーションがここでは書く行為を通して実行されているのです。第一場にあたる「時間の部屋」では、主人公イジチュールの自己像の消失が、第二場「階段のなかで」では、言語的意識の自己反省にもとづくデカルト的な「懐疑」と「演繹」が、そして、最後の「墓」においては、詩人の種族の「書物」に告げられていた宇宙的な「詩の行為」としての「骰子の一振り」が書き込まれ演出される計画だったと推定される。「語に主導権を譲る詩人の発話的消滅」と後期に詩人が表現した「書く主体」とは何かという問い、ヘーゲルの語彙を借りて「人類の歴史を幼年期からやり直す」と書簡で語っていた「詩の企て」の「精神史」の意義、人間の言語を動機づけて「偶然を廃棄する」行為としての「詩の行為」という詩的言語の根拠付け、到達点としての窮極の「書物」との構想、これら、マラルメの詩学の基本的な柱となる原理が、ここに書き記されることになったのです。
 同時期に平行して立てられた「言語学」研究の計画もまた、詩的言語を学問的に根拠づける企てと解釈できるものですし、「ことばの研究」から取り出されたと詩人が述べる「それ自身のアレゴリーとしてのソネ」という不思議な十四行詩は、「語の相互反映」のみによって「ptyx」という謎の語の「意味」を生み出すという、詩的言語の実験的作品でした。
 つまり、このときにマラルメが打ち出したのは、「言語」の象徴力に「詩」の源泉を汲む詩学だったのです。
 「象徴派」という分類を受けるマラルメですが、より本質的な部分においては、「近代」の表象システムにおいて、「文学」の根拠を「言語」の問題として問う文学を打ち立てたことが、マラルメの位置であるといえます。「表象」が、既存の世界のシステムにもとづいたものではなく、「言語」に根拠を持つものであること、「言語」こそが「表象」のマトリクスであることが明かされたことになるのです。

2「詩」と「表象」批判
 独自の詩と詩学をつくりだしたマラルメは1870年代にパリにもどると、「言語学」や「神話学」の計画の延長上で「英単語」や「古代の神々」という翻訳や翻案を発行します。またそれらの言語学や神話学に関する書物を出版するかたわら、「劇場」を構想したり、「最新流行」というモード雑誌をひとりで編集し、時代の「表象」に参画していく企てを行います。

 第三共和国
 マラルメの詩と詩学が完成していくのは、1870年代後半から1890年代にかけての「フランス第三共和制」の成立期です。普仏戦争に敗れパリコミューンを経験したフランスが、「共和国」を政体として「国民国家」としての性格を露わにしていく時代です。「国民国家」を論じる際に必ず引用されるエルネスト・ルナンの「国民とは何か」(1882年)が発表され、ジュール・フェリーの教育改革により無宗教の「国民教育」が制度化され、「国語教育」が再編され、「文学」がその国語教育の柱となり(ランソンの「文学史」の誕生)、植民地経営が軌道に載り、電話や電信の通信技術の革新によって大衆ジャーナリズムが全盛をむかえ、鉄道網が都市を結び、鉄とガラスの建設が出現した時代です。しかも、普仏戦争の敗北の記憶をバネに、「対独報復」が合い言葉とされ、アルザス・ロレーヌ問題をめぐって「国民感情」が文字どおりナショナルな昂揚をしめし、さらに、国家と教会との分離の問題が、共和国の「宗教的中立(ライシテ)」の問題としてクローズアップされていきます。「パナマ疑獄事件」にみられる政界・財界のスキャンダルが多発し、プロレタリアートの問題が浮上し、アナーキストの爆弾事件がおこり、さらに「ドレフュス事件」にいたって決定的となる「人種問題」が浮上し、知識人や大学人の権力が生み出されていく時代でもあります。

 共和国と表象
 王政や帝政のような神権的秩序を拠り所としない、「国民」の「共通の物 res publica」である「共和国repubique」が、「政治的表象の原理」となり、ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」として「国民」の「想像力」のみが、共同体の存立根拠となるのです。「表象」とは、劇場や音楽会のように、ひとびとがさまざまな文化活動をおこなう活動であると同時に、ひとびとの「一般意志」を「代表」する「政治」の原理でもあり、ひとびとが生の有限性を超えて超越や不死を「想像」する「国民」的共同体や「宗教」の問題でもあります。
 政治は「共和国」という世俗的で徹底的に無根拠な「表象の制度」として姿を現す。「宗教」も国教としての権威を失って、「宗教」とは何かという問いが生まれます。そして、「文学」もまた、「超越的根拠」を失って、「文学」とは何かという問いを前にすることを余儀なくされる。事実、第三共和国が実質的な制度化を確立した、1880年代~1890年代は、「詩句の韻律を一手に体現していた」ヴィクトル・ユーゴーの死とほぼ同時に、伝統的韻律が崩れ「自由詩句」が登場した「詩句の危機」の時代もあったのです。
 人間生活のあらゆる領域を分節化していた「表象」のシステムが、全面的な転換期を迎え、「虚無」が一般化した「時代」、マラルメは、この事態をさして「空位時代」であると形容しています。

 『ディヴァガシオン』と「批評詩」
 マラルメは、こうした第三共和国における「表象」の問題系を、自身の「詩」の原理にもとづいて捉え、「批評=批判(クリティック)」していく企てを行いました。それが、後期の散文集『ディヴァガシオン』にまとめられることになる「批評詩」です。「批評詩(poèmes critiques)」とは、文字通り「詩(poème)」でもあり、同時に、「批評=批判(critique)」でもあるテクストという意味です。マラルメ一流の「難解な」フランス語散文で書かれていますが、その「難解さ」を、単なる韜晦や高踏趣味と考えてはいけません。なぜなら、一見「難解さ」と思えることばの様態(=言語態)とは、ことばの運用を極限にまで高めたマラルメ独自の「詩」的構築体であって、そこを拠点として、「詩の主体」のポジションから、同時代の「表象」一般を「批評=批判」していくことがめざされていたからです。「詩」を拠り所とした「表象批判」の実行、それこそが「批評詩」ですし、「詩」の認識を拠り所とした「メタ言語」の実践として、それを「詩学poetics」の試みと見てもいいでしょう。
 じっさい「ディヴァガシオン」とは、さまざまなテーマについての思うままの「逍遙」という意味ですが、しかし、そこに繰り広げられているのは単なる気ままな印象や雑感ということではまったくありません。ひとつひとつの散文が、詩や言語や書物について、あるいは新聞として現れたメディアについて、推敲を重ね、深い洞察に貫かれた文章であり、同時に、宗教や政治を含む第三共和国の「表象」について実に鋭い社会批評、文明批評、ひとつの<社会の詩学>となっているのです。
 ここでは、その全容を紹介する余裕はありませんが、その要点を、「言語・メディア批判」および「表象批判」という観点から辿ってみましょう。

3 言語・メディア批判
 『ディヴァガシオン』の「批評詩」群を貫いているのはなんといっても、詩の言語や文学、文字や頁や書物、あるいは書くこと一般についての省察です。「言語の詩学」、「メディアの詩学」の実践がそこにはあるのです。
 そして、マラルメの詩学の核にあるのは、語、文字、詩句、頁、書物をつらぬく<詩的意味形成の力>にかかわる思想です。

