[注記:ベルナール・スティグレール追悼のために緊急掲出するものです。未定稿ですので、引用については決定稿から行ってください。石田英敬]
iii Digital Studies Conference 2016
情報学環『デジタル・スタディーズ討議 2016』
Dream and Power in the Digital Age
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉
3月12日(土) ・13日(日)
東京大学本郷キャンパス 福武ホール
DE LA DISRUPTION
大断絶(ディスラプション)について
Bernard Stiegler ベルナール・スティグレール
2016年3月12日 東京大学
この講演は、私が夢と狂気について現在行っている研究の一部をお話するものです。
この研究の背景には、「大断絶 (ディスラプション)」[仏、英 disruption]と呼ばれる、そのせいで私たちが多かれ少なかれ気が狂ってしまっていると私が考える今日の事態があります。
この研究は、また、ミシェル・フーコーが『古典主義時代における狂気の歴史』でおこなったデカルト『省察 』の解釈をめぐって、1960年代初めにフーコーとジャック・デリダのあいだに交わされた、聾者同士の対話[対話にならない対話]とでもいうべき論争*から出発して、夢と狂気の問題を問うことを試みたものです。
ὕϐρις ヒュブリス(過剰)
本題に入る前に、フクシマの大惨事について、『続・百年の愚行』**において表明した立場にあらためて触れておきたいと思います。「愚行(idiotie)」というフランス語は、ギリシア語の「ἴδιος, ídios」に由来し、英語では「stupidity(愚かさ)」でもあり、「idiocy(白痴)」ともなるわけですが、ラテン語では、「stultitia」と言います。このラテン語は、「痴愚 [仏 bêtise] 」、「愚かさ[仏 stupidité] 」、そして、「狂気 [仏 folie] 」と訳されるものです。エラスムスが『痴愚神礼讃 』[原典ラテンStultitiæ laus 仏語 Eloge de la folie]で用いている言葉でもあります。
しかし、もちろん「愚行」「痴愚」「狂気」を混同してはなりません。それらは一般には「ὕϐρις, hybris(ヒュブリス)」に帰されるべきものですが、お互いに明白に区別されるべき三つの次元なのです。
このギリシア語が意味するのは、無法な悪であり、過剰、そして、狂気です。しかしながら、ヒュブリスはたんに狂気の名ではありません。ヒュブリスとは、狂気の多様な形 ―― じっさい狂気にはあらゆる形があります ―― の根本にある存在状況を表している言葉なのです。そして大断絶という状況こそ、いまヒュブリスのなかにあるわたしたちの今日的な存在状況を特徴づけるものなのです。
ヒュブリスはまたわたしたちを根本的にハイブリッド(混合的)な存在にしてしまっています。それは私たちを取り巻き構成している現実そのものもハイブリッド化してしまっています。私たちの現実は、全面的に虚妄(イリュージョン)ではないですが、本質的に二重で、二面的で、不確実で、曖昧なものとして現れています。なぜそうなっているのかというと、一つには、私たちの現実が、ギリシア神話のヒッポグリフ[前半身が鷲、後半身が馬の伝説上の怪物]のように、キマイラ的なもの、異質な現実を混合した人工物から成り立っているからです。また、それゆえに、その現実が、「ファルマカ [ファルマコン pharmakonの複数形]」***、つまりヒュブリスの根本状況において、悪、苦しみ、悲惨をもたらすものに対する薬であると同時に、これらの悪、苦しみ、悲惨をさらに悪化させてしまう毒として成立しているからです。
* デリダ・フーコー論争は、デリダの「コギトと狂気の歴史」(『エクリチュールと差異』、合田正人ほか訳、法政大学出版局、二〇一三年)に端を発する論争のことを指す。デリダはフーコーの『狂気の歴史』における、デカルトの「コギト」が狂気を排除していたとする解釈を誤りとして批判。フーコーは『狂気の歴史』再版に際して反論「私の身体、この紙、この炉」(『フーコー・コレクション3』、ちくま学芸文庫、二〇〇六年)を加え、両者は長きにわたって決裂することとなった。
**『続・百年の愚行』、小崎哲哉(編著)、「技術というファルマコン」(ベルナール・スティクレール、石田英敬訳)、一般財団法人Think the Earth、発売紀伊國屋書店、2014年12月18日、232頁、pp.135-140
*** 「ファルマコン pharmakon φάρμακον / ファルマカ pharmaka ϕάϱμαϰα 」はスティグレールがデリダから受け継いで発展させた技術の本質を定義するキーワード。プラトンの対話篇『パイドロス』で技術の神テウト神による文字の発明の逸話において、テウト神の発明を指して使われている「秘訣 ドラッグ」を意味することば。英語のファルマシー(pharmacy)の語源、ドラッグを意味する言葉です。薬であると同時に毒であるという両義的な意味を持つ言葉。
1 L’exo-somatisaton et la disruption
外-身体化と大断絶
この根本的にハイブリッドな状況は、先史学者のルロワ=グーランの言う「外在化[仏 extérioirisaiton]」 のプロセスから生まれるものですが、ここ二、三年は、私はむしろ「外身体化[exosomatisation] 」のプロセスとそれを呼ぶことを好んでいます。その理由は後で述べます。
*
今日、大断絶と呼ばれている事態は、私たちの根本的にハイブリッドな存在状況の一特殊ケースであるといえる。そこでは、外身体化の新たな段階が生まれていて、トランスヒューマニズムのような妄想が出現するのもそのせいです。外身体化のこの新たな段階は世界全体に狂気を生みだしつつある。その全般的な狂気は、月並みの狂気、並外れた狂気、そして、熟慮された狂気というような三つの体制に分類されるようです。こうした見方は、ミカエル・フュッセル Michaël Fœssel、ジャン=バティスト・フレソズ Jean-Baptiste Fressoz、ペーター・スローターダイクPeter Sloterdijk による分析を踏まえたものです。
スローターダイクは、『資本の世界内空間』(Im Weltinnenraum des Kapitals. Für eine philosophische Theorie der Globalisierung, Francfort/M., Suhrkamp, 2005)で、近代の幕開けを、狂気にむかう傾向として描き出しています。
フレソズは、『悦ばしきアポカリブス』 (L'apocalypse Joyeuse, une histoire du risque technologique, Seuil, 2012)で、人新世が出現する条件とは、リスク・テイクが途方もなく増加して、ヒュブリスが勢いを増し絶えず興奮が刺激されつづけることにあることを示しました。
