ベルナール・スティグレール「記憶産業/記憶のテクノロジー:「象徴的貧困」を超えて」、聞き手 石田英敬 訳 西兼志『InterCommunication』No.55 2006.winter, pp.90-100
(未定稿からのUPですから、引用等は刊行版から行ってください)
解説
ベルナール・スティグレールの仕事
石田英敬
ここに訳出したのは、放送大学テレビ特別講義『知の記憶・知の未来』の制作のために、石田が2004年3月にパリのIRCAMでベルナール・スティグレールに対して行ったインタビューからの抜粋である。特別講義『知の記憶・知の未来』は、当時の渡邊守章放送大学副学長により立案された「知のシリーズ」の第三期企画で、海外取材および著名な学者・知識人へのインタビューを通じて、現代の知と文化の最前線を紹介するテレビ講義である。全3回は「1文化の記憶を求めて」、「2 生をどうデザインするのか」、「3 生命政治の時代」(それぞれ45分)からなり、渡邊守章教授と石田を担当講師に、さらに、第2回については西垣通東大教授も参加して、歴史や文化と記憶の問題、情報と環境や生命との関係、生命テクノロジーと権力の問題がテーマとされ、歴史家のピエール・ノラ、精神分析家のフェティ・ベンスラマ、生命記号論のジャスパー・ホフマイヤー、哲学者のジョルジオ・アガンベンなど現在最も注目を集めている思想家・知識人との対話を通して人間文明が直面している記憶の問題系と知の展望が示された(2004年度より毎学期随時放送)。スティグレールは、このうち、第1回で「フランス国立図書館」の情報化を題材に記憶テクロジーとアーカイヴを語り、第2回でIRCAMの実験、自身の「一般器官学」の構想について語っている。
そのスティグレール(Bernard Stiegler 1952- )だが、ポスト構造主義の次の世代を代表する現代フランスの最も重要な哲学者である。わが国での知名度はまだそれほど高くない。彼の主著である哲学的大著『技術と時間』(全5巻を予告、現在までのところ第3巻まで既刊)の第1巻『エピメテウスの過失』(1994)、第2巻『方向喪失(ディスオリエンテーション)』(1996)、デリダとの共著『テレビのエコーグラフィー』(1996)の刊行以降、コンピエーニュ先端工科大学教授であった彼が、本インタビューにも述べられているように、INA(国立視聴覚研究所)副所長、つづいてIRCAM(パリ国立音楽音響調整研究所)所長と要職を次々と歴任し、著作の刊行が途切れていたことも影響しているだろう。しかし、近年、待望の第3巻『映画の時間と<難-存在>の問題』(2001)につづいて、『象徴的貧困』2巻(2004,2005)、『無信仰と不信』第1巻(2004)を矢継ぎ早に刊行、また極左運動のなかでの銀行強盗事件による5年間の獄中生活から哲学を始めたことを語る自伝的エッセー『現勢化(アクティング・アウト)』(2003)、ナンテールでの市議会乱射事件の実行犯や大統領選挙での極右の進出に「象徴的貧困」を読み取り一躍ベストセラーとなった政治的パンフレット『愛することと愛されること』(2003)、さらに対談本『偶然からの哲学』(2004)を発表、さらに今秋に入って文化産業が全面化する時代にあってヨーロッパの「精神の政治」を問う『ヨーロッパを構成する』2巻(2005)を刊行するなど、長年の蓄積を一挙に世に問うという「実りの季節」に入ってきた。さらに文化産業の支配する世界を問題化する運動体Ars Industrialis (http://www.arsindustrialis.org/)をマルク・クレポンらの哲学者と立ち上げるなど、現代世界への発言者としても重要なポジションを占めつつある。
スティグレールの哲学をひと言でいえば、出発点は技術とテクノロジーの存在論である。フッサール現象学とハイデガー存在論をベースに、博士論文指導教授であったデリダのグラマトロジーを手がかりにしてルロワ=グーランの先史学を読み直し、シモンドンの技術哲学を継承発展させることが、彼の技術存在論の根本モチーフとなっている。バシュラールやカンギレム以降、「ノーブル」な位置を占めてきた科学哲学に対して、技術の哲学はフランス的哲学伝統においては異端である。他方、実践において「技術の問い」のなかに身を置くことは、「文科系」の哲学者にはなかなかかなわない状況である。情報科学の素養をもち、先端的工科大学において工学者や認知科学者、コンピュータ科学者とともに1980年代から研究プロジェクトを立ち上げ、ミッテランによる新しい国立図書館の電子アーカイヴ化構想を担当し、さらにINAやIRCAMといったマルチ・メディア研究所での研究開発を主導してきた経験が、現代テクノロジーについて他の人文系哲学者の追随をゆるさない、圧倒的な洞察の拡がりを彼の仕事に与えている。決して技術やテクノロジーを跪拝したり解説したりするのでなく、技術文明をもたらした哲学的「決定」を明らかにし、その限界と行方を問おうという、まさにオーソドックスな哲学の問いがここに問われているのである。私たちの時代の地平を明確に限るようになった、「文化産業」と呼ばれることもある「記憶産業」が支配する「ハイパー産業の時代」を、アドルノ・ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』を継承しつつ、より現代的に批判する方向を最近の一連の著作は指し示している。
