2020年8月12日水曜日

ベルナール・スティグレール 『技術と時間 1エピメテウスの過失』(石田英敬 監修 西兼志 訳)、法政大学出版局、435頁、2009年7月刊

 スティグレール『技術と時間 1』

 監修者のことば

    石田英敬

ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952- )は、現代フランスを代表する最も重要な哲学者である。本書は、彼の主著『技術と時間』シリーズ(全5巻を予告、現在までのところ第3巻まで既刊)の第一巻『エピメテウスの過失』(1994) の全訳である。これ以後、それぞれ独立した著作とはいえ同シリーズの第二巻『方向喪失』、第三巻『シネマの時間と難-存在の問題』の邦訳も順次刊行されることになる。フーコー、   ドゥルーズ、デリダ、リオタール、ラカン、アルチュセール、20世紀後半には百花繚乱を呈したフランス現代思想だが、ポスト構造主義の次の世代が、どのような新しい知の地平を拓きつつあるのか。これまでエッセーや対論の邦訳はあったが、スティグレールの哲学的主著を日本の読者に送る日が来たことは喜ばしい。

スティグレールの哲学的企ては、一言でいえば、幾重にも異端のポジションから出発したが、最も本格的な哲学の王道を行くものである。

まず彼の哲学的出発が異形である。1968年の五月革命後ヨーロッパでは「鉛の時代」と呼ばれた1970年代にあって、銀行強盗のかどで投獄されたスティグレールはトゥ  ルーズの監獄で5年の服役生活を送っている。当時、トゥルーズ大学で教えていた高名な現象学者ジェラール・グラネルを中心に「監獄で哲学を」という運動があった。監獄がスティグレールを哲学にめざめさせ、フッサールの現象学を「発見」させる。のちに彼が 語ったところでは、スティグレールが監獄のなかで積んだのは思考の集中という現象学流のトレーニングであり、83年に出獄したときにはフッサールの文献を網羅的に読破し、プラトンを原書で読む強靱な古典ギリシャ語力を身につけていた。少年時代からの技術への関心からテクノロジーの知識は豊富だった。

獄中からスティグレールはジャック・デリダに哲学論文の構想を書き送る。脱構築の哲学者もまったく面識のない若き哲学徒の才能をみとめすぐさま応答する。刑期をおえて出獄するやすぐに、スティグレールはパリ、ユルム街、高等師範学校のデリダを訪問、技術の存在論をテーマとする博士論文の構想を告げる。師は、技術の問いは難しいが、ではやってみなさい、と応じたという。すべて本人から直接聞いた証言である。

そのとき書き始められたのが、本書の原型となった彼の博士論文だった。獄中での生活は彼に類い稀な精神の集中力を与え、巨大なスケールの構想力を培い、それが彼の異形の哲学的出発を準備したのである。

今でこそ、ブリュノ・ラトゥールやレジス・ドブレの「メディオロジー」、そして、何よりスティグレール自身の仕事によって、技術の哲学は大きく脚光を浴びている。しかし、1980年代当時にあって、そもそも「技術の哲学」の企て自体が異端だった。バシュラールやカンギレム以降、ノーブル(高貴)な位置を占めてきた「科学の哲学」や「認識論」に対して、技術の哲学はフランス的哲学伝統においては、従属的な位置におかれ省みられることが少なかったのである。

本書の冒頭でスティグレールが述べているように、「哲学は思考の対象として技術を抑圧した」のであり、「技術は非思考」のままにとどまっていたのである。

しかし、とくに1990年代のIT革命以後、情報コミュニケーション技術が人間の精神の成り立ちの問題に直結するようになる。以来、「技術の問い」は哲学的関心の中心を占めるようになる。

本書を読むならば、フッサール現象学とハイデガー存在論をベースに、博士論文指導教授であったデリダのグラマトロジーを手がかりに、アンドレ・ルロワ=グーランの先史学を存在論的に定式化し、ベルトラン・ジルの技術史を捉え返し、ジルベール・シモンドンの技術哲学を継承発展させることで、広い文明論的なパースペクティヴのなかで、ヒトの存在の問いを問い直すスティグレールの姿が明らかになるはずだ。哲学の起源にまで遡って、「技術」と「存在」の問いを練り直し、「哲学」全体を問い直す作業に、本書全巻が充てられているのである。詳細は西兼志による「訳者解説」にゆずるが、そこから、第二巻『方向喪失』、第三巻『シネマの時間と難-存在の問題』における、現代技術をめぐる考察、精神のテクノロジーや意識産業に関する問いが準備されていくのである。

博士論文を書きあげたスティグレールはみるみる頭角を現し、デリダやリオタールが創設したばかりの国際哲学コレージュのプログラム・ディレクターに任命される。さらに工学や情報技術を熟知した稀有な哲学的頭脳として、発足間もない先端技術大学であるコンピエーニュ工科大学の教授に抜擢される。この間、「ポスト・モダン論争」のさなかポンピドゥー・センターでリオタールが主宰した「イマテリオー(非物質的なもの)」展の企画に加わり、フランソワ・ミッテラン国立図書館のための情報化プロジェクトに参画してまったく新しい図書館の設計を主導する。