そして、フュッセルは、「ニコラ・サルコジの狂気」と呼ばれたものを手がかりにして、ブレーズ・パスカルやフーコーの分析を改めて活用しながら、権力とはつねにそれ自体として、権力者の側にも、権力を被る側にも、狂気をもたらすことを明らかにしています。彼の分析は、『エスプリ』誌の『狂気の淵で』という特集号に収められていますが、フランス社会における心理的・道徳的な不安の増大が、「月並みの狂気」という言葉で指されるような、多かれ少なかれ狂気に近い精神病理のさまざまな形をとって表れるようになってきていることを示しています。
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νοῦς ヌース(知性、思惟)
フーコーは、『古典主義時代における狂気の歴史』で、17世紀以降の西欧社会では、理性は非理性すなわち狂気とラディカルに対立してきたと示そうとしました。しかしながら、ギリシア哲学の伝統では、またモンテーニュからパスカルにいたるまで、狂気とは、解きほぐしがたく、思惟に属するものとされています。狂気とは、思惟する能力を構成するものとされているのです。狂気のみならず、痴愚や愚行もまた、ノエシス[=思惟活動、ヌース(知性、思惟)の働き]の次元とされているのです。
このノエシス(νόησις 思惟活動)とは、知性的かつ精神的に思考する能力のことです。知性的かつ精神的にというのは、「ヌース νοῦς(知性、思惟)」が「ロゴス λόγος(ことば、論理)」に尽きるものではないからです。ヌース(知性、思惟)の作用であるノエシスは精神的なものであり、かつ、思惟としては、ロゴス的、すなわち 、知性的なものでもあるとされるのです。ノエシスは、論理的・知的能力によって説明され尽くすものではないのです。それゆえ、ヌースはラテン語でも、「知性intellectus 」と同時に「精神spiritus」でもあると訳されます。フランス語の「intellect」 と「esprit 」もそこに由来しています。
アリストテレスにおいて、パトス的な(受動的な)ヌースとポイエーシス的(能動的な)ヌースが区別されるとき、この二つの次元が作用しているのだと私は考えます。この点を強調しておきたいのは、この二つの次元が、カントにおいては、「悟性 Verstand」と「理性 Vernunft」となっていくものだからです。理性と悟性は、認識の能力において区別されるものですが、二つが合わさって思惟する能力をポイエーシス νόησις [生み出すこと、制作]として構成するのです。
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私たちが、思考し、認識する、すなわち、ヌースをノエシスとして現勢化させる必要があるのは、ノエシス的存在である人間がそもそもハイブリッドな存在であるからです。それゆえ、私達は、いつも不確実さのなかにおかれています。ノエシス的生産は、制作物、ということは人工物 をとおして具体化します。しかし、それは、すでに成立していた外身体化に新しい器官を付け加えることにになり、すでにある外身体化を変更させることになる。つまり、すでに確立していた生活様式を揺らがせるのです。外身体化はつねに空想をともなうもので、幻滅や危難ときには途方もない大惨事さえもたらしかねない。私たちの生活様式自体が、外身体化の下にヒュブリスを押さえ込み同化するやり方であるわけなのですが、それが揺らぐことになるのです。
狂気や痴愚、愚行を引き起こすのはヒュブリスですが、それは過剰でもあり悪行でもあります。ヒュブリスも自体が外-身体化の結果でもある。しかし、狂気や痴愚、愚行はヒュブリスに由来するものであるかぎり、思惟するよう強いるもの、思惟をつくるものでもあるのです。この点については、後ほど、夢との関連から論じます。狂気は、思惟における、語の起源的な意味で、最も天才的[=精髄的 génial]なものの源泉でもあります。ここでいう、「天才的」とは、起源的なもの、単独的なもの、機械仕掛け(ex machina)からのように唐突にではないとしても、先例なきものという意味です。それが、たとえば、『饗宴』でプラトンが語っていることであり、「天才とメランコリー」でアリストテレスが、さらに、セネカ、モンテーニュ、そのほか、デカルトと同時代の17世紀の多くのモラリストたちが言っていることです。
しかし、ノエシスはまた、しばしば、思惟能力の否定的な行使でもあります。思惟する能力はしばしば、邪悪な思惟、凡庸な思惟、あるいは否定的な、ということは退行的な思惟、つまり痴愚 ―― それらはまたしばしば悪しき考えでもあります――を生み出すものです。痴愚は思惟に属するものでもある。どんなに愚鈍な思惟であっても、あらゆる思惟は、外身体化のひとつの有りかたとして、言葉による表現や広告のような些細なかたちでにせよ、最終的には現実のなかに具現化するのです。そして、思惟とは一般的にいって、たとえそれがいかに天才的で大いなる外身体化に行きつく思惟であったとしても、どうしようもなくハイブリッドなもので、必然的にファルマコン的なものなのです。それゆえに、不可避的に有害で、退行的で、最終的には、もはや天才ではなく愚鈍を表現するようになってしまうのです。
愚行に関して言えば、それは痴愚と天才の典型的なハイブリッドだといえる。個別言語(イディオム) ―― すなわち、話者のあいだでは共有されているが、話者でないものにとっては特異なものである言語――、そして固有話法(イディオレクト)の特異性 ―― すなわち、同じ個別言語で話していても、ある人の特異な話し方―― は、天才の可能性をもたらすものです。詩とは、言語の恣意的な特異性を、詩と呼ばれるあの崇高で明白な必然性へと変容させるものです。愚行とは、この意味で、欠点の証言なのです。しかし、その欠点は、特異性が詩に固有の関数となるように、必要不可欠さの約束でもあるのです。
これらすべての問いが、表現 [ ex-pression 外に押し出す]、すなわち、外-在化 [ ex-tériorisation 外に出す ]、すなわち、外-身体化とは、何であり何を可能にするのかという問いに関係していることに注意しましょう。外-身体化は、プラトンの対話篇『プロタゴラス』のなかで、プロタゴラスがソクラテスと民主主義の意味について論じる際に描きだしているものでもあります。プロタゴラスは、この対話篇のなかで、プロメテウスとエピメテウスの神話を語ります。この物語は、私自身が『技術と時間 1:エピメテウスの過失』の 出発点として詳しく扱ったものでもあります。プロタゴラスは、私たち、死すべきものたち– oi thanatoi - が、エピメテウスによる忘却の産物なのだと言っています。その忘却を補うために、プロメテウスは、オリンポスの神々から火を盗み出さねばならなくなり、私たち人間に、技術という人工的な性質を与えるようになったというのです。
