2020年8月2日日曜日

「<詩学のポリティクス>7:<リュトモス>の襞」、『現代詩手帖』、1997年7月号、pp.156-161

詩学のポリティクス7

リュトモスの襞


彼はドン・キホーテのジレンマに分析を加えてくれた。つまり武器の途(プラクシス、行為)と言葉の途(ポイエーシス、創造、生産)のいずれをとるかという問題で、最終的にプラクシスの途をとるという選択は、ポイエーシスのあらゆる試みを延期してしまうというのである。このときはじめて私は「ポイエーシス」という語の威力を理解し、捜し求めていた言葉をつくり出した。それが「オートポイエーシス」である。この語には何の前史もなく、生命システムに固有の自律性のダイナミクスにおいて生じている事柄を端的に指し示すことができる。(...)この語の発明は非常に価値あるものとなった。言葉が使えないためになに一つ新しいことが言えないという落とし穴にはまり込まずに、はるかにたやすく生命の有機構成について語ることができるようになったからである。」(マトゥラーナ/ヴァレラ『オートポイエーシス』河本英夫訳、国文社、二四頁)


1. <創発>

 「詩」という言葉の使用を一時停止してみたらどうだろう。
 例えば、「オートポイエーシス」を「自己創発」と訳すように、「ポイエーシス」を「創発」と呼ぶことにして、<詩>を<創発>という語に置き換えて考えてみたらどんなことが見えてくるだろうか。
 「詩学のポリティクス」と題したこのエッセイの連載も、ほぼ半ばを越したので、ここらで、詩学の中心概念とでもいうべきものを提示すべきなのではないか、と考えている。そして、私の考えでは、<詩学(ポエティクス)>の中心を占めるべきなのは、「リュトモス」とか「襞」といったまだ練り上げをもとめられている概念なのである。
 私たちは、二十世紀の言語理論や詩学理論を通して、幾つもの<かたちの思考>を経験してきた。「言語には実体はない、形式しかない」というソシュールの『一般言語学講義』のなかに読まれる(しかし、どうやら、ソシュール自身はじっさいに述べた形跡のない)有名な命題から始まって、現象学における「形相(エイドス)」としてのかたち、フォルマリズム以後の「形態(モルフェー)」としてのかたち、記号論的な「図式(スケーマ)」としてのかたちなど、二十世紀はおよそあらゆる<かたち>をめぐる思考の冒険を重ねてきたのだ。
 そこで、私たちが今日あらためて問うことをもとめられているのは、「詩はどんな<かたち>をしているのか」、「詩にとって<かたち>とは何か」という問いである。二十世紀の知が教えたところでは、記号は「形式」つまり<かたち>である。言語もさまざまな「形態」つまり<かたち>から成り立っている。そして、「システム」にせよ、あるいは「構造」にせよ、そのような<かたち>を規則づけている体系であるとされてきた。それでは、詩は、記号のような<かたち>をしているのだろうか、どのようなことばの<かたち>として生み出されるものなのか、言語の<かたち(形態、形式)>およびその結びつきの規則と、詩のことばの<かたち>とはどのような関係があるのだろうか。そのような一連の問いが詩学の前にはいま開かれているようなのである。
 私の考えでは、詩は、ことばの経験のある固有なレヴェルにおける<かたちの出来事>であると考えられるのだが、そのとき問題となる<かたち>を考えるためには、後述する「リュトモス」とか「襞」といったまだ十分によく考えられていない<かたちの概念>を必要とすることになるのだ。