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<記憶>
石田:ベルナール・スティグレール、あなたは哲学者であり、情報科学の専門家でもあります。あなたの記念碑的な著作『技術と時間』はまさに「技術と時間」について論じています。他の主要な著作でも、科学技術の哲学的な問題を提起しておられます。あなたは記憶と時間の問題を、技術との関連において考察しました。また記憶の産業化、リアルタイムとイベント化の問題を、意識の存在論的地位との関連で問うています。同時に、哲学的関心事とおそらく無関係ではないでしょうが、あなたは現在IRCAM(パリ国立音楽音響調整研究所)の所長の職にあり、その前はINA(国立視聴覚コミュニケーション研究所)の副所長でしたし、またフランソワ・ミッテランによるBNF(フランス国立図書館)の構想にも参画しています。つまり、音響・映像・本という三つのアーカイヴの中心機関を手がけてこられた。そういうわけで、今日「記憶」をめぐって「文化創造」が、その実践において直面している問題に関して、哲学的・技術的のみならず、制度的構想のレベルにおいても、あなたはまさに中核的役割を果たしているといえます。
そこで、まず始めに、今日記憶とアーカイヴがどのような状況にあるのか手短にお話いただけますか?あなたの経験とあなたの立場から見て、例えばBNF(フランス国立図書館)とINA(国立視聴覚コミュニケーション研究所)とIRCAM(パリ国立音楽音響調整研究所)との間に、記憶とアーカイヴに関する問題の共通の特徴が認められましたか?
スティグレール:はい、明らかに共通点がありますし、この共通点こそが、私がこれまで就いてきた職歴を特徴づけるものだと思います。まず共通の問題がある。それはつまるところ「記憶」の問題です。生物学の分野であれ、いわゆる記録文書の分野、あるいは映像、音楽、テクストの分野であれ、いったいどうし私たちは今日、記憶が産業化される時代に生きているのでしょうか?私は長い年月をかけた仕事において、ヒト化、ヒトの誕生、そしてヒトの未来という問題もまた、大部分は記憶の問題であることを証明しようとしてきたのです。
人間の生活の形態と動物の生活の形態を根本的に区別するのは、人間の記憶が世代毎に変化を受けるということです。文化とは、解放された記憶、例えば遺伝子上の条件付けから自由になった(完全にとは行きませんが、かなり自立している)記憶のプロセスに他なりません。そして、このプロセスはいくつかの時代に分けられます。技術の産物は、そのあらゆる形態において、いかに産業化されたものであれ、それ自体すでに記憶の品なのだと仮定するなら、このプロセスは人類自体の始まり、すなわち3、4百万年前に端を発するものだと言えるでしょう。考古学者が発見物の物質的な痕跡から、過去を再構築することができるのはそういう理由からなのです。あらゆる技術の産物は同時に記憶の品物なのです。たとえ記憶のために作られたわけではないとしてもです。
しかし、約一万年前から、つまり定住化の時代から、人間社会は厳密な意味での記憶技術を発展させます。この技術はきわめて重要です。というのも、過去についての記録として保存された知を得ることによって、ついには、未来を予測することを可能にするからです。人間社会はその未来を理論的に推論・投影し、予測に基づいた行動をすることができるようになったわけです。例えば、経済史家のウィットフォーゲルが明らかにしたことですが、エジプト人はナイル河の増水活動、星の動きなどの表記の仕組みを考案しました。この表記法を手に入れることで、彼らは暦を作り出すことができ、新しい分業体制を組織し、未来を見越して対処することができるようになり、ゆえに帝国を拡大することができたのです。これこそが、まさに記憶技術の力なのです。それは政治権力であると同時に聖なるものである権力の中核を担うことになり、役割分業と社会階層の序列化によって一つの権力が文明を組織するに至るわけです。
そして、ギリシア世界では、非常に特殊な記憶技術が登場し、本当の意味で西洋の歴史を形づくることになります。ギリシアといいましたが、エジプト、イスラエル、また西洋の源のユダヤについても言うべきでしょう。これらの諸地域で、一つの装置が確立します。つまり、書物が出現するのです。そのことについてはレジス・ドゥブレが『神、道程」の中で触れています。書物は新しい理性を形成します。それはまさにギリシア的理性の誕生であり、それはまた宗教共同体の一形態としての一神教共同体の誕生です。