その技術 ― 火がその一般的象徴であるわけですが ― は、しかし、ファルマカ、すなわち、人工的器官であり、それを用いる者たちにいつでも逆らいうるのです。というのも、それらの技術は、「活用法」とは決して一緒に与えられないものからです。また、その活用法とは、決して単なる使用法ではありえないからです。技術は、それを活かす 療法[セラビー 養生法]を考えることを求めます。そうした療法は、その都度、時代ごとに、単独的に、個別的に[ idiotiquement 愚直に] 開発されなければならない知なのです。つまり、一方では、その時代に現れる新たなファルマカに応じて、そして、他方では、その時代が以前から受け継いできたものに応じて、治療法は開発されなければならないものなのです。地理地域や歴史的な積み重ねに基づいた、心理的かつ集団的な個体性に応じて、つまりハイデガーなら現-存在と呼んだ存在の仕方を構成するものにしたがって、治療法は編み出されるべきものなのです。
ファルマコンが求める療法(therapeiaテラペイア)とは、知です。その知は、生き方の知であることもあれば、作り方の知であることもあれば、さらには、ノエシス的知 ― 精神的、観想的、理論的、知性的、アカデミックで科学的な知 ― であることもありえます。プロタゴラスが語る神話が教えるのは、そのような知は、ゼウスがヘルメスを遣わせて死すべき者たちに伝えたことがらのなかに含まれているはずだということです*。それは、人間たちのαἰδος(アイドス、つつしみ、恥じらい)およびδική (ディケー、いましめ、正義)への関わりです。アイドス(恥じらい)とディケー(正義)はヒュブリスが引き起こすはずの感情であって、ヒュブリスを含み押さえ込む(contenir)ことができねばならないものです。ここで、含み押さえ込む(contenir)というのは、二重の意味からであり、ヒュブリスをこらえておく、すなわち、暴走するのを防ぐと同時に、ヒュブリスによって構成されてもいるという意味で、含んでいるということなのです。
* プラトン対話篇『プロタゴラス』では、人間たちに技術を与えたゼウスが、人間たちが戦争を始めたので国家をつくるために、ヘルメスを地上に使わして、人間たちに政治技術を与えようとする一節がある --
「だが、彼らは寄り集まるたびに、政治技術をもっていなかったために、互いに不正をはたらきあい、かくしてふたたびばらばらになって滅亡しかけていった。これを見てゼウスは、われわれ人間の種族がやがてすっかり滅亡してしまうのではないかと心配し、ヘルメスをつかわして、人間たちに〈つつしみ αἰδος 〉と〈いましめδική 〉をもたらすことにした。この二つのものが国家の秩序をととのえ、友愛の心を結集するための絆となるようにとのはからいである。」藤沢令夫訳 岩波書店 プラトン全集8]
恥じらいとしてのアイドスは、ギリシア人が日本人の文明と共有するもののように思われます。それは、悲劇的な文化を構成する本源的な知であり、ヨーロッパ人、西洋人が、その後、一神教とともに失ってしまったものです。プラトンはこうしたキリスト教的一神教の到来を用意した人物であり、聖パウロが、ギリシア的・プラトン的文化と唯一神のユダヤ教とを混合することでその一神教を構成したのです。プロタゴラスとソクラテスは、ギリシアの悲劇時代の最後の証言者たちなのです。
*
ノエシス[思惟活動]の天才的 -- すなわち、狂気的でもあり -- 愚行的、愚鈍でもある次元を考えるには、プロタゴラスが神話的に描き出している外-身体化のプロセスのなかにそれらの次元を再び記入してみるのでなければなりません。そのプロセスは、今日では、一世紀以上前から、先史学や考古学、動物学、人類学が、そしてまた、たとえば、ニコラス・ジョージェスク=レーゲン Nicholas Georgescu Roegen や、あるいは、フランスで言えば、ルネ・パセ René Passet の経済学がまた描き出しているものもあります。生命の歴史は、それ自身が進化的なプロセスであり、その進化は、内身体的な器官発生に表れるものですが、この生命の歴史において、外-身体化は、ジョルジュ・カンギレム Goerges Canguilhem が「技術的生」と呼ぶものを特徴づける器官発生の新たな段階であって、この段階においては、新たな器官の生成は、身体外で、つまり、外-身体的に継続されるようになります。
この新たな生命のかたちは、単に動物的なものではなく、人工的な器官発生に基づいています。つまり、有機的[=器官的]ではなく器官学的[= organo-logique 器官-論理的]なものです。外身体的な器官発生は、人工的であるがゆえに、あらゆる生命体と同じくネゲントロピー的 ― 生命とネゲントロピーの関係については後ほどすぐに論じることにします― であると同時に、エントロピー的、すなわち、生命にとって破壊的な器官を生み出します。別言すれば、それはファルマカなのです。ネゲントロピー的な薬は、つねに、エントロピー的な毒でもあるわけです。
西洋の哲学は、二十五世紀にわたって、ノエシス的な生 [思惟的生][石田1] のこの根本的な次元を否認し抑圧してきました。技術的生はまた、ノエシス的な生でもあるのです。そして、ノエシス[思惟活動]、つまり、思考し、推論し、先取りする能力は、ネゲントロピー的な機能を有しています。私がここで取り上げているのは、アルフレッド・ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadの見解です。つまり、理性は、技術的生物の、エントロピー(entropie)一般、そして、特に、「人間が生み出すエントロピー(これを eをa に変え、tにhを加えてアントロピーanthropieと私は書きますが)」 に対する闘争において、ネゲントロピー的な分岐を生み出す役割を持っているのです。
La loi de l’entropie エントロピーの法則
これらすべての問いは、19世紀に、熱力学の分野において、いわゆる熱力学第二法則、あるいは、エントロピーの法則とともに現れる宇宙論および宇宙物理学の巨大な問いから理解されねばなりません。それが、数学者であり経済学者であったニコラス・ジョージェスク=レーゲンの議論の際立った点でもあります。
エントロピーの法則は、古代ギリシアより前に、最初の天文学者が登場した古代エジプトやメソポタミア以来、西洋において成立しきた、宇宙についてのあらゆる考え方を文字通り破壊しました。従来の考え方によれば、宇宙は完全に安定したもので、アリストテレスが後に、恒星天 ― それは、月下の、すなわち、わたしたちが生きている腐敗した世界、すなわち、退化した世界とは区別されていました ― と呼ぶことになるものを構成していました。ここでいう、退化とは、今日ならば、エントロピー、劣化、崩壊と私たちが呼ぶであろうものです。