 文学の危機
 詩的言語についてのマラルメの省察は、『ディヴァガシオン』中、伝統的韻律の危機をテーマとしたテクスト「詩句の危機」に結晶化しています。「詩句vers」とは、「詩」のことばを成り立たせているもっとも基本的な単位ですが、「一人で詩句を体現していたユーゴー」の死(1885年)を待っていたかのように19世紀末の象徴派詩人たちの「自由詩句(vers libre)」とともに起こった伝統的韻律の解体現象は、「文学」の「鋭く、根本的な危機」を招来しているのだとマラルメは言います。
 19世紀の「文学」を成り立たせてきた詩的言語は、「詩句の危機」とともに、古典的な表象体系と重なりあっていた韻律共同体を離れ、多様な形をとるリズム系が個々の詩人の表現を生み出していく。そのような韻律の解放と多様化、個人化の現象として「詩句の危機」を、マラルメは肯定的に捉えています。「あらゆる民族の文学の歴史において、初めて、(・・・)、誰でもが個人的な奏法や聴取のために、深い知恵をもって吹奏し、弓に触れ、叩くことで、自分のために一楽器の作曲をすることができるようになった。楽器をひとり離れて使い、かつそれを大文字の<言語la Langue>に捧げることができるようになったのだ。」と、小楽器の演奏にたとえて、「自由詩」にあらわれた韻律の多様化を評価している。それに対して、アレクサンドランのような古典的な韻律は、文化的な正統性が鳴り渡るパイプオルガンの壮麗な演奏に喩えられています。そして、それらのいずれもが、大文字の<言語>に捧げられるものであるとして、大文字で書かれる<言語>(la Langue)が詩作を根拠づける最終的審級とされているのです。

 <言語>と「偶然の廃棄」
 ところが、小文字で書かれる個々の「言語(la langue)」(具体的には「国語」)の方は「不完全」なものであるとマラルメはいう。詩的言語の働きを「偶然の廃棄」というタームでマラルメが考え始めたのはすでに1860年代の「危機」の時代からでしたが、「詩句」の存在意義とは、「偶然」に刻印された人間の言語の「不完全性」に由来しているとされるのです[1]。フランス語単語における暗い音色である「jour(昼)」と明るい音色の「nuit(夜)」の例をとって、ソシュールの言語学でいう「シニフィアン」と「シニフィエ」との結びつきの「恣意性」が、「偶然」という用語で問題とされます。完全で純粋な<言語>であれば、語の知覚と意味とが完全に一致して純粋な<思考>と区別できないものであるはずが、両者がずれているために、不完全な「言語」としての「国語」が複数存在している[2]。ところが、詩とは、そのようなシニフィアンとシニフィエとの間の「偶然」を修正して補い完全な<言語>に近づける働きをするのであって、それこそが、「詩句」の役割である、詩句とは不完全な「言語」の「哲学的補完物」だというのです。「詩句」とは複数の単語から、「国語には無縁な新しくトータルな語」を作り直し、言葉を鍛え直し、いままでだれも聞いたことのない「意味」を生み出す活動であるとも書いています。
 
 <言語>と<観念(イデー)>
 詩が可能にするのは、そもそも<言語>に固有の<観念>や<純粋概念>をもたらすことであるともマラルメは言います。「私が、花!という。すると、私の声が輪郭を追いやる忘却の淵から、知っている花弁とはちがう何かとして、音楽的に立ちのぼるのだ、観念そのものにして甘美なる、いかなる花束にも不在な花が。」この「観念」とは、言語学でいる「指向対象(レフェラン)」にあたる具体的な対象とは明確に区別され、むしろそれを消し去り不在化することによって、ことばの音楽性を通して、純粋な<言語>の記憶の圏域からプラトンの「イデア」のように「想起」されるものだというのです。これがマラルメが到達した<言語>の本質的な<観念性>の理論です。

 「ことばの二態」
 マラルメは「ことばの二態」を区別します。一方は、「語ったり、教えたり、さらに描写することであったりもする」、ことばの交換的=伝達的使用の状態であり、「普遍的ルポルタージュ」に奉仕する言説(ルビ:ディスクール)の「初歩的な使用」であって、文学を除くなら現代の言説ジャンルのおよそすべてが、そうした性格を帯びているとマラルメはいいます。それに対して、自然に存在する事実をことばの響きのなかに消し去り、そこから「純粋観念」を浮かび上がらせるような、詩のことばの「本質的な状態」が対比されるのです。こうした対比は、その後20世紀の言語思想や文学理論が「言語の裸出」や、「美的機能」論、詩的言語の「intransitivite」などとして、概念化していく問題ですが、マラルメは、社会における言語生活を成り立たせている言語のコミュニケーション的使用と、詩的言語にあらわれる言語の本質の開示とを明確に区別して見せているのです。「詩」はこのとき社会における「言語表象」の活動を批判し言語の本質を開示する働きをもたされているのです。

 詩における「主体」
 詩を書く主体は、人称的な個人ではなく、「語たちに主導権」を譲ることによって詩人は発話を通して語の組織になかに消え去る存在であること、すなわち、言語記号群の下に消え去ることによって言語活動の「主体subjectum」として成立するのだという「詩の主体」論も「詩句の危機」には述べられています -- 「純粋な作品は、詩人の発話をとおした消失を前提とする。詩人は語たちに主導権を譲り、語たちはお互いの不揃いが打ち合う音によって活性化するのだ。語たちは、相互の反映によって、宝石をつらぬいて走る幻の火の筋のように点火され、かつての叙情の息吹きに見てとれる呼吸や、文の熱烈かつ個人的領導にとって代わるのだ。」こうした言語活動における「非人称的主体」の理論も、20世紀の言語・人間科学や思想に大幅に取り入れられることになります。言語的表象の<主体>が、個人や意識とは別の次元に設定されることになったのです。

   活字メディア批判
 「ディヴァガシオン」には、さらに、文字や頁、余白やタイトル、書物といった、活字メディアについての省察もあります。言語を意味内容の観点からではなく、意味のかたちとして扱うのが「詩」であるとすれば、言葉が具体的に可視化され可感覚化される媒体としての「文字」や「頁」、「冊子」や「本」もまた、「意味内容」と「偶然」に結ばれているわけではありません。「文字」や「活字」、頁や余白、タイトルや見出し、本の構成についての省察が、マラルメによる詩と文学についての中心を占めています。「トータルな語」が「詩句」であったとしたら、「本」とは「文字のトータルな拡張」であると言われています。また、文字の黒いインクは、白い頁の「偶然」を一語ずつ「廃棄」していくものであるとも述べられている。そこにあるのは、「活字」とはなにか、「書物」とはなにか、という、「文字」「活字」文明についての問いであり、「偶然を廃棄する」構成をもつ<書物>の追求でもあるのです。

4  表象批判
 以上が、言語およびメディアをめぐるマラルメの詩学の大まかな特徴なのですが、さらに注目すべきなのは、『ディヴァガシオン』がそのような「言語」および「文字メディア」の理解を「方法」として、同時代の「表象文化」現象全般を「批評=批判」の俎上にのせるエクリチュールの実践となっていることです。それを、マラルメによる「表象記号分析」の態度と名づけることができると思いますが、その基本的な方法を見ておきましょう。