私は西洋についてしかお話しませんが、同じ事はアジアに関してもいえると思います。文明の樹立は根本的に記憶技術の使用を通して為される。記憶技術は、社会システム、宗教システム、法律、さらに家族の形態、象徴交換を構造化する効果をもつのです。
そして、西洋社会では、このことによりいわゆる書記と呼ばれる階層が形成されました。つまり、世俗のものであれ、書記は法律家、たとえばフランスで法服貴族を呼ばれる裁判官、弁護士などであれ、聖職者であれ、政治的—宗教的統御の象徴権力をもつ人びとです。彼らは、社会の特別な階級、いわゆる文書方、読み書きができ、記録文書を掌握する階級を形成しました。そのような過去把持の装置を統御する階層を中心として象徴権力全体が構成されるのです。
ここで指摘しておかねばならない事実は、この象徴権力は根本的に経済的権力とは区別されて形成されたものだったことです。ほぼ19世紀までは、書記は経済的権力を全く軽蔑し、いわゆる平民、ブルジョワ、手産業者、奴隷、労働者の世界には関心を示しませんでした。
彼ら書記は象徴システムの世界、観想の世界、起源の知に属していました。神話であれ、宗教であれ、政治であれ、その形象を統御するのは彼らであり、社会を統一する象徴的な形象を統御するのは彼らだったのです。
そして、それに対立する形で、経済世界、農民、手産業者、ブルジョワの世界があったのです。彼ら書記は、フランス革命時に第三身分とよばれた階層を形成していた人々とは一線を画していました。ところが、この状況は19世紀に根本的に変化したのです。つまり、産業革命に伴い製品の大量生産が始まる。それとともに消費を生み出す機器が発明され、新たな技術、特に情報、コミュニケーションの新たな技術が登場するのです。
<グーテンベルクの銀河系の終焉>
石田:それは、まさに私の第二の質問に関わる問題です。つまり、「グーテンベルク銀河系」の終焉についてです。この終焉はどのような変質をもたらしたのでしょうか。知にとってアーカイヴ技術の変化はどのような結果をもたらしたのでしょうか。
スティグレール:その終焉とは、写真、電信・電話、輪転機などの、産業化された形で生産される記憶技術が登場したということです。これらは19世紀の始めにすでに登場していますが、このような装置が次第に、記憶テクノロジーを構成し、技術生産の中心的要素となってゆく。その結果、先ほどお話した書記の世界、経済圏から切り離されていた世界が次第にこの経済圏に吸収されるのです。経済圏の問題が益々象徴の生産を支配するという問題になってゆくからです。なぜなら、ひとびとの行動がコントロールされるのは象徴によってだからです。消費が提起する問題とは行動のコントロールに関るのです。最初の広告代理店が現われるのはこの時代です。そして、その一世紀後に、マーケティングが登場します。このことと並行して、情報のテクノロジーが発展します、今度はあらゆる形の知を動員するためです。経済戦争は次第に知のコントロール、独占、利用を争う戦争になったからです。情報処理技術は、後にIBM社の創始者となるオルリスによって、1881年の有名なアメリカの国勢調査のときに登場します。すべてを統合的に扱う記憶産業が誕生します。この記憶産業は生物学にも及び、今日では明らかなように、生物学は一つの情報科学であり、根本的にアルゴリズムの使用に基づいています。
そして、この時点から急速に発展するのが、アーカイヴのシステムであり、あらゆるものをアーカイヴとして保存する事が可能になったのです。単に紙の形ではなく、新たな媒体に転記されることで、全く新しい操作が可能になります。例えば、私がBNF(フランス国立図書館)と仕事をしていた1989年当時、インターネットは存在していませんでしたし、テクストのアーカイヴ化にはまだそれほど関心がよせられていませんでした。しかし、デジタル媒体に移されたテクストは従来のものとは全く異なったテクストです。このテクストは非線形的に読むことができますし、注釈をつけることもできます。検索エンジンやアルゴリズムを利用した読解が可能になります。
テクストに関して言えることは映像と音の世界でも言えます。あなたはさきほど、例えばBNF(フランス国立図書館の問題)と、INA(国立視聴覚コミュニケーション研究所)とIRCAMの問題の共通項は何かをいう質問をなさいましたが、それはまさに蔵書、所蔵品のデジタル化の問題です。ここで、まずデジタル化には二種類あることを指摘しておきましょう。一つは、過去に向かって遡行するデジタル化、つまり紙媒体の記録文書をデジタル化することです。しかし、他方には、デジタルを用いてテクストを作るということもあります。例えば、今日インターネット上に皆がメッセージを書き込み、作家があなたや私のように直接コンピューターのデジタルファイル上に打ち込みます。いまではもはや手書きの人はほとんどいないでしょう。