恒星天とは、ギリシア人たちにとっては、不死の者たちの天球であり、一神教にとっては、永遠性の天球、すなわち、天のことです。別言すれば「存在(το ον)」の領域であり、それが存在神学、つまり、神についての言説でもある存在についての言説を構制していました。このような観点では、生成変化(le devenir)は、月下の現実、すなわち、実際には、非-現実です。つまり、プラトン以来本質と考えられてきたものを覆い隠す幻影なのです。そして、本質は、統一され、完全で、不変である〈存在〉の内で、永遠のものと考えられていました。
その時代、「コスモス」と呼ばれていた宇宙は、ひとつの「自然 physis」と考えられていました。その自然のなかで、見かけの運動が生みだされるのですが、その運動は絶えず同一性に回帰してゆく絶えざる運動に基づいており、それこそが、〈存在〉の真の運動であり、恒星天は、その〈存在〉の真の運動が現れた姿であって、それを眺めることが、ギリシャ語でいうテオーリア[theoria 観照]であって、その存在の運動は常に同一性へと回帰する循環運動を描いているというわけなのです。
ここでは、16・17世紀以降、宇宙についての西洋の見方がどのように変化していったかを詳述しません。アレクサンドル・コイレ Alexandre Koyré がその主著『閉じた世界から無限の宇宙へ』で描き出したものですが、そのための時間はありません。しかし、コペルニクス以後、ケプラーやガリレーに始まって、宇宙についての西洋の考え方が、天動説から地動説へ、そして、地動説から、もはや「恒星天」のように閉じたものではない、無限のものとしての宇宙へというように、新たな考え方へ移っていったことは触れておきたいと思います。このような観点は、デカルトともにそれ自体が無限のものとなった空間という新しい考え方に発して、ニュートンの思想を培い現代物理学へと導くことになったのです。
現代物理学は、天動説からは離れながらも、それ自身はつねに同一である宇宙という考え方をいまも維持しています。宇宙はそのかぎりで無限なのです。そして、そのかぎりで、宇宙がその無限性において自己自身に等しいという考え方は、プラトンやアリストテレス以来の形而上学の基礎にあり、デカルト、ニュートン、さらにはカントにおいても維持される存在論の枠組みを根本的に揺らがせるものではありません。〈存在〉は自己自身に等しく、生成変化は自己と矛盾するものなので、〈存在〉はつねに、生成変化と対立すると考えられているのです。
*
19世紀には、いまだまったく過小評価されていますが、途方もなく大きな射程をもった科学的な出来事が生じます。それは、物理学者サディ・カルノーによる蒸気機関の研究から、エネルギーは不可逆的に散逸する、抗い難く宇宙に拡散する傾向をもつという説の提起だったのです。
このテーゼの最初の定式化は、1865年にクラウジウスによって再び取り上げられて、この原理にエントロピーの名が与えられ、一般物理学の熱力学法則となります。20世紀から今日にいたるまで、それはまったく新しい宇宙観をもたらすことになる。なかでもエドウィン・ハッブルやイリヤ・プリコジンやその他多くの研究者を経て、この新しい宇宙観は、時間の矢の問題を物理学の中心にすえるようになるのです。
この問題が、依然解決されていないことは、この点に関して公式の宇宙物理学とは対立しているプリコジンの著作が明らかにしていることです。公式の宇宙物理学の方も、熱力学の理論は認めていて、いわゆるビッグ・バンの結果である宇宙の膨張説を受け入れています。アインシュタインは宇宙の膨張説を、エドウィン・ハッブルが1929年に証明した当初は否定しましたが、宇宙は、エネルギー散逸の法則、エントロピーの法則とまったく同質な変容のプロセスとして現れるとされるのです。
たとえば、それは、つい最近のハッブル望遠鏡による「GN z11」銀河発見のニュースが示していることです。
ハッブル望遠鏡は、来月、運用開始から26年目を迎えることになるが、134億年前というもっとも古い銀河系を発見し新記録を打ち立てました。
ハッブル望遠鏡は、大熊座の方角に向けて、能力を最大限に用いることで、これまで観察されたなかでもっとも遠い(それゆえ、もっとも古い)銀河系であるGN z11を発見した。
ビッグ・バンが約138億年前だとされていることからすれば、GN z11は、宇宙誕生から4億年しか経っていない最初の時間を示している。
この宇宙の進化の時間において、再イオン化と言われる変化が生じるが、それは、最初の惑星がその光線によって周囲の原子を活性化させ始める期間である。これらの太古の天体は極めて巨大で、わずかな寿命しかなかったという特徴を有していた。
負のエントロピー、あるいは反エントロピー、またはネゲントロピーが生物を定義するものとされるようになったのは、1944年のことです。科学者のコミュニティー、物理学者や化学者だけでなく、生物学者のコミュニティーでも、生物とは、エントロピーのプロセスを遅らせるもの、つまり、エネルギーを留めおき、変形し、有機体と呼ばれるもの ― ラマルク以来、このように呼ばれています― をなす器官、組織体として有機構成するものだとする合意はあります。しかし、負のエントロピーが語られるようになるのは、ようやくシュレディンガー以降です。ベルクソン、フロイトや他の幾人かがそれに類する概念を論じていたとしても、負のエントロピー、ネゲントロピーの科学的定式は、生物学においては、シュレディンガーに始まるものです。
このネゲントロピーという概念は ―ここでは詳しく論じることはしませんが、あとの討議や、あるいは別の機会に立ち戻るために指摘しておくことにします ―、情報理論やサイバネティックス、システム理論、また、複雑性の理論においても用いられます。それがまず対象とするのは、情報という概念や、サイバネティックス機械という情報機械が機能する仕方を定義することです。クロード・シャノンや、レオン・ブリルアン、ノルベルト・ウィーナーの40・50年代の仕事からそうした概念転用を行うことについては、私はかなり慎重であらねばならないと思っています。しかし、その理由を話すのに時間を費やすのはやめておきましょう。
*
La néguanthropologie ネガントロポロジー
以上から、次のふたつのことを述べたいと思います。
まず 第一に、外-身体化とは、生物の歴史における分岐、すなわち、ネゲントロピーの新たな体制のことです。それは、生物的なネゲントロピー、すなわち、エントロピーの生物的な差延 ― デリダ的な意味で、この言葉を使っています ―には還元不可能であり、ネガントロポロジー(néguanthropologie)とわたしが呼ぼうとするような学が扱うような問題だということです。