 「詩にとって<かたち>とは何か」という問いは、じつは、「詩にとって<リズム>とは何か」という問いと深く通底している。「詩のリズム」というと、韻律とかパターンだとかと考えられてしまうのだが、リズムの語源の「リュトモス」とは、じつは、かたちが生み出される運動のことをいうのである。詩はコトバからつくりだされる芸術というのがロシア・フォルマリズム以来の定式であるが、潜勢的な形式(かたち)の体系として存在している言語システムに対して、詩は、コトバの<出来事>として現勢化してかたちづくられるコトバの在り方にかかわっているのである。そのような、<ディスクール>としてのコトバの<かたちの形成運動>だと、詩を考えてみるとどうだろう。詩は、ディスクールのかたちの創発だと考えるとどうだろう。
 潜勢的形式の体系としての言語が、ディスクールという出来事として現勢化されたコトバの<かたち>となる。そのようなことならば、とくに詩のコトバでなくたって、どの日常的ディスクールにだって起こっている、とひとはいうだろう。それはたしかにそうである。詩のコトバと、日常のコトバとの間には本質論的な区別はない。しかし、日常言語でも起こっているディスクールにおける<かたち>の位相転換、すなわち、潜勢的な形式的要素の体系としての<かたち>の在り方から、現勢化されたコトバの出来事において生み出された<かたち>への転位には、<かたち>の形成の出来事性にかかわるある本質的な問題がひそんでいる。そのような<ディスクールの創発>を、そして、それと結びついた<かたちの形成運動>を、固有の水準で経験しているときこそ、おそらく、ひとは<詩>の出来事を生きているのではないのだろうか。しかも、詩におけるコトバのかたちは、それ自身のかたちの形成運動を自己参照しつつ起こるという<自己創発>性もそなえている。
 そのような自己言及的な詩のコトバの創発は、フォルマリストの「メッセージそのものの志向」(ヤコブソン)以来の詩のコトバの「自己反省性」や「自己目的性」として理解されてきた。「オートポイエーシス」のように、詩には、それ自身のほかには何もそれが起きる理由はない。しかも、その出来事性を自己参照しつつ、それは起き、自己を組織していく。そのようなコトバの創発が詩の活動であり、そのような創発の単位こそ、<ポイエーシス>の単位体としての<詩(ポエム)=創発単位>なのではないか。そんなふうに考えてみることはできないか。そのとき、いったい、どんなコトバの在り方が見えてくるのか。
 詩の創発、すなわち、それ自身のコトバとしての創発を自己言及するコトバの成立のためには、コトバの運動がそれ自身の組織の要素のどこかに引っかかり、乱流をつくりだすところからはじまるのでなければならない。それは、おそらく、そのことばの組織のどの部分、どのレベルでもよいのだけれど、コトバが、まっすぐに事物の方へ、あるいは、<意味-論理構造>の深層の方へと、落下していくのではなく、ルクレティウスの原子の「傾き(クリナメン)」のように、コトバの要素の傾きが引き起こす揺らぎやずれにもとづいて、幾つものコトバの要素が衝突し、流れの渦のような配列(アレンジメント)をつくっていくのでなければならない。そのように無数のコトバのランダムな流れからつくり出されるコトバの<かたち>を考えることはできるのか。そのようなあらゆる方向に行き交うコトバの流れとしての<ディスクール>(それが、dis--coursの語源である)において、コトバが、どのように組織され、どのような<かたち>をつくっていくのかは、予測不能である。ひとつのわずかなずれにもとづいて、コトバたちの傾きが作用しあい、コトバのかたちは、それらの傾きと関係づけられながら創発されていく。
 こんなふうに詩をコトバによる<創発>として言い換えただけでも、コトバの<自己創発>が見えてくる。しかし、これは、詩のコトバに対して、「オートポイエーシス」という生命体のメタファーを使用しただけのことなのだろうか。いや、たぶんそれだけではないのである。「オートポイエーシス」という概念自体が、生命体を<ポイエーシス>のメタファーで語っているという事態の側面もあるのだ。生命体の「オートポイエーシス」自体が、どこかで、もともと、いくぶんかは、<詩学>の概念であったということなのかもしれないのだ。