この点から言うと、紀元前7、8世紀にギリシアで発達したアルファベット表記によって、紀元前4,5世紀頃に、アリストテレスの論理、ソフィストによる弁論術が相次いで誕生したことを思い起こしましょう。これはパロールの流れの連続性を非連続化すること、デジタル化することだったといえるでしょう。アルファベット表記によって出現したデジタル化は(パロールがアルファベットによってデジタル化したことで)、パロールとの全く新しい関係を作り出しました
しかし、現代のデジタルテクノロジーの出現によって、あらゆる記号のシステムはおそらく、「超デジタル化」されうるものになりました。アルファベット自体にもそういえるかもしれません。デジタル化によって、例えば私がBNF(フランス国立図書館)のために設計した装置が可能になります。その装置とは、意味論的なマッピングを生成させ、コンピューター支援読解システムによって、テクストを読み進むと同時に、その読解をコード化することを可能にするものです。そしてこの作業から、例えば従来の注釈のシステム、例えば言葉や文章に下線を引くこと、テクストを序列化すること、ある言葉にキーワードの価値を付与すること、テクストの余白にテクストとは関係なくキーワードを付け加えることといった、広い意味で注釈と呼ばれるタイプの作業すべてができるのです。デジタル方式で形式化し、機械が注釈を自動的に処理できるアルゴリズムを与えてやれば、ユーザは機械に対して読むことを支援してくれるように要求出来ます。私は15年前に、例えば当時研究していたフッサールのテクスト(それは『内的時間意識についての講義』でしたが)の読解に用いました。生成されたマップには、フッサールの概念装置が非常に明確に現われ、その「知覚」、「想像力」、「把持」などといった基本的な概念の間の関係を可視化してくれました。これは、本来なら私自身がみつけださなければならないものです。しかし、機械による支援によって、記憶の領域を拡張することができます。私の記憶は選別的なので、私が関心を持つものしか保持しません。それに対して、機械の方は、愚鈍と言えるかもしれませんが、私の行った全ての作業を記録します。ある時点までに行った全ての作業の結果を映し出すように命令すると直ぐに、私自身には恐らく見つけられなかったであろう結果を示してくれます。これは非常に興味深いことで、機械が私の読解を刺激し、機械によって私は異なった読解を行うようにうながされるわけです。つまり、私自身が自分の読解を読むようになるのです。
続いて、INAやIRCAMでも、同様な装置を映画、テレビ、写真記録、音楽の分野で開発しました。まず映像に関して言えば、映像のデジタル圧縮と呼ばれるシステムを使って、映像の算定・比較・分析のプロセスを自動的・機械的に行うことができます。デジタル映像を圧縮し、100分の1、1000分の1にするには映像間の差異だけを記録しなければなりません。しかしこの種の圧縮テクノロジーを使用した時から、例えば左右のパン、あるいは前方のズームであるかによって、同じ方法で圧縮できないということに気づきます。カメラの動きの中の映像の幾何学的形に応じて、異なったアルゴリズムを用意しなければならなくなるからです。その結果、カメラの動きをデジタル化し、映像の文法を作らなければならなくなるでしょう。なぜなら、かつては主に人間の精神活動の結果であった活動を突然テクノロジーが引き受けるからです。ここで新しいことは、いまやますます多くのものが外在化され、知が根底から変革されることになったということなのです。
<IRCAM>
また、現在私が所長を務めるIRCAMではデジタル手段のみによって音楽を制作しています。また昔の音楽をデジタル化する作業も行っています。これらは二つの別の作業ですが、同時にまた共通点もあります。つまり、デジタル化によって、従来とは全く異なった音楽の聞き方がされるようになったということです。例えば、民族音楽者達は、私たちが開発したソフトを使って、アフリカの音楽、サルデーニャの音楽を分析して、新しい聞き方を発見しています。つまり、デジタルを介して、別のものを聞き取っているのです。
いずれにせよ、根本的なのは、記録され、保存されることで、分析の新たな可能性が生まれることです。新しいソフトを使って、機械に分析を任せることができるようになったのです。その分析は非常に単純な分析、モチーフの構造と呼ばれる、つまり曲の中で繰り返される音符のモチーフの小さな細胞の分析や、リズムの分析であったり、もっと複雑な、音色の分析、さらにいわゆる形式と呼ばれる音楽の大形式の分析なども可能なのです。この装置によってコンピューター支援音楽分析ができるようになったのです。これは非常に重要なことです。まず作曲家自身にとって、音楽を作曲している最中にこのような装置に支援されることで、自分の仕事に距離を置くことができます。音楽理論家にとっても、また聴取者にとっても、これは音楽を聴く全く新しい方法でもあります。たとえ楽譜を読めなくとも分析能力を持って音楽を聴く方法なのです。