ヒト(anthropos)とは、ヒト化した環境 milieux anthropisés などと地理学で言われるような意味で、ヒト化(anthropisation)を引き起こすものです。そして、このヒト化した環境、つまりヒトが手を加えた環境は、エントロピーを生みます。それはまた同時に、局所的にはネゲントロピーを生みもします。しかしながら、このネゲントロピーは、純粋に生物的な生から生まれるのとは異なった性質のもので、局所的に外身体化のプロセスを発達させ継続しつづけるものです。それゆえ、私は、そのようなエントロピーをアントロピー(anthropie)と書くことにして、それはネガントロポロジー(néguanthropologie)[ ネガントロピーのロジック ]によって生み出されるものだと考えるのです。
つまり、エントロピーを節約し、遅延させ、エントロピーをみずからの外に廃棄するような文化によってアントロピーは生み出されるものだ、と考えるのです。このエントロピーの廃棄は、しかしながら相対的でしかありません。というのは、この廃棄はたとえば、大気中、オゾン層で行われるからです ―、そして、文化は、エントロピーの増大を局所的に遅らせることで、エントロピーを倹約するために、人工的な器官を生み出し、器官発生を外-身体化するのです。こうして、器官発生はもはや単にネゲントロピー的なものではなく、ネガントロピー的なものと考えられるようになるのです。
外身体化が、 ネガントロピー(néguanthropie)を生み出しうるのは、ある種の知、すなわち、治療的(thérapeutiques)な知を生み出すという条件においてのみ可能です。それを生み出すのが、ネガントロピーのロジック(néguanthropologie)ということになります。そのような知とは、実のところ、局所的に、エントロピー以上のネゲントロピーを生み出すことを可能にしながらも、つねに、その局所の外部、宇宙において、そして、場合によっては生命圏においてエントロピーを増大させることもある、外-身体化された諸器官からなる文化のことです。
言い方を換えれば、ファルマコンは、局所的にはエントロピーとネゲントロピーを同じく生み出すことがあるわけです。ネゲントロピーを増大すべく用いられるなら、ネガントロピー・ロジック的なものとなり、ヒトの差異化、すなわちヒトの差延、別言すれば、ヒトの終焉の差延、ヒトの消滅の差延にもまた寄与することになります。しかし、そのようにして、消滅せず、差異化しつづけるヒトとは、なによりも外-身体化を継続するものとして、ネガントロプス(neguanthropos ネガントロピー人)ということになるでしょう。
*
L’ Anthropocène 人新世
第二の点です。
今日の人間が「人新世 アントロポセン Anthropocene」と呼ぶ問題は、以上の問いを避けては通れないものとして突きつけていますし、それらの問いはますます切迫したものとなるでしょう。フクシマは、わたしたちが現在生きているこの人新世の250年間のもっとも悲劇的で破局的な事例のひとつです。この人新世の問題は、大断絶と呼ばれる、技術革新の突如の加速化とあらゆる点でエントロピーをさらに大幅に増加させるネットワーク的な計算テクノロジーの一般化によって、極めて過酷なものになっています。
それゆえ、わたしたちが人新世にとどまるようなことは考えられないことなのです。つまり、わたしたちは、「ネガアントロポセン Néguanthropocène」を構想し、発明し、外身体化せねばならないのです。そして、そのために必要なのが、「ネガアントロポロジー[ネガントロピー的ロジック]」なのです。それによって、わたしたちは新しい時代(ère)に突入することが可能になります。ネガントロポセンは、外身体化のひとつの新たな時代区分(époque)ではありません。それは、外身体化の新しい時代であり、おそらく外身体化の体制の変化となるべきものです。また、それに先だってまず、政治経済の新たな時代(âge)でもなければならない。
*
2 Le rêve noétique
思惟夢 (ノエシス的な夢)
これまでお話してきたことは、ひとつの思惟夢のようなものですが、その思惟夢が、これからお話しする、この講演のふたつ目のテーマです。
外-身体化において、あらゆる外-身体化の起源にあるのは、夢です。そして、夢は、デカルトにおけるその位置づけをめぐって、フーコーとデリダの論争と対立の対象となっているものです。夢はまた、そのひとつの解釈を、日本の偉大な芸術家である宮崎駿にわたしたちが負うているものでもあります。それは、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」―この詩は堀辰雄の小説『風立ちぬ』のもとになったものです― 捉え返したものであり、つまり、宮崎は、堀越二郎という技師に言及しながら、両者の再解釈を提案しているわけです。堀越二郎は、三菱重工業の「零戦」を設計した人物であり、その点で第二次世界対戦の重要人物、日本がその並外れた航空技術によって第二次世界大戦で果たした役割における重要な人物のひとりでした。
その航空能力が並外れたものであったのは、戦争初期にアメリカ軍に多大なる損害を与えた零戦と呼ばれた並外れた戦闘機を有していたからです。そしてまたそれはまた恐ろしいものでした。というのも、これらの戦闘機のパイロットたちは、1944年に、いわゆるカミカゼとなっていったからです。
この映画と物語に私が言及するのは、『風立ちぬ』における堀越二郎はひとびとが同一化したいと願わざるをえない、まったくもって感じがよく、極めて魅力的で、すばらしく繊細な若者だからです。死んでいく病身の若い妻との愛の物語において特にそうです。この妻は、堀辰雄にとっては『魔の山』からインスパイアされたものです。つまり、宮崎駿は、この物語を堀辰雄から受け継いで堀越二郎の物語と組み合わせているわけです。
堀越二郎は、若かりし頃、ほとんど子供であったとき、夢想家でした。かれは空を飛ぶことを夢見ます。この夢想において、20世紀の初めの偉大な航空機の設計者のひとりであるイタリア人エンジニアから霊感を受けます。
空を飛ぶ夢は、わたしたちの想像世界に深く根ざしており、およそ至る所、たとえば、アジアでも極めてよく見られるものです。わたしも、中国の版画をいくつか持っていますが、空飛ぶ存在、ときに人間であり、ときには龍が描かれています。龍とはそれ自体空飛ぶヘビですが、ヘビは、ギリシアでは、「ファルマコン」、すなわち技術の象徴でもあります。
空を飛ぶ夢については、もうひとりの並外れたエンジニアでもあり芸術家でもあった人物、あのレオナルド・ダ・ビンチという人物によっても知られています。かれは、4世紀を隔てて、クレマン・アーデルの発明を着想させることになります。つまり、飛行機です。
飛行機のおかげで、わたしは東京に来ることができましたし、次には香港に行くことができます。また、飛行機は真珠湾を爆撃したものでもあり、広島と長崎に、ハイデガーが原子力の時代と呼んだ時代を開く爆弾を投下したものでもあります。
この飛行機は、夢 ―〈人類〉の夢― の現実化ですが、それをギリシア神話で具現化したののがイカロスです。そして、飛行機もまたファルマコンなのです。