 表象批判としての「批評詩」
 じっさい、『ディヴァガシオン』には、「リヒャルト・ワーグナー、一フランス詩人の夢想」のような音楽、舞台、神話、祝祭、群集の相関関係をテーマとした論考、「芝居鉛筆書き」という総題でまとめられた舞台芸術論、「聖務・典礼」の題でまとめられた祝祭論、そして「重大雑報」の名でまとめられた「パナマ旋獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面雑報記事」を詩の言葉で書き直した社会ニュース論が、鋭い批評意識によって分類されて収録されています。文字通り、社会的文化的な表象装置全般がマラルメ的な「批評詩」のエクリチュールの俎上にのせられているのです。

 「芝居鉛筆書き」:劇場という表象装置
 さて、そのときの「批評」の「方法」ですが、「芝居鉛筆書き(=劇場における鉛筆書き)」という表題にすでに示されているように、劇場や音楽会や宗教儀礼のような社会的文化的装置において働いている「表象作用」を、「詩のことば」で書き取り、「詩」=「批評」として定着させるという、独自の<詩学の分光器(プリズム)>が働いている。
 じっさい、「芝居鉛筆書き」の導入にあたる同題のテクスト「芝居鉛筆書き」では、詩神(ミューズ)であり、詩の純粋なシニフィエである大文字の<観念(イデー)>との対話という構成をとって、<詩>と<批評>との対比において、<演劇>およびその<上演=表象(ルプレザンタシオン)>を論ずるという配置をとっている。詩のエクリチュールと、芝居、バレ、音楽会などを重ね合わせることで、<詩>は、<表象>を<批判>するメタ批評的実践となるのです。

 「黙劇」
 例えば、パントマイムを論じた「黙劇(ミミック)」を見てみましょう。ポール・マグリットの『女房殺しのピエロ』を題材としたものですが、冒頭は、「沈黙とは、脚韻のあとに残された唯一の豪奢であり、オーケストラも、己が黄金の音、思考と夕べとのあえかな触れ合いによって、声無き頌歌にも等しく、その(=沈黙の)意味作用をひたすら詳細にするにすぎず、詩人こそがひとつの挑戦にうながされて、それ(=沈黙)を翻訳する役割を担う。音楽の跳ねた午後における沈黙をである。それ(=沈黙)をまた、私は、ピエロすなわち悲痛にして優雅なるマイム役者ポール・マグリットの常に未刊行の再登場を前にしても、見いだすのだ、満足の思いを以て。」というように、<><>とを、<音楽><>とを、<黙劇><余白>とを重層的なメタファーで重ね合わせることによって、<>の表象作用を<>に書き換えていくのです。<>において<言語>そのものを<舞台>にかけるというマラルメの<詩>が、じっさいの劇場において、<芝居>の表象活動を、<言語>や<文字>、<空白>や<記号>の活動としてとらえて読む<方法>を導き入れるのです。
 すでにかつて哲学者のジャック・デリダが論じたように、「舞台が照らし出すのは観念(ルビ:イデー)のみ、現実の行為ではない、しかもそれは、よこしまではあるが神聖なるひとつの婚姻(そこから<夢>が生じる)、欲望と成就の、犯罪遂行とその追憶の間の婚姻においてなのである。ここでは先取りし、あそこでは追想しつつ、未来形で、過去形で、現在時の偽りの外見の下に。かくのごとくにマイム役者は操作する。その演戯は絶えざる仄めかしに留まっていて、決して鏡を破ることはない。彼はかくして、虚構というものの純粋な場を設定するのだ。」と、「黙劇」のなかで引用されている記述は、マイム劇についての記述であると同時にマラルメ的な詩のエクリチュールについての記述でもある。
 あるいはまた、「バレエ」を評した散文では、「すなわち踊り子は踊る女ではない。それは次のような併置された理由による、すなわち、彼女は一人の女性ではなく、我々の抱く形態の基本的様相の一つ、剣とか盃とか花、等々を要約する隠喩(メタフォール)なのだということ、そして彼女は踊るのではなくて、縮約と飛翔の奇跡により、身体で書く文字によって、対話体の散文や描写的散文なら、表現するには、文に書いて、幾段落も必要であろうものを、暗示するのだ、ということである。書き手の道具からすべて解放された詩篇だ。」、バレリーナは「君に、常に残る最後の薄布をとおして、君の思考の基本的なものの裸形の姿を手渡してくれようし、君の内心の幻想(ルビ:ヴィジョン)を、一つの<記号>のやり方で書くだろう。彼女がそのような<記号>であるのだから。」と書かれている。「芝居鉛筆書き」は、演劇やバレエという表象芸術を、「文字」や「記号」のタームで読み解く、ロラン・バルトに代表されるような20世紀の現代記号学の方法を先取りして実践しているともいえるのです。

 「虚構(フィクション)」の原理
 「虚構というものの純粋な場」と黙劇を語っていますが、演劇や舞踏、音楽など同時代の表象文化の基底に見いだされる表象作用の原理を、マラルメは「虚構(フィクション)」という言葉で呼んでいます。演劇であろうと、バレエであろうと、音楽会であろうと、宗教儀式であろうと、あるいは「共和国」という「代議制政治」の制度であろうと、それらは、すべて「表象」を原理としているわけですが、それらの「表象装置」には、ある物で別のものを「代理=表象」するという、それ自体としては「意味をもたないが存在しているもの」で、「存在していないが意味されているもの」を表すという原理が働いているのです。それは、「何でもない物」、フランス語でいう「rien」で、「何か」観念上の「存在しない」もの(それが「idée」です)を表すという、「何かの代わりにある何か alquid stat pro aliquo」という「記号」の原理そのものでもあります。そして、「記号」は、それ自体では何ものでもないのですが、その「何ものでもないもの(rien)」であることによって、「想像」や「幻想」を生み出すことができる。この原理をマラルメは「虚構」と呼ぶのです。
 マラルメは、「言語」の根本的な原理が「虚構」にあることを、すでに初期の「危機」の時代にすでに発見していたのですが、「言語」において発見した「虚構」のロジックをさらに表象作用一般にまで拡大して展開するのが後期の『ディヴァガシオン』において繰り広げられた「表象批判」なのです。

 「キマイラ」あるいは集団的想像力
 演劇やバレエや音楽会や祭式(セレモニー)はそのような「虚構」の表象文化の制度です。そして、人びとは、「想像」するために、すなわち「いま・ここ」には存在していないものを想い描くために、都市において、劇場、コンサートホール、祭式の場に引き寄せられて集まってくる。「近代人は想像することを厭う」とマラルメはワーグナー論のなかで書いていますが、「想像する」とは、人間が有限な「いま・ここの世界」から離れて、自分の「何でもなさ」をバネに、いま現在は存在していないコトやモノを夢見る活動であると考えることができる。つまり、ひとびとは、自分の世界の「何でもなさ=虚無」に向かい合うことによって、逆に自分たちの境遇を超える「夢」を抱く契機を見いだすのです。そして、民衆による「想像」が生み出すべき来るべき集団表象を、マラルメは、「存在し得ない怪物」である「キマイラ」という神話的形象の名で呼んで、そのありうべき姿を社会の表象装置の行方に読み取ろうとしています。それが、かれの「未来の祝祭」論です。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれていますが、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じています。自然が闇に沈む<夜>になって、無のなかに想像力の<虚構>の光が浮かび上がる。そして、群衆の抱え込んだそれぞれの<虚無>を動機づけるべく、劇場という想像力の<シメール(幻想)>の装置は口をあけるというのです。