このようなことは、何も私がIRCAMに来てから始まったのではなく、IRCAMを創設したピエール・ブーレーズが既に取り組んでいたものです。彼は20世紀の最も偉大な作曲家・指揮者であるだけでなく、偉大な音楽の理論家でもあります。さらに、彼には数学家、物理学者、哲学者との交友関係がありました。ジル・ドゥルーズ、ミッシェル・フーコー、ロラン・バルトは彼の友人で、ここIRCAMに来ていました。シェーンベルクの遺産であるセリー音楽の再評価を中心として、音楽固有の研究のプログラムを開発しました。ブーレーズは1970年ごろから、コンピューターが音楽に全く新しい問題をもたらし、またそれによって音楽の新しい可能性をさぐることができるだろうと確信していました。 まず、音楽のデジタル的性質、つまり、音楽的組み合わせについて、全く新しい道具を使って考察することが可能になるだろうと彼は考えたのです。第二には、全く新しいやり方で作曲の問題を提起することが可能になると考えました。全く聞いたことの無い、全く新しい音楽をつくることが出来ると考えたのです。ちょうど17世紀にヨーロッパで、バロック楽器群、つまり木でできたヴァイオリンなどの楽器が発明され、新しい音が出現したことで、19世紀にオーケストラがうまれるきっかけとなったことと同じだというわけです。
<一般器官学>
これらは全て、私が「一般器官学(l’organologie générale)」と呼んでいるものに関わります。私は、この問題にIRCAMに来る以前にすでに取り組み始めていましたが、IRCAMが私にこの主題を練り上げることを促がしたのです。私自身が、IRCAMと仕事を始めたのは、1985年ですからもう20年になりますが、芸術の変化は、私が「器官システム」とよんでいるシステムの変化によって多元決定されているのだと私は考えているのです。音楽には、常に技術が関わります。最も古い音楽の中にさえ、常に楽器があります。あらゆる芸術には常に道具が介在すると思いますが、それが見えない芸術もあります。それに反して音楽の分野では、非常に明白です。身体の技術だけではありません。それは、楽器の技術をめぐって構築されるのです。フルートであれ竪琴、太鼓、チェンバロ、コンピューターであれそうです。
音楽の分野で一つ例を挙げると11世紀まで、音楽は常に楽器奏者の行為でした。楽器奏者であれ、歌手であれ、音楽を演奏することは、ギリシア人が目録と呼んでいたような、伝統的なレパートリーを再活用することであり、即興的にヴァリエーションをつけながらそれを演じることでした。
しかし、11世紀に重要な出来事が起こります。イタリア人、グイド・ダレッツォが独自の記譜法を完成させます。彼の考えでは、これは声楽、讃美歌、グレゴリオ聖歌の記憶を記録・保存するためのものでした。しかし彼は、ソルミゼーション、つまり音階を音高により音符に切り分けることによって、譜表と呼ばれるようになるシステムを発明します。その後リズムの表記のシステムが登場し、数世紀を経て完成されてゆきます。しかし、より重要なのは、音楽の音をデジタル化する可能性を発見したことです。それは、音楽を音符と呼ばれる要素に分析することによって、理論化することです。言語においてアルファベットの登場によって言語の理論化が起きたのと同様の事態です。そして、その後2,3世紀を経て、ついに作曲家という形象が登場することになります。作曲家は楽器を演奏しない音楽家であり、いわば紙の上で音楽をする人です。空間的にと言ってもいいでしょう。音楽は時間に属するものですが、作曲家は時間を生み出すために空間で仕事をします。そして、一方に作曲家、もう一方に演奏家という分離が生じることになります。これが私の言う「器官(=機関)的変化」です。この変化によって、美学的・象徴的過程における役割の再分割が引き起こされるのです。
さらには、録音技術の誕生によって演奏しないで音楽を聴くことが可能になります。これは全く新しいことで、それまでは、宗教音楽、軍隊の音楽においてさえそのようなことはありませんでした。例えば、宗教儀式に参加する信者は、音楽家ではありませんが、歌います。彼らは音楽の生産活動に参加しているのです。つまり、彼らは決して単に受動的な状態にあるわけではありません。20世紀の始めから、録音再生技術によって、私はなにもせずに、音楽を演奏することができなくても音楽を聴くことができるのです。このことによって、それ以前は存在していなかった聴取者という新しい形象が現われます。これは新たな役割の再審級化です。今デジタル化によって起きているのは、役割の新しい再審級化なのです。つまり本当の意味での「器官(=機関)的革命」が起こりあらゆる役割が再配分されているのです。こうした再配分は、産業革命以来の産業が私たちに突きつけている大問題なのです。
<象徴的貧困>
石田:あなたの哲学は、記憶の産業化、さらにはメディア・コンテンツと呼ばれるような、映像や音楽などのフッサールのいう「時間的対象」の産業化を根底的に批判する企てでもありますね。文化産業のグローバル化とそのプロセスへの意識の組み込みに、私たちはどのように立ち向かったらよいのでしょう。あなたのいう現代社会における「象徴的貧困」、あるいは「存在しがたさ」について詳しく話して頂けますか?