このファルマコンは、今日、膨大な量のケロシンを消費し、膨大な量の二酸化炭素を排出しますが、それよりさらにエネルギーを消費するのが、たとえば、北米におけるグーグルのデータ・センターです。グーグルもまた、ひとつの夢の現実化です― そこには、1980年代の終わりに、わたし自身が持っていた夢も含まれており、それは、webとデジタル技術が可能にするまったく異なった社会という夢でした― が、その夢がいままさに、悪夢、大断絶と呼ばれるものに転化しつつあるのです。
そのようなことが起こるのは、私たち死すべき者たちの見る夢が、思惟夢(ノエシス的な夢)、すなわち、わたしたちが現実化しようとする夢、そして、現実化することで、外身体化のプロセスを追い求め続けようとする夢だからなのです。思惟夢は、多かれ少なかれ時間をかけて、そして、多かれ少なかれ受け入れることのできる条件があれば、現実化されうる夢なのです。
たとえば、母親や姉妹、父親や兄弟と寝ること、いわゆる近親相姦の夢も、それもまた現実化可能なものです。一般的には、レヴィ=ストロースが言うように、それはあらゆる社会で禁止されていますが、フロイトによればまた、あらゆる社会につきまとっているものでもあります。フロイトが、そこからリビドー理論を指導させたのが正しいのかどうかという問いは今日は置いておくことにしましょう。しかし、精神分析、より一般的には20世紀における夢の位置づけは、外-身体化という観点からあらためて問い直されなければならないと思うのです。
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La querelle de Derrida /Foucault デリダ・フーコー論争
フーコーとデリダが対立するのは、デカルトにおける夢の位置をめぐってです。『古典主義時代における 狂気の歴史』でフーコーは、デカルトが狂気から理性を切り離したと主張します。かれは、デカルトが『省察』を出版したのが1641年であること、すなわち、彼が「大いなる閉じ込め」と呼ぶ1656年の出来事 ― 狂人たちを閉じ込める一般施療院がパリで設立された ― が生じる直前であったことと構造的に結びつけているのです。フーコーによれば、西洋の近代社会がこうして始まったというのです。
デリダはフーコーに反論しますが、それは次のふたつによってです。
まずひとつには、フーコーのテーゼに対して、『省察』の核心にあるのは悪霊の仮説に至る懐疑の試練であることを指摘し、この悪霊の仮説が、全面的な狂気の仮説であるのだと指摘しています。
また他方で、省察とはそれ自体が一種の覚醒夢なのであって、夢とは狂気の薄められた形式でしかないと主張します。デカルトは、実のところ、みずからの「信憑」を方法的に疑うために、夢を見ていることを仮説としているというわけです。そして、その夢においても、疑いえないものとしてとどまりつづけるものがあるということを示すのです。
デリダは、フーコーに抗して、排除されているのが、それそのものとしての狂気なのではなく、錯覚一般、まずは感覚的な錯覚であることを明らかにしようとします。
感覚に由来するあらゆる意味作用、感覚由来のあらゆる「観念」が、狂気と同じ資格で、真理の領域から排除される。そこには何も驚くべきものはない。狂気は、ここでデカルトの関心を引く感覚的な錯覚の一特殊例 ―さらに言えば、そのもっとも深刻な例なのでもない ―にすぎないからだ。(デリダ「コギトと狂気の歴史」前掲書)
デカルトは、「狂気よりもありふれており、より普遍的な経験[…]、すなわち睡眠や夢」という仮説を立てるとき、かれは、精神の生の核心、理性の核心に、「狂気よりずっと深刻な ― 認識論的な ―異常さの可能性」を見て取ることになります。
そして、デリダによれば、それが、「悪霊の仮説」へと向かわせることになるのです。
デカルトは、代数学や幾何学、原初的な概念が[夢の仮説における]第一の懐疑を免れることを認め、次のように書いてる:「しかしながら、長らくわたしは心のなかに、ある見解を持っている。それは、あらゆることが可能な神というものである。[…]悪霊の仮説は、全面的な狂気の可能性を招きよせることになるだろう。[…]それは単に身体や対象の撹乱だけでなく[…]純粋な思考、純粋に可知的な対象、明晰で判明な観念、自然な懐疑を免れる数学的な真理において、転覆をもたらすことになるだろう。(同書)
狂気は、デカルトの思考において、起源から思考の可能性そのものに取り憑いているものなのです。それこそが、『省察』において、狂気を思考の外部に排除することによって、デカルトが古典期の思考を成立させたのだというフーコーの立論に対して、デリダが、明らかにしようとしていることです。それが、悪霊の仮説という、いわゆる誇張的懐疑に掛けられているものです。
デカルトのコギトという誇張的な大胆さ、狂気じみた大胆さは[…]ある一定の理性と非理性という組み合わせ、それらの対立関係あるいは選択肢にはもはや属してはいない起源にまで遡ることに存している。わたしが狂っていようとなかろうと、我思う、我ありというわけである。それゆえ、狂気は、語のあらゆる意味で、思考の(思考の内部の)ひとつの事例でしかないのだ。(同書)
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フーコーは、この誇張的懐疑をめぐる議論に応じることはありませんでした。
そのかわりに、夢と狂気の連続性というデリダの言明を、デカルトにとって、夢は狂気とまったく異なったものだと言うことで、完全に退けることになります。私自身は、フーコーが、夢と狂気を混同してはならず、夢が別の次元だと主張している点でまったく正しいと考えています。しかしまた同時に、夢は明らかに狂気と通じ、夢とは、劣化した、あるいは、薄められた狂気では決してないとしても、本質的に狂気と結びついたものであるとも考えています。
そこで、この分析を終えるにあたって、つぎの二点を主張したいとおもいます。
まず第一に、フーコーもデリダと同様に、デカルト主義の核心にあり、『省察』においてではなく、『精神指導の規則』で展開されていることがらを根本的に取り逃しているということ。
第二に、デカルトの夢をめぐるフーコーの発言のすべては、その7年前に、ビンスワンガーの『夢と実存』について刊行した読解に由来しているということ、この二点です。
ビンスワンガーの『夢と実存』への序論では、フーコーは、夢に、あるひとつの機能 ―それが、外身体化の条件だということをこれから説明したいと思っているのですが ― を与えています。しかし、フーコー自身はそれを考慮に入れておらず、それゆえに、デカルトが『精神指導の規則』の規則十五と規則十六で提起している問題を取り逃しています。
またこれらの図形を描いて外部感覚に呈示し、かくしてわれらの思惟がより容易に注意を保ちうるようにすることも、たいていの場合、有益である。
[岩波文庫 デカルト. 『精神指導の規則 』Kindle の位置No.1439-1440]. Kindle 版.]