ここにあるのも、通常のアカデミック・キャリアとは明らかに異なる哲学的軌跡である。

伝統的には文科系に分類されがちな哲学者にとって、現代テクノロジーの問いのなかに身をおくことはなかなかかなわない状況である。しかし、テクノロジーや産業の問題に向き合うことなしに、現代文明について有効な哲学を企てるなど不可能である。今日、洋の東西を問わず、情報メディアやテクノロジーの回路から遮断された、哲学や人文学の研究が陥っている閉塞状況を見れば明らかであろう。

しかし、スティグレールはちがう。

テクノロジーの素養をもち、先端的な工科大学において工学者や認知科学者、コンピュータ科学者とともに1980年代から学際的な研究チームや研究プロジェクトを立ち上げてきた。ミッテランによる新しい国立図書館の電子アーカイヴ化構想を先導したのちには、さらに国立視聴覚研究所(INA)や音響と音楽研究所(IRCAM)といった、視聴  各分野での国立の中心的な研究機関で、副所長や所長の要職に就いて、研究開発の体制を確立し、アーカイヴや映像音響分析のシステムづくりを指導し、人材養成の機関を立ち上げてきた。現在はヨーロッパ最大の文化施設であるポンピドゥー・センターの研究開発部長の任にあり、映像分析や認知テクノロジーの研究開発を行うリサーチ&イノヴェーション研究所(IRI)を創設して所長を務めている。

こうした中心的な研究機関で研究開発を主導してきた経験が、現代テクノロジーについて他の人文系哲学者の追随をゆるさない、圧倒的な洞察の拡がりを彼の仕事に与えているのだ。

国家や産業の研究開発や技術革新の中枢に身をおくこと、研究機関の長として行政の責任を引き受け大がかりな制度改革に参画すること。こうした実践は、哲学者を書斎の人から、「知の建築家」に変えることに通じる。しかし、思い起こしてみれば、それこそが、真にギリシャ的な意味での「哲学者」なのである。

だからこそ、この哲学者が放つ文明批判の射程は大きく、現代文明への警鐘は鋭く深く響いている。決して技術やテクノロジーを跪拝したり解説したりするのでなく、技術文明をもたらした哲学的「決定」を明らかにし、その限界と行方を問おうという、まさにオーソドックスな哲学の問いがここに問われているのである。

私たちの世界の地平を明確に限るようになった精神テクノロジーと意識産業が支配する

「ハイパー産業社会」、その「象徴的貧困」を批判し、知識資本主義の未来を問おうとする最近の一連の著作と、さらにその延長上で「文化資本主義」の変革に取り組むことを目標に掲げたARS   INDUSTRIALISの運動は、こうしたトータルな哲学者の姿を指し示している。スティグレールの哲学の企てはますます拡大しつつ具体性を帯びて現代世界の根本問題に立ち向かいつつあるのである。

最後に日本での受容について記しておこう。

90年代の始め、スティグレールを私に紹介したのは、メディオロジーの哲学者レジ    ス・ドブレである。1995年にレジス・ドブレらと東大駒場での国際シンポジウム「日仏メディオロジー討議」のために初来日し、プラトンの『メノン』についての講演を行った。その後、上記のINAやIRCAMでの要職歴任のために著作の刊行が遅れていたが、ス  ティグレールは2000年代に入って一挙に多産な著作活動を展開するようになる。2005年12月にはスティグレールの仕事をめぐる国際シンポジウム『技術と時間』(於 東大駒場)のために二度目の来日を果たし、「精神のテクノロジー」、「精神の産業」と対峙しうる「精神の政治学」が議論された。さらに2007年には、東大本郷で行われた大規模な国際シンポジウム『Ubiquitous    Media    Asian    Transformations』のために来 日、フリードリヒ・キットラーやマーク・ハンセン、キャサリン・ヘイルズ、蓮實重彦らとともに基調講演を行った。

このいずれの来日に際しても、私は招聘の任にあたったが、いつも私がスティグレールに見出すのは、世界の問いを共有し同じ時代を生きる哲学的人物としての友である。そして、哲学こそがいままさに有効であり、思想こそが求められているものだという揺るぎない信念と静謐、寛容と歓待の哲学的エートスである。

近年スティグレールは、日本の若い研究者からも大きな注目と支持を集めつつある。デリダとの対論『テレビジョンのエコーグラフィー』を訳した原宏之や、本書の翻訳を担当した西兼志の世代である。私が主宰する東京大学大学院情報学環の研究室ではこうした若い研究者が中心となって、スティグレール率いるIRIの研究者グループと月例のヴィデオ会議を重ね、認知テクノロジーの共同開発、分析ソフトや批評プラットフォームの共同使用の実験を行っている。

グローバル化する世界にあって、知識社会への移行、文化産業やメディア支配が進行するなか、現在ほど真の哲学的冒険が求められている時代はない。大学人や知識人は、惰性的なペシミズムや「美しき魂」(ヘーゲル)に閉じこもるのでなく、現代テクノロジーやメディア産業を問い、グローバル化や資本主義の未来を思考しえてこそ、真に現代的な批判を実行できる。『技術と時間』は、そのような本質的な問いのありかを指し示すべく久々に出現した真正な哲学のOpus Magnum(大いなる書)なのである。


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