「共和国」という表象制度
 そしてそもそも、「共和国」という表象の制度自体がひとつの共同幻想であると考えられます。「共和国」の語源にあたる「res publica」の「res もの」とは、「rien」の語源に当たる「物」という語であって、「共和国」とは、神権的権威の裏打ちを失って世俗化した「何でもないもの rien」=「無」が社会全体に一般化した無神論の時代であるのです。
  じっさい、マラルメは、共和国が、様々な想像の装置を発達させていること、様々な集団的表象の「キマイラ」の口を拡げていることに注目します。アンダーソン流の「想像の共同体」との関係でいうならば、共和国とは、群衆の<虚無>が露呈した状態なのであり、その<虚無>に向き合い、そこから出発して<夢>を生み出す<文学>を手がかりにして、<国家>という<虚構>はつくりなおされるべきものだというのです。「社会的関係というものは、虚構であり、したがって、<文芸>に属すべきものだ」(「擁護」)というような主張にそれは要約されているといえます。
 あるいはまた、じっさいの共和国のナショナリズムと相似した<ナショナリズム>をマラルメ自身も描いているかに見えるところもあります。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれるのですし、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じています。そして、「この外国人に対する感情は複雑である」と述べているように、「厳密な意味で想像力があり抽象的な、従って詩的であるフランス精神」の名において、「己が民族の誕生を飾る壮麗な光景に立ち会う」ような<神話>にもとづくゲルマンの楽劇に異を唱えているのです。ここには、ドイツ的な「民族国家」対フランス第三共和国的な「国民国家」という対立の図式に相似的な対立の構図が見えるのですし、それがしかも、<音楽>と<詩>との関係として捉え直されています。
 「カトリシスム」というキリスト教の典礼に関する中心的なテクストは、「われらの民族」であるフランス国民に、カトリシスムの典礼儀式の形式をもとにして、「共和国」の儀礼をつくりなおすことをめざすしているように読めます。「大雑把にいえば問題は、<神性>という、<自己>に他ならぬもの、(...)そのような<神性>を、地面すれすれのところで、出発点として、人間社会の慎ましやかな基盤、各人のうちにある信仰として、取り返すことである」とされ、「我らのコミュニオン、すなわち個から全体へ、全体から個への参与」は、聖体拝領の「野蛮な食事」やキリストという「姿を消した俳優」を取り去ったミサの形式として、「<祖国>とか<名誉>、<平和>という勝ち誇る光となった言葉の正統性の刻印を受けたものとして」とり行われるべきことを夢想しています(マラルメ自身は、「私は、夢を見ているとは、全然思わない」と続けて書いていますが)。
 しかし、むしろ問題は、「<民衆>を魅惑し、教化する」詩の<朗読会>を構想し、フランス大革命の一世紀を記念して「<歴史>の一サイクルを閉ざすべく、<詩人>の大臣(祭式執行者)としての働きを要求」するこの<文学の共和国>のユートピアが、<文学>と<国民>との関係について、何を述べようとしているのか、ということなのだ。つまり、より徹底した「想像の共同体」の在り方を、「未来の祝祭」として述べようとしているようなのだが、そして、そこでは、<宗教>も、<国家>も、さらには、「金」を記号とする<経済>もが、<文学>による、裏打ち(マラルメの言葉でいえば「証明」)を受けようとしているのです。第三共和国という<国民国家>と<文学>との結びつきのもっとも深い根拠とは、「なにか或ものが存在するということに関係がある」インクの「暗黒の滴」に最終的にはもとづいた、「虚構」、つまり、<擬制>の無根拠性ということなのだ。<無>のレース編みの襞としての<文字>によって結びついた共同体、成員のそれぞれが抱え込んだ<虚無>の襞を編成し、しかも、その襞に向き合うべく、劇場、コンサートホール、祭式の場の暗闇に想像のための穴(「シメールの開口」)を穿ち、それ自身が<自然>から離れて<無>を折り畳んだ<政治体(ポリス)>としての「都市」。「空位」という「時代のトンネル」を、言語の無の襞によって覆い包もうとする、詩のポリティクスとして、<文学の共和国>は対置されているのです。

5  マラルメの<書物>
 さて、以上に概観した、マラルメにおける<詩>に依拠した<表象批判>のあり方ですが、<言語・メディア批判>と<表象批判>との双方のテーマ系をまとめ上げる位置を占めているのが、マラルメにおける<書物>の問題系です。
 「危機」の時代にマラルメに懐胎した「作品」の夢ですが、「この世界において、すべては、一冊の書物に到達するために存在する」という命題に言い表された、大文字の<書物>の企てが、マラルメの言語論・メディア論の延長上にも、また、社会的および文化的な表象論の延長上にも、夢見られていたのです。
 タイポグラフィを詩の意味形成に組み込み、「偶然の廃棄」というマラルメ詩学の中心命題を、活字、段組、余白、頁の運動によって動機づけ、「骰子の一振りは偶然を廃棄しはしないだろう」という一文をフォリオ版12頁に繰り広げた実験詩作品「骰子の一振り」(図 )が示すように、マラルメにとって、「書物」とは、言語の意味形成および、活字から頁そして書物全体にいたる構築において、「偶然が廃棄」され、すべてが動機づけられたような構築体のことです。すべての印刷物は、無意識的にせよ、そのような動機づけを求める傾向を示すものであって、当時急速に発達しつつあった電信技術に媒介された「新聞」でさえも、そのような傾向と無縁ではないとマラルメは考えていました。
 「本質的な状態」としての詩のことばと、ジャーナリズムの「普遍的ルポルタージュ」のことばとの対比が「言語」に関して行われていたように、構築体としての構造をもった「書物」と、「鋳流し」としての「新聞」とが対比的に論じられます。『ディヴァガシオン』のなかで「重大雑報」と名打った批評詩連作は、「パナマ旋獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面雑報記事」を詩の言葉で書き直したものです。そして、大文字で書かれる<書物>をめぐる考察は、必ず<新聞>をめぐる問題から出発して説き起こされています。<書物>論を頂点とするマラルメの詩学は、「メディア批判」を主要な次元に持ちつつ成立しているのです。じっさい、大文字で書かれる<書物>をめぐる考察は、必ず<新聞>をめぐる問題から出発して説き起こされています。
   書物こそは最高のものだ、新聞は出発点にとどまる。 
                        (「書物、精神の楽器」)
 マラルメは、「文芸というような何かは存在するのか」と問います。それに対する答えは、「文学は存在する、お望みならすべての例外として」というものです。その意味は、世界の事象や出来事は、言葉というシンボルによって固定されて初めて十全な意味を実現するものであり、しかし、言葉とその対象との関係が「偶然的な状態」にとどまる限りでは、対象は十全な存在の意味をまだ実現できていない。「詩のことば」に見られる、言葉の「動機づけ」によって、事物が十全に「証明」されたときにはじめて、この世界でおこった出来事は、その「存在」を「証明」されることになるという考え方です。そのように偶然を廃棄してこの世界で起こっている事象を「モチヴェート」することが「文学」であって、それがこの「世界」の「存在」の根拠であるというのです。マラルメは、「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」という有名な定式を打ち出します。「詩」とは、人間の意味活動を「動機づける」ものであり、そのような「言葉」の「文字」の場所が、緻密に考えられた場としての「頁」であり、「書物」である。完全にモチヴェートされた言語と文字、余白や頁、完全なる書物とは、他のあらゆる書物の試みを集約して見せるような、文字の「結晶体」であるのです。
 じっさい、マラルメは、<書物>についての、その「朗読の会」の計画のノートを残しています。それらのノートは、読解が難しい未定稿ですが、マラルメが同時代の演劇や音楽会、祭式やミサなどをめぐる「表象装置」批判から描き出した「未来の祝祭」についての計画とでも呼ぶことができるプロジェクトを書き留めたものです。絶対の<書物>は、どのような、表象装置がつくりだす配置において読まれるべきなのか、そのときどのような「虚構」と「想像」における民衆のコミュニオンの祭式が成立し、どのように四季の宇宙的リズムと連動するようになるのか、未来の「表象装置」の特徴を描きだそうとしたノート群なのです。来るべき<書物>をめぐる未来の人間たちの「文化的」および「政治的」かつ場合によっては「宗教的」ともいえる「共同体」の姿がそこには想い描かれているのです。