『精神指導の規則』の規則十五はこのようなもので、デカルトは、思考を指導するにあたっては、外在化せねばならず、そうすることで、思考を把持するだけでなく、この外在化自体によって可能になる注意の形式の対象にせねばならいとしているのです。外在化が可能にするこの注意の形式の対象とは、すでにあらゆる思考とは夢の実現であるといえるような夢の実現としての対象なのだ、とここではすでに考えられているのです。これからお話するように、ビンスワンガーを読むフーコーが示しているのはそのことなのです。
規則十五によって、デカルトは、注意を分析的能力として定義することで、近代を基礎づける手続きの核心においているわけですが、そこでの問題は、表象ではなく、点や線、面とといった「私たちの注意を固定する」ことを可能にする表象の外在化なのです。
この固定はまた、自分自身を考察する私たちの思考の〈既に在ること[既在]〉の自己-外在化による固定でもあります。ライプニッツはそれをほぼ同じ用語で繰り返すことになります。そして、フッサールは、『幾何学の起源』を書く前に、この規則十五、そして、次の規則十六を何度も何度も読んだに違いないのです。
実際、規則十六では、問題はもはや注意ではなく、把持です。より正確には、第三次把持、すなわち、人工的、技術的で、その意味で外身体的で、すでに一種の自動機械(オートマトン)となった把持が問題なのです。
たとえ推論のためには不可欠であっても、精神のさしあたっての注意を必要とせぬ事柄は、完全な図形によって表示するよりも、きわめて短かい記号によって表示する方がよい。なぜなら、かようにすれば、記憶は誤ることがなく、しかもその際思惟は、一方で他の事柄の演繹に向いながらなお上のことをも心に留めようとして分散させられるということがないからである。
[デカルト. 精神指導の規則 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1461-1464). Kindle 版]
デカルトは、ライプニッツによる普遍学(マテシス・ウニヴェルサリス)の成就としての普遍言語の企てを準備したわけですが、その諸条件がここには書かれてます。分析は、精神の生の外在化によって、またその外在化においてのみ成立しうる。そのようにして、精神の生は、悟性の分析的働きを外身体化に委ねることができる。この規則によれば、記憶は、「しばしば逃げ去るもの(しばしば不安定)」です。そして、それは、デリダがフッサールの『幾何学の起源』を注釈しながら、「把持の有限性」と呼ぶことになるものです。ところで、この有限性は、「文字の使用」で乗り越えることができる。
そしてこれ[文字]を頼りにして、われわれは今ではもはや何ものをも記憶に委ねることなく、一方想像をして自由にかつ残りなく現前の観念に専念させつつ、他方では保持すべきすべてのことを紙に記しておくのである。
[デカルト. 精神指導の規則 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1470-1472). Kindle 版.]
ここで、デカルトは、補助記憶(hypomnésis)を想起(anamnésis)のファルマコン的な条件とすることに関するソクラテスの警告をどうやら思い出していない。彼はまったくそれを問題にしていない。逆に、デカルトは、文字化の新しい段階の開始を記しているのです。その新しい文字化の段階とは、デカルトの時代にはアルゴリズムの条件である代数学の成立であり、やがては(19世紀に、チャールズ・バベッジやエイダ・ラブレス、ハーマン・ホレリスとともに)文字化の新しい段階を完成させることになるものです。
[…]きわめて短かい記号によって記すのであって、かくしてわれわれは規則第九に従ってそれらを一々判明に視た後、規則第十一に従いそれらすべてをきわめて速い思惟の運動によって通覧し、できる限り多くを同時に直観しうることとなるのである。
[デカルト. 精神指導の規則 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1472-1475). Kindle 版.]
これらの『規則』はまた、アルゴリズム論の公理の素描ですが、それがライプニッツによって完成に至ることになる。
それゆえ、困難の解決に当って、一まとまりのことと見なすべき事柄はすべて、ただ一つの記号によって表示することにする。この記号は任意に作ってよい。
[デカルト. 精神指導の規則 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1475-1476). Kindle 版]
このように明示されるデカルトの分析論は、カントによる悟性と理性のあいだの区別の起源となるものです。しかし、この分析論が可能なのは、文字化の新たな段階としてのみであり、それが、印刷の時代における、活字の登場と無関係でないのはいうまでもないでしょう。それはしたがって、ルネサンスを特徴づけるそのテクノロジーの衝撃以降、1890年のアメリカにおける国勢調査とともに、精神の外身体化の新たなテクノロジーの衝撃、その新たな段階として具体化するものを予告しているのです。
デカルトは、精神の生の外身体化である文字化のプロセスが引き起こす、このふたつのテクノロジーの衝撃のあいだにいるのです。精神は、こうしてみずからの外に置かれることで、その自己-外身体化の次の段階を夢見ることで、みずからを内在化します。それは、人新世の可能性を開くものの典型的な連鎖反応であり、そこでは、自己-外身体化(auto-exosomatisation.)は不可避的に異-外身体化(hétéro-exosomatisation)となるのです。
これこそが、現在、私たちが、計算的悟性と、合理化によって計算的的な非理性となってしまった非理性との間の大断絶的(ディスラプティヴな)分裂 ― すなわち理性の(誤)計算された消失 ― において経験していることなのです。
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Introduction au Rêve et l’existence『夢と実存』への序論
『古典主義時代における狂気の歴史』の7年前、フーコーは、ビンスワンガーの『夢と実存』への序論で、「夢は人間の自由の起源である」と述べています。これは極めて重要なことです。というのも、それはビンスワンガーから出発して、夢、わたしのいうノエシス的な夢が――ハイデガーが現存在と呼ぶ者の夢でありまた、リビドー経済の核心においてフロイトが考えているような夢―― 外-身体化の起源でありまた、その外身体化の果実であると考える可能性を開くからです。
わたしがそのように考えるのは、先史学や古人類学の研究に依拠してのことです。マルク・アゼマという洞窟壁画の専門家は、シネマが壁画芸術とともに洞窟において始まり、洞窟の壁への投影は、最初のシネマトグラフィックな投影ともいうべき、原-シネマであったことを示したのでした。わたし自身も『技術と時間3:映画の時間と<難-存在>の問題』で、このような原—シネマについて同じような説を唱えました。マドレーヌ期、すなわち今から3万年前から、映画が発達していくのが見て取れるのです。
マルク・アゼマの仕事が明らかにしたのは、こうした外-身体化の歴史においては、外-身体化のさまざまな時期が成立しているのだということ、特に、特にマドレーヌ期以降は、精神的な内容が夢そのものの外在化のプロセスとして現実化してくということです。
実際、ルロワ=グーランが外在化のプロセス――それは、外-身体化の別名です――と呼ぶものを構成するヒト化の始まりから、〈人類〉は夢を現実化します。エルンスト・カップが有機的投射と呼んだものを通して、自分たちの外部に人工的な器官を投射するのです。この投射は、当初は、遺伝変異の極めてゆっくりしたリズム、すなわち、数十万年単位で成立します。