スティグレール:産業革命は、産業製品を大量生産するために、大規模の投資、銀行家を必要とします。もはや起業家ひとりで投資を行うのではなく金融グループが投資を開始するのです。それはまた、消費を組織することができる手段を発展させることを必要とします。消費が提起するのは、行動のコントロールの問題です。そこで、先ほどお話した書記の世界、経済圏から切り離されていた世界が次第にこの経済圏に吸収されるのです。つまり、経済圏の問題が益々象徴の生産を支配することになっていくのです。行動がコントロールされるのは象徴によってだからです。最初の広告代理店は、19世紀の新たな情報・通信技術が誕生する時代に生まれ、その一世紀後にマーケティングが登場しにというをする人が非常に特異な答えを引き出すことができるようなにというをする人が非常に特異な答えを引き出すことができるような、経済戦争は、知のコントロールと独占、そして利用を争う戦争になったのです。
この知のコントロールに関して、私が大きな懸念を持っているのは、アーカイヴの保存やその利用のために用いられる選別の基準の問題です。それは、アーカイヴが閲覧され、記憶を提供した時点から、アーカイヴは単なるアーカイヴではなく、記憶となるからです。そして、その閲覧はアクセスするシステムに左右されますが、このアクセス・システムは、アーカイヴィストによって、あるいは今日では例えばグーグルのような検索エンジンによって作られます。このような検索システムで問題なのは、システム設計で大きな役割を果たした基準が何かということです。基準が、例えばネゲントロピーを生じさせること、すなわち特異性を生じさせること、非常に特異な質問をする人が非常に特異な答えを引き出すことができるようにという基準だったのか、あるいは、最大限の答えにマッチするものだったのかということです。この時、用いられた基準論が全く違うこと、エントロピー的なものだということを自覚しなければなりません。
後者のような検索システムを用いて質問をする時、検索エンジンの制約に従わなければなりません。単純にいうと、「あなたがする質問に検索システムを適合させましょう」とはシステムは言いません。「検索システムにあなたを合わせてください。あなたの質問を検索システムが答えとしてあなたに提示することができるような形に変えてください」と言われるわけです。その結果まったく信じがたいパラドックスに到達します。例えば私はアントワーヌ・ベルマンという、すばらしい翻訳家であり、翻訳の理論家でもあった人物と(彼は『外国語の試練』という翻訳に関する素晴らしい本を残しました)とよく仕事をしました。彼は特に、自動翻訳処理、つまり産業翻訳の支援にも関心を持っていました。私達は一緒にこの問題に取り組みました。例えば、エアバスの飛行機の資料書類は飛行機本体と同じくらい重いということをご存知かもしれません。紙の資料です。飛行機を売りたいなら、数千ページ分の資料を50カ国語に翻訳しなければなりません。英語やフランス語の資料を渡すだけで満足しているわけにはいきません。日本に売りたいなら日本語に、中東の国に売りたいときはアラビア語に翻訳しなければならないのですから。これには非常にはっきりした理由があります。飛行機には安全問題があり、飛行機のメンテナンス部門担当のエンジニアは、非常に厳格な国際安全基準の法律に従わなければなりません。そこで起きる問題は、エアバスの値段のうち、翻訳の費用が12%を占めているということです。翻訳といいましたが、実は、単に翻訳だけではなく、翻訳に伴うあらゆる文書処理のシステム、それに附随するメンテナンスの装置を含むものです。そういう次第で、自動翻訳処理、つまりコンピューター支援翻訳のシステムを開発するための大きな努力が始まりました。しかし、そこで大きな問題となるのは、翻訳者が彼らの翻訳を、システムが処理可能な範囲のものに合わせていることです。つまり、彼らの言語を貧弱なものにして合わせているのです。今はSMS(ショートメッセージサービス)を使って、携帯電話でメッセージを送りあう子供や若者の電気通信のやり方をみると、同じことが起こっていることが分かります。これは「象徴的貧困」の問題と呼ぶことができるでしょう。
この30年、特に最近10年の、アナログ・メディアのテクノロジーと情報テクノロジーが収斂することによって起こったいわゆる「デジタル革命」は途方も無い発展の潜在力を持っており、それはほとんど無限のように思われるほどです。生産と消費の機能的統合の結果、象徴権力は完全に生産の利益の統制下に置かれてしまいます。これは非常に危険なことです。象徴権力は、秩序、つまり例外を呼び起こすものとしての秩序の中でしか機能しないからです。未開の部族であれ、フロイトの原始部族、ギリシアの都市国家、中華帝国であれ、異なった形態の社会が、一つの社会として存在するのはその社会を組織する権力が象徴効果をもつ間だけです。そして、この象徴効果が今根本的に危機に瀕しているのです。