 まとめ

グーテンベルク銀河系の極北としての<マラルメの書物>
 さて、これまで概観してきたマラルメの詩と詩学ですが、その表象文化にとっての意義を確認しておきましょう。
 表象作用を成立させる要素を「記号」と考えることができると、冒頭で私は述べました。マラルメに関していえば、その記号とは、具体的には、まず「言語」や「文字」ということになります。19世紀のロマン派的な文学観が後退し、「文学」を支えていた超越的価値が揺らいでいく時代  ニーチェ的にいえば「神の死」の時代  にあって、マラルメは、「文学」を、それ以前の「神学的」前提から切り離し、「言語」や「文字」の問題として位置づけるということを行った。ときあたかもそれは「共和国」の時代でもありました。「偶然の廃棄」を中心命題として、「言語」や「文字」・「頁」・「書物」の意味形成の力(=象徴効果)を「文学」の核心に据えることによって、マラルメはこの一大転換を行ったのです。
 他方、マラルメの詩は、「言語」や「文字」の視点から、人間社会をかたちづくっている「表象現象」一般を理解するという、「ことばと文字の知」にもとづく「表象批判」の側面を持っていたことも私たちは見ました。マラルメにおいて「詩」とは、宇宙論にまで拡がる「ことばと文字の知」そのものです。神権的な世界が後退し、マックス・ウェーバーの言葉で言えば「世界の脱魔術化」が進み、「共和国」や「国民国家」という無神論的な原理が一般化する世界において、人間たちの集団表象を作り出す社会的・文化的表象装置とは何か、という問いが、マラルメの「批評詩」を貫いていることを私たちは見ました。それが「表象批判」としての「詩」の位置です。「文学」こそが、「言語」や「文字」に依拠することによって、社会や文化の表象装置一般の、そして、究極的には、来るべき「政治」や「宗教」の基礎付けともなりうる原理である、とも考えられていました。
 そして、「言語」や「文字」が生み出すべき究極的な構築体が「絶対の書物」であり、その「書物」を「読む」という「祝祭」と「祭式」を通して宇宙と人間との交感を再組織する来るべき共同体が夢みられる。
 このように要約してみると、マラルメの「文学」の位置がはっきりと見えてきます。20世紀のメディア論の創始者であるマクルーハンは、活字技術がつくりだした文化圏を「グーテンベルク銀河系」と呼びました。マラルメの「文学」は、グーテンベルクが可能にした「活字」技術に依拠しつつ、「偶然を廃棄する」ことによって、「完璧な書物」を作り出すことによって、あらゆる書物をまとめ上げる位置にくる「窮極の書物」をめざす企てです。そして、その書物は、人類のあらゆる「表象」をまとめ上げる位置をも占めることになる。「マラルメの書物」とは、そのようなグーテンベルク銀河系の極北の星座をめざす構想であったのです。

II  ソシュール革命と<記号の知>

 さて、次に、マラルメが19世紀末に立てた「文学の問い」が、20世紀に入ると、どのような「知」を呼び寄せたかという問題を次に考えてみようと思います。
 マラルメの「文学の問い」とは、活版印刷術の発明以来、3世紀に渡って拡大した「グーテンベルク銀河系」において「書くこと」「思考すること」とは何かという問いであったといえるでしょう。「活字」の知に依拠することによって、「表象」一般を批判する視座が可能になっていたのです。
 その活字文化圏には、すでに「電信技術」によって、「ジャーナリズム」という「普遍的ルポルタージュ」の言語活動が侵入してきていると述べられていたことも見たとおりです。マラルメの「ことばの二態」論に述べられていたように、「言語」が、本ではないメディア技術の発達によって、別の「記号」の体制(ルビ:レジーム)との関係に入るということが起こってきたのです。「最新速報」というかたちで、「ニュース」が配信され、「書物」と対比的な「新聞」の「紙面」を形成するということが起こっている。マラルメにおいては、ことばや文字の知は文化的な記憶の源に根ざした太古(immemorial)の実践に根ざしたものであって、「書物」を「本質的な」場にもつべきものとされていた。ところが、「なまで直接的な」ことばの状態である「ユニヴァーサルなルポルタージュ」によって、ジャーナリズムのことばが同時的な遠隔を可能にしていく時代がすでに始まっていたのです。
 「言語」や「文字」についての認識も、また「表象批判」の方法も、そこから大きな転換を迎えることになります。
 マクルーハンは、メディア論の理論家として世界的に知られるようになる以前に、ニュークリティシズムの注目すべき文学理論家でもありました。そのマクルーハンは、ジョイスやマラルメの文学を19世紀末における電信メディア技術の発達との関係で理解する必要を説いていました。