2. <リュトモス>

 ディスクールの創発とそのコトバのかたちの自己言及的な組織はどのようにうまれるのか。しかも、そこにかたちづくられるのは、そもそも、どのような<かたち>なのか。これらの問いに向き合うためには、「詩のリズム」の問題を根底から問い直す必要がある。<記号>に根ざすかたちの理論を越えて、<リズム>を中心概念にして、独自の詩学を打ち立てようと、この四半世紀にわたって、ほとんど孤立無援の戦いを挑んできたのは大著『リズム批判』のアンリ・メショニックなのだけれど、かれのリズム論の中心にあるのは「ディスクールの形成運動」としての<リズム>という考え方である。そして、メショニックのリズム概念は、エミール・バンヴェニストが「言語表現に表れた<リズム>の概念」(一九五一)においておこなったリズムの語源神話の解体に多くを負っている。
 バンヴェニストは、近代の全ての語源辞書が「リズム」のギリシャ語源「リュトモス」を、「波の規則的な運動」を指すことからくるとしている事実を指摘する。ところが、この語源は実は偽りであることをバンヴェニストは明かす。
 「リズム」のもとのギリシャ語「リュトモス」が、周期的に回帰する規則的な運動を指すとされるようになるのは、プラトン以後である。じつは、「リュトモス」は当初、レウキッポスやデモクリトスらのイオニア学派の原子唯物論における<かたち>の中心概念であった。抽象名詞「リュトモス」がそこから派生した動詞「レイン」が、「流れる」という意味であることが示すように、「流転する万物」を構成する流れつづける原子(アトム)がどのように<配列>(アレンジメント)され、事物の<かたち>が生まれるのか、その配列のことを<かたち=リュトモス>という。例えば、AとNという文字の違いは、構成要素である画の配置(=かたち)のちがいである。しかも、固定された形式に対して使われる語「スケーマ」とちがって、流れてつづける要素の配置がつくりだす<かたち>こそが「リュトモス」である。
 「リュトモスは、運動体、動き流れているものによってかたちづくられるかたち、(...)を指す。リュトモスは、流動的な要素がえがくパターン、無造作にかきなぐられた文字、着流されたペプロス(女性の貫頭衣)、性格や気質の特殊な性向に対してつかわれる。」(バンヴェニスト『一般言語学の諸問題 一』三三三頁)

 「リュトモス」としての<かたち>は、動き流れる要素の配列が一瞬しめす布置(コンフィギュレーション)としての<かたち>、かたちをつくりだす要素の運動および位置と不可分な<かたちの出来事>なのである。この語源に露呈しているのは、<かたち>と<リズム>の本質的な一致をめぐる忘れられかけていたま思考が秘めている可能性なのである。
 「オートポイエーシス」との関わりで言えば、私たちは、ここで、エピキュロスやルクレティウスの原子論の系譜へと導かれてもよい。ルクレティウスにおいては、事物を構成する原子の複合は、それぞれの原子の傾き(=「クリナメン」)によって原子と原子が出会い結びつくことのよってできるのだった。そのように原子の流れがつくる宇宙では、原子たちの渦まく配列がしめす<布置>がリュトモスでる。それぞれランダムに流れていく原子の偏差によって宇宙は自己組織化され秩序がかたちづくられていく。「動き流れるものがつくりだす個々のかたちは<流れ方>として定義される」(バンヴェニスト)のだ。

 以上の、原子唯物論の系譜における、<リュトモス>としての<かたち>の特徴は、(1)固定されず、流動する要素の瞬間的な配列(アレンジメント)であること;(2)かたちの構成要素(アトム)は、AからNへの変形がしめすように、同一要素の異なった再配置のなかへの無限定的な反復によって<かたち>を生み出すものであること;(3)<かたち>は、配置として、それぞれの要素の位相的な差として生み出されるものであること。したがって、かたちは、<場所>と不可分であること、などである。
 このような原子唯物論的な系譜のうえで、運動し続ける要素の配列による<かたちの創発>として<リズム>を考えることと、詩のコトバにおける<かたちの創発>を考えることとは、どのように結びつきうるのだろうか。