というのも、コミュニケーション・テクノロジーは、短期的には、消費行動の画一化という変化を生みだし、つまり私が個人の「非単独化」と呼ぶ現象を引き起こすために使われるからです。それは、ジル・ドゥルーズが「コントロール社会」と呼んだ社会であり、あらかじめ決定された鋳型に個人の行動を流し込むやり方です。ドゥルーズはまた「モジュール化社会」とも言っていますが、マーケティングによる社会的コントロールが起こっている。知的活動のための情報テクノロジーは、検索装置を通して最大限の収益性が見込まれるような基準に検索を従わせるようになる。つまり、ネゲントロピーは生まれないのです。ネゲントロピーは不透明性を生じさせるばかりで、長期的にしか「収益性」を生み出すことはできないからです。
こうした行動の画一化は個人の非単独化、グループの非個別化を引き起こします。その結果として、個人が次第にそれぞれ個人としての過去の単独性を失い、隣人と非常に似通った過去と生活様式を共有するようになり、そのことによって、個人の単独性を主張する力が益々減少します。この個人の単独性こそフロイト以後、原初的ナルシシズムとよぶものの条件なのです。フロイトのいう原初的ナルシシズムは、自己の尊厳、自らに対する尊敬のことです。フロイトは明確に、この自らを尊敬する力こそが、他者に向けられる尊敬の念の必要条件であると言っています。ですから、個人のリビドーを取り込もうとして、肯定的なイメージ、いわゆる個人が自分自身について持つ「自我理想」が、産業的に徐々に清算されることで、個人は次第に自分自身を愛さなくなります。自分自身を愛さなくなることで、他者をも愛せなくなるのです。そして、ついには欲望自体が消滅してしまいます。
この事態こそ私たちが生きている現代の大きな危険であるのです。情報とコミュニケーションのテクノロジーを介してあまりに管理されてしまったために、リビドーのエネルギーが不均衡になっているのです。マーケティングは、エドワード・バーネーズというフロイトの甥が作った理論が基になっていますが、彼は1930年代に、アメリカで無意識のコントロール、つまりリビドー、大衆の欲動のコントロールの理論を開発したのです。彼は「消費したくない人々に消費させることができるためにはこのリビドーを取り込まなければならない」と言いました。何もせず自然のままでは、社会は消費に向かいません。広告やメディアによって、消費が引き起こされるというわけです。彼が行った非常に興味深い最初の実験は、タバコに関してです。30年代に、彼はタバコの製造者に向かって、「女性はタバコを吸いません。アメリカにおけるピューリタニズムなどが理由でタバコはタブー視されている。そこで、喫煙を女性にも広めるには、男根的象徴を利用する必要がある。つまり、精神分析の去勢理論こそを利用しなければならない」と言って、タバコの男根理論を展開したのです。こうして、女性に典型的なこの欠如の状況をうまく活用するイメージを生産し、女性達を消費に向かわせることで、タバコの市場を二倍に拡大することができるのだと考えたのです。
このことは次いで50年代に購買動機の調査(モチヴェーション・リサーチ)という形で理論化され、最終的にはマーケティング技術に行き着き、今日では非常に日常的なものとなりました。例えばスーパーマーケットで商品を買うと、その価格の80%がマーケティング費です。つまり包装、広告キャンペーン、購買動機リサーチなどの費用なのです。このことに関して私が確信しているのは、約30年前に天然資源の利用に関して起こったことと非常に似通ったことが、21世紀の始めに象徴、精神に関して起きているということです。20年、30年前、特にチェルノブイリの事故などによって、人々が発見したのは、産業によって天然資源が徹底的に利用された結果、天然資源が損なわれたということでした。そしてこのことが生態学的不安を引き起こし、この不安はいまでは世界中に拡がっています。ヨーロッパでも深刻ですし、日本でも同じでしょう。そして今、私たちが発見するのは、私たち自身が徹底的な産業的搾取の対象となった時代を生きているということなのです。それは天然資源ではなく精神資源あるいは 象徴資源の搾取であるのです。
<ハイパー産業時代の哲学と芸術>
石田:最後に、哲学そして芸術の可能性の問題が残っています。あなたがここまで話した全ての問題をふまえた上で、これらをどのように位置付けますか?現代のハイパー産業時代に直面して、哲学や芸術の可能性はどう定義されるのでしょうか?