しかし、夢の内容に由来する器官だけでなく、夢の内容の外在化を生み出すことを、外-身体化が可能にするには、おそらくネアンデルタール人まで待たねばなりません。確かなこととしてわかっているのは、マドレーヌ期においては、壁画の痕跡があるため、それが生じているということが分かるのです。
そのようにして、第三次把持の補助記憶的媒体が成立します。第三次把持とは、把持された(仏retenus 英語retained)記憶内容を、技術的形式において、第一次把持 ― それは、わたしにまさに立ち現れつつある、その現象の知覚自体も時間的な何らかのものを知覚するときに、わたしが把持しているものです― を超えて、外在化することを可能にするプロセスのことです。第一次把持は、フッサールが知覚の核心にあることを示したものであり、第二次把持は、先行する第一次把持について持っている思い出で記憶を構成するもののことです。
第三次把持は、ヒト化の始まりから、外-身体化とともに登場するものです。というのも、私は自分の経験、すなわち、自分の記憶の内容を、道具というかたちで外在化し始めるからです。しかし、まったく確かなことは。それが、他者に伝達可能な精神的内容 ―たとえば、動物やほかの男や女などについて持ちえた視覚を外在化するものとして―を生み出すようになるのはマドレーヌ期からにほかならないのです。
ホモ・サピエンス・サピエンスのノエシス(思惟活動)を可能にするのは、この外在化のプロセスです。ホモ・サピエンス・サピエンスとは、先行する世代の知を受け継ぎ次世代へ知を伝承させていく存在です。受け継がれていく心的内容は世代から世代へと徐々にアクセスしやすいものとなり、中国、エジプト、メソポタミア、フェニキア、ヘブライ、ギリシャなどの文字を経て、作り方の知や生活の知だけではなく、しだいにより、精神的で理論的、アカデミックで科学になっていく知を伝達する媒体が成立するようになり、近代以後は本来的な意味で、理性と呼ばれるものの領域を構成するようになるのです。
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ジョナサン・クレーリーは、『24/7:眠らない社会』で、現代の資本主義が、大断絶において、ハイパー・コントロールのネットワーク社会とともに、夢見る能力の喪失に至ることを示しました。ところで、夢見る能力は、認識する能力の条件です。認識するとは、単に分析、対象化し、計算することでなく、分岐を生み出すこと、ホワイトヘッドが定義するような理性の機能を行使することだからです。それは、宇宙において、そしてそれゆえ、エントロピーの文脈において、思惟の生(ノエシス的生)を可能にするためなのです。つまり、エントロピーを遅延させるためなのです。それこそがデリダが差延différanceと呼んだものの真の賭金なのだと思いますが、デリダ自身は、そのことを明確には見て取っておらず、決して主題化とすることもありませんでした。
いまこそそれを主題とするときです。そして、それゆえにこそ、ビンスワンガー、フーコーの言っていること、そして、マルク・アゼマの示していること、すなわち、思惟的(ノエシス的)人間はなによりまず、夢を見る人間であるということを真正面から受け止めるときなのです。思惟し夢見る生は、夢を外在化し、技術として現実化する能力を有しています。問題は、それらの技術がつねに夢を悪夢に変えてしまう可能性のあるpharmaka(ファルマカ)を生み出すということです。
これが、わたしたちが現在、経験していることです。そして、フクシマとともに経験したことでもあり、より一般的に、大断絶とともに経験していることです。それは、20世紀が、特に、ヒロシマとナガサキから明らかにしたことです。そしてまた、宮崎駿の『風立ちぬ』に掛けられている争点でもあります。
思惟 ― わたしが「ノエシス(noèse)」と呼ぶもの ― はまた、「テクネシス(technèse、技術活動)」でもあります。そして、テクネシス自身は、夢の内容の外在化と、ファルマカというかたちでのその現実化の産物です。 広い意味での理性は、ファルマカ、つまり、今日ではハイデガーが計算的思考と呼んだものの装置、すなわち、悟性の外在化と自動化の形式となってしまったものを生み出しうるだけではありません。それだけでなくて、理性は、ハイデガーの言う省察的思考、すなわち、計算を超え、その意味で、ネガントロピー的な、つまり、計算不可能な理性をも生み出しうるのです。それこそが、ホワイトヘッドの言う意味での理性の機能なのです。
ハイデガーは省察的思考と計算的思考を対立するものと考えており、その点で、かれはまったく間違っています。というのも、両者とも、夢と夢の現実化―それは、悪夢になりうるものであり、悪夢と戦うために別の夢を必要とするものです―を通して外身体化として生み出されるサイクルに属しているのです。それらすべては、悪行と同時に天才の起源であるヒュブリスと両立せねばならないものなのです。ヒュブリスは、エピメテウスの神話がそれをめぐる省察である、器官学的で薬方学的(ファルマコロジー的)な条件なのです。
人新世がもはや堪えがたく生きられないものであることが明らかにしている、人新世の終わりにおいて、大断絶の時代に、わたしたちは、ネゲントロピーの必要性を発見して、ネガントロポロジーを作ることを必要としている。もし、今後数十年で、新たな技術文化、ファルマカの新たな治療法を生み出すことができなければ、わたしたちは、この惑星での生を終焉へと導くことになるでしょう。それは、私たちは夢見ることを再び学び直さなければならないということを意味しています。夢見ることは、単に眠ることではありません。夜、夢において、フロイトが無意識に、そしてジャック・ラカンが言語に結びつける野が開かれるのです。しかし、その野は、まず、想像力に由来するものです。つまり、その想像力とは、カントの用語で言うとすれば、悟性と対話する想像力=構想力(imagination)によってイメージ(image)を生み出す自由な戯れです。それはまた、ビンスワンガーやフーコーが、カントに依拠しながら夢を自由、すなわち、ネゲントロピーとして再考しようとしていることの意味でもあります。
自由とは、ネゲントロピーを生み出すもの、ネゲントロピー的な行為を生み出すものなのです。自由とは、コカ・コーラとペプシのどちらかを選択するような自由のことではありません。自由とは、エントロピー的な事実状態と闘い、ネゲントロピー的な新たな現実を創設することなのです。このエントロピー的な事実状態とはまさに、そのなかで、新たなネゲントロピー的な現実が新たな権利状態を打ち立てる事実状態なのです。『自動化社会』では、このような新たな権利の概念をこの意味で擁護しようとしたのです。
そのためには、夢がプロセスであることをよく理解せねばなりません。わたしたちが夢見るのは夜だけではなく、白昼夢を見ることもあります。それはフロイトが極めて見事に示したことですが、また、ポール・ヴァレリーが『カイエ』で夢について示していることでもあります。そして、それは、わたしがネゲントロピーの経済と呼ぶものにわたしたちを導くはずのものです。その経済は、新たなリビドー経済であり、より正確には、リビドー経済の再構成です。真のリビドー経済とは、ネゲントロピーの経済なのです。ネゲントロピーとは、結びつきを生み出し、この結びつきによって、差延を生み出すものです。この結びつき、そして、差延こそは、αἰδος(アイドス、慎み)とδική(ディケー、正義)が形づくる結びつきにほかならないのです。