1「メディア革命」と「記号の知」

 じっさい、19世紀末から20世紀にかけて、マクルーハンが「グーテンベルク銀河系」から「電気メディア星雲」への移行という表現で描き出そうとした文明の大変化が起こり、人間の表象活動が成立するメディア技術の基盤が大きく転換します。
 マラルメは、「言語」や「文字」に依拠することによって、「表象文化」一般を「批判」する視座を築きましたが、もはや人間が書き留める「文字」や「活字」ではない「書き取り技術」(この点については後述します)によって、人間の「知覚」や「意識」や「言語」の活動を書き取り、「再現=表象」することを可能にする「メディア・テクノロジー」が19世紀後半には発明され、20世紀への移行とほぼ同時に、「メディア革命」を迎えます。「映画」や「蓄音機」や「電話」や「ラジオ」など、19世紀後半に生み出されたアナログ・メディア技術を基盤として、新たな「表象文化」が生み出されていくようになったのです。それと同時に、人間の「表象」活動をとらえる<知>も大きく変容します。マラルメの方法が、「活字」のラディカルな追求による「詩」の知にもとづく「表象批判」であったとすれば、「アナログ・メディア」を基礎とした「表象批判」の「知」を20世紀の表象文化の発達はもたらすことになったのです。それが、ソシュールに始まる現代言語学の誕生および「記号学」の提唱から、その「言語」と「記号」の発見を基礎にした「構造主義」へといたる、「文化」理解の方法の革新の動きです。それらは、「ことばと文字の知」を基本としたマラルメによる「表象批判」の方法といわば同心円を描きつつ、しかし、もはや「グーテンベルク銀河系」には属してはいない「記号の知」の運動の軌跡を描いていくことになります。その「知」のダイナミズムを、ソシュールの「記号学」に注目しつつ検討してみましょう。

2  ソシュールと現代言語学の誕生

 フェルディナン・ド・ソシュール(Louis Ferdinand de Saussure 1857-1913)は19世紀末から20世紀初頭にスイスのジュネーヴ大学で「一般言語学」を講じた言語学者で、彼の没後弟子たちによる講義録から出版された『一般言語学講義』によって知られ、現代言語学の創始者とされています。「表象文化」研究にとってなぜソシュールが重要かといえば、「現代言語学」の父である、彼が『一般言語学講義』において示した「記号学」の構想によって、「表象文化」理解のための20世紀の「知」の源流となったからです。人間の社会・文化活動を「表象」として理解する知の方法は、本講義をとおして随所で述べられてきたように、構造主義やポスト構造主義と呼ばれた20世紀の運動と切り離せないのですが、それらの知の源泉には、「表象」は「記号」から成り立つものであって、人間の「文化」は「記号の一般学」で扱いうるというソシュールの「記号学」の提唱があったのです。

  

 3    新しい<テクノロジーの文字>

 19世紀の後半には、トーマス・エジソンの発明(1877年)した「フォノグラフ(phonographe)」(蓄音機)という、音を記録し再生する装置が出現しました。さらに同じ頃ベルにより「電話telephone」が発明され(1876年)、音響・音声を伝達する技術が登場しました。注目すべきことは、これら20世紀以降人間の生活を大きく変化させたメディア・テクノロジーが、「音声」や「音響」を書き取り再生する、新しい「テクノロジーの文字 (graphie)」の発明であったことです。じっさい、19世紀前半の「フォトグラフィ photographie」の発明に始まり、この時期に発明された「テレグラフ telegraphe」にせよ、「シネマトグラフ cinematographe」にせよ、それらはいずれも知覚の対象を「機械によって技術的に書き取る文字」の発明であるのです。20世紀の人類のメディア生活を決定することになった「アナログ・メディア技術」とは、いってみれば、この「テクノロジーの新しい文字」の発明であったのです。

   アナログ・メディア技術と<記号の知>
「ことば」をほぼ発話と同時に「意識」の近くから書き取る装置、しかも、それを「再現」することを許す技術が「フォノグラフ」です。「ことば」は「文字」に書き取られる以前に、機械の痕跡技術によって書き取られるようになる。すると、「ことば」を研究し理論化する場の大きな転換が起こったのです。
 ソシュールの言語学は、文字と書物に基づくような19世紀に行われていた言語の歴史的研究から、1877年にトーマス・エジソン(Thomas Edison 18471931)によって発明された「フォノグラフ(蓄音機)」のような音声解析装置の技術を使った研究へと言語の研究法が転換し、「音韻論」のような言語研究の基礎的な分野が刷新されるにともなって、まったく新しい言語観を提示したという側面が強いのです。
  1は、「フォノグラフ」を使って音声学者のルースロ師(Abbé Rousselot が音声の波形の研究を行っている姿ですが、20世紀初頭の言語学はこのように音声記録技術の革新によって可能になったのです。この時期以後、音韻を研究する言語学は、人間言語の発音体系を、アルファベットではなく、機械の書き取った痕跡を「翻訳」する「発音記号」で記すようになったのです。そこから得られたのが、「言語」を「差異のシステム」としてとらえるような、ソシュールの「言語記号」論であったのです。音声解析装置によって「音素」が発見され、音素を基礎的なシステムとして、言語を「差異」からなる形式的特徴に分解して、「記号」として理解する理論的研究が進められていきます。「記号」は人間の「意識」の活動を「分節化」しているものですが、「記号」自体を人間の「意識」にもとづいた「文字」で書き記すことはできない。「記号」を書き記すためには「フォノグラフ」のような「テクノロジー(技術論理)」が必要であるのです。「音素」やさらにそれを構成する「弁別特徴」のような「言語記号」を生み出す「差異」はしかし「意味」を生み出す「記号」の原理ではあっても、「意識」に上ることはありません。「記号」とはしたがって、「意識」の下で働いている「無意識」の存在を示すものでもあるのです。そして、その「無意識」を書き記すために「アナログ・メディア」テクノロジーが使われるというわけなのです。

   ことばの回路
 同じ原理は、20世紀以降の人間の表象生活を規定している「コミュニケーション」のモデル化に関しても言えます。
ソシュールが現代言語学を確立したときに提唱した言語モデルというものがあります。「ことば(ルビ:パロール)の回路」と呼ばれていますが、これは20世紀に現れた最初のコミュニケーション・モデルと考えられる図式です。AさんとBさんが対面していて二人の間で電話を掛け合っている。Aさんが言葉を発すると空気の波を通してBさんへと伝わり、Bさんは頭の中でAさんから送られてきた音声記号を観念の形式と組み合わせて、そして記号の意味を読み取ると、そしてBさんはAさんに向かって同じプロセスを別の方向に送り返す。このようにお互いに電話を掛け合っている関係をモデルとして、ことばをやり取りする回路として、人間の言語活動を説明しようとした図式が「ことば(ルビ:パロール)の回路」(図 3)です。
  ソシュールは、言語記号を「シニフィアン(Sa 記号表現)」と「シニフィエ(Se 記号内容)」の結びつきとして考えたのですが(この点については後で述べます)、最もシンプルな言語活動は、ABという二人の個人の「話し手/聞き手」の間に成立する、言語記号のやりとりであると考えています。言語記号のシニフィアンとシニフィエの連合は、「話し手/聞き手」の脳のなかにある心的な結びつきで、話し手Aは、この心的な結びつきのプロセスにおいて「シニフィエ(概念)」と「シニフィアン(聴覚映像)」とを頭のなかで結びつけ、彼の「発声」の生理的--物理的過程を通して聞き手Bのほうへ記号を送ります。聞き手Bは、「聴取」によって受け取った記号の「シニフィアン(聴覚映像)」を、脳のなかで「シニフィエ(概念)」に結びつけることによって理解する、というわけです。図式のなかで、円に囲まれた「SaSe」の部分がメンタルなプロセス、「回路」としてABをむすんでいる矢印線の部分が生理的--物理的なプロセスにあたります。それに対して、回路をとおして音声化して送られるのが言語記号が現働化したものとしての「ことば(パロール)」です。
  これが「ことばの回路」の図式です。ことばのやりとりを、電話を掛け合っている関係、「電話モデル」を手がかりに概念化しているわけです。そして、ソシュールが人間の言語活動をこのようなモデルで考えようとしたことについては、あのエジソンが発明したフォノグラフによる音声の書き取り装置を使って研究し、電話モデルによってその回路をモデル化するという、19世紀後半に発明されたメディア・テクノロジーにもとづいて言語を研究しようという姿勢を見て取ることができる、「テクノロジーの文字」が
 ソシュール以前の19世紀の歴史言語学を考えてみますと、言語をもっぱら文字に書き取り、あるいは古文書に書き取られていたことばの記録を文献調査することによって研究するという方法によるものでした。文字を手段として言語を研究し、ことばがどのように変化していったのかを歴史的に研究しようというというのが歴史言語学です。ソシュ―ルの整理によると、そうした言語学の研究のあり方は、言語の通時態(diachronie)の研究である「通時態言語学(la linguistique diachronique)」と呼ばれます。
そのような通時的な観点にもっぱら基づく言語学のあり方から、電話モデルに基づく、その場でAさんとBさんがお互いに同じ時点で言葉をキャッチボールする、やり取りするということを基本にして、同じ時点で何が起こっているのか、頭の中でどのようなことが起こっているのかということをモデル化して理解することから言語の研究を始めようと考える立場への転換がソシュールによって引き起こされた。後者は言語を話者たちが話している状態において、コミュニケーションの同時性において研究する、言語の「共時態(synchronie)」の研究であり、ソシュールによって「共時態言語学(la linguistique synchronique)」と呼ばれることになります。言語を同時性において研究する共時態言語学こそが言語学の原理的な出発点であり、言語の通時態の研究はその延長上で考えられるという、共時態モデルの言語学研究への転換を「ことばの回路」は図式化して表しているのです。