3. <襞>

 かたちの形成運動としてのリュトモスと、詩のことばの問題とが出会うためには、ことばを考えるための、「原子唯物論的」な思考の足場が、確保される必要がある。じっさい、二十世紀の言語学は、言語活動を微分することによって言語の研究を進めてきた。その場合、言語の唯物論の原子論的な基礎は、音韻論における「音素」や「弁別特徴」のような言語の最小の単位体である。しかも、量子力学において粒子は同時に波動であるのと同様、音素体系は音声の波動をうみだす身体的な<襞>の差異のシステムである。音素は、発話の原子とみなせるけれども、同時にそれは、身体を、発話の器官として「弁別特徴」にもとづいて分節する、<襞>でもあるからだ。[a]とか[o]とか発音するたびに、音素を構成する弁別特徴をむすぶ襞にそって、コトバは現勢化する。その場合、発話器官を分節する身体の襞は完全に相互作用的であり、ひとつの襞の変化は、全ての襞の変容をみちびくことになる。声紋のように、人間ひとりひとりで、プロゾディーが異なるとは、それぞれの身体のとどめている襞の体系が、それぞれに異なっていることを示している。そして、そのように身体を分節している音素は、さらに、より上位の単位の構成要素として、デモクリトスの原子のように配列をつくる。そして、原子の<流れ方>から、かたちが生まれるように、コトバのかたちの創発運動としてのリュトモスは、音素の潜勢的な襞を次々と繰り広げることによって、配列(アレンジメント)をつくりだしていく。この<リュトモス>こそ、コトバの<襞>の現勢化としてのディスクールの形成運動なのである。音素という原子は、要素的反復によって、ディスクールの上位の単位のかたちを組織する。発声器官としての身体は、基本的な分節点を、襞の体系として折り畳んでいるが、ディスクールは、身体の襞から襞へとコトバのかたちを繰り広げて現勢化する。このコトバのかたちのアレンジメントは、ちょうど折り紙を折り畳むように次々に身体の襞を折り返すことによってつくり出されるのである。原子唯物論の<リュトモス>の理論は、コトバに適用されるためには、このような<襞の理論>をともなうものでなければならない。
 言語は、潜勢態においては、幾何学的に公理化しうる無時間的で抽象的な形態のシステムだが、現勢化のプロセスは、以上のような身体の分節化の襞に沿って、リュトモスとして繰り広げられる<かたち>の出来事である。コトバが現勢化する出来事としてのディスクールにおける<かたち>の理論と、抽象化したツリーを描く潜勢態としてのコトバの形式の理論とは、まったくちがった<かたち>の概念を要求するのである。じっさい、リュトモスのともなわない発話はない。ことばが<ディスクール>として成立するためには、リュトモスとしてのかたちの形成運動が不可欠なのである。詩がなぜリュトモスとしてのディスクールの創発と一致しているかといえば、それは、詩が、言語の任意の襞の折れ目を起点に、ディスクールのあらゆる襞を折り返しつつ、繰り広げられるリュトモスの運動だからだ。例えば、脚韻のような発話の運動の<折れ目>は、発話の流れの<傾き>(ひっかかり)をつくりだす。そして、その傾きを、折り返し点として、そのひだとの関わりで、テクストの<襞>が次々と折り畳まれていく。詩の発話の自己言及性とは、そのような折り返しの自己言及の運動のことなのだ。
 そして、言語の襞を宿しているのは<身体>の表層である。言語によって分節された身体は、襞のはいった身体である。コトバが生み出す無数の身体の襞の展開として、リュトモスによってディスクールは組織される。