スティグレール:確かに、産業化の進展は負の面を抱え、それが現在私たちの経験する<存在し難さ>の原因にほかなりません。しかし、他方で、産業が発展し続けることは必要です。とはいえ、産業をこれまで通りのリビドー経済の破壊によって発展させ続けることはもはやできません。それは非常に危険なことです。また、本来、知に役立つはずの情報テクノロジーも、それがエントロピー的である限り、情報は生み出しますが、もう知を生み出しません。知は情報ではないのです。情報は知を生産することを可能にする原料にすぎません。情報が出す答えの中には計算の最初の段階で入れたものしか出てきません。情報システムはこの意味で、完全にエントロピー的です。知にとって重要なのはネゲントロピーです。そして、ここで改めて単独性、リビドーの問題に立ち返ることになります。
例えば、プラトンは『饗宴』の中で、「知は昇華された愛である」と言っています。これはフロイトが、より科学的な言い方で述べていることでもあります。彼は、「学者とは何か?自分のリビドーを昇華装置、対象への崇拝の装置に変化させる能力を持った人である」といいますが、それはプラトンが言っているのと同じことです。この知の対象は幾何学であったり、物理学、哲学の伝統、神学、あるいは芸術の歴史であったりするでしょうが、自分の持つ単独な欲求や欲望をこれらの対象に備給することができます。私は単独性の問題をここで強く主張したいと思います。というのは、私が言っているのは、つまるところ、現在の社会がリビドーの力の濫用の上に成り立っているということだからです。消費者について言えば、消費者に産業製品を買わせるようにリビドーの力が濫用され、また同時に生産者、特にエンジニアや学者など、新しい製品の構想や産業革新を実現するのに必要な科学的な象徴の生産に従事している人びとのレベルにおいても、リビドーの過剰な搾取と濫用が行われているのです。
こうして、象徴システム全体が産業による搾取によって崩壊の危機に瀕しているのが現代なのです。私たちはそれを批判しなければなりません。従来の発展モデルは今、重大な経済的、政治的、地政学的、生態学的問題を提起しており、世界人口がこれからの20年で2倍になることは皆よく知っていますが、だからといって、それを戦争をすることによって解決することはできません。それが大きな困難なのです。人間的な解決策を見出さなければならないのです。私は人類にとって産業以外に未来はないと思っています。ですから、私たちが行うべきなのは、告発ではありません。私はエコロジストではありませんから、産業を告発するようなことはしません。テクノロジーとその社会的役割について本当の意味での批判的検証を行う時が来ているのです。私は、批判という言葉を、哲学者、特にカント哲学が批判についていう意味で使っています。批判という言葉を判別の意味で、またカントが二律背反と呼んでいる限界の理解という意味にとっています。私たちは知を持たないところでは、慎重であらねばなりませんし、場合によっては新しいモデルを発明しなければならないのです。
それはまた芸術の使命でもあります。私の考えでは、芸術一般は、音楽にせよダンス、映画にせよ、感性の新しい可能性を探ることに役立つものです。人間は知性だけでなく、感性をも拡張する生き物です。新しい物理学の理論を展開することは物理的現実を理解する能力を拡張することです。新しい芸術的な可能性を発達させることは、感性の経験の領域、その可能性を拡張することです。言い換えれば、耳、眼、肉体による知覚を豊かにすること、つまりは単独化しネゲントロピー化することなのです。