  脳のモデル
  こうした変化が可能になったのは、19世紀後半に発明されたテクノロジー、ここでは電話や音声解析装置のテクノロジーが可能にしたことでした。さらに、『一般言語学講義』を読みますと、当時新しく知られるようになった科学的知見として、脳の研究ということがあります。言葉を研究することは脳を研究することである、という考えが、当時、言語中枢というものが発見されることによって飛躍的に高まってきた、脳についての関心が高まった時代でした。ブローカ野とかウェルニッケ野といわれる言語中枢が言語の活動に関与していることがはっきりしてきた時代だったのです。
  ソシュールが「ことばの回路」を説明した箇所を読むと、言語活動の研究をするとは、AさんBさんの脳の中でどういうメカニズムが働いているのかということを研究することである、ということが述べられています。ことばの回路をとおして送られた「聴覚映像(シニフィアン)」は、「脳」のなかに「記入され」、「脳」のなかで、「概念(シニフィエ)」と連合する。アナログ・メディア技術によって、人間が意味をやりとりする「心的活動」を、人間の「心的装置」により近いところから記録し、研究することができる。従来的な「文字と書物」によらない、「テクノロジーの文字(=信号)」とそれが「書き込まれている場所」としての「脳」による「意味」の研究がここに始まったのです。
 

3  「記号学」の提唱

  ソシュールは言語学とは「言語記号のシステム」としての「言語(ラング)」を研究する学であるとしました。この場合、「言語記号」とは、以上に見たように、フォノグラフのような「テクノロジーの文字」によって発明された概念なのです。ソシュールにおける「言語記号」はアナログ・メディアによって媒介されて書き取り、再生することができる、「言語(ラング)」による意味作用の「単位」なのです。
 言語学の研究対象が「言語記号のシステム」であると彼が述べたことの背景には、言語のように意味を生み出したり伝達したりする「記号」は、必ずしもつねに「言語記号」であるとは限らないという考えがあります。しかも、フォノグラフという「テクノロジーの文字」が「言語記号」の概念の発明に寄与したように、例えば、ソシュールの「一般言語学講義」とまったく同時代に発明された、シネマトグラフは、運動の視覚表象を、記録し再現する「テクノロジーの文字」であって、それが、「映画」という人類が持たなかった「表象文化」を生み出すと同時に、イメージの運動を「書き記し」「分析」する手がかりをも与えます。そこから「映像記号」や「視覚記号」といった概念を導きだしうると発想するにいたるまでにはあと一歩です。
 言語は人間の意味活動、すなわち人間が意味を作り出し、人間が意味を伝え、人間が様々な物事の意味を理解するために重要で中心的な活動であるわけですが、ソシュールの考え方では、人間はそれのみによって活動を行っているわけではない。人間において意味の活動を担う要素には言語記号以外の記号もあるという考え方がそこにはあるのです。そこで、ソシュールは、言語だけではなくて、言語以外の意味活動をも研究対象とする意味の一般学が必要であると考えました。人間の言語を研究するのが言語学であるとして、それはもっと広い人間の意味活動一般を研究する学問の一部と考えられるのではないかというわけです。
 そこで、ソシュールが提唱したのが、「記号学(la sémiologie)」という一般学でした。言語学は19世紀にも存在していましたが、「記号学」は、20世紀的な意味においてはソシュールが初めて提唱したものです。
 ソシュールが『一般言語学講義』のなかで「記号学」を提唱した箇所を読み返してみましょう。
「言語は観念を表現する記号のシステムであり、その点で、文字法とか、手話法とか、象徴儀式だとか、作法だとか、軍用信号だとかと、比較されうるものである。ただそれはこれらのシステムのうちもっとも重要なものなのである。そこで、社会のなかにおける記号の生活を研究するようなひとつの学を考えてみることができる;それは社会的な心理学のしたがって一般的な心理学の一部門をなすであろう;われわれはこれを記号学(Sémiologie。ギリシャ語のsemêion「記号」から)とよぼうとおもう。それは記号がなにから成り立ち、どんな法則がそれらを支配するかを教えるであろう。それはまだ存在しないのであるから、どんなものになるかはわからない;しかしそれは存在すべき権利を有し、その位置はあらかじめ決定されている。言語学はこの一般学の一部門にほかならず、記号学が発見する法則は言語学にも適用されるにちがいなく、後者はかくして人間的事象の総体のうちで、はっきりと定義された領域に結びつけられることになる。(Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique générale, édition critique par T. de Mauro, Payot, 1972 p. 33 ; 邦訳ソシュール『一般言語学講義』、小林英夫訳、岩波書店、1984 年刊、29 頁に対応 但し 石田英敬訳)

ここには重要なことがいくつか述べられています。まず、「記号学」の提唱ですが、記号学という学問はこれから打ち立てられるべき学問として予告されています。「それはまだ存在していない」が、しかし、20世紀の知にとっては「それ(記号学)は存在すべき権利を持つのであって」、これから起こる知の配置において「あらかじめ定められている」場所を持つものであるとう強い主張が述べられています。じっさい、20世紀はメディア・テクノロジーの世紀であって、映画、レコード、ラジオ、テレビなど、さまざまな「テクノロジーの文字」が生み出され、「マルチメディア」な生活を人びとが営むようになる。「言語記号」だけでなく、「視覚イメージ記号」にせよ、「身体記号」にせよ、「音声・音響記号」、さまざまな「記号」が、ひとびとの社会生活における「表象」生活を作り出すようになるのです。そのときに、それらを全般的に扱うことができる「一般学」が求められることになる、それがソシュールが提唱した「記号学」の発想のもとに在る考えであると理解すればよいのです。