4. <社会のポイエーシス>

 じっさい、ひとつのコトバの断片のとどめている発話の身体の襞の折り畳みには、無数の身体に差し向けられた反復可能性が宿っている。音素のような、あらゆる発話の<原子=襞>は、それ自体、無数の身体に向けられた、襞の反復可能性である。発話は、だから、たとえ、一人による発話であったとしても、つねに集団的身体をその襞の編成体に宿している。
 ヤコブソンが「言語学と詩学」のなかで紹介している、スタニスラフスキーによる芝居の訓練は、「今晩」というたった二語からなる発話のニュアンスを次々に変化させることによって、四十の身体状況を演じ分けることだったという。ヤコブソンによると、この訓練を受けた俳優は、その二つの語の「発声的布置」の変化だけによっても五十以上の異なったシチュエーションを演じ分けることができたということだが、このエピソードは、発話がつくりだす身体の襞の編成体が、わずかな発話の調子の偏差によっても、そのディスクールとしてのリュトモスをかえ、それによって、コトバにやどっている無数の身体の配列が変化するということをしめている。<リュトモス>は、そのように、一瞬のうちに無数の身体の配列を組織する。たった一つの発話の襞の変化も、集団的身体の配列を変更するに十分である。ブルデューがいうように、アクセントに、話者の社会的<ハビトゥス>が、もっとも端的に表れるのは、そのような発話の身体の襞と、集団的身体との結びつきよるのだ。リュトモスの行為(プラクシス)とは、そのように、ことばの襞に宿る無数の身体の配列(アジャンスマン)に働きかけるものなのだ。ドゥルーズ=ガタリの「発話の集団的連結」の考え方も、この脈絡において理解できる。
 「リズム」が、規則的なパターンの周期的な繰り返しという意味をもつようになったのは、上述のように、プラトン以来だが、それは、皮肉にも、身体の運動としての<ダンス>との出会いによってである。弁別的形式、配置、配合といったイオニア学派以来の<リュトモス>の伝統を保存しつつ、プラトンは、ダンスにおいて人間の身体が実現する運動の形式、およびその運動が繰り広げる形姿の配置に、この語を適用した。決定的な変質は、リュトモスが、拍子(メトロン)に結びつけられ、数律に従う「身体的リュトモス」という観念によって生まれた。リュトモスの<かたち>は、これ以降、「拍子」、「韻律」によって規定され、秩序に従属させられることになったのである。運動の規則性、拍子に結びつけられた身体的態度の調和的な配列が、以後「リュトモス」と呼ばれ、ダンス・歩行・歌・仕事といった、交替拍によって区切られる活動を前提とするすべてに関して、「リズム」が語られることになったのだ。身体のメトリカルな行為論(プラグマティクス)が登場することによって、身体の画一化・規則化が進行し、コトバのリュトモスと無数の身体の連結との関係が見えなくなっていったのだ。
 だとすれば、今めざされるべきなのは、メトリカルな身体と混同さたリズム的身体を<リュトモス的身体>の方へと遡ること、ことばのリュトモスと同時におこる身体の絶えざる配置の転位の運動を再発見することである。そのためには、モナドとしての身体が、ことばの襞を通して、それぞれ宇宙を反映しているといった、スピノザ--ライプニッツ的な集団的な無数の身体へと戻ること、一つの発話にも、無数の身体が宿り、それぞれ身体は全てそれぞれのやり方で宇宙を映し出していると考えてみること、そして、たったひとつのアクセントの襞も、無数の身体の配列(アレンジメント)を変化させることができると考えてみること、といった、ラディカルな<詩学のモナドロジー>の思考が要請されているのである。
 音素やアクセントの偏差は、それだけでも身体の配置をかえてしまう力を含んでいる。言語共同体の間には、そのような、コトバの原子の衝突がつねに渦巻いている。ソシュールは、それを、<インターコースの力>と呼んだが、それは、たんにひとつの異質な言語の襞が、「言語変化」を生み出すだけではなく、それを通して、身体の集団的配列を組み換えていくものだということを示したのである。
 詩のことばは、それ自身のコトバとしての<襞>を、自己言及しつつ繰り広げていく。それにともなって、発話の集団的身体の配列を変えていく。ディスクールの<創発(ポイエーシス)>は、「ドンキホーテのジレンマ」におけるように、「行為(プラクシス)」の中断であるのではなく、それ自体が、身体の集団的連結にもとづく<行為(プラクシス)連関>としての<社会>の、絶えざる<創発(ポイエーシス)>なのである。

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