「記号」の概念: 表象を扱うフレームワークとしての
  ソシュールのいう「言語記号」とは、言語が意味を生み出す要素、言語による意味活動の構成素のことです。意味を生み出す活動は言語によるとは限りませんので、意味の活動全体のことを考えて、それを構成する一般要素を「記号」という概念でソシュールは指しているのです。
   「記号(英sign, signe)」、「意味作用(英、仏 signification)」という二つの語は、ともに「意味する(英signify, signifier)」にかかわる同じ系列の言葉です。意味することが「意味作用」であり、意味を生み出す要素が「記号」です。
ソシュールは、記号は二つの側面から成り立っていると考えました。それが「シニフィアン(仏significant, 英 signifier)と「シニフィエ(仏 signifié, signified)」、記号の表現面と内容面という区別です。
   言語記号、たとえば「ウマ」という言語記号があるとすると、[uma]という音の組み合わせの方が「シニフィアン」(記号表現)、それに対して「ウマ」という言葉を聞いたとき[馬]という概念を頭の中に思い浮かべます。その概念の図式のことを「シニフィエ」(記号内容)といいます。ソシュールは、記号とはこのようにシニフィアンとシニフィエによって成り立つと定義しています。意味するものとしてのシニフィアンは、聞き取られる音声や、目に見える文字のように物質を捉える捉え方、つまり物質面における形式として、記号の感性面,知覚面にかかわる部分です。それに対してシニフィエは、音に聞こえたり目に見えたりはしないけれども脳の中でそれが思い浮かぶ、観念面、精神面で成立する形式、意味されるものの側、知的に理解される部分、概念的な了解面であって、この二つの部分が表裏の関係になって記号というものは成り立っている。つまり精神と物質の狭間の中間領域に、人間の表象活動を成立させている「記号」の活動領域が存在していると、ソシュールが考えていたことがわかります。
 「記号」の概念は、「言語記号」にかぎらず、人間の「文化」を形づくるあらゆる「表象」を扱うフレームワークとして作動させることができます。じっさい、20世紀には、アナログ・メディアの発達によって、人間の表象活動のほとんど全領域が、記録・再生可能な「表象」の範囲に組み込まれるということが起こりました。あらゆる表象活動が、「テクノロジーの文字」によって書き記され、「表象」を成り立たせている「記号」が分析される可能性が生まれたのです。

  記号のシステム

  記号はそのように精神と物質の間に広がって人間の意味活動を成立させている領域なのですが、そこにおいて記号は孤立した一つ一つの記号の集積として成立しているわけではないと、ソシュールは考えます。記号は孤立して存在しているわけではない、記号は「システム」として存在している。あるいは他の記号と区別しあうことによって記号は成立しているのだから、記号とは「差異のシステム」をかたちづくることによって、記号相互の違いのシステム、相互区別のシステムにおいて成立するものであるとソシュールは結論します。しかし、「差異」とは、「意識」を成り立たせている「無意識」です。このように記号の要素というものは、他の要素との差異によって相互規定の関係を作っている形式的なシステムであるというわけです。

  パラディグム(範列)/サンタグム(連辞)[i1]
  ソシュールには、記号を使って人間が具体的に意味を実現するときに、それがどのような働きにもとづくのかを説明した、「パラディグム(範列)」と「サンタグム(連辞)」という記号実現の二つの作用軸の理論があります。
「範列(パラディグム)」とは、ひとつの言述(パロール)が実現するときに、記号の現働化を規定している記号間の「連合関係」(つまり、ある差異を共通項として活性化する記号の反復の系列)、「連辞(サンタグム)」とは、ひとつの記号の実現につづく記号の反復の系列を指定している「結合関係」です。

   これ自体も、「電話」モデルに見られるような、「記号」の「選択」と「結合」のモデル化のためのフレームワークですが、このフレームワークを使えば、人間の表象活動のほとんどすべてを、「選択」と「結合」として記述する可能性が見えてきます。
そこから、「言語」という用語は、「言語記号」だけの記述に使われるのではなくて、「映像言語」や「身体言語」、「建築言語」や「空間言語」というように、「表象」を記述する概念フレームワークとなっていったのです。そして、そこから生み出されたのが、「構造主義」の知の運動だったのです。


  まとめ 

 さて、「詩と記号:マラルメからソシュールへ」と題した、この課での学習事項をまとめておきましょう。
 まずここでは、「文学」の問題を、いわゆる文学研究のようなかたちではなく、「表象文化」の問題として問うという問題意識を導入しました。
その際に手がかりのひとつとしたのは、マクルーハンの表現を借りて、「グーテンベルクの銀河系」と呼んだ活字文明から、20世紀の「メディア革命」への移行というメディア論的な視座です。「表象文化」は、メディア技術を基盤として成立しているという前提がそこにはありました。
次に、マラルメにおける「詩」とソシュールにおける「記号」という、まったく異なったジャンルの問題系を、比較して理解するという、インターディシプリナリーな視点が導入されたことにも注意しましょう。
マラルメにおいては、「詩」が「ことば」と「文字」の「知」の精髄として、同時代のあらゆる表象現象を「批判」し、「活字文明」の意義を確認する「認識のかたち」となっていたことを私たちは見ました。「詩」は、グーテンベルク銀河系における「表象」批判の中枢的拠点となっていたのです。
他方、ソシュールにおいては、「記号」が、メディア化する世界のあらゆる「表象」をとらえる「知」の鍵概念として浮上してきました。そこでは、「知」の担い手は、活字文明に精通した「人文学者」や、ことばや文字の奥義に通じた「詩人」ではなく、「テクノロジーの文字」を操る「科学者」です。
しかし、それでは、マラルメにおけるような「表象」の奥義や、誰にも真似のできない「表象」の単独な実践にかかわる「詩の知」は、必要なくなったのでしょうか。いえ、そんなことはありません。「テクノロジーの文字」を操るなかで、新しい「文化」が次々と生み出され、それが20世紀以降の「表象文化」を生み出してきたからです。新たな感性的経験が組織され、美学的経験の固有の「知」が求められるようになるからです。
 「言語学」は、必然的に「詩学」を求めますし、コミュニケーションの発達はむしろ「精神分析」による固有の意味の解読を求めることになります。「テクノロジー(技術論理)」と、人間の固有な意味実践との出会いが、あらたな表象批判の「知」を求めることになったのです。それが、表象の分析論と、言語学・記号学・精神分析 など、20世紀とともに登場した「知」とを結びつけている「深いエピステーメ」への帰属なのです。




[1] マラルメの言語思想が「クラチュロス主義」と共鳴し合う部分です。
[2] 詩はその意味で、言語が諸語に分裂する「バベル」以前にさかのぼる企てと言えます。



 [i1]「言語」のメタファー
「映像言語」、「記号言語」

 [i2]「芸術」と「批判」
マラルメの「文字」g「言語」批判と
「表象芸術」による「表象批判」

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